石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物 ⑨ 女坂

2018-08-26 08:22:23 | 寺院

何が嫌いかといって、坂とか石段ほど嫌いなものはない。

それも上り坂。

心臓に欠陥があるからだが、段数と勾配を見て、上らずに引き返すことが少なくない。

目黒不動の男坂は、そんな私でも辛うじて上ることができる石段だが、でも実際には、女坂を無意識に選んでしまう。

          左 男坂                右 女坂

段差が低く、上りやすいのと、直線的でなく、踊り場で曲折しているのがいい。

ところで、最近は、性差別がうるさいが、「女坂」は該当しないのだろうか。

女坂の前に立つ。

坂が2本ある。

左を上る。

石室の中に痩身の老人が高下駄を履いて、腰掛けている。

一本歯ではなく、二本歯の高下駄だが、神変大菩薩の銅像です。

神変大菩薩は、仏教界からの呼称で、通称は役小角。

実在の人物らしいが、その逸話はまさに「伝説的」。

流刑先の伊豆大島から、毎日、海上を走って、富士山に通い、修行したというのだから、恐れ入る。

どうも日本古来の神ワールドと仏教ワールドが混在した世界の傑物のようです。

鬼を2匹小間使いとしてこき使っていた伝説は有名で、北斎も描いている。

石室の中にも役小角の背後両側に、鬼が立っているのが見える。

この像が鋳造されたのは、寛政8年(1796)。

髭や衣文など細部にまで神経の行き届いた作品で、作者は、鋳工太田駿河守藤原正義。

銅像の胸、腹、腕各部に、願主や寄進者の名前とともに藤原正義の名が刻まれています。

 

ところで、なぜ、役小角像が、ここにあるのだろうか。

彼は、山岳修行者の元祖。

そして、山岳修行に滝行は欠かせない。

     目黒不動 独鈷の滝 滝行場

滝行地として鳴らした目黒不動に、役小角像があっても、なんの不思議もない、ということのようです。

 

もう一度、最初の場所に戻る。

右に「女坂」の石碑。

下部にも文字があって、「女坂水音ききてまた祈る」。

その水音は、しゃちほこ立ちの龍の口からほとばしる手水の音。


136 目黒不動の石造物⑧地蔵堂、精霊堂

2018-08-19 10:06:04 | 寺院

 

地蔵堂の扉がちょっと開いている。

覗いてみたら、お地蔵さんを挟んで、右に閻魔さま、左に奪衣婆が座していらっしゃる。

堂前には、寺の「お知らせ」が掛かっている。

「毎月二十四日はお地蔵様のご縁日です。
  午後二時より法要がございます。
  ご自由にお入りください。
 みなさまとご一緒に
 般若心経をお唱えします。」

そういえば、阿弥陀堂や観音堂にも同じように、縁日と法要告知がされていた。

昔ながらの仏教行事をきちんと持続している、今時珍しい寺院なのです。

後生車がある。

左面には「遊化(ゆけ)六道/抜苦与楽」と刻されている。

ネット検索したら、『延命地蔵経』に「仏告帝釈曰、有一菩薩、名曰延命地蔵菩薩。毎日晨朝入於諸定、遊化六道、抜苦与楽 云々」とあることが分かった。

お地蔵さんは、毎朝、人間界にも現れて、人々を苦しみから救い、楽にしてくれるという意味だという。

後生車は新しいが、その前の灯籠一対もピカピカ。

竿部の朱文字は「開山慈覚大師/一千百五十年記念/平成二十四年七月吉祥日」と読める。

江戸時代前期のものと平成造立のものとが混在するのも、目黒不動の特徴の一つかもしれない。

 

地蔵堂の右、精霊堂との間に高い立派な石碑が立っている。

「春洞西川先生碑」と大書してある。

無教養で、西川春洞氏を知らない。

Wikipediaからの引用です。

明治、大正にかけて活躍した書道の大家で、その門に学ぶ者、2000名といわれた。明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁したのは日下部鳴鶴であるが、これに拮抗する唯一の大きな系列を形成したのが春洞である。今日の漢字書道界の基礎はほとんどこの2人の系列を中心につくられた。」

碑裏にびっしりと字が刻まれている。

春洞の8人の弟子の名前もあるが、私は、一人も知らない。

しかし、知っている名前が碑の側面にあった。

「井亀泉刻」。

井亀泉(せいきせん)は、明治時代の石工の第一人者。

一流の書家の書を、一流の石匠が彫った、一流の顕彰碑ということになる。

 

