石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

20 坂東三十三観音札所と石造物(その1)

2011-11-24 21:38:49 | 札所めぐり

今年(2011年)10月、坂東三十三観音霊場を回り終えた。

結願寺は、日光の「立木観音」だった。

発願寺は九番札所「慈光寺」。

2009年10月のことだから、丸2年かかったことになる。

いつもは忘れていて、時々、思い出しては出かけた。

もし納経帳がなかったら、結願しなかったと思う。

朱印を押してない空白のページがあると気になって仕方がなくなる。

空白ページを埋めなくては、という強迫観念が結願させたといってよい。

そんなわけだから、信心深いわけがない。

本尊に手を合わせはするが、興味はもっぱら寺の佇まいと雰囲気。

石碑や石仏があれば、とにかく写真を撮る。

碑文が読めようと読めなかろうと気にしない。

これは、その石造物の記録。

三十三観音霊場だからといって、貴重な石碑や石仏があるわけではない。

石碑や石仏に限れば、そこらの寺とどっこいどっこいなのである。

写真をとったから一応まとめては見るが、石造物愛好家から見れば、つまらない報告になるだろうことは必至。

と、まずは、いいわけを。

 

第一番 大蔵山杉本寺(天台宗)鎌倉市

2008年、秩父三十三観音を、歩いて回った。

しかし、坂東三十三カ所は一都六県、総延長1300キロのコース。

歩いて回ることは初めからあきらめていた。

時に電車とバスで、時に車で回った。

一番札所「杉本寺」へは、鎌倉駅から歩いて向かった。

参道は石段。

両側の白い幟が新鮮だった。

秩父札所の幟は赤。

赤は穏やかな景色を乱す作用があるが、白地に黒文字はすっきりとおさまって邪魔にならない。

本堂真下の石段は、立ち入り禁止。

苔むした石段は、すり減っている。

 石段は立派な石造物である。

一番札所の石造物といえば、第一にこの石段をあげたい。

歴史が石に刻まれている。

素材の石は、鎌倉石。

柔らかいからすり減った跡がはっきりと残った。

文化財として、保護、保存したい。

 第2候補は、本堂右に群立する五輪塔。

年代は読みとれないが、南朝方の北畠顕家(あきいえ)との合戦に敗れた杉本城主・斯波一族の戦死者供養塔。

東京などでは決して見ることができない年代物である。

 

第二番 海雲山岩殿寺(曹洞宗)逗子市

 

一番から二番へは徒歩。

途中の小坪トンネルは有名な心霊スポット。

期待していたが、幽霊に出会わずがっかり。

真昼間だから期待するのが無理というものか。

岩殿観音に到着。

まっすぐ伸びる参道の先に石段。

石段を上って行くと文字観世音がある。

それを見ながら更に上がって行くと踊り場に出る。

ボロ覆屋に像容の崩れた石仏が2体おわす。

「爪掘地蔵尊」の表示。

弘法大師が爪で彫った地蔵だと言い伝えられている。

だから、爪の病に効くからと拝みに来る人が後を絶たない。

拝むだけでは気が済まず、爪で石仏を削ってゆくようだ。

像容の崩れは風化ばかりではないのである。

「爪彫」ではなく「爪掘」であるのが、気になるが、多分、自分も同様な勘違い表現をしているんだろうと自戒する。

 

第三番 安養院田代寺(浄土宗) 鎌倉市

もとは「安養院」と「田代寺」の二つの寺だった。

合併してひとつになったのだが、「田代寺」の開基者・田代信綱の寺創建理由が面白い。

頼朝の配下として幾たびの武勲を立てられたのは、観音様のお陰、とその恩に報いるために「田代寺」を建てた。

武勲というからには、敵対者を多数殺めたに違いない。

殺めることができたのは、観音さまのお陰というのは、どういうことなのか。

観音さまこそ、いい迷惑というものだろう。

一方、「安養院」は、北条政子の法名。

境内には、北条政子の宝筐印塔がある。

 

刻文は「二位政子御法号安養院殿如実妙観大禅定尼」。

男勝りの政子の宝筐印塔にしては、小ぶりでなよっとしている(気がする)。

覆屋の中の地蔵は「日限(ひぎり)地蔵」。

「日を限って拝むとご利益がある」とどのガイドにもある。

限る日数は3日、5日と祈願者の任意だが、通常は7日。

7日を単位に、一七(いちしち)日と言い、これで願いが成就しなければ三七、21日と累化してゆく。

この期間は参詣、物断ちの期間でもあり、「日限まで塩を断って毎日お参りしますから、満願の日までに治してください」と祈る。

 

境内に8体並ぶ風化した石仏は、みな、弘法大師像。

裏山に数多くおわしたが、関東大震災で転げ落ちてしまった。

 

それを先代住職が集めて並べ直したのだそうだ。

「お地蔵さんと間違えて涎かけをかける人もいらっしゃいますが、ご信心故のことですから間違っています、とも言えませんし」と住職もやや困惑気味。

「身代わり地蔵」の由来についても住職の口は重い。

「多分、病に苦しんでいる人の身代わりで、伏せっているのだと思います」。

50年ほど前、信者と称する人が持ち込んだものだそうだ。

寺は直接関知していないので、詳細は分からないとのこと。

珍しい像容なので、あらゆるガイドブックにとり上げられて有名だが、その割には、氏素性がはっきりしない仏様なのである。

 

