石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

71 六地蔵考

2014-01-16 07:31:59 | 地蔵菩薩

石仏めぐりを始めてから日が浅いので、レパートリーが狭く、月2回の更新に四苦八苦している。

自堕落な正月を過ごしてぼんやりしていたら、10日になった。

更新まで、あと5日しかない。

正月だから七福神めぐりでもと思うが、谷中、浅草、隅田川、深川、目黒、小石川、品川、銀座、柴又、板橋、伊興、川越と都内と近郷の七福神は回っている。

居間に掲げてある板橋と浅草七福神の御朱印色紙

回ったことのないコースはまだいくらでもあるが、1か所回ってそれを書いてもあまりパッとしたものにはならない気がする。

どうも気乗りがしない。

では、どうするか。

時間的制約を考えると「ありもの」で処理するしかなさそうだ。

手持ちの写真フアイルから材料を探すことにした。

選んだ素材は、六地蔵。

「六地蔵考」とタイトルをつけたが、「考」えるほどの知識と能力はないので、「六地蔵いろいろ」とでもすべきか。

 

六地蔵といっても、各街道の、江戸の出入り口に在す「江戸の六地蔵」ではない。

墓地の入口に並ぶ六地蔵です。

                 円融寺(目黒区)

六地蔵の六は、六道の六。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を意味します。

地蔵菩薩は、釈迦の没後、弥勒菩薩が出現するまでの56億7000万年の無仏の世界にあって、六道輪廻に苦しむ衆生を救済する能化といわれます。

地蔵の分身は常に六道の衢(ちまた)にあって、終日衆生と交わり、仏縁のない衆生でも救済する仏だけに、寺院の本堂の奥に座すること少なく、野仏として人々の目に触れることが多い仏でもあります。

「このような石仏はありますか」と尋ねるより「お地蔵さんはありますか」と尋ねたほうがいいくらい人々に親しまれた仏ですが、地蔵は地蔵でも、六地蔵となると話は別、途端に縁遠くなってしまいます。

この傾向は石仏愛好家でも同じ。

季刊『日本の石仏』でも地蔵をテーマの寄稿は多いが、六地蔵はほぼ皆無、無視された状態です。

みんなが無視するものに執着するのが、私の性癖。

六地蔵は、恰好なテーマということになります。

前口上はこれくらいにして、本題へ。

 

六地蔵と聞いて、まず思い出すのは、源心寺(市原市)の六地蔵。

             源心寺(市原市)

門を入ると左手の巨大な六地蔵が目を引く。

光背型の座像だが、それでも高さ2.5m。

伏し目がちにゆったりと坐すお姿は神々しいばかりです。

造立年は万治年間と推測されていて、向かって右から2番目には「逆修」の文字。

開基者の娘が自分のために建てたものと見られています。

大きいといえば、地蔵院(越谷市)の六地蔵もなかなかのもの。

山門から本堂へ向かう途中の、六角地蔵堂に六地蔵はおわします。

 地蔵院(越谷市)の六角地蔵堂

施錠されていて格子の間から覗くだけですが、見上げる大きさ。

狭いお堂にまるで罰ゲームのように、お地蔵さんが肩を接していらっしゃいます。

丸々とした体躯は、これで筋肉質ならば、仏というよりもプロレスラーでしょう。

源心寺と地蔵院二つの事例を見ました。

実はこの2例、六地蔵としては、例外に属する石仏なのです。

規格外れの大きさは、勿論、例外的なのですが、源心寺の場合は座像であること、地蔵院のは堂内に施錠されていること、が珍しい。

大半は立像で、墓地の入口に並んでいるのが普通です。

         称禅寺(みどり市)

上のスタイルが最も普遍的な丸彫り立像。

下は大型の光背型浮彫り立像。

              真栄寺(我孫子市) 

中央に阿弥陀如来。

制作年は宝永年間(1704-1711)です。

同じく大型ですが、下は角柱型浮彫り立像。

       慈恩寺(本庄市)

 

頭部の円光背も2種類がある。

      法泉寺(墨田区)  

 

           大秀寺(葛飾区)

