石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-33-神田火災死亡者記念碑(湯島4-1-8麟祥院)

2019-08-18 07:55:58 | 石碑

 シリーズ「文京区の石碑」は、前回の「護国寺の石碑ー2-」で終わる予定でしたが、麒祥院の石碑を忘れてはいけないので、追加しておきます。

春日通りから幅広の参道が伸びている。

品格ある山門が全体の雰囲気を引き締めている。

麟称院の山門をくぐる。

静謐な空気が支配している。

正面の亀趺碑は、「麟称院建立由緒碑」。

「天沢山麟称院」は、三代将軍家光を育て、名君に仕上げた春日の局の菩提寺。

「一介の浪人の妻が縁あって幕府に仕え、功成り名を遂げたのは、天の恩沢の賜であり、幕府の恩恵に浴するところ」と感謝し、恩恵に報いるために自ら建立したのが、「報恩山天沢寺」。

それを「天沢山麟祥院」と改名を命じたのは家光。

「麟祥院」は、彼女の法名「麟祥院仁淵了義尼大姉」を寺号にしたもの。

彼女の墓は、風変わりだ。

台石とその上の無縫塔の四方に穴が開いている。

「死後も黄泉から天下の御政道が見通し得る墓を作ってほしい」と遺言にあったのだそうだ。

◇神田火災死亡者記念碑(麟称院内)

山門をくぐり、左へと参道を行った突き当りに3基の石碑が並んでいるが、その右端のひょろ長い自然石が「神田火災死亡者記念碑」。

その上部に「明治二五年/辰四月十日」と分かち書きしてある。

「明治25年4月10日、午前11時15分、神田猿楽町一番地ヨリ出火、前日来吹キ続ケル西北ノ烈風ニ煽ラレ、忽チニ同区表裏神保町、小川町一番地、錦町一丁目、ソノ他三河町二丁目、日本橋区本石町二丁目等ニ飛火シ、二十五ケ町四千百五十余戸ヲ全焼シテ鎮火ス。死者、二十五人ヲ出ス。」(東京市史稿)

火災の記念碑だが、ローカルな火災記念碑は極めて珍しい。

左隣、中央の石碑は「中華民国留学生發亥地震遭難〇魂碑」。

そして、その隣、左端の石碑は「大正大震災横死者之碑」。

そして、他に「東洋大学発祥之地」碑もある。

裏面に刻されている文面は

「明治二〇年(1887年)九月十六日、
 井上円了は民衆に教育の機会を開放し
 かつ哲学を中心とする教育を行うことを
 目的として、東洋大学の前身である哲学館を
 この地に創立した。
     昭和六十二年九月十六日
       東洋大学創立一〇〇周年記念建立」

 

 年明けとともにスタートした「文京区の石碑」リーズは、今回で終わり。次回からは、「東京都北区の石造物」です。

 

 

 

 


137文京区の石碑-32-護国寺の石碑(2)

2019-08-11 08:28:33 | 石碑

護国寺の石碑続編。

◇報国六烈士碑

太子堂前の石造物群の途中で、前回は終わった。

石碑でない石仏の身代わり地蔵や一言地蔵はパス。

 

その隣の「陰陽道先師留魂碑」は、日本陰陽会(現日本疫学連合会)が、昭和10年(1935)、建てた業界先人の慰霊碑。

本堂がある境内へ。

鐘楼と本堂の間、右側に4基の石碑が並んでいる。

3基は、とにかく大きい。

一番手前は、梔園小出翁碑。

歌人だそうだが、私はまったく知らない。

次に、「報国六烈士碑」。

日露戦争でロシア軍背後の交通、通信網破壊の命を帯びた6兵士の慰霊顕彰碑。

この碑は、明治41年に建てられたが、その後、同様な碑が各地に建立されているらしい。

その隣は、「棋聖宗員の碑」。

将棋の十一世名人、八代目伊藤宗員の顕彰碑。

左端の小碑は、「討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査」とあり、西南戦争戦死者の慰霊碑。 明治13年(1880)に建立されたもの。

私は、昭和13年生まれだが、明治13年の出来事は、歴史的事件と受け止めている。

ということは、令和生まれの人たちにとって、昭和の出来事もまた、歴史的な出来事で、身近に感ずることはないんだろうな。

この4基の石碑の背後、つまり本堂に向かって右側と本堂裏側は墓域で、明治の立役者の

 墓が並んでいる。

           山形有朋

 

           田中光顕

          大隈重信

       松平不昧公

         三條実美

先ほども述懐したが、私にとっては教科書でみた人物ばかりです。

本堂裏にひときわ高い宝篋印塔があるが、これは「秩父三十四所総開帳供養塔」。

秩父札所の各寺が財政困難でひっ迫すると江戸での開帳を行った。

その開帳の場所は、護国寺と決まっていて、その恩恵を謝とする記念塔。

「秩父三十四所総開帳供養塔」の近くにある「西国三十三所写」は、もともとここにあったもの。

かつて本堂裏は今のように整備されておらず、山野のままだった。

その地形を利用して、西国観音札所の写しがあった、その入口石標。

本堂左側に移動する。

薬師堂前の植栽の中にあるのが、「象供養塔」。

建立主は、象牙組合というから、納得。

乱獲を助長して、今更「供養」しても始まらないとは思うけれど。

薬師堂と忠霊堂の狭い道を行くと出会うのが、巨大な庚申塔。

三猿が台座を支え合う斬新なデザインで、国の有形文化財に指定されている。

今回は、石碑がテーマなので、庚申塔にこれ以上深入りしないが、境内には、このほか3基の庚申塔がある。

巨大庚申塔の背後は、廃棄物集積場のようだが、その中にポツンと忘れられたかのように佇むのは「忠魂塚記念碑」。

日清戦争で故国のために戦い戦死した兵士の遺骨を収集、その霊を悼む記念碑。

石碑建立の前は、ここに小墳があったが「爾来三十有余年人之を知る者甚だ稀なるに至れり」供花を供える者など皆無になったことを憂いて、この「忠魂塚記念碑」が建てられたのは、大正15年(1927)だった。

