「セーブオン佐倉本町店」は、コンビニ。
コンビニの角で分岐する道を右へ進み、コンビニの背後を回って再び成田街道(296号)と合流する。
合流地点は、もう酒々井町内で、合流すると今度は分かれ道の左が旧成田街道になる。(296号線は右へ進み、まもなく51号線と交差する)
左、旧成田街道 右、国道296号線、
分岐して約1キロ、再び296号線と合流するのだが、その1つ手前の信号を左折、本佐倉城址へと進む。
右手に、地蔵と庚申塔の石仏群がある。
隣には、双体道祖神が肩を寄せ合っている。
下は、この根古谷石仏群から見た本佐倉城址。
中世戦国期、下総を統べた千葉氏の城がここにあった。
やみくもに城山へ入ってゆく。(2014年5月の写真)
手入れされないままの樹木や竹林で城址は惨たる有様。
注連縄を張った一画に、双体道祖神の写真が掲げられ、「現在、この双体道祖神は行方不明です」の注意書き。
ここなら、人目につくことは、まず、100%ないだろう。
石仏泥棒もしたたかです。
再び旧街道に戻り、R296と合流、すぐさま、分かれて左へ進む。
左からの旧街道は、R296に合流して左折、次の信号(ブルーの道路標識の右下に信号が小さく見える)を左折する。
旧成田街道と国道296号との、離れてはくっついて、の繰り返しはここで終わり。
296号の代わりに国道51号が、ここから並行して走り、合流しを繰り返します。
程なく右手に八坂神社が見えてくる。
狛犬が見えない。
狛犬がいない神社は珍しいのではないだろうか。
八坂神社のあたりは、かつての酒々井宿の中心地。
『成田参詣記』の「酒々井駅の図」の中央は八坂神社、その隣は中屋という旅籠屋で、なかなかの賑わいを見せているが、今はその面影は、どこにもない。
八坂神社前から見た東方向の風景
八坂神社の脇道を入ってゆくと東光寺に出る。
いかにも寛文期の石仏らしい、大らかな大日如来と彫のいい青面金剛庚申塔がおわす。
大日如来(寛文13年・1673)
庚申塔(正徳元年・1711)
いずれも酒々井町の指定文化財です。
八坂神社に戻り、旧街道を東進する。
酒々井宿の痕跡はないと書いたが、1か所、生き残っている。
町の登録有形文化財である島田家住宅。
島田家は、江戸時代、幕府の野馬御用を務めた家で、広い敷地には、野馬を管理する施設がいくつもあったことが、明治27年の絵図に描かれています。
日本の地名の中でも「酒々井(しすい)」は、格別に素敵で、私は好きだ。
何か酒にゆかりがあるのでは、と誰もが思うに違いない。
まさにその通りで、地名の由来となった「酒の井」がある。
旧街道から50メートルの空き地に「伝説酒の井」の看板がある。
井戸があり、水が湧き出している。
井戸の傍らには、青いボタンがあって、「酒の井の音声案内をします」の表示。
「しゃれたことをするんだな」と思いながら、ボタンを押す。
女性の声で、ナレーションが流れる。
今は昔、この地に孝行息子が住んでいた。家は貧しく父母は年老いていたが息子は良く両親に尽くしていた。その父親は酒好きであったので、息子は毎日働いて銭を稼いでは父親に酒を買って帰っていた。息子は父親の満足そうでうれしそうな顔を見るのが一番の楽しみだった。だが酒を買う銭を稼ぐのは苦労なことだった。
この地には古い井戸があった。その日、息子は酒を買う銭がつくれず、このまま帰れば父親の楽しみを無くしてしまう、こんな親不孝はない、どうしようかと思案しながら家路を歩いていた。そのとき、あの井戸から酒の香りが「ぷうん」としてきた。息子は不思議に思いながら井戸の水を汲んでなめてみると、それは上質の酒だった。息子は喜び、急ぎ家に帰って父親に飲ませた。これより先、息子は無理に銭をつくらなくても、井戸から酒を汲んで飲ませるようになったという。この話しが近隣に広まると「孝行息子の真心が天に通じたに違いない」ということになった。後にこの井戸を「酒の井」と呼び、村も「酒々井」と呼ぶようになったという。
酒の井隣に墓域がある。
近寄ってみたら、墓標のほかに十七夜塔が1基、十九夜塔が4基あった。
十七夜塔(文政8年・1825)
十九夜塔群
「酒の井」を後に、麻賀多神社を過ぎ、坂を下って、信号の下で迷っている。
どうやら、左に京成酒々井駅、右にJR酒々井駅、その中間地点にいるようだ。
手には、酒々井町HP「酒々井町の街道と道しるべ」のプリントアウトを持って、そこに記載された地図を見せながら、道行く人に「成田・岩名道蜀山人道標」のありかを訊くのだが、「わからない」、「知らない」という人ばかり。
不動産屋に飛び込んで、やっとわかったのだが、女子店員は、そこが旧成田街道であることは知らないようだった。
ちなみに、道を尋ねるときに見せた地図は、これ。
通りがかりの人たちに訊いたのは、地図の下部、三差路の地点。
今、改めて見ると地元の人間ならすぐ判りそうなのに。
不動産屋で教えられた道を行く。
行き止まりの三叉路に二本の石柱が立っている。
左の背の低い石柱には「ニ王ミち」とある。
これが、持参資料の「成田・岩名道蜀山人道標」。
銘は、蜀山人こと太田南畝の筆になるもの。
なぜ「ニ王ミち」かは、右隣の道標で判る。
背面に「此方内郷道」と刻されているが、内郷道は岩名道とも呼ばれ、佐倉市の岩名仁王尊への参詣路だったと 酒々井教委は解説しています。
岩名仁王尊(佐倉市岩名)
道標の前には小堂があって、地蔵石仏が並んでいる。
人通りの多い街道にわざわざ建てられたものに違いない。
次回更新日は、1月31日です。