男坂を上がって、台地の上の境内へ。
崖の上下に境内が2層になっているのが、目黒不動の特徴です。
男坂を上がった右側に、百度石。
石仏巡りをするようになって、百度石には、何回もお目にかかっているが、実際にお百度を踏む姿を見たのは、一度だけ。
まるで、時代劇のワンシーンの様でした。
その百度石の前におわすのが、どっしりと座す狛犬さま。
この狛犬が凄い。
なにが凄いといって、とにかく都内最古の狛犬なのです。
石仏巡りをするようになって、誰もが陥る性癖は、古いものを有難がる癖。
都内最古なんていうレッテルは、それだけで痺れそう。
狛犬は、タイプ別に分類されるが、これは「江戸始め」というタイプだとか。
胸に彫られている銘は
「承応三甲午三月二十二日(1654)
奉納 亀岡久兵衛正俊
不動尊霊前 唐獅子二匹」
とあるから、確かに「江戸はじめ」。
造立後、370年近く、雨風にさらされいるというのに、古さを感じさせない。
博物館で保存されるべき石造物が、野ざらしで、触ることができるのだから、ありがたい。
奉納日の3月22日は太子講の日。
太子講は、曲尺を広めたといわれる聖徳太子を信仰する職人の集まりの日です。
大勢の石工の厳しい目にさらされることを覚悟の上、わざわざ太子講の日を撰んで、獅子狛犬を披露し、かつ奉納するのだから、久兵衛には、よほどの自信があったと思われます。
ところで、この江戸最古の狛犬には、そっくりな双子の兄弟がいることをご存知でしょうか。
下の写真が、双子の弟の「阿」像です。
男坂上の江戸最古狛犬の「阿」像と見比べてください、そっくりです。
弟のいる場所は、目黒駅から下る行人坂途中の寺、大円寺。
写真でも分かるように、弟は、なぜか、頭だけの姿で残されています。
で、肝心の胴体はどこにあるかというと、なんと目黒不動にあるのです。
場所は、独鈷の滝上の崖地スロープ。
目視にはやや遠くて、見つけにくい上、私のカメラでは望遠機能が貧弱で、写真を取れず、お見せ出来ません
この「大発見」をした日本参道狛犬研究会の報告によれば、その首無し胴体の胸には「奉献 不動尊前/江戸中橋南槇町亀岡久兵衛」、左足に「承応三年」、右足に「三月廿二日」と彫られているのだそうです。
亀岡久兵衛は、承応三年三月、太子講の日にそっくりな獅子狛犬2対を目黒不動尊に奉納したのでした。
なぜ、そんな手間のかかることをしたのか。
手掛かりは、石質と亀岡家の役職にあると推理します。
2対の狛犬は、そのフォルムはそっくりながら、坂上狛犬は、小松石、大円寺狛犬は伊那石と石材が異なることが報告されています。
江戸の石工を束ねる石切り方肝煎の亀岡家は、江戸城普請に当たり、その石材を伊豆に産する小松石に求め、船で江戸に運びました。
明暦の大火がまだくすぶっている時、亀岡家では何人かの手代に2000両という大金を持たせて、伊豆に派遣、小松石を買い占めさせたと伝えられています。
江戸再興に大量の石材の需要があると見越してのことでした。
石材の供給源は、伊那石にも求められて、亀岡家では、小松石と伊那石を扱う石工職人が混在していました。
目黒不動に狛犬を奉献しようと思い立った亀岡久兵衛正俊は、配下の、小松石派と伊那石派の石工職人に同じ図面を与えて競作させた、のではないかと私は思うのですが、どうでしょうか。
実は、亀岡久兵衛の名は、参道脇の水船、男坂の石垣寄進碑などで、これまでも散見してきた。
目黒不動尊に、亀岡家寄進の石造物はどれほどあるかというと、なんと11か所もあるのです。
1、承応3年(1654) 亀岡正俊献納 狛犬
2、万治3年(1660) 従五位上藤原勝隆奉献 石灯籠
3、寛文7年(1667) 御橋 正俊寄進
4、天和2(1682) 亀岡政房寄進 水船
5、元禄12年(1699) 亀岡政郷寄進 男坂石垣
6、寛延3(1750) 垢離堂
7、天明8(1788) 瀑場敷石
8、寛政8(1796) 役行者小角像
9、享和元(1801) 女坂土留石垣修復
10、天保3(1832) 男坂玉垣
11、天保5年(1834) 女坂土留石垣修復
(都築霧径「目黒不動尊と亀岡久兵衛正俊/同久兵衛政郷」『郷土目黒NO9/昭和40年』より転載)
亀岡久兵衛正俊は、承応3年(1654)に初めて目黒不動尊の狛犬に、寄進者として名前が出ます。
既にその時、彼は、江戸の石工を束ねる頭としての要職にありました。
職人としての石工を束ねるだけでなく、石材の発掘、運搬、販売も手掛け、商売人としても急成長を遂げていました。
では、亀岡久兵衛正俊とはいかなる人物なのか。
この疑問に答える資料は、皆無、正俊像は不明のままです。