石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-9-杉浦重剛称好塾旧跡(小石川4-2-1)ほか

2019-02-24 07:22:45 | 石碑

 

持参資料によれば、碑の所在地は、小石川4丁目の東京学芸大学付属幼稚園とある。

幼稚園の入口を探して、春日通と裏道をぐるっと回ってみるが、見当たらない。

地図を見ると都立竹早高校の住所が、小石川4-2-1で 学芸大附属幼稚園と同一であることが分かる。

 

 (地図を少し下にずらすと竹早高校がある。竹早中学校の敷地に幼稚園はあることになる)

竹早高校正門の守衛所で確認しようとしたが、あいにく守衛がいない。

通りかかった女性徒が、親切にも案内してくれた。

幼稚園は、竹早高校のフエンス下、切り立った崖下にあった。(多分、竹早高校を通らないですむ幼稚園の正門はあるのだろうが・・・)

◇杉浦重剛称好塾旧跡

杉浦重剛が自邸内に開設した称好塾は、三田の慶應義塾とならぶ有名私塾だった。

しかし、塾では学科授業はなく、塾生は各自、それぞれの学校に通っていた。

3人が机を並べる8畳は、勉強部屋でもあり、寝室でもあった。

授業がないのに入塾してくるのは、塾頭杉浦重剛の識見、人格に惹き付けられたからだという。

自由な雰囲気の中に節制があり、互いに切磋琢磨する環境は、多くの有為な人材を輩出した。

杉浦重剛は、安政2年(1855)、近江国膳所の生まれ。

明治8年東京開成学校を卒業、政府留学生として欧州留学、帰国後東京大学予備門長を務める。

大正3年(1914)には、東宮御学問所御用掛として、皇太子(昭和天皇)に倫理を進講した。

 東京学芸大学付属幼稚園を出て、伝通院との間の坂道をゆるゆる下ると光円寺に着く。

◇震災殉職記念碑(小石川4-12-8光円寺)

 

墓地入口の手前左の奥にあるのが、「震災殉職記念碑」。

殉職したのは、博文館印刷所(共同印刷の前身)の社員41人。

墓地の向こうにに共同印刷の工場が見える。

工場の隣の寺の、工場が見える場所に、わざわざ建てられた「震災殉職記念」です。

博文館印刷所の震災エピソードのハイライトは、41人という社内殉職者の数もさることながら、崩壊した工場がわずか4か月前竣工したばかりの新工場だったこと。

その間の経緯が碑面に詳しく記されています。

震災殉難記念碑

絶大ノ惨害比類ナキ大正発亥九月一日ノ大震災ニ博文館印刷所モ亦其災ニ罹リテ新築ノ工場倒壊シ特ニ優秀ナル工員四十一ヲ亡ヘルハ真ニ痛恨ニ堪ヘザルナリ其工場ハ総テ三層八百八十坪鉄筋混擬土ヲ材トシ大正十一年二月ニ起シ設計周到監督厳密翌年五月落成ス即チポイント製版印刷工場トシ第一階ハ文選及校正部ニ充テ各部工員三百有余人ハ皆選バレテ新工場ニ入ルヲ栄トセリ図ラザリキ竣工後僅カニ数月忽チ大震災ノ為ニ全部崩壊シ幾多ノ犠牲ヲ出サントハ嗚呼是レ天ガ命カ将タ人事ノ未ダ尽サザル所アリシカ今茲ニ遭難一周年ニ臨ミ印刷所ハ追悼会ヲ催シ碑ヲ建テ殉難諸氏ノ名ヲ碑陰ニ録シテ以テ英霊ヲ慰メ兼テ記念ト為スト云爾
         大正十三年九月一日
                    水哉     水谷善四郎撰
                    半峰     山口彦総 書

境内には、共同印刷による碑の解説板がある。

碑文と重複するところもあるが、転載しておく。

 

 