第四番 海光山長谷寺(浄土宗)鎌倉市

どこもピカピカに新しく、天平8年(736)創建とはとても思えない。

苔むした石段や風化してお顔がはっきりしない石仏がある寺のほうが、ピカピカの寺よりも重厚さや尊厳、歴史の重さを感じるような気がするのは、ぼくだけだろうか。

同じ長谷寺でも大和の長谷寺のほうが、好きだ。

のしかかるように見る者を圧倒する千躰地蔵も、好きになれない。

千躰地蔵というが、実質は水子地蔵。

供養の内容で1万円から3万円と幅がある。

折角の由緒ある歴史を、戦後の軽薄な風潮がないがしろにしているような気がしてならない。

寺側があえて水子供養と言わないのも、そこらへんを考えてのことではなかろうか。

階段わきに、苔むした宝筐印塔。

誰も見向きもしない。

だから、つい、パチリ(デジカメだから音はしないけれど)。

いつ、誰がどのような供養を目的に建てたかは知らないが。

 

第五番 飯泉山勝福寺(古儀真言宗)小田原市

十三仏がある。

「水向十三仏」ということで、水があり、柄杓が置いてある。

仏様に水をかけることで、自らの煩悩を払ってもらうのだという。

その後方に、四国八十八霊場の本尊摸刻が並ぶ。

こうしたミニ霊場は珍しくはないが、その前の「十夜橋大師」像が珍しい。

弘法大師が四国巡錫中、伊予の大洲の橋の下で一夜を明かした。

「行き悩む浮世の人を渡さずば一夜も十夜の橋とおもほゆ」。

衆生済度のことを考えていると一夜が十日ほどに長く感じられた、という歌を詠んだ。

橋を通る時、お遍路さんが杖をつかないのは、杖の音でお大師さんを起こさないようにとの配慮だからだが、その謂れのもととなった橋下のお姿である。

 

二宮金次郎の姿もある。

さすが小田原というべきか。

薪を背負って書物を手に、といういつものスタイルではない。

金次郎は、14歳の時、ここ飯泉観音で、旅の僧が観音経を訓読するのを聞いて感得し、救世の志を起こしたと言われる。

観世音菩薩に手を合わせ、、救世の誓いをたてる金次郎、これがその姿である。

 

変わった石塔がある。

層塔なのだろうか。

寺に電話して訊いたみた。

「宝筐印塔です」との答え。

こうした宝筐印塔もあるんだ、と新しい発見。

 

第六番 飯上山長谷寺(高野山真言宗)厚木市

飯山観音へ行ったのは、4月11日。

朱色の橋と桜。

空気がピンクに染まっているようだった。

参道の土産店の店先も、ピンク。

仁王門から振り返ると、これまたピンク。

さすが桜の名所。

桜のトンネルがどこまでも続いている。

 

本堂に上がって参拝し、そまま回廊伝いに裏手に出ると見慣れない石造物がある。

何だろうとよく見たら、からす天狗。

粗大ごみのように置いてある。

もう、からす天狗を彫像することはないだろうから、捨てるのはもったいないのに。

巨大な馬頭観世音碑の隣に出征軍馬供養塔。

昭和13年と書いてある。

ぼくが生まれた年だ。

「鶏魂供養塔」がある。

珍しいと思っていたら、近くに「蜜蜂供養塔」もあった。

動物や植物、命あるものすべてを慈しむ観音さまなのである。

 

第七番 金目山光明寺(天台宗)平塚市

境内は狭い。

かつて慶安2年(1649)には、約2600坪の境内だったというのが、信じられない。

塀に沿って立つ石仏はみんなエプロンをしている。

地蔵はもちろん、聖観音も青面金剛も文字碑庚申塔までも。

頭からすっぽり隠れて、地蔵なのか、観音なのか分からないものもおわす。

善意と信仰は疑わないが、石仏を着飾るのは賛成しかねる。

「牛頭天王」の石碑がある。

僕は初めて見た。

『日本石仏事典』によれば、京都・祇園社(八坂神社)の祭神だそうだ。

石像はきわめてまれ、と書いてある。

文字碑はどうなのだろうか。

 

第八番 妙法山星谷(しょうこく)寺(真言宗大覚寺派)座間市

 

とにかくどこもかしこも新しい。

古いものは、少しばかりの石仏と宝筐印塔だけ。

この札所で記憶に残ったことはお金がらみのこと。

超モダンな事務所ビルには自動販売機がある。

白衣や納経帳は、自動販売機で購入するシステム。

どこかおかしい。

変だ、普通ではない。

広大な駐車場には、罰金3万円の看板が。

ルール違反をして無断駐車をする者もいるだろう。

お寺なら、その非を諭せばいいのであって、「即刻3万円申し受ける」というのは腑に落ちない。

仏教の基本「慈悲の心」はどこへ行ったのか。

「憐みの気持ちで他者をいたわる」のではないのか。

自動販売機と3万円で、「星谷寺」の印象は最悪。

2度と行くことはないだろう。

いや、正確には、行きたくはない、と言い直したい。

 