ここで冒頭に戻って、座像六地蔵について。

地蔵尊の調査に没頭すること40年、3800基余りのお地蔵さんを調べつくした故三吉朋十さんはその著書『武蔵野の地蔵尊』の中で、次のように書いている。

          多聞寺(墨田区)の座姿六観音

「多聞寺(墨田区墨田)では、墓地内に南面して丸彫り、座姿の六態地蔵を安置する。けだし、座姿六体が揃っての石彫地蔵の例は希少である。石彫りの地蔵は数において立姿がその大半を占め、ついで座姿のものは大概独尊であるが、都内での座姿六地蔵は当寺の他に、練馬区の三宝寺、千代田区の心法寺、荒川区の南泉寺など数か寺にある。このほか埼玉県児玉郡に4か寺、北葛飾郡松伏に一組ある」。

要するに、座像六観音は極めて珍しいというのです。

 心法寺(千代田区)は区内唯一の寺 

 

         南泉寺(荒川区)

三吉氏の指摘以外では、実相院(世田谷区)にもあるが、像が新しい。

             実相院(世田谷区)

『武蔵野の地蔵尊 都内編』は1975年刊行だから、その後に造られたものと思われる。

私の写真フアイルには、この他、群馬県、長野県、富山県の座姿六地蔵があるので載せておく。

         林昌寺(中之条市)

            路傍(松本市)

  万福寺(砺波市) 六地蔵の両側は不動明王

 

非常に多い立像六地蔵と希少な座像六地蔵を見てきたが、この立姿、座姿は儀軌に書かれているわけではありません。

どの仏像にも、あるべき像容を記したお手本(儀軌)がありますが、六地蔵にはないらしいのです。

「六地蔵の名称や形像には、教義的な背景は存在しない」(速水侑『地蔵信仰の展開』)のは、六地蔵に関する経典が、中国伝来のものではなく、日本で作られたものだから、と考えられています。

と、いうことは、六地蔵を彫る石工は何の制約もなく、自由に彫刻できることを意味します。

その典型例は、浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵。

            浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵

寺の境内より、近代美術館にあるほうがふさわしい芸術品。

何の制約もなく自由に、とはいえ、これほど伸びやかな作品を発注し、受け入れた住職がいるなんて。

浄鏡寺ほど「飛んで」はいないものの、お地蔵さんのイメージを打ち破る六地蔵は他にもいくつかあります。

               愛染院(練馬区)

旧来のスタイルを保ちながらも、顔が面白い。

どこかモアイ像に似ていると思いませんか。

              西芳寺(杉並区)

六地蔵というよりは、羅漢といった方がよさそうな・・・

                  西光寺(匝瑳市)

これは、また、リアルな造形。

石工の隣近所、幼馴染をそのまま写したかのような、仏というより俗人そのものの六地蔵です。

お地蔵さんだから、幼児体型もある。

幼児の場合は、リアルさは影をひそめ、大胆なデフォルメ作品が目立つ。

                   地蔵院(印西市)

墓参者を笑顔で迎える六地蔵。

笑う地蔵とはすごい。

その発想に脱帽。

            西福寺(世田谷区)

六地蔵というよりは、かわいらしいオブジェとでもいおうか。

真ん中左の像は錫杖を持っている。

涎かけを外せば、それなりの持物を持ち、しかるべき所作をしているのかもしれない。

めくってみるべきだった。

後悔先に立たず。

ここで先ほどの浄鏡寺のシュールな六地蔵に戻ります。

よく見ると台石に文字。

「護讃地蔵」と書いてあります。

初めて接する地蔵名。

ネットで調べてみた。

六地蔵の内の一つの名称でした。

六地蔵それぞれに名前があるとは。

ちなみに、浄鏡寺の六地蔵の名前は、延命地蔵(地獄)、弁尼地蔵(餓鬼)、讃龍地蔵(畜生)、護讃地蔵(修羅)、破勝地蔵(人間)、不休息地蔵(天上)。

六地蔵の名前を初めて見た、と思ったのですが、写真フアイルをチェックすると、名前付きの六地蔵がありました。

不注意で恥ずかしい。

大正寺の六地蔵は、浄鏡寺のと同じ名称。

                 大正寺(調布市)

