石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-20-田端1丁目

2020-06-28 10:41:45 | 石造物巡り

写真は、JR田端駅南口を出て、振り返った一枚。

JR改札を出て、店も民家も何もない所は、田端駅南口だけではなかろうか。

そういえば、山手線で最も印象が薄い駅の筆頭は、田端駅という記事があった。

右へ上がる階段があって、その上方に民家が見える。

階段を上がり、20,30m行くと横断歩道があって、その先は、長い下り坂になっている。

坂を下りると左に与楽寺。

◇真言宗豊山派・宝珠山地蔵院与楽寺(田端1-25-1)

山門前に庭園がある。

手入れが行き届いていて、気持ちいい。

私が訪れたのは、1月13日だっだが、門松がまだ飾られていた。

山門を潜る。

本堂へと参道が一直線に伸びている。

秘仏の本尊・地蔵菩薩は、弘法大師作と伝わる。

与楽寺は、古寺であり、巨寺なのです。

本堂前の、石をくりぬいて、浮彫りされている仏は、聖観音か阿弥陀如来か、寺に尋ねたら聖観音だとのこと。

その背後に立つ石碑は、与楽寺住職長岡慶信遺徳碑。

長岡氏は、真言宗豊山派第十九代管長、総本山長谷寺第七十三第貫主を務めた。

石像が阿弥陀堂の前にある。

与楽寺は、六阿弥陀四番。

六阿弥陀堂があり、

堂前には、線刻阿弥陀如来がおわす。

本堂右前の石造物群の中にある層塔は、灯籠部分が空洞になっている。

名称を寺に訊いたが、応対してくれた人は、知らないようだった。

知らないと言えば、その右隣りの円筒も同じ。

「巴連納札塚」と読めるが、その意味合いについては、「全く分かりません」。

灯籠かと思って通り過ぎようとしたら、よく見ると、下に三猿が。

寛文9年(1669)造立の、灯籠を主尊とする庚申塔でした。

墓地の入口に地蔵群がおわす。

真言宗寺院にしては、地蔵石仏が多いのは、本尊の地蔵と関係があるのだろうか。

船形光背浮彫が3体、

丸彫りが3体あるが、丸彫り地蔵は、いずれも見上げる高さ。

持参資料には、この辺りに、笠付き六面憧があることになっている。

多分、これだろうとは思うが。

山門まで戻って、本堂に向かって左の石造物群に入る。

最奥におわすのは、弘法大師。

その前に、霊場めぐりに関わる石塔群。

御府内第五十六番 与楽寺

六阿弥陀第四番 与楽寺

西国二十一番丹波国穴大寺写

 

 


138 東京都北区の石造物-19上中里

2020-06-14 11:00:46 | 石造物巡り

東京に70年住んでいるが、JR上中里駅を利用したのは、初めて。

一つしかない改札を出る。

駅前はガランと何もない。

都内のJR駅では、利用者数が下から2番目だとか、なるほどと納得。

駅前の坂を右へ上るとすぐ、平塚神社への石段がある。

 ▽平塚神社(上中里1-47-1)

 

石段を上ると本殿の右へ出る。

鳥居をくぐらずに本殿に参るのは、抵抗感があるのは、なぜだろう。

だから、鳥居まで戻って、入りなおす。

鳥居には「文化十年」、「九月吉祥日」と刻まれている。

鳥居右側に社号塔が3基もある。

まず自然石に「平塚神社」。

ついで見上げるような高さで「郷社平塚神社」。

そして、「平塚大明神」。

「大明神」の台石には、盃状穴がいくつか見られる。

広い境内に石造物は、ほとんどない。

あるのは、車ばかり。

参道が貸し駐車場になっている。

厳かさなど望むべくもない。

石造物がないから、境内社でも紹介しようか。

菅原神社。

大門佐紀稲荷神社

御料稲荷神社

石室神社

本殿前の狛犬は、谷底から這い上がろうとする子獅子とそれを見守る親獅子か。

 

次の目的地「城官寺」は、かつての平塚神社の別当で、道路を挟んで反対側にある。

▽真言宗豊山派・平塚山安楽院城官寺(上中里1-42-8)

 

 

