石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138北区の石造物-4c-浮間3、4丁目

2019-10-28 07:48:23 | 石造物巡り

▽浮間の渡船場跡(浮間3-6-17)

渡し舟ということばには、どこかメルヘンとノスタルジーが漂う。

だが、浮間の渡船場跡に立つとそんな情感はどこにも見いだせない。

道路の行き止まりは、2mを超える無機質な壁。

その向こうは、新河岸川で、かつて、渡船場があった、と聞いても、向こうが川だとイメージできないのだから、理解できないのも無理はない。

では、ここにはなにがあるのかというと、渡船場から移転した石造物が何基かある。

右から、四国八十八ケ所霊場巡拝供養塔。

孫が、文政元年(1818)建てたもので、道標を兼ねている。

その左は、馬頭観音。

渡し船には、人用と馬用があったそうで、その渡し船で渡ってきた馬たちの安全を祈願するもの。

その隣は、青面金剛立像。

えらく手の込んだ彫りで見事。

左に「天保九戊戌年六月吉日」、右に「蓮沼邑石工 小石川久佐〇」とある。

一番左は、水神宮だが、雑草に覆われて、何も見えない。

▽庚申塔(浮間3-11-26)

 特別養護老人ホーム「浮間さくら荘」の一画にある。

以前は北浮間郵便局の倉庫にあったらしい。

老人ホームのお年寄りを守るという新しいミッションに意気軒高の青面金剛と見た。

踏んづけられて、邪鬼が悲鳴を挙げているが、邪鬼の下の三猿もなぜか苦しそう。

 ▽子育て地蔵尊(浮間3-34-24)

 

 子育て地蔵堂の右手上方には、JRの高架線。

お堂には4基の石仏がおわす。

前面は、庚申塔と巡拝供養塔。

後列に大小2基の地蔵菩薩。

まずはメインの子育て地蔵。

「人生法界平等利益 観音寺住職 本願主啓経 法印宥〇」の銘がある。

観音寺とは、この次に取り上げる「無動山妙智院観音寺」のこと。

奥の小さな地蔵菩薩には、文字は刻されていない。

庚申塔は、安永6年(1777)の造立。

巡拝供養塔には「天保八年北足立郡浮間村 お熊源左衛門 西国・秩父・坂東 為二世安楽也」とある。

 

▽新義真言宗・無動山妙智院観音寺(浮間4-9-2)

観音寺の本尊は、不動明王。

明治43年の大洪水では、本堂が床上浸水、樽を二つ並べたうえに本尊を安置し、水没を免れたという。

山門を入ると六地蔵。

鐘楼が新しいのは、戦後造られたものだから。

戦時中、鉄製品の供出で、軍に押収された鐘の代わりに新しい鐘を作ったが、昭和58年、その応収された鐘がひょっこり返還されてきた。

大晦日、浮間の人たちが耳にする除夜の鐘の音は、新しく造ったもの。

空海の雲水立像は、かなりの高さだが、それに負けず劣らず高い石碑がある。

「本堂庫裡改築記念碑」とある。

北区の寺院には、不必要に大きな改築記念碑が多いような気がする。

 

 

 


138 東京都北区の石造物-4b-浮間2丁目

2019-10-20 08:15:40 | 石造物巡り

▽北向き地蔵堂(浮間2-4)

 

 

上の写真で北向き地蔵堂は、右手の住宅の手前にある。

北向き地蔵は、かつては、道路の奥、緑に見える荒川の堤防の向こう側の河川敷にあった。

更にさかのぼれば、浮間村の北の入口におわして、悪霊の侵入を防いでいたと伝えられている。

享保6年(1721)造立で、疣とり地蔵あるいは身代わり地蔵とも呼ばれている。

地蔵の右は、宝永2年(1705)造立の庚申供養塔。

普通は、左にある邪鬼の頭が右にあるのが特徴か。

そして左側は、安永6年(1777)造立の、これまた青面金剛庚申塔。

北向き地蔵とその左側の青面金剛像の間の奥に見える板碑は、阿弥陀三尊種子の月待ち供養塔。

文明16年(1484)、二十三夜講の結衆12人が、月待ち行事をした記念碑。

以上の説明は、現場に立つ北区教育委員会による説明板による。

 北向き地蔵から西へ300m、右に氷川神社が現れる。

▽浮間氷川神社(浮間2-19-6)

社殿が一段高い場所に建設されている。

水塚に建てられたもので、荒川の洪水に悩まされてきた浮間の神社らしい。

石造物が西端にまとめられている。

当所氏子中

神明照心魂

桜草保存の碑

桜草は、浮間の誇る花だった。

桜草の群生は、荒川の氾濫が原因だった。

氾濫で上流からもたらされた土壌が桜草に最適だったからです。

それが荒川の河川改良が進み、氾濫がなくなると桜草も減少し、絶滅の危機を迎える。

その危機を防いだのが、地元有志の保存会。

土壌改良に努め、一般公開にまで、持ち込みます。

昭和38年(1963)のことでした。

桜草一般公開30周年記念碑

 

とりわけ巨大なのが、整地碑。

判読できない碑も2,3基ある。

社殿左前にあるのが、社殿建設記念碑。

社殿右には、狛犬と

日清戦役凱旋記念碑がある。

▽浮間不動尊(浮間2-19-6)

浮間氷川神社と同じ番地なのは、神社の境内地におわすから。

神社に同居するお堂は珍しい。

近寄ってみるが、不動尊像は見えない。

それともこの縦に細いものが不動尊なのか。4185

▽傘屋庚申堂(浮間2-24-28)