左から、讃龍、不休息、延命、破勝、弁尼、護讃と並んでいます。

写真フアイルには、他にも名前を表示した六地蔵がありました。

驚いたことになんと浄鏡寺や大正寺の六地蔵とは異なった名前だったのです。

    持地(修羅)   鶏亀(地獄)  法印(畜生) 宝性(人間) 陀羅尼(餓鬼)法性(天上) 

                                                              興禅寺(富士見市)

金剛願(天上) 金剛宝(人間) 金剛悲(修羅) 金剛幢(畜生) 放光王(餓鬼) 預天賀(地獄)

                                                                安龍寺(鴻巣市)

無二(餓鬼) 伏勝(天上) 諸龍(修羅) 禅林(地獄) 護讃(畜生) 伏息(人間) 

                                                         高倉寺(木更津市)       

なぜ、こんなに六地蔵の名前が違うのか。

中国からの経典ではなく、日本で発案されたことに原因がありそうです。

六地蔵が初めて記録されたのは、『今昔物語』(1110年頃)。

巻17の第23話の玉祖惟高(たまおやこれたか)の地蔵霊験譚でした。

「周防の国玉祖神社の宮司玉祖惟高は病におかされ、息絶えて冥途へ旅立った。冥途の広野で道に迷っていると6人の小僧が近づいてきた。6人のうち、一人は香炉を捧げ持ち、一人は掌を合わせ、一人は宝珠を、一人は錫杖を、一人は花筥を、一人は数珠を手に持っていた。
香炉を持ちたるひとの曰く『汝我らを知るや否や。我らは六地蔵尊なり。六趣衆生を救はんがため、六種の身を現ず。汝巫属といへども久しく我に帰するなり。これをもって汝を本土に帰らしむ。汝かならず我が像を作り恭敬をいたせ』。
間もなく惟高は息を吹き返し、蘇生した。彼は、お堂を建て、六人の小僧に似た地蔵を造立して供養した。」というストーリー。

六人の小僧の持物は記録されているが、名前はない。

総ての六地蔵の持物が共通なのは、この記録に拠るものです。

名前はない。

しかし、ないのは困るからつけよう。

各宗派がそれぞれの理屈をつけて名前をつけた。

六地蔵にいくつもの名前がある、これがその理由だと私は推測するのです。

 

六地蔵に名前があることが信じられないのは、丸彫りの六地蔵ばかりではないからです。

一石六地蔵も少なくありません。

一石だから六体揃っての一つの世界という感覚が強くなって、個々の独自性は希薄にならざるを得ない。

 

 来迎阿弥陀如来をいただく一石六地蔵  観音堂(野田市)

             宝泉寺(渋谷区)

        松光寺(港区) 

 一体ごとに戒名がつく一石六地蔵墓標 観音寺(野田市)                 

まして、フオルムの面白さを追求する最近の作品では、陀羅尼地蔵だ、金剛悲地蔵だなんて云うのは空しくなってしまう。

             真福寺(さいたま市)

丸彫り六地蔵よりも一石六地蔵のほうが、石彫作品として面白いものが多いようだ。

一石六地蔵があれば、二石六地蔵があり、三石六地蔵もある。

     円光院(練馬)の二石六地蔵(享保年間1716-1736)

  蓮華院(幸手市)の二石六地蔵(天保年間1830-1844

 大地主原島家跡(高山市)の三石六地蔵

いろんな人がいて、いろんな六地蔵がある。

世の中は、だから面白い。

 

一石六地蔵といえば、こんな「発見」がある。

「発見」したのは、私ではない。

『武蔵野の地蔵尊』の著者、故三吉朋十氏。

豊島区染井墓地近くの西福寺には、高さ1.6m、舟形光背に六地蔵を一列に浮き彫りにした石碑がある。

 

    西福寺(豊島区)

明暦元年(1655)の造立で施主は10人。

中央に「奉造立六地蔵尊容為二世安楽也」と刻されています。

広い碑面に小さい六地蔵を横に一列並べる手法は珍しい。

この珍しい手法の一石六地蔵が練馬区の金乗院にもあるのです。

 

    金乗院(練馬区)の一石六地蔵とそのアップ

六地蔵の配列は異なるが、像容は酷似しています。

造立年は明暦2年、だから西福寺の碑の1年後。

三吉氏は、同一石工の作品ではないかと推測します。

 

