⑨作原栃久保庚申塔群(190基)
県道201号線もどん詰まりになる手前、栃久保の道路左側の小高い岩山一帯に庚申塔が群立している。
昔は道の右側にも100基ほどあったのだが、昭和47年、道路改修の際、現在地に一括した。
庚申塔群中央の石碑にその経緯が記録されている。
庚申塔合祀記念碑
「この庚申塔塚は寛延元年の創立にて当時の部落住民の信仰者が石に庚申塔の文字を刻み、百個を作り上と下の二ケ所に安置したのが百庚申の起因と云う。後ち寛政、万延年間にて同所に多数の塔が建てられ、大正九年庚申歳にも真如院住職の松本尊澄邦の揮毫による庚申塔を栃久保松葉講中にて建てた。この庚申塔塚をでは庚申様と呼んでいる。
豊穣の作神として信仰し、往時より秋の農作物の取り入れ後、吉日を選び、この塚の清掃を行い、収穫した品々を供え五穀豊穣の御礼とまた来る年の豊作を祈願のお祭りをするのが慣例となっている。
昭和四十七年度施行の県道改修工事のため下の庚申塚は道路用地となった為の人達が同年十一月二十三日現在の上の庚申塚内に移転安置した。之を記念するため之を建てる。
昭和四十八年七月吉日栃久保松葉建之」
他所に比べ、比較的保存状態が良くて、倒れずに立ったままのものが多い。
庚申年である大正9年と昭和55年の庚申塔がある。
大正9年の庚申塔 昭和55年の庚申塔
庚申信仰が、今もこの地には生きている証左といえようか。
⑩岩鼻庚申塔群(63基)
県道201号線沿いでは、最奥に位置するのが岩鼻庚申塔群。
道路の端からそそり立つ岩山の麓から上に散在している。
町史には63基と記載されているが、実際には20基が精々。
山頂まで上ったわけではないので、不確かな断定だが。
「一万庚申供養塔」がある。
珍しい。
初めて見た。
造立者は松島儀佐衛門。
同一人物による「千庚申塔」もあると町史にはあるが、見当たらない。
もしかすると下の写真の庚申塔だろうか。
「千」ではなく、「十」にしか私には見えないが。
しかし、「十庚申」はあるのだろうか。
「千庚申」と「万庚申」、町史執筆者は次のように推理する。
かけた願がかなったのでお礼に「千庚申」を造立し、さらにかけた大願が20年後に成就したので、感謝の気持ちを込めて「一万庚申供養塔」を建てたのではないか、と。
「千庚申」、「万庚申」などの数庚申の新しい解釈が、ここには展開されている。
路傍(佐野市作原)
県道を市街地へ戻る。
路傍に数体の石造物が見える。
車を止めてカメラを取り出す。
降りだした雨で碑面が濡れて字が読みにくいのだが、なんと「千五百庚申」が2基もある。
数を増せばご利益が増えるだろう、そう期待するのなら、「二千」にしたり、「三千」にしたりはするだろうが、「千五百」と彫るだろうか。
数が中途半端な感じがする。
しかし、千五百基の庚申塔を参拝して来た記念としての「千五百」は十分にありうるように思える。
数庚申は参拝した基数説が、ますます有力になってくる。
⑪片峰庚申塔群(61基)
県道201号線を引き返し、桐生田沼線に入る。
山形字片峰、道路から3,400メートル北へ入った林の中に庚申塔群がある。
道路のすぐそばだと言うのに「熊が出没」の注意書き。
庚申塔群は、コンクリートの細長い土台に整然と植え込まれている。
16の庚申塔群の中で最もきちんと保存されていて、これなら散逸する恐れはない。
庚申塔群前面に石碑。
地元の青木伸氏の奉仕工事で完成したものと書かれている。
平成十八年造立の庚申塔がある。
保存工事をしたのが平成18年。
工事完成に合わせて青木氏が寄進したものではなかろうか。
⑫庚申山庚申塔群(1244基)
なんと名前が庚申山なのだ。
庚申塚は知っているが、庚申山は初めて。
麓から250mの頂上まで、絶え間なく庚申塔が「ある」。
その数1244基。
立っているのはまれで、大半は、横たわり、逆さまになり、裏返しになり、埋もれ、転がり落ち無残な姿を晒している。
庚申の文字が逆さまになっている
その大半は「庚申」と刻んだ川原石。
20ー30㎝程の滑らかで平べったい小石で、「庚申塔」というよりは「庚申石」と呼んだ方が似つかわしい。
頂上に近づくにつれ、傾斜は急になり、木の枝に掴まってからだを持ち上げないと登れないようになる。
山頂付近には、川原石ではない、きちんとした文字塔や像塔が多い。
庚申山山頂の庚申塔群
佐野市の隣、足利市の『足利の庚申塔』では、足利市内の庚申塔はその94%が山間部にあるという事実を踏まえて、これは庚申さまが山神さまと結びついたからではないかと推理しています。
山のある地域では山神さまの信仰は篤く、春に里に下りてきて秋に山に帰るまでの間は「作神・田の神」として信仰されるのですが、これが庚申さまと結びついたため、庚申塔の造立が増えたのではないか、というのです。
その一例として挙げられているのは、足利市の三和湯の沢にある青面金剛像の願文。
「奉修庚申供息所」と刻されている。
これは庚申さまが山神さまと同様に山から下る際、或いは、山へ帰る折に休憩する場を村人が提供していたことを意味しているのではないかと執筆者は読む。
しかし、この山神さまのイメージはあくまでも山の麓であって、山の上ではない。
では、庚申山山頂の庚申塔はどう解釈すべきだろうか。
