石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

135 徳本行者と名号塔-③生い立ちと修行ー

2018-04-29 10:10:26 | 六字名号塔

徳本行者は、生き仏として抜群の人気を誇った。

俳人一茶がその説教を2度も聞きに行ったことは、先述した。

では、流行神としてもてはやされた徳本行者とはいかなる人か。

その生い立ちと厳しい山岳修行を振り返ってみたい。

徳本行者は、現在の和歌山県日高町の農家の長男として、宝暦8年(1758)6月22日、誕生。

          徳本行者生家

2歳の時、名月を指して南無阿弥陀仏を唱えたなど、偉人としての伝説には事欠きません。

9歳になって、両親に出家を請うが許されず、自ら日課念仏(毎日、回数を決めて唱える念仏のこと)の修行を始めた。

27歳になって、念願の出家を許され、財部往生寺の大円大徳和尚より得度を受けます。

本格的な修行は、29歳になってから。

千津川上流の渓谷に入り、穀絶ちの木食戒を始めます。

渓谷の岩の上に草庵を結び、麻縄を袈裟とし、腰巻を巻いた乞食同然の姿で、食事は雑穀の粉を一日1合水で飲むだけ、ワラビや木の実も重要な食材でした。

徳本行者が木食僧と云われる所以です。

夜が明けての、水垢離が一日の修行の始まり。

木魚をたたいてひたすら念仏を唱え、五体投地を一日、1万回もするという荒行を6年間続けます。(五体投地1回につき7-8秒はかかりそうだが、5秒と早くみつもっても1時間720回、10時間で7200回でしかない。毎日1万回の6年は信じられない)

その頃の逸話が、江戸後期の『わすれのこり』に掲載されている。

太守(紀州八代藩主重倫)ここに狩し給ふに、谷を隔てて石上に端座合掌して念仏するものあり、髪髭ながくのびて身にはみるのごときものをまとひ、人とも獣ともわかたず、近臣をして射るさしめ給ふに皆当たらず、太守驚きたまひて、自ら其来歴を問ひたまふに、答ふるところ少しも滞りなく、生まれながらの活僧成として、城中に止めて厚くもてなしたまふ」。

この逸話は、徳本行者が師と仰ぐ木食弾誓の箱根山中で大久保小田原城主に矢を射られた逸話とそっくり。(このブログ「石仏散歩」のNO64『それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たち(2)』https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/c/1a136ffe02c24259f3a352a979b1a1da

を参照ください。)

その後も紀州を中心に各地を転々としながら、修行を続けるが、55歳の時、紀州10代藩主治宝公から、幕府の重大事解決への助力を依頼されます。

重大事とは、11代将軍家斉が、側室お美代の方の願いを受けて、日蓮宗寺院を将軍家の祈祷寺にすることにしたこと。

      将軍家斉

これに危惧を覚えた増上寺の和尚が、徳川家本来の浄土宗に戻すべく、念仏行者徳本に依頼します。

57歳という晩年になって、江戸へと下向した背景には、こうした事情があったのでした。

文化11年戌年の7月始方より、江戸四里四方老若男女大に群集することこそできたる。其ゆえは紀州の山奥に壱人の聖あり、其名を徳本という。彼僧すでに7,8年以前小石川の伝通院へ来りて、日課念仏を人々にすすめ、十念を授ることにて有けるに、ことし又来りて前の如し。しかるに7月中旬より日に日に参詣の者多くしてい幾千ということなし。されば我も人も授かりて極楽に往生せんと、老いとなく若きとなく日夜朝暮伝通院に充満せり。夫れ故に、月の五の日斗出席して押し合い、押し合い、上が上に群集するほどに、其庭にて悶絶せし老人も少なからず、。今日はかしこの諸候へまねかれ、一ツ橋の御館へ行給ふとて其日をよく聞き知りて往還につづく人さながら山をなす。そもそもこの徳本という僧は不食の疾にて、幼稚の時より五穀を嫌ひただ一向専念に仏名を唱へ、更に世事にかかわらず」(『我衣』より)