何気なく「明暦2年」と書いて、今、気付いたのは、これは今に残る江戸石仏のもっとも古い時代に属するということ。

なかなか明暦の石碑にお目にかかることはありません。

丸彫りにしろ、一石六地蔵にしろ、造立年を銘記するものはごく少数で、銘記してあっても読めなかったりするので、年代を特定できるのは限られています。

私の写真フアイルの中では、正覚寺(台東区)の六地蔵がもっとも古くて、慶安4年(1651)。

     正覚寺(台東区)の六地蔵のうちの一体

浅草寺の石幢六地蔵は、銘記はないものの、室町時代造立かと解説板にはあります。

 

 浅草寺(台東区)の石幢六地蔵と説明板

勿論、関西に行けば、古い石造物はいくらでもある。

旅行中たまたま寄った西教寺(大津市)の六地蔵は、六体それぞれに年代が銘刻されていました。

     西教寺(大津市)

西教寺は、明智光秀の菩提寺。

琵琶湖を一望する墓地の入口に六地蔵はおわします。

 

詳しい説明板があったので、書き写しておく。

「この石仏の光背の左右にはすべて銘刻がある。六体とも天文十九庚戌六月廿四日とあり、室町時代後期にあたる天文十九年(1550)に造立されたことが分かる。一体ずつの銘文を列記すると『金剛願 三界万霊平等利益』、『放光王 道賢妙正叡三逆修』、『金剛幢 道林妙心宗春真叡逆修』、『金剛悲 覚玄妙秀西道家叡妙』、『金剛宝 当寺衆僧等逆修善根所』、『預天賀 ○恵上人廿三○忌』となる。是に拠れば、衆生の寧穏を願うもの、自己の逆修(生きているうちにあらかじめ仏事をおさめ死後の冥福を祈る)を成すものなど多くの信者によって造立されたことを示している」。

西教寺の場合は施主が異なる六地蔵だが、造立年が違い、40年かかって揃った六地蔵がある。

松林寺(杉並区)の六地蔵は墓標。

             松林寺(杉並区)

六体とも、施主と造立年が異なっています。

宝暦13年(1763)から享和3年(1803)まで、40年ものへだたりがある。

いかなる事情があったものか。

戒名には、男と女、男の子と女の子と性別、年齢の区別がない。

台座に「右五日市道、左府中裏道」と刻されているから、どこか分かれ道の角にでも立っていたのだろうか。

道標と墓標を兼ね、別々に造られた珍しい六地蔵ということになる。

珍しいといえば、線彫り六地蔵と文字六地蔵も付け加えておきたい。

   世尊院(台東区)の線彫り六地蔵

 

 常善院(足立区)「法印地蔵」と刻字されている

  石雲寺(甲府市)の「六道地蔵尊」 

六地蔵を主尊とする庚申塔もある。

蓮華院(板橋区) 日月、三猿はないが、「庚申」と刻字がある六地蔵

 

極めつけは光蔵寺(所沢市)の六地蔵。

何の変哲もなさそうだが、六体それぞれが、月待、日待、庚申待、念仏供養等各講により造立されている。

                  光蔵寺(所沢市)

 撮影時にはこの特殊性に気付かなかったので、刻字をアップでとらえてない。

再撮影に行きたいが、15日までには間に合いそうもない。

誠に残念。

なお、石幢六地蔵もフアイルには沢山あるが、選択の基準が判らないので、割愛した。

よだれかけもいろいろある。

別な機会に取り上げるつもりです。

 

このブログを仕上げ、アップした翌日、石仏めぐりで印西市へ。

道端に小さい石仏が並んでいる。

隣が野墓地だから、六地蔵だろう。

素朴で愛らしい。

六地蔵を書いたばかりなので、愛着がある。

つい、パチリ。

 

≪参考図書≫

○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊 都内編』昭和47年

○石川純一郎『地蔵の世界』1995年

○榊原勲「六地蔵は形相の自由が人気の秘密」(『日本の石仏』NO71 1994年)