それから90年近く、いまや廃棄物とさほど変わらない扱いのまま、存立している。

と、この「忠魂塚記念碑」の状態に拘るのは、この奥には旧日本陸軍墓地があって、日清、日露、満州事変、各戦争の戦死者合葬墓と慰霊碑がきちんと整備されているからです。

墓地中央正面にあるのは「音羽陸軍埋葬の地英霊の塔」。

英霊の塔由来碑もあるので、碑文を転載しておく。

 この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています。本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。毎年十一月には、その遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。    平成七年十一月十一日              財団法人 日本郷友連盟東京都支部 

 個人墓も約30基ほどある。

大砲の弾を墓石にしたものもあって、いかにも陸軍墓地らしい。

墓地の一隅にある多宝塔は日清戦争戦死者の慰霊塔。

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑ー31-(護国寺/大塚5-40)

2019-08-04 13:48:42 | 石碑

護国寺には、多数の石碑がある。

全部はとても無理なので、主だったものをいくつか紹介したい。

仁王門をくぐると正面に、長い石段とその上に不老門が見える。。

その石段の右手前の植栽に数基の石造物がある。

その中央にあるのが、

◇「からすの赤ちゃん」の碑

童謡「からすの赤ちゃん」を作詞・作曲した音羽ゆりかご会の海沼実の3回忌と音羽ゆりかご会創立40周年を記念して、造立されたもの。

楽譜を刻んだ黒御影に「からすの赤ちゃん」の歌詞一番だけがはめ込まれている。

からすの赤ちゃん
    海沼実 作詞
        作曲

からすの赤ちゃん なぜなくの

こけこっこの おばさんに

あかいおぼうし ほしいよ

あかいおくつも ほしいよ と

かあかあなくのね

「からすの赤ちゃん」碑の右手には、「音羽富士」の登り口があるが、その傍らに立つ「私立獣医学校発祥の地」碑は、日本獣医生命科学大学(旧日本獣医畜産大学)創立130年記念碑。

「からすの赤ちゃん」左の「民謡碑」は、江差追分と佐渡おけさを十八番とする民謡愛好家青木好月の顕彰碑。

アマチュアの顕彰碑とは珍しい。

 

 不老門へと上がる石段の左手高方に見えるのが、義海和尚咸恩碑。

Wikipediaによれば、護国寺住職から総本山長谷寺化主となった高僧という。

不老門をくぐり、右へ。

太子堂への道の左側は、石仏、石碑、石塔などが並んでいる。

針供養塚

筆供養塚

修験者3人の修行記念碑もある。

右から

富士登山五十五度
修行記念 手塚作〇
西国秩父坂東百観音

富士登山二十五度
修行記念先達 井上清吉
御嶽山 五度
羽黒山月山湯殿山

西国秩父坂東
修行記念 森田延太郎
百観世音

修行記念碑の向かいには「安倍仲麿碑」がある。

実業家で茶人の高橋箒庵氏が寄進したものという。

太子堂に向かって左の一段高い植え込みには、境内、墓域から集められた墓標石仏群が見られる。

今回は、石碑がターゲットなので石仏はスルーするが、下の2基は好きなので・・・

 

 

 

 

 

 

 


137文京区の石碑-30-白山神社の2基の石碑と鶏声の井記念碑

2019-07-28 08:42:17 | 石碑

白山神社には、2基の石碑がある。

一つは、鳥居をくぐって、左側の「孫文先生座石」碑。

由緒記
 明治43年5月中旬、神社近くの旧原町の盟友宮崎滔天宅に奇遇していた孫文は、滔天と共に白山神社の境内の石に腰掛けながら語り合った。中国の将来と方策について論じて、時の経つのも忘れた。その時、たまたま夜空に光芒を放つ一条の流れ星を見た。この時、祖国の革命を心に誓ったという。そして彼は、清朝を倒して辛亥革命の最高指導者になり、中国国民党の創設者となった。
 白山神社の清水宮司を中心に有志は、孫文が流星を見て清朝を打倒して新中国国民を救済せんとの決意を固めた場所を、後世にまで明らかにしようとして記念碑を建立した。
  昭和58年6月  白山神社総代 各町会有志建立

 碑文にしては、こなれない文章だが、文意は判る。

境内の石に座りながら宮崎滔天と祖国中国の将来を語り合っていた孫文は、たまたま見た一条の流星に革命者になることを心に誓った、いうもの。

だが、肝心の孫文が座った石がない。

白山神社近くに住んでいた二人だから、夜、境内で話し込んだ可能性はある。

何の確証もない話を「後世にまで明らかにしようと」石碑を建立するとは、なんと大胆な。

こうした「こじつけ伝説」は神社の得意技のひとつで、境内のもう一つの石碑には、その伝説が読み取れる。

◇旗桜の碑

境内社の八幡神社の御神木は、白旗桜と呼ばれる。

白い花で、突然変異なのか花弁の一つがピョコンと立って、まるで旗を立てたかのように見えるので、「白旗桜」。

写真はいずれも他サイトからの無断借用。

(気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録 より)

ごめんなさい。

白旗桜の樹下に由緒記碑がある。

「人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり・・・・・・」

要するに、永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、義家が旗を立てて祈願せられた時の桜ということで「旗桜」だということらしい。

しかし、白山神社が江戸時代初期、小石川植物園の地から当地に移転してきた歴史的事実からすると、八幡太郎義家が旗を立てて祈願したという伝説は、でっちあげというしかない。

旗桜は、江戸三名桜のひとつに数えられ、昭和10年には国の天然記念物に指定された。

 しかし、そのわずか2年後に枯死してしまう。

現在あるものはその後継樹です。

◇鶏声の井記念碑(白山5-13-5 京華女子高前)

 

 白山通りに面して京華女子高があり、道路側の植え込みの中に石碑が1基ある。

 

碑表には、縦書きで

鶏声の井旧跡

白河楽翁公が酒井家隣地一橋
邸に参向の砌鶏声の井戸を
見て詠める歌

筒井筒 いつの暁くみ初めて
  鶏の八声の 名にや立つらん

 そして右側面には

伝ふる所の鶏声の井はこれより正南二十五尺の地点にして人家の床下にあり、原町自治会は久しからずしてその殲滅せんことを慮り昭和3年4月この碑を建つ。伯爵 酒井忠正書」

