石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-21-弥生式土器発掘ゆかりの地(弥生2-11)

2019-05-26 07:51:51 | 石碑

 

言問通りを根津方向へ向かう途中、右手の東大浅野キャンパスの外側の一画に石碑が立っている。

「弥生式土器発掘ゆかりの地」。

◇弥生式土器発掘ゆかりの地」碑(弥生2-11)

弥生式土器は、東大周辺の弥生町で発掘されたので、地名を取って弥生式と命名された、と中学校で習った。

65年も前のことです。

「あ、ここがその場所なんだ」と改めて碑文を読むが、なんだかすっきりしない。

それは、「弥生式土器発掘の地」ではなく、「発掘ゆかりの地」であるから。

「ゆかり」は、「たどっていけばなんらかのつながりがある」というような意。

関係のあるなしを問われれば、「ある」のだが、ピンポイントでここだ、というほどの明確さはないということになる。

言問通りの反対側に白い立て板があるので、道を横切って近づいてみる。

なんとこちらは文京区教育委員会による「弥生式土器発見の地」の案内板。

内容は、ここがその発見地だ、というのではなく、3か所ある推定地の説明のようです。

こうした大切な説明板が、なぜ、「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑の傍に建てられていないのか、不思議でならない。

弥生式土器の発見地
弥生式土器の発見: 明治17年、東京大学の坪井又五郎、臼井光太郎と有坂修蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり弥生式土器と命名された。この遺跡は、考古学上重要な遺跡で、向ケ岡遺跡といわれる。
向ケ岡遺跡この遺跡の位置は、その後、都市化がすすむなかではっきりしなくなり謎とされてきた。推定地としては、次の三カ所が指摘されている。
 ①東京大学農学部の東外門(サトウハチロウ記念館付近)
 ②東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
 ③根津小学校の校庭内の崖上
弥生二丁目遺跡の発掘:昭和49年春、根津小学校の児童が、東大校内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで、発掘調査が行われた。そして明治17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土した。(弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定)
根津の町を眼下に見、不忍池を望むとされる最初の弥生式土器の発見地(幻の向ケ岡遺跡)の位置は、継承の推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる。

 提供: 文京区教育委員会

この説明板の不可解な点は、「急激な都市化で不明確になった発掘地点だか、推定地としては3か所があげられる」と明示しながら、推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる」と最後に否定していること。

推定地の根拠とされる「不忍池が見下ろせる崖地」は、発見者の一人坪井正五郎が『東洋学芸雑誌』に載せた貝塚スケッチの説明文が「向ヶ丘貝塚より上野公園をのぞむ景」に由るもの。

説明板の地図に従い、現地へ行ってみた。

①のサトウハチロー旧宅跡は、そもそも、なぜここが推定地であるかの説明がないのだから、ここから不忍池が見えないからといって、否定するのもおかしい話ではないか。

③の根津小学校裏の崖地は、フエンスがあって、入れない。

校庭を見下ろせる異人坂の上からは、不忍池を見ることは、方角的に無理のようだ。

最も信ぴょう性が高いと思われるのは、東大浅野キャンパス工学部9号館東側の空き地。

そもそもの「弥生式土器発見ゆかりの地」碑も、浅野キャンパス西北の隅に建てられている。

言問通りから構内に入る。

こんなところにも東大があるとは知らなかった。

工学部9号館は、構内最大のビルで、その東側には、草地が広がり、巨木が聳えている。

 

説明板がある。

昭和 49年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根本から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われた。そして明治 17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土し、昭和51年に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。
この「弥生二丁目遺跡」も弥生土器の発見地として有力視されている。

立ち入り禁止なので近寄れなかったが、巨木からは不忍池が見えるように思える。

ここが「ゆかりの地」の中で最適地と思われるが、どうだろうか。

 

 


