石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-14-三浦悟楼終焉之地碑と杉風舎哀翁句碑

2019-03-31 08:22:38 | 石碑

コンニャク閻魔の裏の旧坂を息も絶え絶えに上ると右手に碑はあった。

    坂の上から下を臨む

 

◇三浦梧楼終焉之地碑(小石川2-20)

 三浦梧楼なる人物を知らないので、ネット検索。

幕末生まれの長州藩士。明治時代の軍人、政治家だという。

てっきり明治か大正の建碑かと思ったが、なんと昭和57年(1982)の造立だった。

「町会設立への尽力と将軍の遺徳を偲んで」町会が碑を建てたと言うのだが、ピンとこないので、パス。

コンニャク閻魔の源覚寺まで戻り、寺の前から東へ。

白山通りを渡るとすぐ左に興善寺が見える。

◇杉風舎哀翁句碑(西片1-15-6 興善寺)

 

殺風景な境内の一画に2mを超す高さの句碑がある。

  昏がたの空に遊や郭公 

     杉風舎 哀翁

裏面に

  天保七丙甲歳仲春建之

杉山杉風(正保4・1647ー享保17・1732)は、日本橋の魚問屋の二代目で、芭蕉の高弟であり、スポンサー。

『奥の細道』の冒頭の一節、

「住める方は人に譲り杉風が別埜に移るに
  草の戸も 墨替るぞと 雛の家」

の杉風の別埜は、採茶庵を指す。

                採茶庵跡

深川芭蕉庵も杉風の魚問屋鯉屋の生簀の番屋を芭蕉に提供したものだった。

ところで杉風の号は「哀翁」ではなく、「蓑翁」ではなかったか。

この句碑が建てられたのは、天保七年、杉風が亡くなってから103年後のこと。

その頃は、杉風六世の宗端の時代で、宗端の号は「哀翁」だったことから、この句碑は、初代杉風ではなく、六世宗端のものだと考えられるという説があるのだそうだ。

一方、「哀翁」は芭蕉が杉風に与えた号とする説もある。

大病をして、耳が悪くなり、髪も抜けて、痩せた杉風を見て、芭蕉は「蓑翁」ではなく「哀翁」を別号にしたらどうかと勧めたというのです。

いずれにせよ、杉風の句碑がなぜ興善寺にあるのか、という疑問への答えは、ネット検索では見つけられませんでした。

 

 

 

 


137 文京区の石碑-13-占春園碑その2(大塚3-29)

2019-03-24 08:54:56 | 石碑

池をめぐる小径に面して、高さ1メートル半の古い石碑が、ひっそりとたたずんでいる。

一部欠損している上に、薄い線彫りで刻文は判読にくい。

説明板がある。

文章責任は、筑波大や文京区ではなく、東京教育大学であるのが、珍しい。

やや長文だが、転載しておきます。

旧守山藩邸碑文
   この碑は、延享三年(西暦一七四六年)春三月に建てられたといわれるから、今から二百三十年ほど前になる。ここ吹上邸を上屋敷とされた守山藩主松平頼寛(三代目)が、その臣岡田宜汎に命じて記させたもので、高さ一.四米、幅〇.七七米の鉄平石に刻まれた碑であるこの碑文には、藩祖頼元より頼寛に及ぶ三代の占春園にまつわる記事があり、特に占春園と命名された由来を持り持つ古桜樹や、桜花の春に催された佳会の盛宴などが興味深く記されていて、往時の大学頭邸の景観と歴史が追憶される。
 

我公之園名占春。其中所觀、梅櫻桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景莫不有焉。而名以占春者何也。園舊有古櫻樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之壽。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜時延享丙寅春三月                岡田宜汎捧撰   宇留野謹書
 占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園地に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて江戸の三名園と称せられたという。本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。

                 昭和52年1月  東京教育大学

 

持参資料によれば、この守山藩邸碑が、もう1基あることになっている。

探しても見当たらないので、筑波大学の守衛所で訊く。

なんと占春園ではなく、筑波大入口前にあった。

 

これも又、東京教育大学による説明板があるので、引き写しておきます。

「東京教育大学」がこうした形で、まだ残っていることに若干の嬉しさを覚えながら。

 

東京教育大学の大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主8代
目の斉修公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松
平大学頭の屋敷に移った。これを迎えた大学頭頼愼公はよく斉修公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で格調たかいものである。
    丁亥之春、礫川邸罹災。以
     
幕府之命、與夫人峰姫遷居於
     守山侯吹上邸。々中多山水之
     
勝。園之東有梅林。明年、春
     遊于林中賞花、頗忘舊歳之憂
     
因賦一律 以攄幽懷云

      吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
      落英渓畔千林雪 斜月樓頭一笛風
      疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
      人間何處無春色 春色須從此地融
                  天然子
             昭和52年1月   東京教育大学

小石川の邸宅が火災に遭い、ここ守山藩の吹上邸に移ってきたが、春になって、林中にあって花を愛で、頗る去年の憂いを忘れることが出来た、というのだから、占春園の景観はそれほど見事だったということになる。