もともと徳本行者が江戸に下向したのは、日蓮宗に傾きかけた大奥のムードを本来の浄土宗に戻すというミッションにあった。

    泉蔵寺(秦野市)の石像

そのため徳本行者は、増上寺で数多くの大奥の女中に説教し、且つ、紀州、一ツ橋などの親藩諸侯の屋敷にも通っていた。

大奥の女中たちに説教したと云っても、別間にあってのことは無論のことです。

徳本固より一間に容ることを禁じて婦人は皆下の間にありしに、徳本出ると年寄り衆も女臈も皆下の間に平服し首を挙ぐる者なし」(『甲子夜話』より)

民衆から圧倒的な支持を受けていたかに思える徳本行者だが、権力の中枢との関係性が深まれば深まるほど、念仏講の民衆性を弱める結果になったと批判する向きもあります。

 


135 徳本行者と名号塔ー②一茶と徳本ー

2018-04-22 08:30:04 | 六字名号塔

一茶が徳本行者の声咳に接したのは、文化元年(1804)3月のことでした。

     霊山寺(墨田区)

此日、此聖人、霊山寺(本所太平町)にて教化し玉ふとて、貴賤群集大かたならず、かかる折に通りかかれるも、神仏の引会(ひきあわせ)にやと道場に上がれば、人の申(まうす)にたがはず、結跏趺坐のありさまも凡人にかはれり。声は飄々と風の竹木を吹(ふく)がごとし。かかるさまは昔物がたりに見聞くのみ。目の前に逢ひ奉ることのうれしさよ。
雀子も梅に口明く念仏哉

実は、一茶はこの13年後、徳本行者から念願の十念を受けている。

場所は、長野善光寺。

一茶は54歳、江戸俳壇を去って、郷里に居を移したばかりでした。

一茶の『七番日記』文化13年(1816)4月の欄に

廿一アサノニ入
 二晴 徳本十念
 三晴 夜戌刻小雨 南原文五郎出火
    徳本廿日ヨリ廿二日迄西丁西方寺、廿三日東門丁寛慶寺ニ入賀(駕)」

さらに、5月、
 四日晴 六川ニ入 酉剋雷不止
     徳本墨坂入浄雲寺
 七日雨又晴
     徳本上人 小布施竜雲寺に入

文化13年4月22日、西方寺で、徳本行者から十念(南無阿弥陀仏を10回唱えること)を受けたことがこれで判ります。

西方寺は、正治元年(1199)、法然が善光寺参詣の折、創立したという由緒ある寺。

徳本行者の長野教化の旅は、『関東摂化蓮華勝会』に詳しい。

それによれば、21日には西方寺の本堂(横12間、縦9間)、庭およそ25間四方はほぼ満杯、入れずに帰ったもの約3割という混雑で、善光寺町始まって以来の騒ぎだったと記してある。

徳本行者が、20日から22日までの3日間で、授与した名号札(南無阿弥陀仏)は、小幅名号1万6043枚。

徳本行者は名号を信者に与えたが、念仏講は講員の数で、個人には日課念仏の回数で、名号札の大きさを分けていた。

ちなみに、小幅名号は、講員(50人未満)、個人は念仏(千-9千遍)に与えるもので「大幅の六つ切り名号」。

中幅名号札(講員50-99人、念仏1万―3万遍) 大幅の四つ切名号と数珠。

直筆名号札(念仏6万遍)

大幅名号塔(講員100人以上) 唐紙の半分の135×35cm。

8月中頃まで信州を強化して回ったが、その間配布した名号の刷り物は、約22万枚という膨大な数に達している。

芭蕉が生涯に詠んだ句は、約1000句。

蕪村は、約3000句。

それに対して、一茶はほぼ2万句と云われています。

多作ではあるが、関心ないものは詠まない、とすれば、徳本行者に関する句が14句もあるのは、一茶が徳本に惹かれていた証左のように思われます。

文化13年(1816)、信州に居を移したとはいえ、その直後、一茶は、江戸、房総へと長旅に出ます。

信州に帰ってきて、8月の最初の句は、

空っ坊な 徳本堂や 秋の風

1年ぶりに西方寺へ行って、あの時の大群衆を想い出しての句。

他に、「徳本上人」と題した句の中から、

ナムナムと口を明けたる蛙かな

上人の口真似してやなく蛙

名月や箕ではかり込御賽銭

庶民の野次馬一茶は、寺の賽銭がやたら気になるらしく、賽銭の句が何句かある。

いずれも賽銭をうらやましがる句ばかりだが、徳本行者は集まった賽銭に無関心で、場所を提供した寺にそのまま与えたといわれている。

果たして一茶は、そのことを知っていたのかどうか。

 