城官寺とは珍しい寺号だが、開祖山川城官の名を採ったもの。

由来については、後ほど触れる。

石造物が少ない平塚神社に比べると城官寺は多い。

まず、山門前から。

「本尊阿弥陀如来」石塔。

「多紀桂山一族墓」は、幕府の医師多紀桂山とその一族の墓が墓所にあるということか。

「西国六番 大和壺坂寺」は、江戸で西国三十三番札所を巡れるように模したもの。

「弘法大師」文字塔もある。

境内に入ると右手に地蔵群。

5基それぞれが大きさもばらばらなので、六地蔵ではなさそう。

しかもそのうちの一つの台石には、盃状穴が見られるので、どこかの辻におわしたものか。

城官寺は、真言宗になる前は、浄土宗寺院だった。

その名残が地蔵像群に見られることになる。

地蔵群の横には、立派な宝篋印塔。

明和元年(1764)の銘がある。

徳川家廟所前にあった奉献灯籠もある。

大猷院とは、家光の法号。

開祖山川城官は、家光に仕える武士だったが、家光が病に倒れた時、平塚神社に願を立てた。

そのお陰か、平癒した家光は感謝して、200石を寄進、小庵を平塚神社の別当寺に改め、山川の名をとって、城官寺としたという逸話が残っている。

面白い庚申塔がある。

足元を注視されたい。

三猿が置物なのだ。

こうした庚申塔は初めて見た。

石の蛙もいる。

寺の境内でよく見かけるが、どうした意味合いがあるのだろうか。

どうせろくでもないこじつけがあるのだろうが。

 城官寺の裏口を出て、右へ。

住宅地の中に庚申堂がある。

▽上中里庚申堂(上中里1-41-1)

 

 

享保六年(1721)で、三面八臂の剣人青面金剛像。

保存が行き届いていて、信仰篤い人たちがいるこをほのめかしている。

 


138 東京都北区の石造物-18d-滝野川5、6丁目

2020-06-07 08:12:22 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

◇八幡神社(滝野川5-26-15)

なんと石造物が、ない。

ないことはなく、狛犬などはおわすけれど、それ以外、これといったものはない。

区教委作成の神社の謂れがある。

八幡神社 北区滝野川5-26-15

八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気の命(ほんだわけのみこと)で、創設は建仁2年(1202)ともいわれていますが、詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺が別当寺でした。明治初年には天祖神社神職が詞掌を兼務していたようです。

現在の本殿は明治17年(1884)に改築されており、拝殿は大正11年(1922)に修築されています。本殿に向かって右には神楽殿が、左には社務所が配置されています。境内には、富士、榛名、稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名者については、村民が農耕時の降雨を願い、上州の榛名山から勧請したもののようです。

神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されました。組合ではここで野菜の種子相場の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。

   平成14年3月     北区教育委員会

◇庚申大神・石大神宮・飯井宮(滝野川5-32-6)

八幡宮から、住宅街の中の緩やかな坂道を上ってゆくと、中山道に出るちょっと手前で、「怪しげな」神社に出くわす。

神社らしいが、門は閉ざされていて、中へは入れない。

門扉の前に「石大神宮 飯井宮」の黒御影の石柱があり、

中に「古蹟/庚申大神」の石柱がある。

道路に面した壁に、3枚のステンレス説明板がある。

長い文章なので、3枚全部を紹介できないが、そのうちの1枚だけを転載しておきます。

古塚の地の神々の御神徳
   ※古塚之地の神々は、妙力を持って世に御出になられた神々で、人が真心でこの神々に尽くせば尽くす程に不思議を下さ神々です。
   ※古塚之地の神々は、人間のエゴ(自我)・心得違いにより、埋もれてしまった神、葬り去られた神々を、禊の道を通して、本来の姿を興す(再興祭祀)道を下さる神々です。
   ※古塚の地の神々は、『万物障り無くして病むこと無し』と発し、『ささかにの蜘蛛の糸よりも細ければ気づかざりけり道の綾糸』沢山の因縁が絡みあい、こんがらがって生じて居る神障りを人がこの神々に願いながら、禊の流れに随って祖神垂示の道を踏むことにより解き明かしてくださる神々です。
   ※古塚之地の神々は、地球上のどのような神であろうとも、願掛け(祈願を掛ける事)を したならば、その結果に関わらず、必ずその神に願解き(祈願解消御礼)をしなければ神障りを生ずると発し、先祖の願を掛けっ放しにして神障りになっている祈願の解消の手立てと道を教えて下さる神々です。
   ※古塚之地の神々が、顕界(現世)幽界(あの世)を通して、本来踏むべき神ながらの道を禊の流れを通して教えて下さる神々です。天地の神の心を我が心とし、築き成したる葦原の国(とは、日本民族の本懐で祖神垂示の道)心せよ、心せよ、心の独楽に心許すな。神の守護はその者の心次第と。
   ※古塚之地の神々は、方災除の神でもあります。
   平成24年8月15日
           宗教法人 神道大教石大神宮再興祭祀天典大教会