 

 

 


137 文京区の石碑-12-占春園碑(大塚3-29教育の森公園)

2019-03-17 06:55:43 | 石碑

教育の森入口の手前でしばし佇んでいた。

左へ行くと教育の森、右は筑波大。

左は60年前と様変わりだが、右はなんとなく昔の面影があるような気がする。

昔は、二つに分かれていなくて、ここが東京教育大学の正門だった。

今は筑波大と放送大学となっている建物は、教育大文学部の跡地に相似形に作られていて、遠景だと昔とそっくりに見えてしまう。

私の学生時代は、1958-1961年。

 

 右が、文学部、教育学部のE館。ほかは全部取り壊されて教育の森公園に。

4階建ての文学部館には、エレベーターがなく、4階にあった社会学教室へ行くには階段を上るしかなかった。

80歳の今は、階段嫌いだが、当時、階段をつらいと思ったことはなかった。

そんな時代があったなんて、我がことながら信じられない。

占春園にも同じ庭園だとは思えない変化がある。

文学部の裏、付属小学校との間に、汚いドブ池があって、そこが占春園だとは聞いていた。

だが雑草が生え放題で、見通しが悪く、「庭園」とは思えない場所だった。

(と、記憶しているのだが、昔の写真を見ると整備されているように見える。)

 一度行ってはみたが、2度と行くことはなかった。

 

それが、60年ぶりに訪れて、その広さに驚いた。

綺麗に整備されていて、見通しがきくから、広さが分かるのです。

ここは、水戸光圀の弟松平頼元(陸奥国守山藩主)の元上屋敷跡で、その広さ約6万坪。

屋敷内の斜面地を利用して造られた庭園・占春園は、青山の池田邸、溜池の黒田邸と並んで、江戸の三名園と称されたと云われているという。

回遊式庭園の核を成す池は、しかしながら、60年前と同じドブ池状態で、庭園の風雅さを損ねている。

池の辺に立つのは、嘉納治五郎像。

講道館柔道の創始者として有名だが、東京高等師範学校の校長を24年間も務めたことはあまり知られていないように思われる。

銅像があるのは、ここに東京高等師範学校があったからだが、彫刻家朝倉文雄の手になるこの像は、戦時中、姿を消した。

軍に供出されたものだが、幸い原型が残されていて、昭和33年、ここに再建された。

付け加えると、この原型を元に、講道館と筑波大学にも、まったく同じ嘉納治五郎像があるのだそうだ。

NHKの大河ドラマ「いだてん」人気で、今年は占春園もにぎわいそうだ。

 


137 文京区の石碑-11-千川改修記念碑と明治天皇行幸碑

2019-03-10 14:36:43 | 石碑

 

小石川植物園の西隣が、簸川神社。

間の坂は、網干坂。

その昔、千川通りは海の入り江で、この坂は網干し場だったというから信じられない。

ところで、簸川(ひかわ)神社と読める人は、どのくらいいるだろうか。

氷川神社の末社だというのに、氷川神社は出雲の国の簸川に由来するという説に従い、「簸川神社」に改名したのだという。

 

簸川神社の特徴は、見上げるような石の階段。

数えたら50段あった。

「とんでもない神社だな」とブツブツ言いながら上る。

しかし、考えてみれば、エレベータやエスカレータのない地下鉄の駅では、大体77もの階段が普通だから、神社の石段なんて可愛いものだと言えよう。

その階段の上り口の右側にすっくと立っているのが「千川改修記念碑」。

神社の前2,30mを横切る千川通りの下は暗渠で、千川が流れている。

この辺りは、入江だったことは先述したが、その後、湿地帯となり、神社前一帯は氷川たんぼと呼ばれていた。

その中央を流れる千川は清流だったが、年に2回は、洪水となり、床上浸水の被害を与えた。

 

どこの家にも「吊寝床」があったという。

特に大正14年の洪水は記録的で、人々は舟での避難を余儀なくされた。

その悲惨な光景の記録写真を区の図書館で探したが、見当たらなかった。(代わりに見つけたのが、上の写真。簸川神社前あたり。昭和初期のものらしい)

地元の熱烈な要望を受けて、東京市は昭和5年から、千川の暗渠工事に取り掛かる。

総延長3272mの下水工事は、4年後の昭和9年(1934)、竣工する。

この碑は、その大工事完成の記念碑で、各地域の功労者名が裏面にびっしりと刻まれている。

 

簸川神社の裏口を出る。

左を向くと急な坂道。

道路向こうが神社裏口。坂は簸川坂。

坂道の多い東京でも有数な勾配のきつい坂道ではないか。

裏口を右へ。

平凡な住宅地を歩き回る。

明治天皇行幸碑があるなんて、とても思えない庶民の家ばかりの住宅地

 

