「時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ」たいと歌いあげたのは、テレサ・テンだった。
流れに身をまかすのは、「嫌われたら明日という日を失くしてしまう」から。
だが、時の流れを見極めることは、容易ではない。
まして、家臣と領民の未来を預かる藩主ともなれば、格別である。
遠山友禄(ともよし)は、眼下に木曽川の流れを見下ろしながら、悩んでいた。
苗木城から木曽川越しに中津川市街を望む
慶應4年(1868)の春先のことである。
遠山友禄は、東濃苗木藩主。
遠山友禄
石高わずか一万石余の小大名だった。
小大名ではあるが、幕府の若年寄りとして将軍に仕えていた。
帰国を願い出て許され、苗木に帰ったばかり。
東征軍はすぐそこまで進軍していた。
若年寄りだったことは、それだけで、朝敵と見なされかねない。
すばやいリアクションが求められていた。
彼は、岐阜の美江城に滞在中の東山道鎮撫軍の岩倉具定総督に面談を求める。
勤皇の誠意を示し、恭順の意を表して「段々勤皇の志厚き処感悦之趣」の言葉を得ることに成功する。
これが時代の潮流だと遠山友禄が感得することが、もう一つあった。
王政復古への動きである。
慶應4年=明治元年(1868)3月、新政府は「此度王政復古ハ神武創業ノ始ニ基ト為サル」との声明を発する。
その具現化の第一歩として、神祇官を復興し、行政のトップに位置付けた。
王政復古 の思想的中核をなし、指導的役割を果たしたのが、国学の平田篤胤門下生だった。
その平田門下の高弟に、苗木藩江戸定府の下級武士、青山景通がいたことが、藩主の時流の読みに大きく影響を与えることになる。
5月、青山は神祇官判事に任命される。
弱小藩の命運は、中央高級官僚青山とのパイプに懸っているかに見えた。
それは、折しも連発された神仏分離、廃仏毀釈の布告、通達への藩の対応に現れている。
忠実な、というよりは過剰な反応だった。
まず、藩主自らが神葬祭改宗(仏教徒であることを辞め、神道の信徒になり、神式に葬祭を行うこと)をした。
そして、領民に神葬祭改宗を命じ、信徒になれば寺と僧侶は不要だからと廃寺と還俗を推進した。
領内17寺は、全て廃寺となった。
今も旧苗木藩内には寺はない。
葬儀と墓は、今でも全部神式である。
もちろん仏像、石仏の類は廃棄された。
私の故郷、佐渡でも神仏分離、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。
500余の寺院を80にする廃寺運動が展開された。
しかし、なぜか、神葬祭化はまったく行われていない。
廃寺政策ばかりで、仏像、石仏の毀釈も実施された気配が薄い。
佐渡のほか、薩摩、松本、富山、津和野、隠岐の諸藩でも神仏分離、廃仏毀釈は激しかった。
それぞれに語るべき抵抗の歴史がある中、苗木藩だけは抵抗運動がなかった。
抵抗どころか積極的に受け入れた。
それが小藩苗木の生き延びる術であり、時流の選択だったと遠山友禄は云いたかったようである。
「時の流れに身をまかせ」と何気なく書き始めたら、こんな頭でっかちなブログとなった。
反省しています。
だから、早速、本来の趣旨に入りたい。
テーマは「石仏に見る苗木藩の神仏分離、廃仏毀釈」。
2013年3月上旬。
気温20度、5月の陽気という予報。
朝、7時、新宿を出発、塩尻で特急を乗り継いで中津川に着いたのは11時10分。
空路がないから札幌や那覇よりも時間がかかることになる。
駅前からレンタカーで「苗木遠山史料館」へ。
苗木遠山史料館(敷地は廃寺した正岳院跡。手前の石垣は当時のまま)
アポを取っていた千早調査官に撮影ポイントを聞いてから現地に向かうつもりだったが、思いがけず千早氏が同行してくれることに。