○石井亜矢子『仏像図解新書』2010

○日本石仏協会『石仏地図手帳埼玉篇』昭和63年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


70 賀春!堀ノ内妙法寺の石造物

2014-01-01 13:58:25 | 寺院

新年おめでとうございます。

平成26年元旦の初詣は、杉並区堀ノ内の妙法寺へ。

午前9時45分、行列もなく、閑散としていました。

なぜ、陸の孤島、交通の便の悪い堀ノ内・妙法寺へ行ったのか。

理由は単純。

暮にバスの車内で寺の初詣広告を見たからです。

かつて東の浅草寺と肩を並べた賑わいはどうなっているのか、この目で確かめたかったからでもあります。

案の定、くらべものにならない少ない人出でした。

去年の初詣は、西新井大師、一昨年は浅草寺でした。

いずれも境内の石造物めぐりをブログにUPしました。(NO22浅草寺の石碑と石仏、NO46賀春!西新井大師の石造物)

今回もそのつもりですが、やや躊躇するのは、妙法寺が日蓮宗寺院であること。

一般的には、日蓮宗寺院には、石仏は少ないとされています。

歴史と伝統のある大寺妙法寺も例外ではありません。

その広い境内にお地蔵さんは1体もない。

墓地入り口にあるはずの六地蔵もありません。

  妙法寺墓地入り口

観音様は子育て観音が1体あるのみ。

それも平成になっての建立で、古いものではないのです。

庚申塔や馬頭観音なども当然見当たらない。

なぜ、ないのか、宗派の思想があるはずですが、語られることはないので、?が残るままです。

このブログのタイトルは「石仏散歩」。

石仏がないのに題材とするのには抵抗がありますが、石碑、石塔はあるので、題して「賀春!堀ノ内妙法寺の石造物」、暫時、お付き合いください。

 

環七を高円寺方向に向かって左、堀ノ内二丁目と三丁目の間を入る道が妙法寺参道。

下の地図では、「和田3」の下の道になります。

参道入り口右手の巨大な、真新しい髭題目塔が目を引きます。

その一角に立つ石碑は、題目道標。

正面に「南無妙法蓮華経」の七文字、右側面に「是より堀の内十八丁十間」と刻されています。

この道標は、10年前、ここに移されるまで鍋屋横丁にありました。

青梅街道を左に折れる道が妙法寺参道で、その分岐点が鍋屋横丁。

手前の道路が青梅街道。正面に伸びるのが、妙法寺参道。
道標は、左側手前から2番目のビルが建つ前、敷地の一角にあった。

鍋屋という茶屋があったからだといわれています。

石碑裏面の施主名の中に、確かに「鍋屋」の文字があります。

石碑めぐりの、これが愉しみでしょうか。

分岐点から2、300m、鍋横商店街の中にも道標がある。

享保3年(1718)建立だから、約300年前のものです。

鍋横商店街を過ぎての坂が和田十貫坂。

 

和田十貫坂の地蔵堂。鍵がかかっていて参拝できない。石仏写真は、格子にレンズを入れて撮影。

道に面して建つ地蔵堂には、お地蔵さんと青面金剛庚申塔がひっそりと在(おわ)す。

かろうじて残る江戸の名残です。

落語「堀の内」の主人公、粗忽者の亭主もこの道を通ったにちがいありません。(「堀の内」の内容は『落語あらすじ事典』http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/02/post_22.htmlで)

 江戸市内からだと妙法寺まで、往復で5-6里。

日帰りできない距離ではないが、大半の男は1泊2日の行程でした。

宿泊したのは、内藤新宿の遊里。

お祖師様と内藤新宿は、セットだったのです。

「お帰りはおそっさまだと女房云い」。

「おそっさま」は、「お祖師様」と「遅し」の掛詞。

お祖師様とは、妙法寺の別名。

妙法寺の本尊は、祖師・日蓮上人像だからです。

「遅くとも」その日に帰るのならまだしも、翌日とは何事ぞと、女房が角を立てるのも無理からぬことでした。

 