 石碑は、寿命が長い。

時には、対象の記念物がなくなって、碑だけが残ることもある。

この「鶏声の記念碑」が建てられたのは、昭和3年(1928)だったが、その時既に井戸は、人家の床下に埋まって、人目につくことはなかった。

「このあたりに鶏声の井があったことを喚起するために」建立された石碑は、その後、2回、移転を余儀なくされ、昭和49年、この地に落ち着いた。

「鶏声の井」があった場所とは無関係な場所に立つ記念碑は、存在理由があるのか、疑わしい。

記念碑の傍らの説明板によれば、「その昔、夜、鶏の鳴き声がするので、その葉所を掘ったら、金の鶏が出てきたので、その井戸を鶏声の井と呼び、界隈は「鶏声ケ窪」と呼ばれた。明治2年(1869)、「鶏声暁に告ぐ」から町名を「暁町」にした」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-29-一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

2019-07-21 08:52:46 | 石碑

白山通りに面した洋服の量販店の前、ウインドーに接した形で、碑はある。

赤い店名の看板がけばけばしくて、一葉碑は沈み込んだように目に付きにくい。

近寄って見る。

◇一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

自然石の「一葉樋口夏子碑」とステンレススチールの「樋口一葉終焉の地」説明板がある。

花が供えられている。

「丸山福山町町会」とある。

「隣に酒うる家あり、女子あまたいて、・・・遊び女に似たり。
 常に文書きて給われとて、わがもとに来る。ぬしはいつも
 変わりて、そのかずはかりがたし(一葉日記「しのぶぐさ」)

上は、文京区制作の旧町名案内の文面の一部。

この地は、今は西片だが、昭和39年までは「円山福山町」だった。

 

まずは、自然石の碑から。

一葉樋口夏子の碑

 花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに雨風のみつヾきたるに 
かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参いよいよ転居の事定まる 
家は本郷の丸山福山町とて阿倍邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが
有けり守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず 
家賃は月三円也たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも 
わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ

 上一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす

 

この碑の左隣に、ステンレス板を折って、上面と縦面の両面を使っての説明板がある。

まずは、上面から、

 樋口一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。一葉はこの家を懐かしみ”桜木の宿”と呼んだ。父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。                    終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。

正面向きの縦書きは、右隣りの一葉樋口夏子碑の変体仮名を現用仮名に変えて読みやすくしたもの。

 

原文と同じく縦書きにしてある。

現用仮名にしてあっても、私は、すんなり読むことができない。

「変体仮名だから読めなくて」と言い訳することもできない有様で、なさけないこと夥しい。

 

 


137文京区の石碑ー28-童謡関連顕彰碑2基(吉祥寺 本駒込3-19-17)

2019-07-14 08:31:38 | 石碑

 

本駒込の吉祥寺は、曹洞宗の檀林としての巨刹で、墓地に五輪塔が目立つのは、大名家の墓域が多いからだとは知っていた。

だからそうした格式とはちょっと無縁な、童謡関連の顕彰碑が2基も境内にあるとは意外だった。

2基の石碑は、本堂に向かって右の墓域の前面に前後するように立っている。

前のやや小ぶりな自然石は、作曲家・河村光陽記念碑。

表面は横書きで

 

河村光陽先生記念碑

童謡一路

 かもめの水兵さん

     武内敏子作詞
     河村光陽作曲

この武内、河村コンビの作品は、「赤い帽子白い帽子」、「うれしいひなまつり」、「グッドバイ」、「船頭さん」、「りんごのひとりごと」など多数。

その大半は、河村の長女が歌ってレコードになったが、次女のピアノ、三女のバイオリンを加えた

フアミリー演奏会の四季をするのが、晩年の彼の楽しみだったという。

この碑の造立は昭和33年(1958)、その30年後、後方の小出浩平顕彰歌碑が建てられた。

高さ160cm、幅190cmの堂々たる石碑の前面には、童謡「こいのぼり」の譜面がはめ込まれている。

作詞・作曲者は小出浩平とあるのは、この碑が小出浩平顕彰碑であるのだから当然のことだが、実はこれには異論があって、作詞・近藤宮子、作曲・不明とするのが、現状では正解らしい。

というのは、この作詞作曲をめぐって裁判が行われ、小出氏の関与が否定されているからです。

この裁判については、池田小百合「なっとく童謡・唱歌」http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00showa1.htm

 に詳しく解説されているので、参照ください。

 

顕彰碑にケチをつけた形になったが、氏の略歴が碑裏に刻されているので、そのまま載せておきます。

 

1、明治30年8月14日、新潟県南魚沼郡塩沢町仙石に生まれた。舞子小学校、高田師範学校を経て、大正14年東京音楽学校卒業。
1 南西小学校、香川師範学校、東京赤坂小学校、城東小学校歴任。昭和12年学習院大学教授になり、皇太子殿下(昭和天皇)、義宮電化の音楽御教育係りを拝命、昭和39年三室戸学院理事、東邦音楽大学副学長の要職につき、日本音楽協会を始め、多数の会の会長として活躍。
1、この間に、日本で最初の学年別基礎獅童 レコードによる鑑賞指導、楽器指導、創作指導を音楽教育に取り入れ、わが国音楽教育を一変させた。
また、唱歌新教授法、合唱曲集等の多数の著書や雑誌を編集、こいのぼり、おしし等の愛唱歌、900余の校歌の作曲、NHK、TBSその他多数のコンクールの創始、審査、更に放送、講演等により、日本の音楽教育を今日あせしめた功績は絶大である。
よって茲に歌碑を建立し顕彰する次第である。
   昭和54年11月18日 小出浩平先生顕彰碑建立実行委員会 合成青出書

 

経歴を書き写しながら疑問を抱いたのは、これだけの要職を経た人物が、作りもしない童謡「こいのぼり」の作詞作曲者として認めるよう裁判を起こすものだろうか、ということ。

複雑な事情が背後にあるようだが、深入りするつもりはない。

 

◇松尾水(南谷寺 本駒込1-20-20)