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まず、東白川村役場へ向かう。(地図では、257号線を上へスクロール。256号線になるがそのまま上へ。256と257の分岐点を左の256号線へ。いつものように地図が取り込めない。なさけない。)
車を走らせること約1時間。
1万石の小藩にしては広い。
山地ばかりで、水田は川沿いにあるだけだから、領地は広くならざるをえない。
①四つ割名号塔(東白川役場)
木曽街道から白河街道へ入るとやがて役場が見えてくる。
常楽寺跡地の東白川村役場
役場の敷地は、かつて常楽寺という寺の境内だった。
入り口に立つ六字名号塔には、裂け目が縦に入っているのが分かる。
石工守屋伝蔵により四つ割にされた六字名号塔
左右の横面と背面にも割れ目がある。
明治3年、廃仏毀釈の命令を受けて、住職は名号塔の作者、石工守屋伝蔵を高遠から呼び寄せた。
むやみに毀して傷つけるのではなく、きれいに始末したいという仏心がそこにはあった。
要請を受けて、駆けつけた伝蔵は石の節理に沿ってきれいに四つ割にする。
割られた名号塔は畑の石積みとして利用されていたが、昭和10年(1935)、有志の手によって掘り起こされ、再建された。
プロの技による見事な割れ目は、愚行の歴史を顕示し、告発してるかのようだ。
②左右相違石碑(田瀬観音堂)
東白川村から苗木方向に戻る。
石仏めぐりをしていると、車を運転していてもつい路傍の石仏が目に入ってくる。
岐阜県の山の中の道だから、1時間も走れば、10基や20基の馬頭観音や庚申塔、道祖神があってもおかしくない。
それなのにほとんど見かけることがないのは、徹底した廃仏毀釈の名残なのだろう。
でも、皆無というわけではない。
川沿いに弁財天がおわす。
庚申塔も1基見かけた。
馬頭観音も健在だった。
いずれにせよ、一度、埋め捨てられたものを掘り起こして、建てたものと思われる。
住民揃っての神葬祭改宗で、民心は仏教から離れてしまったかのようだが、民間信仰はなかなかしぶとく生き残っているようだ。
昭和59年10月の銘のある石仏がある。
「ふじのき橋守」とある。
新しく石仏を造る人もいるんだと感激して写真に撮って来たが、今、良く見るとこれは神官のように見える。
「あっ、そうか、なるほど」と思い、ちょっとがっかり、寂しい、複雑な気持ち。
途中、田瀬の観音堂に寄る。
四つ割ではなく二つ割りだが、きれいに割った石碑を合わせたものがある。
右は「廿三夜塔」、左は「南無阿弥陀仏」名号塔。
旧家の建物の土台として使用されていたが、改築時に発見され、ここに再築されたという。
近くに同じように別々のものを組み合わした石碑がある。
相違いに組み合わしたのは、恐らく、再築した人たちだろう。
廃仏毀釈の酷さをこうした形で表現したものと思われる。
それとも夫々の片方は行方不明で、原型は復元できなかったのだろうか。
二つに割ってはあるが、「打毀し」の荒々しさは、ここにはない。
③十六羅漢と六地蔵(田瀬)
苗木藩では「廃仏廃寺」は行われたが、「廃仏毀釈」が全面的に実施されることはなかった。
これが、苗木遠山史料館の千早調査員の考えです。
十六羅漢の刻文を読む千早保之氏
「毀」さないで「埋めた」のではないか。
そう推測しています。
その具体例として案内してくれたのが、田瀬の十六羅漢。
掘り起こされた無傷の十六羅漢
埋められていたものを16体、掘り起こして立て直してあるが、全部無傷。
ただし、 傍らの六地蔵の首はない。
首のない六地蔵
首の代わりに石が乗せてある。
今は、六地蔵と羅漢は一緒に並べられているが、もともとは別の場所にあったものと思われる。