第九番 都幾山慈光寺(天台宗) 埼玉県ときがわ町

山岳寺院「慈光寺」は山の中腹にある。

寺への道の途中に立つ9基の青石板碑が、「慈光寺」の歴史の古さと格式の高さを物語っている。

阿弥陀如来を表すキリークの梵字が薬研彫りでくっきりと浮かび上がっている。

キリークの下に刻まれた年代は、元享4年(1324)から貞治4年(1365)まで。

いずれも逆修塔。

自らの死後の安楽を願って、豪族たちはこうした板碑を生前に建てた。

先行投資は実を結んで、彼らは地獄へ堕ちずに済んだのだろうか。

訊いてみたい気がする。

「慈光寺」の石造物としては、赤子を抱いた如意輪観音二十二夜塔は見逃せないだろう。

赤ん坊を抱いた子安観音は、銚子方面に多いが、如意輪観音ではなく聖観音。

賢徳寺(銚子市)の子安観音

如意輪観音の子安観音は珍しい。

珍しい石造物はもう1体ある。

「申八梵王(さるはちぼんのう)」

『日本石仏図典』によれば、「山王権現をまつる日吉大社の分霊は、全国に日吉神社、日枝神社の社号で祀られており、これらのほとんどが神使の猿を安置している。猿は、石工の豊かな想像力で様々の愛嬌ある姿がつくられている」ようで、これもその典型例か。

 

第十番 岩殿山正法(しょうぼう)寺(真言宗智山派) 東松山市

横着をして駐車場から近道の地下道を潜って境内に入ったが、本来は山門から急な石段を上って来なければならない。

                        山門から本堂への石段

眼下に見える屋根が参道両側の家々。

本堂の後ろから右手の岩の窪みに石仏群。

四国八十八霊場と西国、坂東、秩父の百観音の本尊摸刻が並んでいる。

石仏に短冊状の和紙が張られているが、これは地蔵札。

死者の四十九日の後の、2度の彼岸に、遺族が寺を回り、百体の地蔵にこの札を張って回る風習がある。

何故、地蔵かというと閻魔の化身だかららしい。

ここに並ぶ石仏の大半は観音さまで地蔵はほとんどないが、最近は石仏と言えば、お地蔵さんという人が多くなって、観音様だろうが、お不動さんだろうが、一向に頓着しないようだ。

上の写真の中央の2枚の地蔵札は戒名しか書いてないが、左端の「奉納 百地蔵尊法月院清室妙澄大姉二世安楽為」が正式書式。右に「平成二十二年春彼岸」、左に「大塚氏」と時期と奉納者が書いてある。

ここいら武蔵野の一部と房総の一部で今でも行われている、と何かで読んだ記憶がある。

 

第十一番 岩殿山安楽寺(真言宗智山派)埼玉県吉見町 

 寺の草創は僧行基が東国巡錫の折、ここを霊地と定め、聖観音像を刻み、岩窟に納めたことに始まる。

札所めぐりの記述は、このように開山、開基と本尊のいわれから始まるのが普通である。

だが、このブログではこれまで一切そうしたスタイルは排除して来た。

なぜか。

ワンパターンでつまらないからである。

最初の1行は、これまで11カ寺のうち、7カ寺にそのままあてはまってしまう。

開基者は行基菩薩。

時に弘法大師であることもあるが、主役は行基なのだ。

生きながら菩薩と呼ばれた行基だから、まるきりの嘘ときめつけるつもりはないが、マユツバであることも確かで、一々書く気になれない。

この方針は、このあとも続けるつもりだ。

駐車場わきに石仏の列。

みんな地蔵札が貼ってあるが、よく見ると青面金剛だったり馬頭観音だったり。

        青面金剛             馬頭観音

百体のお地蔵さんに貼るのは大変だろう。

こんなに並んでいるとうれしくなって、片っぱしから貼りまくることになる。

六地蔵などは格好の餌食だ。

まるでエプロンみたいに地蔵札がぶら下がっている。

石仏ではないが、境内に吉見大仏と呼ばれる阿弥陀如来の銅像が座している。

その後方にお地蔵さんもおわすのだが、こちらには地蔵札は貼られていない。

体が大きいからいくらでも貼れそうだが、銅像はダメで石仏でなくてはいけないんだろうか。

これで、坂東三十三観音霊場の三分の一を終えた。

次は、十二番から二十二番の予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


19 アイーン観音

2011-11-15 09:08:08 | 観音菩薩

 

「しゆいしゅ」と聞いて、すぐ言葉が分かる人は少ないだろうが、「思惟手」という文字を見ればピンとくるに違いない。

そして、広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像をイメージするのではなかろうか。

 広隆寺弥勒思惟像          中宮寺弥勒思惟像

2体の、あでやかなその女性的官能美は、多くの人を魅了してきた。

思惟しているのは、56億7000万年後の未来世界のことであり、そこでの人々の救済方法だと言われている。

末法思想が横行した平安時代、人々は弥勒菩薩の下生(げしょう)をひたすら祈った。

だが、この弥勒思惟像は何故かいつの間にか姿を消し、蓮華座に結跏趺坐し、定印に組んだ手の上に宝塔を置く弥勒菩薩像に代わって行く。

醍醐寺弥勒菩薩坐像

思惟手は、如意輪観音像に専ら見られるようになってくる。

東京のどこの墓地でも、右に傾いだ頭を右手の掌で支えているような如意輪観音墓標に出会う。

 栄松院(文京区)          円福寺(板橋区)