 震災殉職記念碑
大正12年9月1日の関東大震災は、死傷者15万人余、罹災者340万人余と未曾有の大惨事であった。共同印刷株式会社の前身である博文館印刷所でも、鉄筋コンクリート3階建ての新工場と活版平台印刷工場の一部が倒壊し、不幸にも41人にのぼる多数の犠牲者を出した。
会社は犠牲者に対して深く哀悼の意を表するため、同年12月9日小石川伝通院において大追悼会を催すと共にこの惨状を後世に伝えるため翌13年9月1日に「震災殉職記念碑」を当光円寺境内に建立し、殉職者41名の氏名を碑陰に刻しその冥福を祈願した。
昭和20年5月25日、太平洋戦争の最中、米軍機B29の焼夷弾により、当社周辺は猛火を浴び当記念碑も碑石に亀裂が生じたため、昭和41年碑陰にコンクリートを塗布し補強した。この時、殉職者氏名が一部欠落しており拓本等にとることができなかったことは、誠に痛恨の極みである。
現在、ご遺族の申し出による殉職者は、ポイント校正課長小林勘六、文選工高麗愛信の両氏であり殉職者氏名を各方面にわたり調査、探求したが、六十有余年の歳月の壁は厚く手がかりを得られないでいる。殉職者氏名についてお心当たりの方は当社総務課までご連絡を賜りますようお願い申し上げます。
ここに「震災殉職記念碑」銘板の掲出にあたり、殉職者41名の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
                 平成3年8月  共同印刷株式会社


137 文京区の石碑-8-歌碑いくつか(北野神社・伝通院)

2019-02-17 07:44:30 | 石碑

◇中島歌子歌碑(北野神社 春日1-5-2)

しばらく小石川の水戸藩上屋敷跡とその跡地に設けられた

東京砲兵工廠に関わる石碑が続いた。

その掉尾は、北野神社の中島歌子歌碑。

本殿正面の南端、その先は崖地という一画に歌碑はある。

雪中竹    栄子書
 雪のうちに 根ざしかためて
 若たけ乃 生ひ出むと
 しの 光おぞ思ふ」


    

中島歌子は、文京区安藤坂で水戸藩の郷宿を営んでいた中島又左右衛門の次女として、弘化元年(1845)に生まれた。

水戸藩士林忠左右衛門と恋に落ち、18歳で結婚、水戸に新居を構えた。

しかし、天狗党の乱に加担した罪で夫は自害、歌子も賊徒の妻として投獄される。

江戸の生家へ戻った歌子は、加藤千波に歌を学び、安藤坂の実家の隣に歌塾「萩の舎」を開く。

塾生には、上流家庭の子女が多く、最盛期には、1000人を超えたと云われている。

樋口一葉もその一人で、15歳から入門し、頭角を現す。

父親の死去後、経済的事情から、歌子の助教を務め、歌子の後継者と目されていたが、肺結核で死亡、歌子の望みは実現しなかった。

歌子自身は、61歳で死去。

辞世の歌は

君にこそ 恋しきふしは 習ひつれ さらば忘るることも おしへよ

 ◇歌碑-古泉千樫、橋本徳壽、水町京子-(伝通院/小石川3-14-6)

伝通院にも3基の歌碑がある。

師弟関係の3人の歌人の歌碑で、師にあたるのが、古泉千樫(ちかし)、門弟が橋本徳壽と水町京子。

3基はそろって、山門から本堂に向かう参道の左手、朱色の鐘楼の手前の一画に、地蔵菩薩石像や宝篋印塔などと混じってある。

古泉千樫の歌碑は、奥まった一角にフエンスぎりぎりに立っていて、ちょっと見つけにくい。

自然石に

雑然と鷺は群れつつおのじし
あなやるせなき姿なりけり
       千樫山人

 と彫られている。

昭和34年、「古泉千樫先生を憶う会」が、33回忌を期して、碑を建てた。

伝通院から共同印刷にかけては緩やかなスロープは、田んぼが広がり、鷺の巣造りの場所でもあった。

この歌は、その光景を詠んだもの。

古泉千樫(1886-1927)は、少年のころから雑誌や新聞の歌壇にしばしば投稿していた。

千葉県で小学校の教員時代、古泉千樫の雅号で、水原秋櫻子主催の「馬酔木」に積極的に投稿するようになる。

その歌を伊藤佐千夫に激賞されたのを機に上京し、佐千夫門下に。

佐千夫を介して、長塚節、斎藤茂吉を知り、石川啄木、北原白秋と交友関係を結んだ。

生活の資を得るため、サラリーマンとして定年まで勤めたが、彼の本文はあくまで歌人で、「アララギ派」の発展に大きく寄与した。

橋本徳壽と水町京子の歌碑については、解説板をそのまま転写しておく。

 春いまださわがしからぬ空のいろに
       辛夷(こぶし)の花は白く咲きたり
                   徳壽

橋本徳壽は明治27年(1894)神奈川県横浜市に生まれた。短歌ははじめ土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和2年(1927)、短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を60年間牽引すると共に、宮中歌会始めの選者、明治記念総合歌会の選者を務めるなど、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。
歌碑に刻まれた歌は、歌集「桃園」に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽はわが国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き、技術指導に当たった。平成元年(1898)死去。