137 文京区の句碑-20-高畠華宵碑と東大医学部戦没同窓生の碑

2019-05-19 08:31:40 | 石碑

東大本郷キャンパスには、9つの門があるが、その一つ、弥生門の前にあるのが、弥生美術館。

◇高畠華宵の碑

高畠華宵、竹久夢二、中原淳一など、大正、昭和初期の画家の作品を蒐集、展示している。

弥生美術館の設立者、鹿野琢見氏は、少年時代、高畠華宵の絵『さらば故郷!』に励まされ、上京し、刻苦勉励して弁護士となった。

華宵への報恩の気持ちは、華宵作品の精力的な収集となり、同時に、晩年、不遇であった華宵を引き取り、この地で、亡くなるまで面倒をみた。

美術館前の塀にはめ込まれた石碑の冒頭の4行は、自分の絵に影響を受けたとする鹿野氏に対する高畠華宵の心の返答である。

あの絵が、可憐な少年少女の日のあなたの心によき影響を与えたということは、私として何よりもうれしいことです。華宵

そして、その左に、高幡華宵の略歴が刻されている。

画家 高畠華宵の碑
優美華麗あるいは凛々しく可憐なさし絵で大正昭和にかけ青春期にある人々との共感を呼び、その画風一世を風靡した不出世の画家高畠華宵の画業を讃え、その人となりを追慕しここにこの碑を建てた


略歴 華宵 名は幸吉 明治21年4月6日愛媛県宇和島に生る 明治末期から大正昭和にわたり さし絵 口絵 広告絵 郵便絵等麗筆を揮う 昭和41年7月31日 この地に没す 享年78歳  華宵会 

美術館の塀の右側には、棺桶を擔男性群像のレリーフがある。

上部に「東京大学医学部戦没同窓生の碑」とあり、群像の両脇に戦没者の氏名がズラッと刻されている。

レリーフの横に、建立趣旨を刻んだプレートがある。

  
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出した。
 彼らの多くはアリューシャン列島アッツ島からニューギニア、ガダルカナル島、中国、東南アジア、沖縄に拡がった戦火の中で、また広島・長崎で医療従事中に原子爆弾の劫火に斃れた。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実を悲しみ、これを後世に伝えるべく、基金を組織して戦没者と戦没地の調査を行い、同窓会鉄門倶楽部に医学部構内への追悼碑建設を提案した。
 同倶楽部はこの事業の実行を決議して医学部教授会の承認を求めたが、未だその採決に至らず、いまや戦没世代同窓生は碑の完成を見ることなく世を去ろうとしている。
 この「東京大学医学部戦没同窓生の碑」は、戦後最初の総長南原繁先生の戦没学徒哀悼の志を承け、この地にお住まいの鹿野家の皆様から温かいお心をいただいて建立するに至ったのであって、避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた若者たちのいたましくも哀しい事実を歴史に刻む碑である。
 私たちは戦没同窓生への思いを戦いに斃れた友を担って母校に帰り来る学友の群像に託し、近い将来同窓会鉄門倶楽部の決議が実行され、この碑が医学部構内に移築されることを期している。
 新世紀最初の東京大学五月祭の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と花を捧げて深い哀悼を世に伝える。
 
 平成13年5月27日
 東京大学医学部戦没同窓生追悼基金
 
医学部卒業生の戦没者慰霊碑が、学内ではなく、なぜ、こんな場所にあるのだろうか。
 
聞くところによれば、、この碑を医学部構内に建てることに反対の意見が教授会を占めたのだという。
碑文の最後に「この碑が医学部構内に移築されることを期している」とあるのは、そうした事情を含んだものか。
いずれにせよ、戦没者慰霊碑という誰もが賛同するものと思われる提案に反対する意見とは、どういうものだったのか、知りたいものです。
 

137 文京区の石碑-19-向陵碑(東大農学部)

2019-05-14 11:05:00 | 石碑

 