江戸から明治にかけて賑わった鍋横からの参道もやがて廃れます。

原因は、明治22年の中央線の開通。

中野駅からの参詣者が一挙に増大します。

中野駅から青梅街道に出て西へ。

和田3丁目で左折して、現在の蚕糸公園西側の道を通って妙法寺へ向かうルートが新しい参道でした。

地図では、鍋屋横丁や東高円寺駅があるのが、青梅街道。高円寺陸橋下から下に伸びるのが青梅街道から分岐した参道。

 進入禁止の道が参道。常夜灯の1基は写真右側ブルーの看板前にある。

しかし、青梅街道を左折する地点が判りにくく、目印のため建てられたのが、青銅製

の常夜灯でした。

地図では、高円寺陸橋下の文字の裏に常夜灯はあることになります。

この常夜灯は今でも健在ですが、目を向ける通行人は皆無。

忘れ去られた存在になっています。

杉並区の有形民俗文化財ですから、せめて説明文の看板くらいあってほしいものです。

 

回り道をして、やっと妙法寺へ。

門前町の匂いがあるような、ないような微妙な感じの商店街を抜けると右手に寺が見えてきます。

石造物の写真を撮りに行った師走の23日は縁日で、露店が並んでいました。

並べられた商品は古色蒼然、魅力に欠けて、これでは若者は振り向きもしないでしょう。

道路沿いの玉垣には、講名がいくつも見られます。

 

玉垣だけでなく、境内のあちこちに講の名前がありますが、これは寺院の運営に題目講が重要な役割を果たしてきた証左でもあります。

講の役割は、年中行事への参加、講金の拠出、労務提供の3点。

檀家を持たない祈祷寺である妙法寺は、こうした講の支援、協力なくしては存続不可能でした。

        堀之内妙法寺恵方参之図(豊国、豊重 文化初年頃)

最盛時には107もの講を数えましたが、江戸市中の町名のついた講中が大半でした。

祖師堂の棟札には、7つの講グループ名が書かれているといわれています。

そのうちの二つは「不易千部講中」と「不易月参講中」。

 江戸名所 堀の内妙法寺境内(広重 安政3年)

「不易」とは、「いつまでも変わらず」の意。

寺の願望が込められています。

いかに寺の経営が不安定だったかが判ります。

 

玉垣の内側、道路に面して4基の髭題目塔と自然石題目碑がある。

 道路から見て左から2番目の題目塔は、享保7年(1722)建立で、妙法寺の石造物で最も古い。

一番右端は、「妙法寺道」と刻されているから、道標。

別の場所にあったものをここに移したものか。

入り口際の自然石題目碑には「関東大震災ニ付玉垣倒壊其為之ヲ再建ス」とある。

地震の大きさが伺える記述です。

この自然石題目碑を右にまっすぐ進むと仁王門。

仁王門へ入らずに手前を右に回ると2基の燈籠がある。

ゆったりと高く、見事な燈籠です。

寄進した江戸の鳶組と鳶頭の氏名がびっしりと刻されています。

その隣には、これも見事な狛犬一対。

見事なのもむべなるかな、これは江戸三大石工酒井八右衛門の作品。

面白いのは作り手である八右衛文が寄進者であること。

台座に「予家世営石匠・・・」と刻されていることから、判ります。

奉納は大正13年ですから、4代目制作ということになるのでしょうか。

 

仁王門をくぐると正面に祖師堂。

妙法寺最大の建造物で、本堂より大きい。

祀られているのは、祖師、つまり日蓮上人像。

そしてこの祖師信仰は、厄除け信仰でもあるのですが、それは日蓮の蒙った法難と深い関係があります。

日蓮の生涯で大難は4度あった。

松葉谷法難、伊豆法難、小松原法難、そして滝口法難の4回。

いずれも日蓮の霊性を示す事例として語られます。

文応2年(1261)、日蓮は幕府に捕えられ、伊豆に流されます。

伊豆法難の始まりです。

弟子の日朗は、日夜、由比ヶ浜で赦免の祈祷を行った。

浜に流れ着いた木で祖師像を彫り、日蓮に仕えるがごとく祈念していた。

2年後、赦免され戻ってきた日蓮は、この像を見て感悦し次のように言った。

「我が魂魄この像にうつれり。此の像の利益無窮ならん。我年既に四十二(厄年)なり。今より此の像を厄除けと名つけ、末代の衆生の求願を成就セしめん」。

 江戸名所 堀の内妙法寺祖師堂(広重 弘化4年ー嘉永5年)