六地蔵は墓地や寺の入り口に、羅漢は寺の裏山に配置されていることが多い。
廃棄処理をする人は、当然、別グループで、その違いが傷の有無を生んだのではないか。
廃仏毀釈命令なら、羅漢も傷つけてあって当たり前だが、そうでないのは「石碑類は掘埋め申すべく候」なる藩の命令を村人たちが遵守したからではないか、と千早氏は考えます。
この場合、「掘埋める」のは、「毀して」からではなく、無傷のままに、というのが命令の内容だったと千早氏は言うのです。
そういう意味では、六地蔵は勿論、四つ割名号塔や左右相違石碑も例外的ケースということになり、次の福岡の三十三観音も、藩の命令に違反していることになる。
④胴切りの三十三観音(福岡)
疫病が流行ったのは石仏を埋めたからだという噂が流れ、村人総出で掘り起こしたら、斬られた石仏が出てきた。
掘り起こされた三十三観音(福岡)
しかも、三十三体全部が胴体を斬られていた。
「これには特別の指示があった可能性も感じる。村の幹部に指示した人間がいたかもしれない」(『傷仏の里再考』)と千早氏の論究は、ここで推測の域に入り、トーンダウンしてしまうのだが、これだけ傷つけられた石仏が発掘されると「廃仏毀釈」はなかったと考えるのには無理があるのではないか。
「毀釈」はあったが、毀すのではなく、丁寧に切り離す形で実施された。
首や胴体を切り離すのに抵抗感があり、またはその作業が面倒で、無傷のまま埋めたケースもあった。
こう考えた方が苗木藩の事例を素直に受け止められるように私は思うのです。
⑤くろぜ道の地蔵(黒瀬)
切り離しの丁寧さは、くろぜの道の地蔵にも感じとれます。
首の下を斬ってあるのだが、正面からではそれと分からない。
地蔵の正面 裏面
背面に回ると切断面がやっと分かる。
いつか復元されることがあるかも知れないと思いながら、切断作業をしたのではなかろうか。
そう思いたくなる「毀釈」の仕方なのです。
⑥三十三観音と六地蔵(苗木大牧)
三十三観音がもう一カ所ある。
掘り起こした無傷の六地蔵がお堂の入り口に並んでいる。
お堂の背後にぎっしりと配列された三十三観音には、胴を斬られたものと無傷な石仏がある。
掘り起こされ並べられた三十三観音
無傷なものの方が多い。
22体くらいか。
千早氏は無傷のまま埋めようとして、その際、破損したものが11体生じたと見る。
しかし、それならば、なぜ、胴体の同じ部分が自然に割れるのか、説明しなければならない。
故意に切ったのでなければ、縦に割れたり、3つや4つに割れたりしたものが混じっているのが普通だろう。
小さな石仏だから玄翁でたたき割ることも出来る。
そうはしないで、上下に切り離したのは、石仏に対する敬愛の念があったからに違いない。
命令だから毀そうとした。
だが自らの行為がこわくなって、半分も毀せず、残りは無傷のまま土に埋めた、そう思えてならない。
墓地がある。
神葬祭での墓地に接するのは初めてのことなので、興味深く近寄ってみた。
○○家の墓の傍らに故人の名前を刻した墓が列している。
居士や大姉、信士などの位号は、もちろん、ない。
墓誌には名前と没年月日、続き柄が記載されている。
旧苗木領地区では、寺は廃寺されたまま今もない。
だから葬儀はすべて神式で行われている。
葬儀では、神官が故人の出生からの経歴を語るのが通例で、僧侶の訳のわからないお経よりはいいと好評だとのこと。
⑦神明神社(苗木)
廃仏廃寺の一方、寺に代わる崇拝の中心としての神社の整備が急がれた。
その中心となったのは、遠山家崇拝の神明神社。
神明神社
住民の大半が氏子だった。
神明神社の参道
資料を読んでいたら面白い布告があった。
「神社では手を合わせるな」というお達しである。