 南谷寺は、目赤不動としてよく知られている。

本堂左の墓地の中に「松尾水」碑がある。

「松尾水」が酒作りに最適な水であることを知る者は、そう多くはなさそうだ。

「松尾」は、京都の酒の神「松尾神社」の松尾です。

墓地の一画に八角形の金属製の蓋をかぶせた井戸があり、この井戸の水が松尾水だというもの。

深さ約13mの井戸は、今は枯れてしまっている。

地下鉄工事が影響したものとみられている。

この石碑が珍しいのは「松尾水」なる碑文だが、この井戸の寄進者と碑文の書家が、明治時代の東京の有名な起業家であることも忘れてはならない。

井戸の寄進者神谷傳蔵は醸造家で、あの「電気ブラン」の生みの親。

浅草の神谷バーでは、今なお、電気ブランが売られている。

一方、碑文の書家は、守田宝丹。

「宝丹」は商品名でもあって、芳香解毒剤「宝丹」は、明治時代爆発的に売れた。

実業家として成功した守田治兵衛(宝丹)は、東京府会議員になる。

彼は書家としても有名で、神谷傳蔵とともに南谷寺本尊の目赤不動の熱烈信者だった関係で、この「松尾水」碑が造立されることになる。

 

 

 


137 文京区の石碑-27-高島秋帆墓と顕彰碑(向丘1-11-3大円寺)と戦没軍馬犬鳩慰霊碑(光源寺)

2019-07-07 08:07:29 | 石碑

高島秋帆と聞いて何者か分かる人は、そんなに多くはないように思う。

なのに私が知っているのは、私が板橋区民だから。

板橋区の高島平という地名は、高島秋帆の指導の下初の洋式砲術の演習を行った徳丸ケ原を、彼の名に因んで改名したもの。

◇高島秋帆の墓と顕彰碑

墓は、大円寺の墓地の奥まった一角にある。

碑表が崩れて、高島の高だけが辛うじて読み取れるだけ。

もうすぐ前面が崩落しそうだ。

 

顕彰碑は、本堂前左にある。

全文漢文で私には読めないが、最上段は、右から縦に二文字ずつ左へ「火砲/中興/洋兵/開祖」とあるようだ。

高島秋帆(寛政10・1798-慶応2・1866)は、長崎生まれ。砲術師範役の父の職を継ぎ、砲術を研究、日本初の西洋砲術を考案した。

天保12(1841)年、幕命により、徳丸ケ原で砲術演習を行った。

しかし、翌年、様式砲術訓練は謀反の企てがあるからだ、というざん訴により投獄され、10年間の蟄居を言い渡される。

11年の蟄居の後、再び、幕府の講武所(のちの陸軍所)の教授を任ぜられ、慶応2年(1866)、現職のまま、病死した。

 

戦没軍馬犬鳩慰霊碑(向丘2-38-22 光源寺)

 

光源寺は、駒込大観音で有名だが、私には、ユニークな千手観音石仏がある寺として、記憶されている。

千手がまるで羽のように刻されて、忘れがたい造詣です。

その光源寺の境内、道路に背を向けた形で立つのが「戦没軍馬犬鳩慰霊碑 」。

この慰霊碑の特異性は、軍馬だけでなく、軍犬や軍鳩も慰霊の対象となっていること。

犬の有用性については、警察犬や入管麻薬犬などで、誰でも知っているが、鳩が通信手段として使われていたことは、年代によっては知らない人が多いだろう。

敵の鳩交信を妨げるべく、ヒトラードイツ軍は鷹を放ったという。

鷹から逃げるうちに、方向感覚が狂って帰れなくなるらしい。

軍犬の弱点は、大きな音に弱いこと。

私は、何匹か犬を飼っていたが、どの犬も雷を怖がった。

雷が鳴ると机の下に潜り込んで、震えている。

体格のいい秋田犬も同様で、体の大小は関係ない。

大砲や爆弾が落ちる戦場では、音におびえて、犬は役に立たなかったと云われている。

それでも多数の軍犬が満州にはいたが、敗戦と同時に始まった本土引き上げに、人間と一緒に連れ戻された犬は皆無だった。

だから、この「慰霊」碑は、謝罪の意が込められている。


137 文京区の句碑-26-太古の遺跡と動坂遺蹟

2019-06-30 09:03:17 | 石碑

◇太古の遺跡(徳源禅院 本駒込3-7-14)

太古の遺跡は、本駒込の徳源禅院にある。

 遺蹟が発見されたのは、明治26年(1893)、今から126年も前のこと。

動坂中腹にあった目赤不動改修の際、地下から多数の土器、石器塔が出土した。

これら出土品を「太古の」と時代判定をしたのは、東大人類学教室の坪井教授。

坪井氏は、アイヌ以前の日本の先住民はコロボックルだと考えていた。

そしてこの出土品をコロボックル遺蹟と判定、アイヌ以前の昔の「太古の遺跡」であると認定した。

石碑の表面には、上部に「太古の遺跡」と2行、下部右に「干明治二六年」とあり、

碑裏には

干時明治26年発巳8月中当所不動堂修繕之際、此所之地下、五・七尺之間において古代之土岐及び雷斧石(らいふせき)之類数品掘出得たり。大学人類学教授坪井正五郎君に鑑定を乞い、其日本最古の人類コロボックル時代の器具たるを知れり。コルボックルアイヌ人種の前にありて、今を去る三千有余年と云、真に考古学の要品と言うべし。因って此中の異品をえらみ、額面に製し、当不動堂及び浅香町南谷寺に安置の目赤不動堂前に収め、且つ坪井君の解説をも添えたり。探古の雅君に一覧をたまわらば拙が幸甚となす所なり。  明治28年乙未6月大吉祥  森田宝丹 謹書」と刻されている。

この「太古の遺跡」は動坂中腹から発掘されたもので、「動坂遺蹟1」とすると「動坂遺蹟2」に相当する遺跡が動坂公園内にある。

◇動坂遺蹟Ⅱ(都立駒込病院 本駒込3-18)