 

 

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー①江戸の流行神ー

2018-04-15 06:36:40 | 六字名号塔

今回のテーマは、徳本(とくほん)名号塔。

徳本は、江戸時代後期の木食行者で、日課念仏の普及に努めたカリスマ宗教実践者。

    宗源寺(平塚市)所蔵の徳本行者座像

名号塔は、六字名号、すなわち「南無阿弥陀仏」の石塔のことで、この場合は、徳本行者の独特な書体の「南無阿弥陀仏」を彫った石塔を指します。

徳本行者の生地であり修行地でもあった紀州に徳本名号塔が多いのは当然ですが、50歳半ばの晩年江戸に下向、関東、信州等を数度にわたり巡錫したので、小田原、相模、武蔵、信州、下総に今でも数多くの徳本名号塔が残っています。

しかし、と、ここからがいいわけですが、私の写真フアイルには、紀州や信州の写真はありません。

わずかに相模と江戸の徳本名号塔が、20数基あるだけです。

タイトルに「徳本名号塔」とつけるには、お粗末な限りですが、肝心なのは、徳本行者の魅力を伝えること。

必然的に文章が多くなりますが、ご容赦ください。

 

「鰯の頭も信心から」。

江戸時代、民衆支配の走狗と堕した既成宗教に背を向けた大衆の心をつかんだのは、現世利益を満たすと噂の流行神(はやりがみ)でした。

「はやれ」ぱ「すたる」。

すたれたかと思うと、また、流行りだす。

流行神とは、そのようなものなのです。

「立花候下屋敷に稲荷の宮有、此屋敷拝領已来勧請有けるよし、宮の床下に狐穴ありて、狐四五匹もこれあるや、白昼にも屋敷中を走り廻るよし、享和三亥年、いかなる故ありにしや諸人参詣群集し、近辺酒食の肆夥しく出来、賑やかにありしか、半年も過ぎれば、参詣人まれにて、元の田舎のごとし、俄かに盛るものひさしからすといふ理なり」(小川顕道『塵塚談』)

厳しい修行を経て、奇蹟を生じて見せる霊力を保持した山岳修行の行者=木食行者も人々から崇敬される「生き仏」であり、行く先々、人々が群がったという点では、流行神と云っていいでしょう。

江戸時代前期の木食弾誓や但唱はその典型例ですが、幕末の生き仏といえば、徳本行者をあげて差支えはないでしょう。

『増訂武江年表』の文化11年の項に

七月頃より、徳本上人、小石川伝通院にて諸人に十念(南無阿弥陀仏を十回唱えること)を授らる、貴賤の参詣群集夥し」とあるように、徳本の説教を聞きたくて集まった人たちで、本堂の床板が抜けることもあったほど、その人気は群を抜いていました。

その人気ぶりを目の当たりにした野次馬有名人がいる。

一茶。

一茶の信仰心については、小林計一郎氏が『小林一茶』の中で次のように指摘している。

一茶は信仰心が深く、神仏に対して、いつも敬虔の念を失わなかった。しかしその信仰は庶民的な俗信であって、参詣も物見遊山を兼ねている事が多かった。好んで参詣していたのは、願い事がかなうという理由で当時流行している神仏が多かった

流行神が大好きだった一茶が、幕末の生き仏、徳本行者とどのように接したのか、それは次回をお楽しみに。


134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(6)

2018-04-10 14:17:33 | 寺院

13 浄土宗・光感寺(松が谷2-20-3)

14 浄土宗・涼源寺(松が谷2-19-7)

境内にエキゾチックな石仏が点在している。

 