「是迄ノ如ク手ヲ合セテ拝ムベカラズ 是ハ合掌トテ仏法ニテ用フル事故 以後決シテ不可致(いたすべからざる)モノ也」と二拍手一礼を二度繰り返すよう教示している。
明治4年3月の布告。
新時代の混乱のてんやわんやがよく伝わって、楽しい。
⑧飛騨街道道標
神明神社の鳥居の前を走る道路が飛騨街道。
中津川から高山へ向かう昔ながらの道だから、分岐点には道標がある。
廃仏毀釈で石仏、石碑は埋められたが、さすが道標は生きながらえたようだ。
昔のまま、所在なげに佇んでいる。
⑨穴観音(苗木)
全国的にも最も激しい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた苗木だから、廃仏毀釈に関わる名所旧跡は多い。
穴観音もその一つ。
畑の端の林の中に巨岩が点在していて、ひときわ大きい5メートルを超す巨岩をくりぬいて、中に石仏が安置されている。
廃仏毀釈の折り、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがある。
格子戸ごしに中を覗いて見る。
切断された跡のある石仏もあるようだ。
穴の周囲にも数基の石造物が立っているが、いずれも切断され、復元されたものばかり。
巨大岩の上に立つ六字名号塔とその切断の跡
首の下を切られた地蔵(復元)
像容が判別できなくなるほど叩き毀された石仏がないことは、他の場所と同じ。
廃仏毀釈の嵐というが、嵐はおだやかに吹き去ったように見える。
しかし、そうではなかった、激しい嵐だったとの記録もある。
明治3年、遠山藩知事は廃仏毀釈の実施状況の視察に自ら藩内を回った。
これは、知事一行の塩見村での行状記の一部。
「神葬祭に改宗したと言いながら、仏壇をそのまま置いておくとは言語道断、その仏壇を明朝、庭へ持ち出せ」と、知事は二人の領民に申しつけた。翌朝、男たちは庭に引き出された本尊と脇懸を土足で踏んで火中に投込み、仏壇は火をつけて焼き払うよう強要された。この模様を知事一行は、二階から見ていた。仏壇を出した家の女は狂乱して、ご本尊とともに焼死しようとしたが、居合わせた者たちに抱きとめられた。知事に畏れ多いからという理由だった。(『新編明治維新神仏分離史料6』)
仏像を毀すのは恐ろしくてできなかったという記録もある。
「坂下村本郷の薬師堂には、本尊薬師如来が安置されていた。明治3年、苗木藩より、堂の焼き払いまたは取り壊しの命が下った。堂は打ち壊したが、本尊の焼き払いや打毀しは恐ろしくて誰も出来ない。村人が幾晩も集まっては思案の末、隠すことに決める。選ばれた代表者が誰にも分からない場所に本尊を隠した。廃仏毀釈の嵐がおさまった頃、薬師堂再建の申請をするが、仏堂だからと不許可となる。仕方なく神社を建て、その屋根裏に本尊薬師如来を戻した」(鎌田宮雄『ふるさと坂下』昭和59年)
このブログの、これまでの写真は全部石造物ばかりだが、それは、堂などの木造建築、木像仏、仏画などは全部、焼き払われて消失してしまい、撮りたくても撮れないからです。
石造物の傷から受ける印象以上に、狂気の荒々しさが村を席巻していたと思ったほうがよさそうだ。
⑩仏好寺(苗木)
苗木藩に17あった寺は、全部、廃寺となった。
寺の本堂などは焼き払われることなく、学校や役場に使われるケースが目立った。
今、跡地には、還俗した僧侶の子孫が住んでいるが、普通の民家なので、墓地がないと寺院の跡地だとは分からない。
上は、法華宗仏好寺跡に立つ家。
仏好寺は遠山家三代友貞の妻の菩提寺として寛文年間に建てられた。
背後の墓地には、その奥室の墓がある。
遠山家廟所 中央が三代友貞室の墓
傍らには百基ほどの墓が、時代に取り残されたように静かに眠っている。
江戸期の墓
大姉、信女、居士などの位号と宝暦、明和などの年号が、これらの墓が江戸期の寺の墓であることを物語っている。