祖師堂に祀られている木像は、まさにこの日朗が彫刻し、日蓮の魂魄が乗り移ったた日蓮像なのです。

4度の大難を法華経信仰で克服した日蓮の霊力は祖師信仰を深めるのですが、伊豆法難は彼の厄年に当たっていたこともあり、祖師信仰が厄除け信仰と合体し、江戸市民に「厄除けお祖師様」の大きなブームを巻き起こすことになります。

広い境内を見渡しても、石造物は見当たりません。

祖師堂前の手水鉢は佳品ですが、青銅製。

寄進者は常磐津のお師匠さん。

文政2年(1819)のことですが、今では想像もできないほど常磐津が流行っていたことが判ります。

祖師堂に向かって左の隅に捨てられたようにあるのが、これもまた、手水鉢。

祖師堂前唯一の石造物です。

奉納は明和9年(1773)。

祖師堂前の青銅手水鉢は文政2(1819)だから、45年間は、使用されていたことになる。

 

祖師堂から本堂へ。

妙法寺の特徴の一つは、すべての建物が渡り廊下でつながっていること。

写真の左が祖師堂で正面横切る渡り廊下の向こうに本堂がある。

撮影は12月27日。

本堂にはもう謹賀新年の 横断幕がかかっていた。

本堂への渡り廊下の下をくぐると広い空地が広がっている。

祖師堂の裏なので、裏庭とも大庭とも呼ばれている場所。

石碑、石塔、燈籠、層塔などが脈絡なく雑然と在(おわ)します。

置き場所に困る石造物はとにかくここに置こう、とでもいうような、投げやりな感じがしないでもありません。

せめて個々の石造物の説明でもあれば、そうした感じはなくなるでしょうが。

この裏庭を祖師堂の方から緩やかな勾配を上ってゆくことに。

まず目に入るのが、2基の題目塔。

 

特に台石に「三日講」、「千部講」と大書する石塔はすごい。

なにしろ四面四段にわたって講中の名前がびっしり刻されています。

一面100人として約400人。

彫りも彫ったり、感動的です。

 

「幼より重なる大難も遁れ
 いままで乃五十あまり九つの
 としにいたり子孫栄ゆ
 不足なく暮せしは遍に
 高祖の御利益のちから為・・・」

資料の分類では歌碑となっているが・・・

施主は、芸名綾瀬太夫の妻。

いくら寄進するとこうした個人的な碑を建てられるのだろうか。

それとも、日蓮上人の御利益を謳い上げる内容だからOKなのか。

 句碑

「稲妻や くだけて走る 最上川」 瓢牛

なぜ、最上川の俳句がここにあるのか、見当もつきません。

こうして一々取り上げていたのでは、キリがないのでめぼしいものだけに絞ろう。

圧巻は、裏庭中央の五重塔。

石橋を渡ると石段。

石柱に囲まれて五重塔がおわす。

エッジの効いた造形がシャープに冬空をえぐっています。

背面に上総屋次助美啓と石工の名がある。

珍しいのは、建て方の名前があること。

身分制度の世の中ではあるが、卓越した技能には賛辞を惜しまない風土があったことが判ります。

 

読めないから取り上げるのには躊躇するものがあるが、全文漢文の碑がある。

「修首題塔銘」。

500年遠忌に当たり報恩を修めるため首題を唱えこの塔を建てる、の意らしい。

発起人に松平、佐竹、上杉家などの大名家と40にも及ぶ講名が刻されている。

1基にこれほど多数の講中があるものは、他にない。

天明元年(1781)造立だが、当時は一大イベントだったのではないか。

珍品といえば、キリシタン燈籠か。

御成の間の庭園にある織部燈籠は氏素性が確かなものらしいが、裏庭のものは2基とも不確か。

 日蔭で見にくいが枯れ木の右下にあるのが、キリシタン燈籠。

 裏庭の2基のうちの1基

「のようなもの」かもしれない。

裏庭を抜けると、そこに子育て観音像。

 