愛宕山庚申塔群の場合は、頂上に愛宕神社がある。
鏡岩庚申塔群の場合は、鏡岩という神として崇められる岩があった。
だが、庚申山の頂上にはそうした依るべきものは何もない。
なぜ、お百姓さんたちは、こぞって庚申「石」を山に運び込んだのか。
『足利の庚申塔』の執筆者に電話で訊いてみた。
結論から言うと「分からない」。
庚申塔だけではないが、昔のことは分かっていることより、分からないことの方が多い、ということだけは分かっているのです。
庚申山では、「二千庚申」と「五千庚申」が見つかった。
二千庚申 五千庚申塔
町史では、「三千」「四千」「六千」もあると書いてあるのだが、見つけられなかった。
他に線彫り青面金剛像も。
線彫りなので像が分かりにくいが、日月をいただき、右の3手で斧、宝剣、矢を、左手に宝輪、弓、ショケラを持って、邪鬼を足で押えている。
「奉造立一百体」と彫られている。
町史は、普通の庚申塔百基分の労力を要したものと解釈している。
⑬栗木内庚申塔群(160基)
庚申塔群だからといって、一目でその場所が分かる所は少ない。
栗木内庚申塔群も分からず、農作業をしている人に訊いた。
作業をやめてわざわざご丁寧にも入り口まで案内してくれたが、その途中の話では、年に1回、集落の人たちが酒肴を持ち寄って祭をするほかは庚申待ちなどはしないとのこと。
集落の人たちが刈り込んだのだろう、道のような空間が山頂へと伸びている。
入り口から50mくらいの灌木地帯には比較的大きな自然石庚申塔ばかり。
埋もれて文字が見えないものも多い。
千庚申もある。
灌木地帯を過ぎると杉林。
とたんに小さな石ばかりになって、列をなしている。
杉林の中に祠。
弘法大師が座している。
周りには猿田彦大神が5基立っていた。
町史によれば、造立者名のあるものは160基中12基。
全部、地元の人たちだという。
路傍の千庚申
次の目的地⑬大塚神社へと向かう。
道中、路傍に庚申塔があれば、車を止めて写真を撮る。
なんとなく立ち止った3か所夫々に数庚申があった。
寺山墓地入口 百庚申供養
上宿 千庚申が2基
彦間神社の千庚申
⑭須花庚申塔群(206基)
66号線から足利街道に入る。
峠越えをして足利へ抜ける道である。
足利街道に入るとすぐ「須花」というバス停がある。
バス停の先、右前方の山の杉林でない、日当たりのいい丘全体に庚申塔が散在している。
上り口に数基の庚申塔。
中に田沼地区で最も古い寛文5年(1665)の板碑型庚申塔がある。
寛文5年(1665)の庚申塔 約3mの巨石庚申塔
その右後方には約3mの巨岩庚申塔。
庚申塔の右側面に「大網出現石」と彫られている。
他所から持ち込んだものではなく、この村の石だということが自慢のようだ。。
蛇行しながら頂上へ伸びる道には、庚申塔がきちんと並んでいる。
千庚申もある。
見慣れない文字碑。
調べてみたら、篆書に金文が混じった「青面金剛」と判明。
学のある人物がいたようだ。
驚いたのが平成5年造立の庚申塔。
庚申信仰は、まだまだ健在なのです。
⑮大塚神社庚申塔群(191基)
下の写真の石段が神社への参道。
荒れ放題で、全体の印象は、極めて「無残」。
意識的に散らかしてもこんなに酷い状態は作り出せないだろう。
「百庚申」や「千庚申」がごろごろ転がっている。
寄進した者たちの祈りは叶えられたのだろうか。
素朴で熱烈な祈りの心が、こうした惨状のまま放置されてしまうのが、石造物の短所かもしれない。
神道思想に基づく庚申塔もある。
「庚申」の下に「道者大日霊貴道也」「教者猿田彦大神」の二神名が刻まれている。
この大塚神社庚申塔群の大半は、嘉永2年造立のものだが、その理由については分からないのだという。
⑯寺沢薬師堂庚申塔群(23基)
旧田沼町の中でもどんづまりの飛駒地区。
もうすぐ先は桐生市という場所に寺沢薬師堂はある。
堂は見捨てられたようにポツンと佇んでいる。
雨戸が一枚外れたまま、風に吹かれてゆらゆら揺れていた。
石仏や庚申塔は堂前に廃棄されたように横たわっている。
庚申塔は23基あるはずだが、5基あるかどうか。
それでも「百庚申」や「千庚申」がある。
これで、佐野市田沼地区(旧田沼町)の16カ所の庚申塔群をめぐり終えたことになる。
どこの場でも、とにかくその数の多さに圧倒された。
江戸時代後半、この辺りは熱狂的庚申信仰の只中にあったと思われる。
願い事は、二世安楽であり、商売繁盛であり、五穀豊穣であり、種々様々であった。
素材は川原石。
庚申塔というには余りにも小さく、お粗末なものばかりである。
でもそれだからこそ、逆に、庶民の切なる祈りがひしひしと感じられる気がするのです。
ひとつ気になるのは、保存に向けて公共の手が及んでないこと。
全部は無理にしても、せめて「庚申山庚申塔群」の保存くらいは、市が進めてほしい。
その前に市指定文化財の認定が必要になるのだが。
身近にありすぎて、その貴重さに気付かないのだろうか。
いや、庚申塔群の場所を尋ねても地元の人の大半が知らなかったことを思うと、こうした文化財の存在が周知されていないというのが実情のようだ。
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