全部、江戸時代以降の石仏である。

思惟していると言うよりも頬杖をしながら居眠りしているかのようだ。

こうした如意輪観音像に見慣れた頃、右手の位置と向きが異なる如意輪観音がおわすことに気がついた。

 右手の手の甲を顎につけている。

喜多院墓地(川越市)         釜寺(中野区)            

 

立て膝の右足を、曲げた左足の足裏に乗せた輪王座をしているから如意輪観音であることは間違いない。

では、この右手も「思惟手」なのだろうか。

頭の傾きや顔の表情は思惟している姿なのだから、「思惟手」と言ってもよさそうだが、そうすると二通りの「思惟手」があることになり、ややこしい。

仏像解説を見ても掌を頬につけた「思惟手」のことだけで、手の甲を顎につける所作には触れてない。

普通、このような手の所作を何と呼ぶのか、日本舞踊を趣味とする妻に訊くが、知らないとの返事。

石仏愛好家のブログで見つけた「反り手」という表現が唯一の具体例だが、「反る」というのは、手のひらを上にするというか、表にすることで、手のひらを下にしたこの所作にはピッタリしないように思う。

当を得た表現を探しあぐねている時、テレビを観ていて膝を叩いた。

志村けんの「アイーン」がそっくりだったからである。

勝手に「アイーン観音」と呼ぶことにした。

 石仏めぐりを始めて2年。

めったに「アイーン観音」に出会うことはない。

見かける度、写真に撮って保存した。

これまでに61枚の写真が溜まった。

撮りためた如意輪観音石仏の全体数は2013だから3.0%ということになる。

年代別には、寛文6、延宝6、貞享4、元禄14、宝永3、正徳3、享保6、元文、延享、寛延、宝暦、明和、寛政、天保各1、不明12。

時代分布としては地蔵や聖観音などと同様、元禄、享保という二つの山がある。

格別、変わった点は見られない。

地域的には、都内が多くて、千葉県、埼玉県にもあるが神奈川県はゼロ。

しかし、サンプル数が決定的に少ないのだから、この数字で地域的特性を云々することはできないだろう。

大半は石仏墓標だが、如意輪観音だから夜待ち塔もある。

二十二夜塔、宗清寺(埼玉県美里町)

 しかし、夜待ち塔に「アイーン観音」が多いというわけではない。

「アイーン観音」にひとつだけ特徴があるとすれば、比較的大型の石仏が多いということか。

 万福寺(墨田区)           浄光寺(東松山市)

 

大型だから経費がかさむ。

それを厭わないわけだから、「アイーン観音」にするそれなりの理由があることになる。

普通、如意輪観音を発注すれば、「思惟手」の石仏を石工は彫るだろう。

「思惟手」ではなく、「アイーン観音」を特注するその理由を知りたいのだが、今のところ手がかりがなく、推測すらできない状態だ。

どなたかご存知の方がいらっしゃったら、是非、ご教示願いたい。

去年、2010年春、滋賀県の三井寺へ行った。

丁度、観音堂の秘仏・如意輪観音が公開中だった。

 三井寺(滋賀県)

見事な「アイーン観音」だったことを思い出し、如意輪観音で画像検索してみたら、出るわ出るわ、平安時代の如意輪観音は「アイーン観音」だらけなのだ。

「アイーン」というよりも、折り曲げた指先を手の甲を上にして軽く頬や顎に触れているという形が多い。

手のひらではなく、手の甲だということが、重要ポイント。

     橘寺(奈良県)           護国寺(東京都)

 清滝寺(兵庫県)             醍醐寺(京都府)

  天王寺(神奈川県)             円教寺(兵庫県)

 百済寺(滋賀県)            来迎寺(神奈川県)

当然、儀軌にもこの像容は記載されているに違いない。

江戸時代の石工たちも、こうした仏像を見、儀軌に則って石仏を彫ったはずである。

それなのに何故「思惟手」型だけが圧倒的に多くなってしまったのか、不思議だ。

本来、その謎を解くのが目的であったはずなのに、不思議だと投げ出してしまうのは、情けない。

忸怩たるものがあるが、能力不足なのだから仕方ないか。

 

今回のテーマとは全く関係ないのだが、最後に珍しい如意輪観音石仏を2枚付け加えておく。

まずは、日本最古の十九夜塔。

万治元年(1656)の線彫り六手の如意輪観音。

 日本最古の十九夜塔。徳満寺(茨城県利根町)

六手の如意輪観音と言われて、目を凝らしてもはっきりしない、線彫りのこれが宿命か。

 

思惟手が左手の如意輪観音がある。

     平等寺(戸田市)        延命寺(群馬県川場村)

墓標だから、ぎっちょだった故人を偲ぶ意識的作品だろうか。

 

 

 