東大農学部の正門を入ると、すぐ左に、立ち上がった犬の前足を両手でしっかりと受け止めて、慈しむ男の像がある。

渋谷のハチ公とその飼い主です。

ハチの美談は、毎日、主人を渋谷駅まで送り迎えしていたハチ公が、主人亡き後もずっと駅に通い続けていたという話。

しかし、ご主人が東京帝大農学部教授であったことは、余り知られていない。

それを周知するために、この銅像は建てられたのだという。

ハチが渋谷駅へ通い詰めたのは、上野博士が井の頭線の駒場にあった東京帝大農学部に通うのに、渋谷駅を利用したからでした。

ここで「おやっ」と思ったあなたは鋭い。

駒場東大は教養学部で、農学部は本郷ではないの?

実は、昭和11年、ここ向ヶ丘にあった旧制一高と駒場にあった東大農学部は、相互にキャンバス交換をしたのです。

それを記念した石碑「向陵碑」が、構内の一隅にある。

◇向陵碑

「向陵」とは、ここ向ヶ丘の中国風呼び方。

碑裏に碑建設由来が刻されているが、全文漢文で読めない。

碑の横に、書き下し文のスチール板があるので、全文を転載しておきます。

我が第一高等学校は初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在りき。明治8年創立す。10年、大学予備門と称し、19年、第一高等中学校と称す。本郷向陵に遷り、25年、今の名に改む。法学博士木下広次先生、校長に任ぜらる。此の時に当たり、欧米綺靡(あでやか)の風上下に弥漫(げまん)し、殆ど国礎を危くせんとす。先生之を憂ひ、四大綱領を掲げ、自治規則を制定し、以て天下に倡道せらる。是に於いて全校学生頓(とみ)に面目を改め、奮励踊躍、人々国士を以て自任し、向陵健児の名四海を衝動す。爾来46年、時に汚隆無きに非ずと雖も、向陵精神は一貫して今に更(かわ)らず。
浮説世を惑わし、人心動揺し、其の禍(わざわい)将に往日の如からんとす。吾輩国士の遺風を追ふ者、寒心恐懼せざるべけんや。
数年前、当局我が高校と駒場農科大学と其の地相易(か)へんとするの議あり、事已(すで)に緒に就き、今茲に8月、吾輩将に向陵に永訣せんとす。嗟夫(ああ)、向陵よ、汝が精神は長く我が高校と相終始せん。固より地の東西を以て其の説をかえざるなり。然れども、我校汝と相親しむこと40余年、其の去るに臨んで忍びず、決然一片の貞石を留め、以て遺蹟を表す。乃ち之を繋ぐに辞を以てす。
 我が石磨くべし 志は奪ふべからず 彼の嶢(た)つ者は丘
 焉んぞ其の蹶(たおれること)有らんや
   昭和10年2月1日
        第一高等学校寄宿寮
     前第一高等学校教授 安井小太郎 撰
       同       管 虎雄  書

四大綱領とは、1、自重、廉恥心の養成、2、親愛・共同の養成、3、辞譲心・静粛の習慣、4、衛生・清潔。 

もちろん駒場には、キャンバス交換記念碑「駒場農学碑」が立っている。

 東大農学部には、もう一基石碑がある。

◇朱舜水先生終焉之地碑

言問通りを跨いで本郷キャンバスと弥生キャンバスを繋ぐ歩道橋脇に立つのが、「朱舜水記念碑」。

その人となりを、東京都教育委員会による説明板から引用しておきます。

朱舜水(1600-82)は日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、瞬水は号です。祖国明の復興を張るが果たせず、万治2年(1659)長崎に来た際、柳川藩の儒学者安東省庵の援助を受けて亡命しました。漢文5年(1665)小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、生涯この地で過ごします。学風は朱子学、陽明学の中間といえる実学で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀、木下順庵らに大きな影響を与えます。天和2年(1682)に83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。


 この記念碑は、日本渡来250年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。