跡地に住む方の話では、数十年来、誰一人として墓参に訪れた人はいないとのこと。
きれいに管理されているので見間違うが、全部、無縁仏なのです。
寺から東南に300m先には、同寺の大門跡があり、「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」の石碑が立っている。
掘り起こされた仏好寺大門の大石碑
明治3年、廃寺の折り、土中に埋められたものを掘り出して再建した。
全くの無傷、丁重に埋められたものと見える。
⑪永寿寺(苗木)
明治8年(1875)、政府は、不完全ながら信教の自由を保障する。
熱病の如き廃仏毀釈運動は終息し、各地で廃寺した寺の再興が相次いだ。
苗木でも、藩の菩提寺雲林寺再考計画が持ち上がる。
だがこの計画は紆余曲折を経て頓挫、代わりに永寿寺が設立された。
永寿寺 千早保之氏
その設立と維持には、この日、案内して戴いた千早氏の曽祖父と親戚の方も関わったということで、記念写真をパチリ。
寺は出来たが、神葬祭に慣れ親しんだ人たちが檀徒として寺に戻ることはなかった。
大正年間半ばには、無住の寺となって今日に至っている。
⑫雲林寺跡(苗木)
永寿寺前の坂道を上って行く。
左に分岐する道は苗木城への道。
直進し、坂道を下ると左に苗木遠山史料館がある。
昔の正岳院跡地だ。
地図を作製できないので、『中津川市史ー近世2』から借用するが、これが明治維新時の雲林寺境内図。
城下の苗木町から坂を上り、下って行った左に正岳院(雲林寺塔頭)。
正岳院の道路を挟んで反対側に藩主遠山家の菩提寺雲林寺があった。
上の地図では本堂の前で道路は行きどまりになっているが、現在はそのまま右へ伸びて、その先の国道に繋がっている。
だから、今はこの地図の右の方から入ってくるのが普通である。
臨済宗雲林寺は遠山家を大檀那とし、家臣200余家を檀家とする東濃有数の大寺だった。
雲林寺跡
寺はなくなったが、墓地はそのまま残っている。
遠山家歴代の墓域
雲林寺時代の位号の墓と神葬祭の故人の名前の墓とが混在しているのが、この墓地の特徴か。
前面に江戸期の、後列に神式墓塔が立っている
苗木遠山氏は他国へ転封されることがなかった。
幸運にも雲林寺の過去帳が保存されていた。
雲林寺墓地
二つの偶然が重なって、墓と過去帳を照合すれば、藩と各家の近世史が浮かび上がるという珍しい墓地でもあるのです。
神仏分離令による廃寺が苗木でスムーズに進展した背景の一つは、住職に財産と身分の保障があったからだと言われている。
「今回王政復古に付き領内の寺院廃寺申付候 速に御受すべし 就ては還俗する者は従来之寺有財産及寺建物を下され 名字帯刀を許し 村内里正(名主)の上席たるべし」(明治3年9月大参事通達)
もう一つ、領内15寺が臨済宗雲林寺の末寺であったことも見逃せない。
一向宗寺院の集団だったら、こうはいかなかっただろうという人もいる。
確かに15人の住職は雲林寺に集まって相談した。
相談はしたが、廃寺して、還俗と帰農することを即、決めた。
雲林寺の廃寺も決っていたからである。
ただし、雲林寺の住職剛宗は、廃寺は受けたが、還俗には首を振らなかった。
僧形ならばともかくも、法衣を脱いでの俗体では、歴代藩主の御霊をおまつりすることはできないという理由からだった。
当時、苗木領内を歩き、雲林寺を訪れた僧侶の記録がある。