18 シリーズ東京の寺町(1)ー豊島区西巣鴨その2-

2011-11-02 09:21:43 | 寺町

西巣鴨の寺町としては、(1-A)に載せた7カ寺で全部ということになる。

しかし、寺町に接する都電荒川線から染井霊園の間にも5つの寺がある。

その間、およそ500m。

100メートルに一つずつの寺は密度として高い。

豊島区巣鴨5丁目は、寺町と言ってもおかしくはないだろう。

だから、西巣鴨の寺町(その2)として追加しておきたい。

都電の踏切を渡ると最初の寺が、白泉寺。

白泉寺(曹洞宗) 明治44年、浅草から移転

境内に入ると「万倍稲荷大明神」の幟ばかりが目につくが、昭和6年、福井県から勧請して奉ってある朝日観音に因んでつけられたのが「朝日通り」であり「朝日小学校」であることを、知る人は少ない。

 

「禅寺」(そうぜんじ)は、ある人たちには、超有名な寺である。

禅寺(曹洞宗)明治30年、駒込千駄木から移転

ある人たちと言うのは、漫画フアン。

いや、この場合は手塚フアンというべきか。

手塚治虫の墓があるからだ。

墓地に行くには、本堂があるビルを通らねばならない。

受付で来意を告げると200円請求され、線香を二束手渡される。

そのまま墓まで案内してくれるのだが、去り際に一言、「写真撮影は厳禁です」。

墓域には3基の墓碑が立っている。

正面は「手塚累世墓」。

右に「正十七位手塚良仙墓」。

手塚良仙とは何者か検索してみたら、幕末、明治の医師でお玉ケ池の種痘設立にも尽力とある。

手塚治虫の曽祖父に当たる人物らしい。

そして、左に手塚治虫の漫画の主人公7人と本人の自画像をはめ込んだ石碑。

下に本人のサインがある。

言われたように写真を撮らなかった。

ネットで見たら、いくらでもある。

これはその内の2枚を借用したもの。

「白泉寺」、「禅寺」と曹洞宗寺院が続いた。

「法福寺」もまた曹洞宗である。

しかし、建物や境内の雰囲気に共通する所が見られない。

 法福寺(曹洞宗) 大正8年、浅草から移転

 「火事と喧嘩は江戸の華」。

徳川幕府267年間で、江戸では49回もの大火があった。

267年間、京都では9回、大阪で6回だったのだから、江戸は断然多い。

江戸の大火49回のうち最大の大火は、明暦3年(1657)の火事で、別名振袖火事。

火元は本郷丸山町の「本妙寺」だった。

本妙寺(日蓮宗) 明治44年、本郷丸山町から移転

「本妙寺」は今、豊島区巣鴨5丁目にあるが、明治44年、本郷から現在地に移転してきた。

本堂右脇に「明暦の大火供養塔」が立っている。

                           明暦大火供養塔

家康の江戸入りから60年、急速に発展、拡大してきた江戸の町を、振袖火事は一瞬にして灰塵に帰した。

振袖火事と言われるのは、実際に振袖を焼いた火の粉が舞いあがったのが原因だからだが、その振袖には焼かれるべき因縁があった。

麻布の質屋の娘梅野は「本妙寺」での墓参の後、上野で見かけた美少年に一目ぼれ、彼の着ていた振袖と同じ着物を拵えてもらったが、恋の病が嵩じて死んだ。

17歳だった。

葬儀後、寺では棺桶にかけてあった振袖を古着屋に売却、この着物を買った娘が、翌年、梅野が死んだ同じ日に亡くなった。

 同じ不幸は、三人目の娘にも起こり、彼女も死ぬ。

三家は申し合わせて、振袖の焼却供養を寺に申し込む。

焼却当日の3月18日、昨日からの馬鹿っ風が吹き荒れて、火をつければとんでもないことになるからと住職は振袖の焼却を止めようと思った。

しかし、そうはいかなかった。

瓦版が振袖焼却供養を煽ったせいで、物見高い野次馬が数万人寺に押しかけ、境内には出店も出る騒ぎ。

「まだ焼かねえのか」

「早く焼けえ」と催促の声が飛び交った。

大勢の声に抗しきれず、住職は読経しながら振袖を火の中に。

折しも吹いた一陣の風が、火のついた振袖を80尺の本堂真上に吹きあげた。

雨霰と降る火の粉で本堂はたちまち炎上、折からの狂風にあおられて、紅焔の炎は江戸市中に四散していった。

青くなった野次馬たちが我が家にたどり着いたときには、先回りした飛び火がきれいに家を焼き払った後だったという笑えない話が残っている。

自業自得というべきか。

振袖火事には長い間語り継がれてきた一つの疑問がある。

火元の「本妙寺」は取り壊しや廃寺にならず、本郷丸山町にそのまま再建された。

放火犯は極刑に処された時代、江戸最大の火災の火元の寺が安泰でいられるはずがない。

それが常識というものなら、大火後の「本妙寺」の扱いは、非常識の極みということになる。

この疑問に応えるのが「本妙寺火元引き受け説」。

「本妙寺」の隣、老中・阿部忠秋の屋敷が火元だったが、それを隠蔽すべく幕府が「本妙寺」に火元であることを引き受けさせたというもの。

この話を裏付ける論拠として、阿部家から毎年、多額の金品が「本妙寺」に支払われていたとする説がある。

江戸時代から明治になって「本妙寺」自身がこの火元引き受け説を認めるようになったという記事もある。

嘘か本当か確かめようがないが、よくできたミステリーのように、ついつい引き込まれてしまい、思わず長くなった。

 