この動坂遺蹟Ⅱは、動坂遺蹟Ⅰ(太古の遺跡)発掘から82年後の、昭和50年(1975)、発掘された。

遺蹟は、二つの時代に分かれていて、一つは縄文時代の住居跡と貝塚、もう一つは、江戸時代の鷹匠御役屋敷跡である。

二つの遺跡については、東京都教育委員会の説明板があるので、転載しておく。

動坂貝塚
 昭和49年、都立駒込病院の改築の際、ここに貝塚が発見された。この貝塚は、縄文時代中期(約4500年前)に、竪穴住居跡の凹地に貝などが捨てられてできたもので、その規模は直径2m、深さ50cm程である。
 縄文時代には、動坂下の根津谷はかつての東京湾の小さな入江につながっていた。この貝塚に多いヤマトシジミはそこでとれたものであろう。このほか、貝類にはマガキ・ハマグリ・サルボウが、魚にはクロダイをはじめスズキ・アジ・イワシやコイなど、獣にはシカ・イノシシ・キツネなどが発見されている。土器や石器もかなり出土しており、当時の生活がうかがわれる。
 この碑は竪穴住居跡と貝塚の陀面の一部を示したもので、碑の下には住居跡と貝塚がそのまま保存されている。 昭和51年3月   動坂遺蹟調査会」

 

「東京都指定史跡 動坂遺蹟
      所在 文京区本駒込3丁目136内
      指定 昭和51年1月16日
縄文中期の集落跡と享保3年(1718)に置かれた鷹匠御役屋敷跡の複合遺跡。昭和49年8月に塔地点で貝塚が発見されたことから、公園全体の試掘調査を行い、50年には病院への道路とカフェテラスの範囲を発掘調査した。この調査で、縄文中期の住居跡が20余軒焼礫の集石跡などが検出された。幾つかの住居跡内には貝塚も存在した。また当時使われた土器や石器類も多量に出土した。
 鷹匠御役屋敷は明治維新で東京市に移管となり、明治12年に現病院の前身である駒込病院が設置された。本遺蹟からは鷹匠御役屋敷に関連する遺構、遺物も豊富に発掘されたが、現公園の地下には現状のまま保存されている。
     昭和52年3月31日 建設  東京都教育委員会

       

  


137 文京区の石碑-25-駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

2019-06-23 08:41:49 | 石碑

 東京はどこも変わった。

昔の面影のある場所はほとんどなくなってしまった。

そのほとんどは、人が増え、ビルが立ち並び、賑わいを増した場所ばかりだが、ここ本駒込駅界隈は、かつての賑わいがうそのように静まり返っている。

その賑わいは、やっちゃば(青物市場)があったからのもので、中山道と岩槻街道を結ぶ間道の辻にあったから「辻のやっちゃば」と呼ばれていた。

もともとは、江戸時代、近郷の村人たちが野菜を江戸の町へ運んできた時、この辻にあった大きなさいかちの木の下で、一休みしたのが、やっちゃばの発端だった。

明治になり、東京市の中央青物市場の一つとなり、1昭和12年(1937)、巣鴨に移転するまでこの場所で営業していた。

昭和なら写真があるかと探したが、見つからない。

上は「文京区ふるさと歴史館」の再現模型。

中央の木がさいかち。

その何代目かの子孫が天栄寺境内にある。

余りにも寒々しいので、別の場所の、かって人々に日陰を与えた巨木を想起させる写真を付けておきます。

 

◇駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

「辻のやっちゃば」は「駒込土物店」とも言われ、その縁起は、天栄寺境内の石碑に詳しく書かれている。

ちょっと長いが、転載しておきます。

 

駒込土産店縁起碑

この所は凡そ350年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店(だな)と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和12年(1923)まで栄え続けた、旧駒込青果市場の跡である。その昔この辺一帯は百姓地で、この碑の近くに5つ抱え程のサイカチの木があって斉藤伊織という人がこの木の下に稲荷神を勧請して、千栽稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始りであると天栄寺草創期に明らかにされている。その頃この所は仲仙道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので漸時西側の天栄寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商う店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁昌したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治10年(1877)府令にyって駒込青果市場組合という名称で組合が出来たが誰も市場などと呼ぶ者はなく、辻のやっちゃばとか、土物店と呼び親しんだものである。 土物店とは青物の多くが土の付いたままなのでそれに相応しくつけられた名称である。その後明治34年(1901)警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正12年(1923)の関東大震災の時には類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義捐、慰問、焚出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁栄していたが、中央卸売市場法により、昭和12年(1923)3月25日現在の豊島区巣鴨にある豊島市場に収容されたのである。 遇ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からも今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者ともども相図って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。  昭和38年(1963)3月25日 題字 地又天栄寺     第22世 住職 道誉正真  出口鎌吉 撰文  寺門隆夫 書

 

やっちゃばは岩槻街道沿いに延びていたが、西端を天栄寺とすると東は高林寺前までだったと碑には書いてある。

 

 

その高林寺には、緒方洪庵の顕彰碑がある。

◇緒方洪庵顕彰碑(向丘2-37-5 高林寺)

 墓地中央に3基の石塔。

中央が、緒方洪庵の墓。

左は、八重夫人の墓。

そして右は、緒方洪庵顕彰碑。

蘭学者であり、蘭医てせあった緒方洪庵は、大阪に「適塾」を開き、多くの有能な人材を育てた。

大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉、佐野常民etc、逸材は枚挙にいとまがない。

適塾の入門希望者は来るもの拒まず、蘭医としては、貧富によって患者を差別することがなかったという。

顕彰碑は全文漢文で私には読めないが、資料には「いやしくも西書を読まんと欲する者あらば、即ち包容して拒むことなく、また、其所業何の為めなるかを問わざるなり。王政維新に至り、百事競って興り皆人材を待つ。当時、職司局を率いる者、則ち多く先生の門より出づるなり・・・」とある。

緒方洪庵の墓の左には、八重夫人の墓もあるが、この夫人の人間的魅力については、福沢諭吉が「私がお母さんのようにしている大恩人」と『福翁自伝』に述べるほどであった。

八重の葬儀には、2000人が列をなしたと言われている。

 

 

 


     
    

137 文京区の石碑-24-夏目漱石旧居跡碑(向ヶ丘2-20-7)

2019-06-16 08:25:20 | 石碑

 

天祖神社を出て、日本医大つつじ通りを西へ進む。

日本医大病院の角を右折すると左に「橘桜会館」の文字が見えてくる。

そこが「夏目漱石旧居跡」。

道路に面して、石碑が1基と文京区教委による説明板がある。

まずは、碑文から。

原文は縦書きです。

「夏目漱石は明治卅六年一月から帰り、三月三日
ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前年二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年
一月「吾輩は猫である」「倫敦島」等を発表して忽ち
天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、卅九年初
から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して
作家漱石の名を不動にした。歳末廿七日西片町に移り、
翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学発祥の地である。
森鴎外も前にその家に住んでいた。家は近年保存のため
移築され、現在犬山市明治村にある。
               昭和四十六年三月三日