 

      水町京子歌碑

 

わがこころの林泉の風に
  やくるなくしばらくあると
      あわれといわむ
        水町京子

歌人水町京子は、明治24年高松市に生まれた。佐賀県人で、本名は甲斐みち、旧東京女子高等師範文化卒業、古泉千樫に師事し、没後は千樫の遺志により、釈超空の師事を受けた。女流短歌誌「草の実」を創刊し、また、千樫門下による「青垣」に参加、昭和10年「遠つ人」を創刊今日に至る。歌集として「不知火」「水ゆく岸にて」水町京子歌集がある。大正6年より20余年、淑徳高女に在職、この境内は、若き日朝な夕なに歩まれたゆかりの地である。此の碑の歌は、金閣寺炎上に際しての作「水ゆく岸にて」所載。

かの林泉のがり楓の下道 業火舌がなめつくしける
に続く一首である。

      昭和46年4月11日 遠つどい短歌会 小泉千樫同門 勝田秀次 

  

 

 

 


137 文京区の石碑-7-西行歌碑ほか(後楽園庭園続き)

2019-02-10 07:09:01 | 石碑

◇西行歌碑(小石川後楽園庭園)

 陸軍砲兵工廠の痕跡を追って、後楽園庭園まで来た。

一転、今度は、西行歌碑です。

入口を入り、左の道を進む。

最初の橋、幣橋を渡ってすぐに「駐歩泉」の石碑。

この辺りは、清水が湧き出ていたそうで、水戸藩九代目藩主徳川斉昭が「駐歩泉」と命名したと云われています。

「駐歩泉」は西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に因んだもので、「駐歩泉」碑の小径を行くとその西行歌碑があります。

歌碑の文字は、斉昭の夫人芳子の筆になるものと云われていますが、剥落部分もあって、判読できません

歌碑の裏面には、佐藤一斉の「駐歩泉」記が刻されていますが、これも判読しにくい。

佐藤一斉は、昌平坂学問所の総長を務めた儒学者。

碑文は、楷書の漢文だが、文京区生涯学習課『文京の碑』1997では現代文の意訳があるので、転載しておきます。

後楽園の門を入って左の小山に流水があり、傍らに草亭を設けて西行の像を祀ってある。新古今和歌集の雰囲気がよく出ているので、斉昭公はこの流水を『駐歩泉』と命名し、三字を大書された。(中略)
斉昭公は国の政治にも大小すべての事光圀に倣っておられ、この流水すらもないがしろになさらない。私坦(一斉)は舜水には及びもつかないが、公に講義する光栄を担っており、かつ西行は私と同姓の先人でもあるので、碑記を書くことになった。
                  天保2年5月1日

西行歌碑の左には、関東大震災で焼失した西行堂の土台が残っている。

西行(1118ー1190)

18歳で兵衛尉(ひようえのじょう)となり、鳥羽院に寵愛されたが、23歳で。突然仏門に入る。

洛北の嵯峨、飛世市山辺の草庵に住み、30歳の頃高野山に入る。

源平合戦直前の治承4(1180)詠歌と仏道修行に精進した。

新古今和歌集の代表的歌人。

辞世の句は

願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

◇藤田東湖先生護母致命之処

 今回の「文京区の石碑」は83基がリストアップされているが、この「藤田東湖先生護母之処」が私には一番印象に残る碑だった。

「護母」というのは、地震で崩れ落ちる家の鴨居を肩で受け止め、母の脱出を助けたということ。

本人は圧死したというから痛ましい。

 この「護母之処」碑は、後楽園ジムの脇にあった。

そこが水戸藩上屋敷であったことからも分かるように、藤田東湖は水戸藩士で学者。

水戸学の泰斗であり、攘夷派の旗手として名を馳せた。

外国との軋轢には、和平交渉よりも斬り捨てる策をいつも講じたというから過激だった。

この碑は、そうした彼の思想とは無縁なエピソードを記念したもの。

安政2年(1855)10月2日、いわゆる安政の大地震が起こった。

地震発生と同時に、東湖はすぐさま脱出するが、火鉢の火を案じて家に戻る母を追って、再び邸内に。

おりしも崩れ落ちる梁から母親を守るべく肩で受け止め、母親を救出させるが、自身は力尽き、梁の下敷きとなって圧死したと云われている。

「藤田東湖先生護母致命之処」碑は、庭園北東部の梅林の奥にある。

移転先としては、最適地ではなかろうか。

 