「本妙寺」の山門を潜ってすぐ右手に30基ほどの宝筐印塔がある。

いずれもどっしりとして風格がある。

下総(しもうさ)関宿(せきやど)6万8千石久世家の墓所である。

 下総関宿藩主久世家菩提所            七代広周の墓

七代広周は幕末の老中として公武合体策を推進、和宮降嫁を実現したが、失政を咎められて永蟄居中、死去した悲劇の人物。

ふたたび振袖火事に戻るが、ことのきっかけは梅野が「本妙寺」に墓参りにきたことにあった。

時は明暦、江戸時代もまだ初期の頃、大名家の菩提寺でもある格式高い寺に一介の質屋の墓があったのだろうかという疑問が残る。

 

信長、秀吉、家康、個性の違う3人に仕えて、無事勤め上げるというのは、なまなかのことではない。

誰と誰がそうであったかは知らないが、少なくとも囲碁の初代本因坊算砂はその一人であった。

本因坊算砂(1555-1623)

囲碁ばかりでなく、時の権力者の心を読むのにも長けていたと思われる。

算砂は、京都寂光院の僧で日海といい、囲碁と将棋に非凡な才能を有していた。

彼は、寂光院内の本因坊に隠居していたので、本因坊算砂と呼ばれていた。

 

信長に「そちはまことの名人なり」と認知されたのが、事の始まり。

秀吉からは20石、10人扶持を与えられていた。

家康が江戸に幕府を開くと京都から算砂を呼んで御前で対局させた。

このお城碁は二代目秀忠以降も引き継がれ、制度化される。

お城碁  (日本棋院HP)より

本因坊は3月に江戸に出て、11月にお城碁を上覧に供し、12月、京都に帰った。

しかし、4世本因坊道策から江戸に住むようになる。

京都へは、年に一度、寂光寺に墓参に行くように変わっていった。

なぜ、長々と本因坊家の事情を記して来たかと言うと、「本妙寺」にある歴代本因坊の墓には、4世道策から21世秀哉の墓しかないからである。

 歴代本因坊の墓(4世道策ー21世秀哉)

1世から3世の墓は、寂光寺にある。

なぜそうなったのか、その理由を歴史をさかのぼって提示したということになる。

ところで、信長、秀吉、家康の棋力はどのくらいだったのだろうか。

 秀吉と家康が対局した碁盤

3人とも初代本因坊に5子で打ったとされているようだが、疑問だ。

相手の棋力に合わせて本因坊が対戦していたに違いない。

 

囲碁の本因坊の墓あれば、「本妙寺」には、将棋の棋聖の墓もある。

天野宗歩。

 天野宗歩(1816-1859)の墓

幕末の棋士だが、大橋家、伊藤家の出ではないので、名人にはなれず、七段止まり。

しかし、力は抜きんでていて、実力13段と称され、「棋聖」と呼ばれた。

将棋は強いが、品行悪く、酒色にふけり、賭け将棋をしていた(ウイキペディア)というから魅力的なキャラクターだったに違いない。

棋譜は沢山残っているが、宗歩の実力が抜きんでているためほとんどは駒落ちというからすごい。

 「本妙寺」にはこの他、遠山の金さんこと、遠山景元や北辰一刀流の千葉周作の墓もある。

    遠山景元(遠山の金さん)の墓

     千葉周作の墓

 「本妙寺」は広い。

しかし、有名人の墓の案内は、道筋までがきちんと表示されていて分かりやすい。

墓所の説明板の内容も懇切丁寧だ。

だが、「本妙寺」は例外だと言って差し支えない。

普通はもっと不親切なのである。

 

「本妙寺」の山門を出て、左折すると染井霊園。

その手前を左折して細い路地を行くと「慈眼寺」前に出る。

路地の左、慈眼寺墓地 右、染井霊園  慈眼寺(日蓮宗) 明治45年本所  から移転

墓所は寺の前、細長く奥に伸びている。

有名人の墓の案内板が入り口にあるが、場所を特定していないから、まったく役に立たない。

それでも墓地の中を歩いて行くと「芥川龍之介の墓」の文字。

ここを入った突き当たり左側に芥川龍之介の墓がある。

それはいいのだが、この案内表示柱の右側の墓域は谷崎家の墓で、谷崎潤一郎の墓があることは何も教えてくれない。

谷崎潤一郎の墓は京都の「法然院」にあるのだが、ここには谷崎家の墓があるので分骨されてきている。

谷崎潤一郎の墓

あるいは、谷崎家の意向で案内表示がされていないのかもしれない。

そうであるのかもしれないが、芥川家の場合、龍之介と長男比呂志の墓は案内されているが、作曲家の三男也寸志の墓はすぐ近くにあるのに何の案内もないのは、芥川家の意向というより、寺が不親切なだけではなかろうか。