碑の右側面には「題字 川端康成書 碑文 鎌倉漱石会」とあり、


左側面には「日本医科大学及同大学同窓会/鎌倉漱石乃会他有志二百余名」と刻されている。

隣のビルとの境の塀上にネコがいる。

もちろんネコの置物だが、いかにも生きていて、ゆっくりと歩いているかのようで、目を奪われる。

「吾輩は猫である」のネコもこの家に迷い込んだものだった。

洒落た趣向がすばらしい。

漱石文学と家との関係は、碑文に過不足なく綴られているが、もう一枚、説明板が碑と隣り合わせに立っている。

文面は、碑文とほぼ同じで、新しい情報はなさそうだが、なぜ、わざわざ作られたのだろうか。

文化財に指定すると必ず説明板を設置する決まりがあるからだろうか。

 夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
             日本医科大学同窓会館 文京区向ヶ丘2-20-7
 夏目漱石 本名・金之助。慶応3年ー大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリ
ス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住
んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の
筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。
 この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍分団に名を表し
た。漱石文学発祥の地である。

     明治村の夏目漱石邸

 漱石が住む13年程前の明示23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は
ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
 二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、
愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
              文京区教育委員会  平成7年3月     

 


 


   

 

 

 

 


137 文京区の石碑-23-森鴎外詩碑(千駄木1-23-4)他

2019-06-09 10:54:44 | 石碑

 

団子坂を上る。

「団子坂上」の信号を左折、すぐ右手に見えるのが「文京区立森鴎外記念館」。

◇沙羅の木の詩碑(千駄木1-22 森鴎外記念館)

 

最初、通り過ぎてしまったのは、「区立」にしてはあまりに瀟洒な建物だったからです。

ここは森鴎外の住居跡だが、2階から東京湾が見られたということで「観潮楼」と名付けられたのだという。

今、道路際に立って、東の方を見ても、屋根とビルばかりで、とても海が見えるようには思えない。

観潮楼跡

森鴎外(1862-1922、医学博士、文学博士)は、明治25(1892)
年、30歳の時に駒込千駄木待ち21番地に居を構え、増築した2階
部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付
けた。
鴎外はこの地において半生を過ごし、『青年』、『雁』、『阿部一族』
『高瀬舟』、『渋江抽斎』など代表作を執筆した。その後、建物は
火災や戦災により消失したが「胸像」「銀杏の木」「門の石畳」
「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。
戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡
の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年に当たる昭和37(1962)年
に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、
平成24(2012)年に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外記
念館を開館した。
森鴎外住居跡 千駄木1-23-4 東京都指定史跡

 入口を入り、壁ぞいに進むと突き当りの壁面に詩碑がはめ込まれている。

沙羅の木

褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花

 森林太郎先生詩
  昭和廿五年六月  永井荷風書

 父鴎外森林太郎三十三回忌にあたり
 弟妹と計って供養のためこの碑を建つ
  昭和二十九年七月九日 嗣 於菟

 沙羅の木は、夏椿の別名で、記念館の木も6月、白い花をつけるということです。 

森鴎外はここ観潮楼で生涯を送った。

毎月催した観潮楼歌会には、佐々木信綱、与謝野鉄幹、伊藤佐千夫、北原白秋、吉井勇らが参加、上京したばかりの石川啄木も顔をだしたことがあるという。

団子坂を下り、最初の小路を左折して進むと小さな公園がある。

須藤公園。

◇入江為守歌碑(千駄木3-4須藤公園)

今世の中の話題の一つは、近づく元号改定と平成天皇の退位だが、平成天皇の誕生は昭和6年12月23日だった。

須藤公園の右奥の一画に奇妙な形をした自然石の石碑がある。

鶴が天に向かって一声鳴いているかのようだ。

それが皇太子誕生を祝う歌碑。

詠み人は入江為守。

子爵で東宮大夫、御歌所長を務めたという歌人です。

加しこくも親王(みこ)あれませり九重(ここのえ)の
       御そのの松に月の昇る頃
                 従二位為守」

碑裏には
「東京市聯合青年団本郷区林町分団ニテ
  皇太子殿下御降臨を慶祝シ奉リ
 御歌所長子爵入江為守閣下ニ和歌ヲ乞ヒ
 茲ニ碑ヲ建テル孫樹ヲ植シ以テ記念トス
     昭和十年二月十一日
        団長 子爵 大給近孝

歌碑の背後に大きな木の切り株がある。

これが記念樹のイチョウの木だったのだろうか。

「青年団」という文字を久しぶりに見た気がする。

終戦後ぱたりと見かけなくなったのは、軍事力補填組織として存在していたからです。

団子坂を上り、白山方向に進むと右側、ちょっと奥まった場所に小さな神社がある。

 「青年団」と同じように、戦後見かけなくった「忠魂碑」がここにはあります。

◇忠魂碑(千駄木5-6 天祖神社)

狭い境内に似合わず大きな石碑で2m近くある。

忠魂碑は戦死者を顕彰する碑。

碑裏には、発起人として、本郷区長、駒込警察署長、町会長などの「オエライさん」の名が並ぶ。

この碑が建てられたのは、昭和7年。

太平洋戦争初期の上海事件での戦死者の忠魂碑です。

まだ忠魂碑を建てる余裕があったことが見て取れる。

これ以降忠魂碑建設がぱったり途絶えるのは、戦死者が急増し、いちいち顕彰していられなくなったから。

 

 


137 文京区の句碑-22-根津神社境内の石碑

2019-06-02 08:21:12 | 石碑

根津神社には数多くの石造物があるが、今回は2基の石碑と若干の石造物を取り上げます。

◇つつじ苑の記

根津神社といえば、つつじ。

現在でも50種3000株のつつじが4月中旬から咲き始めるが、もともとは甲府宰相徳川綱重が自宅の庭に植えたのが始まりだった。

神橋を渡り、左折してつつじ苑入口を入ると、右に高い石碑が立っている。

つつじ苑の記
   当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり当時よりつつじの名庭
   であった 没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社
   の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営
   を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親
   王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」
   と称せられ実に名勝であった 併し年処を経るに従い漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く
   事を思い慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し昭和45年「文京つつじ会」を結んで花
   季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類 
   頗る多く 往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った本年第十回つつじ祭開催に当
   り有志一同相謀り 記念に本碑を建立 その由来を後昆に伝える所以である
   昭和54年4月吉日  