道が直角に曲がる角に、冬日の斜光を浴びて白く輝く石碑が立っていた。

近寄ってみる。

私の身長より10cmは高い石碑には

「明治天皇行幸記念碑」とあり、

左わきに「土方久元邸跡」と刻されている。

土方久元氏は、明治26年当時、宮内大臣。

このあたり一帯1万坪の敷地に家を新築。

家の前には、12の見晴らし台を持つ庭園が広がっていた。

その新築祝いに、明治天皇が行幸された。

民間最初の行啓地として記録されている。

土方氏は、その栄誉を永く記念するため、「恩光閣記碑」なる記念碑を建立した。

碑は、高さ二丈余(約6m)、幅八尺(2m50cm)の巨碑だったが、戦災で一部破損。

昭和59年、この地を買収した常陽銀行は、巨碑全体を地中に埋めて保存することにし、代わりに現在の石碑を建てた。

 

 


137 文京区の石碑-10-関東大震災記念碑他(小石川植物園内他に2基)

2019-03-03 08:27:39 | 石碑

 小石川植物園には、3基の石碑がある。

〇柴田圭太記念碑
〇甘藷試作跡碑
〇関東大震災記念碑

 

入口から一番近い、柴田圭太記念碑から見ていこう。

◇柴田圭太記念碑

正門から緩やかな坂道を登り切ったところの十字路を右に回ると「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木がある。

「ニュートンのリンゴ」はイギリスから持ち込まれた珍しいもの。

ここだけにあるものと思っていたが、科学の啓蒙啓発の為にという名目で、穂木で各地に分譲され、今や数えきれないほど多数になっているのだそうだ。

この「メンデルのぶどう」と「ニュートンのリンゴ」の木を左に見ながら進むと、白壁に男の肖像のレリーフがはめ込んである。

レリーフの下部に「KEITA SHIBATA 1877-1949」。

碑面には「日本植物生理学は柴田圭太によってこの地に創始された」とある。

右隣りの建物は、レリーフの主の名がついた「柴田記念館」。

柴田圭太は、明治10年(1877)、東京の生まれ。

ドイツに留学後、東大植物学教室で植物生理化学を研究、学士院賞を受賞した。

その賞金を元に、この地に大正9年(1920)、植物生理化学実験室が建設され、以来、昭和9年、植物学教室が本郷に移転するまで、ここで研究、講義が行われたという。

内部は、見学自由。

植物園の歴史や研究内容の展示、関連出版物と植物をあしらったクーリーティングカードの販売をしている。

 ◇甘藷試作跡碑

私は、80歳。

同年配から上の世代は、さつまいもが嫌いな人が多い。

太平洋戦争末期から戦後にかけての食糧難時代、さつまいもばかり食べて、みるのも嫌になったかららしい。

植物園本館から中央道を進むと左手に薩摩芋の形をした自然石が立っている。

これが、「甘藷試作跡碑」。

「甘藷先生」こと青木昆陽は、江戸近辺で甘藷栽培が可能ならば、備蓄食料として有効だろうと考え、享保20年(1735)、吉宗に進言、命を受けて、ここで甘藷を試作、成功した。

昆陽が幕府に提出した甘藷試作の見積書がある。

『日本薬園史の研究』から転載しておく。

〇御薬園竝養生所所薩摩芋可作場所見分仕候養生所之内百八十三坪御薬園之内百五十坪合  三百五十坪之処可宜奏存候
〇猪防の垣養生所之内には入不申候御薬園之内十間に十五間の處四方にて五十間杉丸太四寸間に一本高四尺に仕、貫二通打一間に一本づつ柱混入、二尺余に仕木戸二ケ所付此御入用金八両
〇作人は養生所中間部屋に被差置候はば別段に小屋建候に及申間敷候也

 ◇関東大震災記念碑

震災記念碑といえば、家屋の倒壊、火災、死者数などを記念するものが多い。

植物園の記念碑は、地震後、被災者約2000人が、園内に避難していたことを記念するもの。

2基が並んで立っている。

向かって右の自然石には

大正13年9月1日大震災記念
我が家の悲しかりし歴史、植物園内避難者の一人記す
光円寺佐藤良智師により一千貫の花崗岩を居住者の善男善女老幼により白山下より大綱にて引き来り御殿町青年団戸崎町青年団及在郷軍人諸氏の援助のもとに記念にすえた

とあり、

又、向かって左の角石には

大震災記念石    大正13年9月1日建立
  男爵板谷芳郎書 当園一ケ年居住者有志
と刻されている。

小石川植物園での避難者の状態はどんな状態だったか、文京区立真砂中央図書館で写真を探すが見当たらなかった。

文京区は、墨田、江東、葛飾区に比べると地盤が固く、被害が少なかったようだが、皇居前、上野公園、日比谷公園などが満杯で、内務省は小石川公園にも震災救護所を設けることを決定した。

大正14年4月1日まで1年半の長きに渡って、約2000人が避難、収容されていたと云われている。

小石川植物園の震災後の写真はなかったが、震災直後の上野駅前と日比谷公園の被災者仮設住宅の写真があった。

              上野駅前

       日比谷公園仮設住宅

小石川植物園も同様な光景だったと想像してください。