 芥川也寸志の墓

谷崎家の墓所の先には、江戸後期の洋画家・蘭学者の司馬江漢や儒学者の斎藤鶴磯の墓があり、こちらは詳細な解説板が立っている。

       司馬江漢の墓           斎藤鶴磯説明板

このブログのタイトルは「石仏散歩」。

だが、この「豊島区西巣鴨」と「豊島区巣鴨5丁目」にはこれという石仏はない。

墓標の地蔵や如意輪観音もほとんど見られない。

石仏愛好家には見向きもされない寺町である。

最後に、私ごとをひとつ。

「本妙寺」と「慈眼寺」の間に「すがも平和霊園」がある。

義弟がここに眠っているので、本堂の前で手を合わせてきた。

 彼は、ここのハイテク墓苑「電脳墓」に祀られているのだが、遺骨は大分県にある寺の本院の方に納められている。

寺から配られたICカードを挿入すると義弟の写真と位牌が仏壇風画面に現れるという仕掛けになっている。

我々は墓の前で手を合わせる時、個人の霊に語りかけているはずだ。

遺骨とともに霊もそこにいると思うからである。

「電脳墓」の彼の写真の背後には、大分県からその瞬間飛んできた霊がいるのだろうか。

霊だから瞬間移動が可能なのだといわれるとそんな気もするのだが、現代テクノロジーの斬新さとスピードに、霊が戸惑っているように思えてならない。

一方、 「何を血迷ったことを言うのか。電脳墓は現代のラントウバであり、詣り墓。これは見事な両墓制の復活です」と指摘されそうでもある。

 

 

 


17 シリーズ東京の寺町(1)ー豊島区西巣鴨その1-

2011-11-01 12:01:36 | 寺町

東京に寺町は多い。

20-30カ所はあろうか。

順次とり上げて行くつもりだが、1回目は、豊島区西巣鴨。

我が家から最も近いのがその理由です。

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都営地下鉄三田線「西巣鴨」駅でおりて国道17号を巣鴨方向へ。

寺町はその左側に展開しているのだが、国道から見えるのは「正法院」、1カ寺のみ。

本堂の屋根の上と境内のビルの壁に菊の紋章がある。

             正法院(天台宗) 豊島区西巣鴨4

「上野輪王寺」の書院を下谷車坂にあった「正法院」本堂として移築したのがその謂れ。

明治38年、そのまま現在地に移転きたというわけ。

境内に入ってみたかったが、ピタっと門が閉ざされている。

寺はもっと開放的であってほしい。

 

「正法院」の隣が「西方寺」(さいほうじ)。

表札に「道哲西方寺」とある。

「西方寺」が浅草聖天町から移転してきたことを「道哲」の二文字が表している。

「道哲」は坊主の名前、世間では「土手の道哲」と呼んでいた。

土手とは、日本堤の土手を意味し、日本堤は新吉原への通路だった。

刑場は此西方寺の門前すこしき所空き地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間余もあらんところに移されたり。この時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のために昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れリ。されば土手の道哲と唱へたりと」
御府内備考巻之十三
浅草之一 刑場蹟

土手にあった「西方寺」の住職が道哲で、彼は行き倒れや刑死者、寺に投げ込まれた遊女の遺体を手厚く葬った。

「浄閑寺」とともに「西方寺」も投込み寺として知られていた。

その痕跡が墓地の一角にある。

竿の部分に「投込み寺」、火袋に「土手道哲」と彫られた銅の灯籠が一基。

「土手八丁」、「浅草寺」、「待乳山」、「山谷堀」などの地名、寺号もあって、「西方寺」の元の場所がどんな所だったかがよく分かる。

この灯籠の後ろは「高尾太夫」の墓。

その隣に「道哲の墓」と言われる地蔵墓標が立っている。

    道哲地蔵墓標  高尾地蔵墓標 (西方寺墓地)

今や、時代は21世紀。

江戸時代は、はるか遠くになった。

江戸の事物はますます理解しにくくなっている。

とりわけ「吉原」をきちんと掌握するのは難しい。

単なる公認売春地帯としてなら理解は簡単だが、吉原特有の伝統、文化、風習となるとお手上げである。

「太夫」もその一つで、遊女の最高位だという。

中でも「高尾太夫」は吉原花魁の筆頭にあり、その名は代々襲名されていった。

高尾太夫

庶民なら1年1両で暮らせるという時代、高尾太夫と一晩遊ぶ金は、30両。

必然、客は大名か豪商ばかり。

歴代高尾は、落籍した大名の名で区別された。

ここ「西方寺」に眠る「仙台高尾」は、仙台藩主伊達綱宗に身請けされた高尾である。

「仙台高尾」は伊達綱宗の意に従わず、隅田川でつるし切られたという話があるかと思えば、「きみはいま駒形あたり時鳥」という文を高尾が綱宗に送るほど二人の仲はむつまじかったという説もある。

しかし、こうして高尾と道哲二人の墓が「西方寺」にあることを見ると、両説はともにマユツバに思えてならない。

高尾は誰にもなびかず「死んだら道哲さまのおそばに埋めて」と頼んで息を引き取った、という話がある。

辞世の句は「寒風にもろくも朽つる紅葉かな」。

「西方寺」の過去帳によれば、高尾の命日は、万治三年庚子歳十二月二十九日。

その四日前の十二月二十五日、道哲もこの世を去っていた。

 「道哲さまの傍に埋めて」という高尾の願いは、彼の死を知っていたからであろうか。

では、二人の接点はいつどこにあったのだろうか。

道哲の父は彦根藩江戸詰の硬骨の士だった。

家老の悪事を殿に注進したのが仇になり、切腹を仰せつかる。

息子道哲は浪人して再起の機会を狙っていたが、彦根藩主が高尾太夫に惚れて日参していることを聞き、ある夜、三浦屋に忍び込み、殿に直諫した。

この諫言で殿は自らの非を悟り、お家騒動は未然に阻止された、めでたし、めでたし!