 神橋方向へ戻り、楼門左の道を進むと疎水沿いに細長い丸みを帯びた石材が横たわっている。

境内案内図では、「文豪の石」とある。

明治時代、根津神社の近くに住んでいた森鴎外や夏目漱石が腰掛けた石というのだが、写真があるわけでもなく、眉唾伝説。

しかし、そのすぐそばの「噴水型水飲み場」が森鴎外の奉納品であるのは、間違いない。

「戦利砲弾奉納 陸軍軍医監 森林太郎」と側面に刻されている。

どうやら砲弾を展示する台石だったのを、「平和利用」したものらしい。

乙女稲荷神社の鳥居をくぐり、石段を上ると、

左右からの千本鳥居の切れ目に出る。

左からの千本鳥居の終点にあるのが「徳川家宣胞衣塚」。

「胞衣」と云って分かる人は少ないだろう。

説明板を転載しておきます。

徳川家宣胞衣塚
   六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある.
   この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)
   で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)四月五日ここで生まれた。
   胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大
   切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えら
   れる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋
   めるという所もあった。
   一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家
   康の胞衣塚がある。
   この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるな
   ど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
   塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝え
   られるものが、社務所の庭にある。
   家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根
   津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
                 ─郷土愛をはぐくむ文化財─
                文京区教育委員会 昭和58年3月

そのまま右の千本鳥居を西口方向に進むと出たところにあるのが、庚申塔群。

群と云っても、6基の庚申塔を6面に張り合わせた石塔です。

他に塞大神碑もあるが、今回は石碑がメインなので、パス。

 

 


137 文京区の石碑-21-弥生式土器発掘ゆかりの地(弥生2-11)

2019-05-26 07:51:51 | 石碑

 

言問通りを根津方向へ向かう途中、右手の東大浅野キャンパスの外側の一画に石碑が立っている。

「弥生式土器発掘ゆかりの地」。

◇弥生式土器発掘ゆかりの地」碑(弥生2-11)

弥生式土器は、東大周辺の弥生町で発掘されたので、地名を取って弥生式と命名された、と中学校で習った。

65年も前のことです。

「あ、ここがその場所なんだ」と改めて碑文を読むが、なんだかすっきりしない。

それは、「弥生式土器発掘の地」ではなく、「発掘ゆかりの地」であるから。

「ゆかり」は、「たどっていけばなんらかのつながりがある」というような意。

関係のあるなしを問われれば、「ある」のだが、ピンポイントでここだ、というほどの明確さはないということになる。

言問通りの反対側に白い立て板があるので、道を横切って近づいてみる。

なんとこちらは文京区教育委員会による「弥生式土器発見の地」の案内板。

内容は、ここがその発見地だ、というのではなく、3か所ある推定地の説明のようです。

こうした大切な説明板が、なぜ、「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑の傍に建てられていないのか、不思議でならない。

弥生式土器の発見地
弥生式土器の発見: 明治17年、東京大学の坪井又五郎、臼井光太郎と有坂修蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり弥生式土器と命名された。この遺跡は、考古学上重要な遺跡で、向ケ岡遺跡といわれる。
向ケ岡遺跡この遺跡の位置は、その後、都市化がすすむなかではっきりしなくなり謎とされてきた。推定地としては、次の三カ所が指摘されている。
 ①東京大学農学部の東外門(サトウハチロウ記念館付近)
 ②東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
 ③根津小学校の校庭内の崖上
弥生二丁目遺跡の発掘:昭和49年春、根津小学校の児童が、東大校内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで、発掘調査が行われた。そして明治17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土した。(弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定)
根津の町を眼下に見、不忍池を望むとされる最初の弥生式土器の発見地(幻の向ケ岡遺跡)の位置は、継承の推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる。

 提供: 文京区教育委員会

この説明板の不可解な点は、「急激な都市化で不明確になった発掘地点だか、推定地としては3か所があげられる」と明示しながら、推定の三地点が崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりで適当でないと言われる」と最後に否定していること。

推定地の根拠とされる「不忍池が見下ろせる崖地」は、発見者の一人坪井正五郎が『東洋学芸雑誌』に載せた貝塚スケッチの説明文が「向ヶ丘貝塚より上野公園をのぞむ景」に由るもの。

説明板の地図に従い、現地へ行ってみた。

①のサトウハチロー旧宅跡は、そもそも、なぜここが推定地であるかの説明がないのだから、ここから不忍池が見えないからといって、否定するのもおかしい話ではないか。

③の根津小学校裏の崖地は、フエンスがあって、入れない。

校庭を見下ろせる異人坂の上からは、不忍池を見ることは、方角的に無理のようだ。

最も信ぴょう性が高いと思われるのは、東大浅野キャンパス工学部9号館東側の空き地。

そもそもの「弥生式土器発見ゆかりの地」碑も、浅野キャンパス西北の隅に建てられている。

言問通りから構内に入る。

こんなところにも東大があるとは知らなかった。

工学部9号館は、構内最大のビルで、その東側には、草地が広がり、巨木が聳えている。

 

説明板がある。

昭和 49年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根本から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われた。そして明治 17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土し、昭和51年に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。
この「弥生二丁目遺跡」も弥生土器の発見地として有力視されている。

立ち入り禁止なので近寄れなかったが、巨木からは不忍池が見えるように思える。

ここが「ゆかりの地」の中で最適地と思われるが、どうだろうか。

 

 