境内に2体しかない石仏の一つ。

建立は平成になってから。

石仏を意図的に排除してきた筈なのに、なぜ、子育観音は造立するのか。

理由を聞きたいものだ。

裏庭に接して、墓標がポツンと一つ。

作家、有吉佐和子の墓。

近所に住んでいて、近道として境内をよぎっていたのだとか。

思いがけない場所に思いがけない有名人の墓があって、ちょっと驚く。

妙法寺には、かなり広い墓地があるが、不思議なことに有名人の墓はない。

歴史と伝統のある大寺にしては珍しい。

江戸時代、堀ノ内はど田舎だったからだろうか。

 

有吉佐和子の墓の道路の反対側のお堂は、日朝堂。

身延山十三世法主日朝上人像が祀られています。

日朝上人は学問に勤しみすぎて目を悪くし、法華経の法師功徳品第十九を読誦し、祈願することで治したといわれています。

だから日朝堂で祈願し、法華経を唱えれば眼病が治るというのは、信仰心としてあってもおかしくない。

しかし、目を悪くするほど勉学した人だから、その人を拝めば勉強ができるようになる、受験に合格するというのは、いかがなものか。

人一倍努力して、の前提条件がスッポリと抜け落ちている。

合格祈願は商売として不可欠だろうが、スジの通らないことは止めたほうがいい。

日朝上人も賛同するのではなかろうか。

 

日朝堂への渡り廊下を横切って、隣の二十三夜堂へ。

タイムスリップしたかのように、雰囲気ががらっと変わる。

民間信仰の月待ち信仰である二十三夜待ちが、寺にあることは意外なことです。

民間信仰では勢至菩薩が主尊ですが、ここでは、「大月天子」。

祈願をすれば、財運と縁結びにご利益ありというのも風変りです。

お堂は白っぽい砂岩で覆われていますが、これは房州石。

明治期に大量に出回ったけれど、砂岩のため崩れやすく大谷石の出現で一挙に姿を消しました。

この堂の建設は明治11年、ちょうど房州石の最盛期だった頃です。

「今もこうして房州石が残るのは深川の三囲神社とここくらい」とは、私が受講するカルチャーセンターの講師で、日本石仏協会常任理事の小松光衛さん。

小松さんは、石の専門家。

まったく偶然なことですが、12月の野外講座は、妙法寺でした。

 

石造物ではないのですが、国の重文に指定されているので寄り道をしたのは、鉄門。

設計者はイギリス人のコンドル。

鹿鳴館、海軍省、岩崎邸など明治の名建築の設計者で日本近代建築学の祖師です。

この場所には長屋門があったのですが、当時の山主が西洋文化を取り入れたいと主張し、コンドル博士に依頼したというわけ。

洋風のアカンサス模様のなかに宗紋の井桁に橋、と菊の紋が並び、扉の中央上部にはカラフルな鳳凰がいます。

左右門柱には「花飛浄界香成雨」と「金布祇園福有田」の漢詩。

 

その下に唐獅子と牡丹を配す和洋折衷門。

頭の中は江戸時代のままの明治の人たちには、衝撃的な建築物だったに違いありません。

 

寺の正面入り口に立つ街灯石柱も和洋折衷です。

電燈がつく金属製の火袋が洋風。

石柱は和風です。

石柱に大きく「献燈當山出入中」とあり、裏に20近くの出入り商人、職人の名前が刻されています。

植木屋、経師屋、菓子屋、酒屋、石工、薪炭商、豆腐屋、判子屋、八百屋、桶屋・・・

今はない対の片方にも同じ数が刻されていたはずですから、計40の職種があったことになります。

「鉄門に刺激された職人たちが造ったものではないか」

小松さんは、こう推測します。

「そうだったら面白いなあ」。

私も賛同の意を表ずるのです。

 

本年もどうぞよろしく。

「石仏散歩」、御贔屓ください。

 

参考図書とウエブサイト

○杉並郷土史会『杉並郷土史会史報』

○森泰樹『杉並風土記下』平成元年

○杉並区教委『霊宝開帳と妙法寺の文化財展』2000

○杉並区教委『妙法寺文化財総合調査』1996

○松林舎蔵『堀の内参詣生信記』明治18年

○堀の内妙法寺HP http://www.yakuyoke.or.jp/sitemap/index.html