傘屋とは、庚申堂が立っている敷地の家の屋号。

右面に「青面金剛武刕 浮間邑講中七人」、左面に「延享三丙寅十二月吉日」。

 

 

 

 


138東京都北区の石造物-4a-浮間1丁目

2019-10-12 08:29:01 | 石造物巡り

▽浮間橋の碑(浮間1-1)

北区浮間1丁目1番地は、浮間橋北詰の番地。

新河岸川を背に2基の石碑と区教委による説明板が立っている。

まず、説明板から。

橋の架橋由来が述べられている。

浮間橋の碑    北区浮間1-1(左岸)            

ここに、浮間橋の架橋に至る由来を示す大小二つの碑が建っています。どちらも由来を後世に伝えようとしてたてられました。 荒川は江戸時代より洪水が多い、荒れ狂う川として知られており、明治43年8月、関東平野全域と東京の下町をほとんど水浸しとする大洪水が起こりました。翌年、明治政府は 洪水時の4分の3の水量を流すことができる新川を作ることを決定し、荒川放水路が設置されることになりました。しかし、この河川改修の結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれることになり、交通手段を渡船に頼らざるを得なったのです。そこで浮間の農家約60軒が橋の建設を要望し、合計6千円を醵金(きょきん)して、赤羽台4丁目に国立王子病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和の3年5月、幅2間、長さ65間半の木橋が架けられたと大きな碑には刻まれています。その後、浮間橋は昭和9年秋鋼板鋼桁製の橋に、昭和15年3月鉄製の橋へと架け替えられたのですが JR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになりました。そこで大きな碑は、最初の木製の橋を建設した人々の子孫が浮間橋記念碑保存会を設立して話し合った結果、昭和60年9月浮間橋脇に移設されたのです。小さな碑はこの移転の経緯を残すためにたてられました。         平成8年3月     東京北区教育委員会

 

大きい石碑は昭和3年建立だが、なぜか漢文。

浮間橋            

郊外浮間里有名櫻草鮮 北方隔水路對横曾根邊            
西南挟清流望志村翠煙 曩離北足立新併合岩淵            
此地如孤島交通常乗船 憂慮萬一事頻希架橋便            
里民咸應分醵出金六干 本町請軍衙以實情開陳            
近衛工兵来施工盡力研 今日橋梁成如長蛇横川            
昭和三年四月二十六日                                             小柳通義撰文併書

 

郊外の浮間の里は櫻草の鮮かさにて有名なり 

北方は水路を隔てて横曾根邊りに對し  

西南は清流を挟みて志村の翠煙を望む 

曩に北足立を離れ新たに岩淵を併合せり    

此の地は孤島の如く交通は常に船に乗る 

萬一の事を憂慮して頻に架橋の便を希う    

里民咸(みな)分に應じて金六干(円)を醵出し 

本町軍衙(ぐんが)に請うに實情を以て開陳す    

近衛の工兵来りて施工に盡力すること研なり 

今日橋梁成りて長蛇の如く川に横たえり

 

小さい碑は、建設記念碑移転記念の碑。

 

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建
設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの
結果、新幹線工事完了の暁、新〇〇が
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が
完了したことを記念した碑を立てる
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

 


138東京都北区の石造物-3b-赤羽北3

2019-10-06 08:10:19 | 石造物巡り

「身を着られるように辛い」という表現がある。

さしずめ諏訪神社は辛い思いをしたことだろう。

なにしろ参道が無残にも断ち切られてしまったからです。

▽諏訪神社(赤羽北3-1-2)

 

元々あった神社の標石の前に立つ。

参道が伸びて、向こうに本殿が見えるが、中間がどうなっているのか?

近寄って見る。

こちらがわは石段を下るようになっていて、向こう側の石段を上って本殿に向かうことになる。

つまり石段の高さだけほぼ20m幅で、掘り下げられて、そこが道路になっているのです。

 

石段を上がって、境内へ。

本殿前の自然石は「猿田彦大神」。

変わった石造物がある。

国土測量の為の水準点標石。

四つの石標には、「内務省」、「昭和5年」、「荒川」、「不BM1」と刻されている。

 

石碑、石塔の類は、境内東南の隅にまとめられて並んでいる。

一番左の大きいのは「富士登山記念碑」。

その次は、中央に「庚申塔」。その右に「天保十三寅年」、その左に「東 岩淵宿渡船場みち」と彫り、右面に「當村かしは」、左面に「南 野みち」、裏面に「西 中仙道志村より戸田渡船」と刻む。

左から35番目の青面金剛像は、「安永七歳戊戌九月吉日」「是より東 川口の    わたし場十八丁」よりとある。

大乗妙典日本回国塔

 

八日講所願成就

石坂供養塔 天保七年(1836)

石垣 の下は埋まって読めず

大々神楽記念碑 昭和35年(1960)

八日講とはいかなるものなのか、不明です。

石段を下りて、道路を渡って、向こう側の参道へ。

金網越しに石仏が数基見えるので。

道路を見下ろすように5基の石造物がいらっしゃる。

左から、「天下泰平/国土安穏/奉唱光明真言百万遍供養塔」。

「青面金剛像/武州豊嶋郡岩淵領袋村/元禄十六年十一月十八日」。

「奉納庚申供養塔為二世安楽也」

台石に「右 大山祢りまミち 左 いた者しミち」。

「奉供養庚申二世安楽処/享保十七子十一月十五日/岩淵領袋村講中」。

「奉供養庚申/左 板橋道/右 練馬道/享保十九甲寅十二月吉祥日」

断ち切られて、残された参道ほど無意味なものはなかろう。

通る人はいるのだろうか。

誰も通らない。

誰も見てくれない。石仏は、所在なげに佇んでいる。