「精霊堂」は「せいれいどう」なのか、「しょうりょうどう」なのか。

堂内には、六地蔵の前に、お地蔵さんと閻魔、奪衣婆の地獄トリオが並んでいます。

  奪衣婆を後ろら見ると


 なにやら金精様に見えなくもないが・・

六地蔵の頭上の壁面に「西の河原地蔵菩薩和讃」が掲げてあることを見るに、夭逝者と水子の霊を弔うお堂のようで、それならば「しょうりょうどう」ということになる。

 …『帰命 頂礼 地蔵尊
   物の哀れのその中に
  西の河原の物がたり
  身に心の耐えがたき
  十より内の幼な子が
  広き河原に集まりて
  父を尋ねて立まわり
  母をこがれて歎ぬる
  余りの心の悲しさに
  石を集めて塔を組む
  一つ積んでは父を呼び
  二つ積んでは母恋し
  乳房を与え給えかし
  一口飲まば歎くまじ
  東に西に駆けまわり
  声を張上げ悶えても
  親と答うる声もなし
  暫し泣き居る有様を
  地蔵菩薩は御覧じて
  今より後は我を皆
  父とも母とも思べし
  われもわれもと集りて
  大悲の仏に縋る子を
  抱え給うぞ有り難き』

 

地蔵堂の右手奥には「刷毛筆供養塔」。

「刷毛筆供養塔」の側に書の大家の顕彰碑を建てたのか、西川春洞という書家の顕彰碑の近くに「刷毛筆供養塔」を建てたのか。

ま、どっちでもいいけれど。

もしかして、無関係だったのだろうか。

≪続く≫

 

 

 

 

 

 


 
 


136 目黒不動の石造物⑦社務所、阿弥陀堂、観音堂

2018-08-12 08:20:22 | 寺院

仁王門から男坂に向かう参道、その右方向、東側に見えるのが、阿弥陀堂。

正面の阿弥陀堂の右に社務所、左に観音堂があります。

阿弥陀堂の玄関左には「天台宗大本山/目黒不動尊別当/瀧泉寺本坊」の立て看板が掛かっている。

玄関右は、御朱印所。

本坊前に「南無阿弥陀仏」の六字名号塔があるのが、いかにも阿弥陀堂らしい。

〇〇年××月造立。

本坊に向かって左には、観音堂。

江戸三十三観音霊場の三十三番札所、つまり、ここが結願所ということになります。

御詠歌は「身と心 願ひみちたる不動滝 目黒の杜におわす観音」。

年に何人のお遍路さんが結願するのだろうか。

観音堂前の石灯籠には、寛文九年(1669)三月吉日の銘がある。

更ににもう一対、新しい石灯籠は、昭和61年(1986)、城南講の講元から寄進されたもの。

城南講の名前は、境内石造物のいくつかに見られる。

現在も活動しているのだろうか。

阿弥陀堂を出て、右へ回ると、白壁沿いに水が流れている。

ちょっとした別世界のムード。

その先に見えるのが、地蔵堂。

地蔵堂前に橋らしき石造物がある。

下は暗渠になっていて、水は、独鈷の滝から流れ出していると思われます。

≪続く≫

 

 

 


136 目黒不動の石造物⑥参道(仁王門→男坂)の両脇境内

2018-08-05 05:36:43 | 寺院

     「henkyのブログ」より無断借用

境内図を作成する能力がないので、ネットから借用。

しかも無断盗用で、まことに申し訳ありません。

今回は、汚く赤で印をつけた3か所の石造物について。

まず、男坂に向かって左の樹木の下。

石仏が1体座していらっしゃる。

左手に本来あるはずの薬壺がないが、薬師如来でしょう。

全体に黒っぽいのは、戦禍に巻き込まれたせいか。

 

次に仁王門横のトイレ。

看板に「湯放処」とあり「ゆまるところ」と仮名がふってある。

入口の石柱の上に石仏がおわす。

見かけない像容だなと思ったら、下に「うすさま明王」とある。

うすさま明王は、トイレの守り神。

東京では、ほとんど、見かけない珍しい仏様。

烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い。(Wikipediaより)

うずさま明王を祀る伊豆市の明徳寺では、下半身の病気に功ありありとして、便器をまたいで、祈願する習わしがある。

 便器型の祈願所(明徳寺)

私も祈願したが、前立腺肥大が悪化、先月手術したばかり。

跨ぎ方が悪かったせいだろうか。

 

地蔵堂前の藤棚の下には、宝篋印塔が在します。

高さ4m。

中央正面に「寛政十二庚申歳/正月吉辰/願主/中橋西会所/小倉庄助/稲貞隆敬書」。

 

左面から「観天宝篋印塔婆/者法界體性諸佛/・・・」と裏面、右面へと続く。

台石には、石工、鳶頭の名前が刻され、「安政六年再興」の文字も読める。

安政の大地震で倒壊したものを再建したものか。

≪参考資料≫

◇「目黒不動の金石物一覧」(『郷土目黒』NO40/平成8年)