中で存在感を示しているのが、鑑真和上丸彫り座像。

鑑真の故郷揚州の硬い石材を中国の石工が彫ったものと解説板にはある。

15 曹洞宗・曹源寺(かっぱ寺)(松が谷3-7-2)

「かっぱ橋本通り」と「かっぱ橋道具街通り」、「かっぱ橋」とつく通りが2本あるとは知らなかった。

曹源寺は、かっぱ橋本通りに面している。

 

商店街の幟やマンホールにもかっぱは描かれ、置物のかっぱも多種多様で、商店街の努力が垣間見えて、ほほえましい。

 

この場合の「かっぱ」は「河童」を意味しているが、「かっぱ」には「合羽」の意味もある。

曹源寺は別名「かっぱ寺」と呼ばれるが、この場合の「かっぱ」は「河童」と「合羽」の両義あるというから面白い。

昔この付近は土地が低く、雨が降るとすぐ洪水になって住民は難儀していた。土地の商人、雨合羽屋の合羽川太郎は治水で住民を救おうと掘り割り工事を始めた。だが、工事は難航した。それを見て動き出したのが、隅田川の河童たち。川太郎に助けられた恩義を返すべく、工事を手伝った。浅草から上野へ通じる橋は川太郎の徳を偲んで合羽橋と名付けられた」。

曹源寺には川太郎の墓が、河童の石像に囲まれて、ある。

 

墓の刻文は「てっぺんへ手向けの水や川太郎」。

治水工事に協力した河童たちも「河童大明神」として、祀られている。

水とキウリを供えて「河童真言」を21回唱えるのが、正式流儀だそうで、ちなみに真言は「オン・カッパ・ヤ・ソワカ」だそうだ。

寺を出ようとして目につくのが、小屋の中の木彫物。

まさか河童ではあるまい、何だろうと寺に電話してみた。

かっぱ橋本通り商店街が東京芸大に頼んで制作してもらった河童のうちの1体だそうで、いかにも芸大の学生が造りそうな河童だと妙に納得。

*松が谷寺町には、このほかにも寺があって、ブログに纏めはしたのですが、私の不注意で消去してしまいました。そのため寺町シリーズ「台東区松が谷」編は、これをもって終了とさせていただきます。


134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(5)

2018-04-05 08:50:05 | 寺院

10 曹洞宗・松源寺(松が谷2-13-3)

松源寺には、鷹見泉石の墓がある。

鷹見泉石と言われてもピンとこない人も、下の絵には見覚えがあるだろう。

渡辺崋山画の国宝「鷹見泉石」。

古河藩家老として政治家の手腕をふるいながら、蘭学、露語、天文学、測量術を修め、杉田玄白、大槻玄沢、司馬江漢、高島秋帆、川路聖謨などと交わった。

11浄土宗・正定寺(松が谷2-1-2)

墓地に鏝(こて)絵など漆喰細工で名を成した入江長八の墓がある。

手前が入江家先祖の墓、右に入江長八の墓

別名・伊豆長八というのは、伊豆の出身だから。

二十歳の時、江戸に出て、絵画と彫刻を学び、漆喰壁に模様を描いた漆喰細工を彩色するなどして、芸術品に仕上げた。

31歳の時、故郷松崎の浄感寺の天井に描いた鏝絵「八方にらみの龍」は傑作と言われている。

 墓地には、江戸末期の剣豪、島田虎之介の墓もあるが、今更剣客でもあるまい。

墓の写真は載せておくが、人物紹介はカット。

12 矢先稲荷神社(松が谷2-14)

三代将軍家光が、寛永19年(1642)に創建した浅草三十三間堂の守護神として勧請された稲荷大明神の場所が丁度的の先だったので「矢先稲荷」と呼ばれるようになった。

拝殿の格天井には、「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されて、馬にまつわる歴史が一目瞭然。

三十三間堂での弓の稽古は、堂の長さを射通す「通矢」だったが、これはかなり難しい武芸で、正保3年1646)から元禄10年(1698)の52年間で成功者わずかに10人だったという。

元禄11年(1699)の大火で焼失、深川の富岡八幡宮隣に再建された。

浅草三十三間堂跡地には、寛永寺東側の寺院が集団で移転してきた。

≪つづく≫