「路傍にありし六字名号の立石及供養塔は倒されて小溝の橋に架用せられ、往来の人をして踏で行かしむを怪しまず、予口に経文を黙誦し避けて之を過ぐ、行くこと数町二三の人耳語していふ、『此の坊主未だ還俗せず』と蓋し彼らは苗木一万石の廃寺を見て、日本全国悉く廃寺せりと思惟したる者の如し。雲林寺に至れば白昼戸を鎖し内闇にして人無きが如し、裏口より入りて住職剛宗師に相見すれば曰く『両三日来便者を以て還俗を勧諭されしも断固として応諾を与へず』と、大いに道心堅固なるを嘆賞す。滞在すること三日にして雲林寺を出て毛呂窪村に到れば、路傍の千体地蔵堂は堅く閉鎖せられ、石像その他念仏寺の石碑は悉く押倒され、その狼藉の状言ふに忍びす゛」(坂上宗詮『忘来時録』)
廃仏毀釈の只中の村の様子が手に取るように分かる傑作ドキュメント。
還俗を拒否し続けた僧剛宗は、藩主から金300両と雲林寺の仏具、什器を与えられ、隣村の法界寺に移り住む。
僧剛宗が隠居した法界寺(下野)
波風立たない苗木藩の神仏分離騒動での、これが唯一の表だった反対行動だった。
⑬苗木城と城下町
来た道を戻る。
永寿寺から城下町が広がる。
昔は永寿寺から上にも町があったが、今はない。
苗木城下町
城下町苗木の特徴は、足軽などの下級武士と町人の町だったということ。
紺屋、桶屋、畳屋、油屋などの職人と阿波屋、井筒屋、蔦屋などの商家が軒を並べていた。
主だった家臣たちは城下町ではなく、飛騨街道沿いに居を構えていた。
武家屋敷らしい佇まいの家が、今でも、散見できる。
最後に苗木城跡へ。
戦国時代特有の山城で、天守のある山頂は標高432メートルだが、真下に木曽川が流れ、標高以上の高さを感ずる。
上は苗木遠山史料館の城の模型。
白く見えるのは全部巨岩。
山城というより岩城と云った方がよさそうだ。
天守が乗っていた巨石。今は展望台がある。
全国には苗木藩同様1万石大名は53を数えるが、みんな陣屋住まいで、城持ち大名は苗木遠山氏のみ。
これが苗木の人たちのお国自慢の一つである。
苗木城から指呼の間にある馬籠宿で、中山道を往来する人々の雰囲気から、若き藤村は時代の夜明けを読みとった。
真下に流れる木曽川を見ながら、藩主遠山友禄は尊王攘夷と王政復古を時代の流れと読みとった。
その選択は正しかったが、短期間しか続かなかった。
神仏分離、廃仏毀釈は明治5年に終息する。
幕政から継続していたキリシタン禁制は明治6年に解除された。
信教の自由のない野蛮国のレッテルが開国に邪魔になるから。
そもそも攘夷と開国が同居することがおかしい。
尊王攘夷は新政府樹立までの命だったのである。
平田学派も開国政策となると無能力を露呈した。
肝心の神道国教化も神道には国家統一の理念も理論もないことが明らかになる。
神道は情緒であり、論理ではなかった。
藩主遠山友禄の時代判断で、苗木の人たちは廃仏廃寺をし、神葬祭に改宗した。
その判断の善し悪しを判定できるものは誰一人としていない。
だが、こんな事実がある。
苗木藩の神仏分離、神葬祭化の旗振りをし、主導したのは青山直道大参事だった。
彼は神祇官青山景通の息子で、藩主により若干25歳で大参事に抜擢された。
変革には抵抗がつきもの。
立ちはだかる守旧派を粛正して初期の目的を達成した青山直道だが、やがて苗木を去り、官僚として各地を転々とする。
終焉の地は、東京。
一度も故郷に帰ることはなかったと言われている。
苗木城天守から木曽川を望む
参考図書
○中津川市史近世1,2
○千早保之『墓からみた歴史ー「廃仏毀釈」以前』(苗木遠山史料館)
○佐伯恵達『廃仏毀釈百年』(鉱脈社)
○渡辺浩一『廃仏毀釈」と石仏の受難ー美濃苗木藩の事例からー』(『日本の石仏NO140 2011秋号』)
○柴田道賢『廃仏毀釈』(公論社)
○白井史郎『神仏分離の動乱』(文閣出版)
○大田保世『日本の屈折点』(ごま書房)
○HP「がらくた置き場ー苗木藩の神仏分離 廃仏毀釈」
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/index.htm