137文京区の石碑-6-鎮魂の碑(東京ドーム)と後楽園庭園の石碑

2019-02-03 09:46:42 | 石碑

◇鎮魂の碑(東京ドーム)

都戦没者霊苑が陸軍砲兵工廠跡地に設立されたのは、適当な空き地があったからではなかろう。

軍の施設跡であったことが大きいと思われる。

東京ドームに、戦死したプロ野球選手の鎮魂の碑があるのも、同様な背景があるのではないか。

東京ドームも陸軍砲兵工廠跡地にあるからです。

鎮魂の碑は、野球博物館の前、白山通りに面して立っています。

碑は2基、向かって右が本碑、左が副碑。

本碑は「鎮魂の碑」の下に戦没選手73名の氏名が刻され、

副碑の上部には、神風特攻隊員として散華した石丸信一選手の兄石丸藤吉氏による追悼文が、そして下部には建立趣旨がはめ込まれています。

下は、石丸藤吉氏の追悼文。

追憶(ついおく)

弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。

遺族代表 石丸藤吉

73名の戦死野球選手には、沢村英二の名前もある。

生涯、何度かのノーヒットノーランを成し遂げ、背番号14は永久欠番の沢村投手だが、除隊後は肩を痛めサイドスローに転じた。

その原因は、手りゅう弾を投げすぎたことだというから驚く。

彼は、2度応召され、結局、戦死の憂き目に遭うのだが、プロになるために京都商業をやめず、大学に進学していれば、2度も応召されることはなかったと父親は嘆いていたといわれます。

◇東京砲兵工廠跡記念碑(小石川後楽園庭園)

後楽園庭園にも砲兵工廠の記念碑がある。

 

庭園に入って右の回遊路を進んで、奥の奥、木に囲まれて碑は立っている。

碑形は、砲兵工廠の敷地を表しているのだとか。

碑裏には長文の碑文が刻まれているが、読みにくい。

いくつかネット検索したが、見当たらないので、文京区役所生涯学習課『文京の碑』1997より引用しておきます。

此地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧跡ナリ。其創立ノ起源ハ遠ク徳川幕府ノ関口水道町ニ於ケル大砲製造所ニ発ス。明治二年政府之ヲ収メテ群無冠ノ下ニ造兵司ト称シ、吹上上覧所ニ置キ、四年六月之ヲ旧水戸邸跡ニ移ス。本廠即チ是ナリ。五年陸軍省ノ所属トナリ、八年砲兵本廠ト改称シ、陸軍大佐大築尚志ヲ提理トス。十二年東京砲兵工廠と称シ、造兵ノ業完備スルニ至ル。十九年五月十五日明治天皇行幸アリ、親シク各工場ヲ巡閲シ給ウ。爾来業績年放逐フテ進展シ、日進日露日独ノ三大戦役ニ参画シテ克ク兵器製造ノ大任ヲ完ウス。大正十二年陸軍造兵廠令ノ制成リ、本廠ノ組織ヲ改メ、小銃・砲具・精器ノ三製造所ヲ以テ東京工廠ヲ設立セラル。此年関東大震災ニ遭ヒ、工場ノ大半ヲ焼失シ、従業員二十四名之ニ死ス。六年満州事変起リ兵器整備ノ急ヲ告ゲ、八年遂ニ小倉市ニ移転シ、東京工廠長陸軍中将高橋貞夫ヲ長トシ、十一月小倉工廠ヲ開クニ至レリ。嗚呼春風秋雨六十余年、幾多ノ研鑽ト努力トヲ尽シテ常ニ精鋭ナル兵器ヲ製シ、累次ノ征戦ニ偉効ヲ奉ジテ我ガ武威ヲ燿シ、以テ国運ノ進展ニ資ス。本廠ノ功亦大ナルト謂ベシ。今ヤ当年大工場ノ壮観求ムルニ由ナシト雖、其業績ハ後楽園ノ翠緑ト共ニ長ヘニ不朽ナルベシ。聊カ事歴ヲ叙シテ記念ト為ス。

側面に

昭和十年三月建之 碑石ハ敷地ノ外郭ヲ象徴ス 面積十三万坪