ところで、このめでたい話には最終章があって、道哲の、命をかけての直諫の場に居合わせた高尾は、彼の雄々しい姿に一目ぼれしてしまった、というのである。

その後、彼は武士であることがいやになり、僧となって日本堤に草庵を営んだ。

それが「西方寺」の前身であった。

 

2体の地蔵を見比べてみる。

道哲地蔵は眉目秀麗、イケメン地蔵であるのに対して、高尾太夫の地蔵はひどい。

   道哲地蔵墓標              高尾地蔵墓標

とても名妓の顔とは思えない。

写真の撮り方が悪くてそのひどさが伝わらないのが残念だ。

石工は、高尾の墓と知っていたのだろうか。

何か悪意が働いているとしか思えないほどだ。

 

「盛雲寺」の墓地には、新門辰五郎の墓がある。

盛雲寺(浄土宗)明治41年下谷から移転  新門辰五郎の墓

侠客ややくざが嫌いで、彼らが主人公の小説は読んだことがない。

映画も観たことがない。

だから、新門辰五郎なる名前は知っていたが、その人となりは全く無知である。

ネットで検索、徳川慶喜の警護役をずっとやっていたことを知った。

歴史の転換の最前線にいたわけだが、娘が慶喜の妾だったからという理由が面白い。

慶喜を擁護したからと言って、維新後の新政府に嫌がらせをされることもなかったようだ。

浅草六区の香具師の総取締でもあって、あがりのテラ銭で押し入れの床がぬけたという伝説があるらしい。

「新門は、しんもんではない。あらかどと呼べ」とどなっていたという話もある。

だからどうした、と言われると困るが、検索したらこんな話があったよ、とただそれだけのことです。

 

 隣の「妙行寺」へ行くには、都電の線路を越えて、Uターンして来なければならない。

この寺町は、墓地を囲んで寺がある形になっている。

各寺の墓地は、中央部分で接しているわけで、墓地伝いに行けば近道になる。

妙行寺(日蓮宗) 明治40年四谷から移転

だが、墓地から「妙行寺」へは入れなかった。

他の寺にはない囲いがあるのだ。

仕方なく、遠回りをして「妙行寺」へ。

この寺の墓地の有名人と言えば「お岩さん」。

        お岩の墓(妙行寺

お岩伝説を改めて書きはしないが、ひとつだけ付け加えておく。

それは、戒名。

「得証院妙念日正大姉」。

なぜ 院号なのか。

お岩さんといえば、たたり。

何度、追善供養をしてもたたりは続いたが、戒名に院号をつけたらピタっとおさまつたと言われている。

この話は寺の宣伝臭がする。

院号を付けるのには大金がいる。

しかし、効力があるのだから、大金を払っても惜しくはない、そう思わせる寺の陰謀ではないか。

 

「妙行寺」の隣は「善養寺」。

 善養寺(天台宗) 下谷から明治45年移転

僕にとっては忘れられない寺である。

『(8)八万四千体地蔵』でも書いたが、八万四千体地蔵に関心を抱くきっかけは、ここ「善養寺」の4体の地蔵だった。

寺伝を見ると、もとは下谷にあって寛永寺の子院だったというから「浄明院」とは親類関係にある。

八万四千体地蔵があっても、少しもおかしくないのである。

本尊は薬師如来だそうだが、本堂を覗くと目に入るのは巨大な閻魔さま。

江戸三代閻魔の一つだそうだ。

地獄はあるかもしれないと思っている現代人でも、閻魔となると首を傾げるだろう。

閻魔の存在をリアリティを持って信じられなくなるに比例して、仏教徒の信仰心が希薄になってきた、と言えるかもしれない。

「善養寺」には、この他、尾形乾山と相撲の武蔵川理事長の墓がある。

          尾形乾山の墓          武蔵川理事長の墓 

「善養寺」の右隣は「清厳寺」更に「良感寺」と続いて、墓域を取り囲んだ形の西巣鴨寺町は一周することになる。

 清厳寺(曹洞宗) 大正11年、小石川小日向台町から移転

良感寺(浄土宗) 大正3年、下谷から移転           

 レトロな商店の脇の路地を入ると塀にぶつかる。

そこが寺町の墓域。

寺町を構成する7カ寺は明治の末から大正にかけてここに移転してきた。

だから、ここには、明治や大正の時代を色濃く残す道具がある。

汲み上げポンプの井戸。

 どの寺でも現役として機能しているのがすごい。

     妙行寺のポンプ            良感寺のポンプ

今、気がついたのだが7カ寺の境内と墓地のどこにも、庚申塔や馬頭観音が見られない。移転してきたことと関係があるのだろうか。

(1-B)に続く。