「怪しげな」と書いたが、それは私の神社のイメージと異なるというだけのことで、もちろん、教義は無関係。

佇まいが、ちょっと不思議な、見慣れないという程度のことです。

そのまま緩やかな坂を上がって行くと、標柱があって、「狐塚の坂」と読める。

滝野川第六小学校の南から南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向い側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798)造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう おふし・六阿弥陀・せんちゆ みち」という道標銘が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用したことをしのばせます。

確かに消防署の隣、中山道に面して、稲荷神社があって、そこが昔狐塚があった場所だと言われている。

そして中山道の反対側にも稲荷神社があって、これは重吉稲荷と云う。

◇重吉稲荷(滝野川6-76)

稲荷神社に付き物の朱色の鳥居と朱色の幟が少なく、落ち着いた祠。

祠というより、神社と云った方がいいような佇まいです。

一つだけ重大な欠点がある。

それは北区教委による説明板がないこと。

重吉というのは、人の名前と思われる。

重吉さんがこの神社とどう関わり合ったのか、ネット検索では分からなかった。

また、道路向こうにも稲荷神社があるのに、なぜ、こんな近くに稲荷神社があるのか、その理由についても知りたいのです。

鳥居には、昭和四年四月吉日と刻されている。

大正大震災で崩落した鳥居を再建したものだろうか。

重吉稲荷の隣、77番地におわすのは、「おふくろ観音」。

谷地大仏の寺、寿徳寺が造立したもの。

「おふくろ観音」とは珍しい名前なので、寿徳寺に電話して訊いてみたが、先代住職が建立したもので、詳しいことは判らないとの返答。

30年、少なくとも20年は経っているとのこと。

 ◇滝野川馬頭観音(滝野川6-62-1)

マンションの一画に小堂、中に「馬頭観世音」の文字塔。

普通は、特定の馬を供養するものだが、この碑の場合はどうだろうか。

特定できない、多数の馬の供養塔のような気がする。

というのは、江戸期、ここは馬捨て場だったからです。

あまり寄り付きたくない馬捨て場が、クローズアプされたのは、「新選組・近藤勇は、馬捨て場の側で処刑された」と云い伝えられたからでした。

処刑されたのが、馬捨て場だったとして、近藤勇の墓所はわずか100mも離れていない、JR板橋駅東口の一等地にある。

 正面ブルーの工事用シートが掛かっているのがJR板橋駅。

 左手前の柵内が、近藤勇墓所。

◇近藤勇墓所(滝野川7-8)

いつも感心するのだが、ここには、いつも、誰か人がいる。

板橋駅前という立地の良さもあるが、多分、新選組人気が途絶えることなく、続いているからだろう。

なぜ、それほど新選組は人気があるのか。

滅びの美学、なんていえばカッコイイけれど。

駅前の一等地にしては、広い墓所です。

ここも、あの寿徳寺の境外地だというから、「へえー」。

中央奥に立つのが「近藤勇/土方歳三之墓」。

命日の4月25日には、ここで盛大に供養が行われる。

偶然に通りかかり、読経のリードが女声だったので、「おやっ」と思い立ち止まった記憶がある。

菩提寺の寿徳寺住職は、女性だと後で知って納得した。

墓の右隣りに近藤の立像。

戒名は「勇生院頭光放運居士」。

ただし、全国にいくつか墓があって、それぞれ戒名は違うらしい。

ごろんと横たわった自然石の後ろには「近藤勇埋葬当初の墓石」の立て札が。

政府からにらまれて、立派な墓は建てられなかったのです。

そうした圧力をものともせず、ここに近藤勇の墓を作ったのは、新選組生き残りの永倉新八。

彼の墓も又、近藤勇の前に立っています。