137 文京区の句碑-20-高畠華宵碑と東大医学部戦没同窓生の碑

2019-05-19 08:31:40 | 石碑

東大本郷キャンパスには、9つの門があるが、その一つ、弥生門の前にあるのが、弥生美術館。

◇高畠華宵の碑

高畠華宵、竹久夢二、中原淳一など、大正、昭和初期の画家の作品を蒐集、展示している。

弥生美術館の設立者、鹿野琢見氏は、少年時代、高畠華宵の絵『さらば故郷!』に励まされ、上京し、刻苦勉励して弁護士となった。

華宵への報恩の気持ちは、華宵作品の精力的な収集となり、同時に、晩年、不遇であった華宵を引き取り、この地で、亡くなるまで面倒をみた。

美術館前の塀にはめ込まれた石碑の冒頭の4行は、自分の絵に影響を受けたとする鹿野氏に対する高畠華宵の心の返答である。

あの絵が、可憐な少年少女の日のあなたの心によき影響を与えたということは、私として何よりもうれしいことです。華宵

そして、その左に、高幡華宵の略歴が刻されている。

画家 高畠華宵の碑
優美華麗あるいは凛々しく可憐なさし絵で大正昭和にかけ青春期にある人々との共感を呼び、その画風一世を風靡した不出世の画家高畠華宵の画業を讃え、その人となりを追慕しここにこの碑を建てた


略歴 華宵 名は幸吉 明治21年4月6日愛媛県宇和島に生る 明治末期から大正昭和にわたり さし絵 口絵 広告絵 郵便絵等麗筆を揮う 昭和41年7月31日 この地に没す 享年78歳  華宵会 

美術館の塀の右側には、棺桶を擔男性群像のレリーフがある。

上部に「東京大学医学部戦没同窓生の碑」とあり、群像の両脇に戦没者の氏名がズラッと刻されている。

レリーフの横に、建立趣旨を刻んだプレートがある。

  
昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出した。
 彼らの多くはアリューシャン列島アッツ島からニューギニア、ガダルカナル島、中国、東南アジア、沖縄に拡がった戦火の中で、また広島・長崎で医療従事中に原子爆弾の劫火に斃れた。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実を悲しみ、これを後世に伝えるべく、基金を組織して戦没者と戦没地の調査を行い、同窓会鉄門倶楽部に医学部構内への追悼碑建設を提案した。
 同倶楽部はこの事業の実行を決議して医学部教授会の承認を求めたが、未だその採決に至らず、いまや戦没世代同窓生は碑の完成を見ることなく世を去ろうとしている。
 この「東京大学医学部戦没同窓生の碑」は、戦後最初の総長南原繁先生の戦没学徒哀悼の志を承け、この地にお住まいの鹿野家の皆様から温かいお心をいただいて建立するに至ったのであって、避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた若者たちのいたましくも哀しい事実を歴史に刻む碑である。
 私たちは戦没同窓生への思いを戦いに斃れた友を担って母校に帰り来る学友の群像に託し、近い将来同窓会鉄門倶楽部の決議が実行され、この碑が医学部構内に移築されることを期している。
 新世紀最初の東京大学五月祭の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と花を捧げて深い哀悼を世に伝える。
 
 平成13年5月27日
 東京大学医学部戦没同窓生追悼基金
 
医学部卒業生の戦没者慰霊碑が、学内ではなく、なぜ、こんな場所にあるのだろうか。
 
聞くところによれば、、この碑を医学部構内に建てることに反対の意見が教授会を占めたのだという。
碑文の最後に「この碑が医学部構内に移築されることを期している」とあるのは、そうした事情を含んだものか。
いずれにせよ、戦没者慰霊碑という誰もが賛同するものと思われる提案に反対する意見とは、どういうものだったのか、知りたいものです。
 

137 文京区の石碑-19-向陵碑(東大農学部)

2019-05-14 11:05:00 | 石碑

 

東大農学部の正門を入ると、すぐ左に、立ち上がった犬の前足を両手でしっかりと受け止めて、慈しむ男の像がある。

渋谷のハチ公とその飼い主です。

ハチの美談は、毎日、主人を渋谷駅まで送り迎えしていたハチ公が、主人亡き後もずっと駅に通い続けていたという話。

しかし、ご主人が東京帝大農学部教授であったことは、余り知られていない。

それを周知するために、この銅像は建てられたのだという。

ハチが渋谷駅へ通い詰めたのは、上野博士が井の頭線の駒場にあった東京帝大農学部に通うのに、渋谷駅を利用したからでした。

ここで「おやっ」と思ったあなたは鋭い。

駒場東大は教養学部で、農学部は本郷ではないの?

実は、昭和11年、ここ向ヶ丘にあった旧制一高と駒場にあった東大農学部は、相互にキャンバス交換をしたのです。

それを記念した石碑「向陵碑」が、構内の一隅にある。

◇向陵碑

「向陵」とは、ここ向ヶ丘の中国風呼び方。

碑裏に碑建設由来が刻されているが、全文漢文で読めない。

碑の横に、書き下し文のスチール板があるので、全文を転載しておきます。

我が第一高等学校は初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在りき。明治8年創立す。10年、大学予備門と称し、19年、第一高等中学校と称す。本郷向陵に遷り、25年、今の名に改む。法学博士木下広次先生、校長に任ぜらる。此の時に当たり、欧米綺靡(あでやか)の風上下に弥漫(げまん)し、殆ど国礎を危くせんとす。先生之を憂ひ、四大綱領を掲げ、自治規則を制定し、以て天下に倡道せらる。是に於いて全校学生頓(とみ)に面目を改め、奮励踊躍、人々国士を以て自任し、向陵健児の名四海を衝動す。爾来46年、時に汚隆無きに非ずと雖も、向陵精神は一貫して今に更(かわ)らず。
浮説世を惑わし、人心動揺し、其の禍(わざわい)将に往日の如からんとす。吾輩国士の遺風を追ふ者、寒心恐懼せざるべけんや。
数年前、当局我が高校と駒場農科大学と其の地相易(か)へんとするの議あり、事已(すで)に緒に就き、今茲に8月、吾輩将に向陵に永訣せんとす。嗟夫(ああ)、向陵よ、汝が精神は長く我が高校と相終始せん。固より地の東西を以て其の説をかえざるなり。然れども、我校汝と相親しむこと40余年、其の去るに臨んで忍びず、決然一片の貞石を留め、以て遺蹟を表す。乃ち之を繋ぐに辞を以てす。
 我が石磨くべし 志は奪ふべからず 彼の嶢(た)つ者は丘
 焉んぞ其の蹶(たおれること)有らんや
   昭和10年2月1日
        第一高等学校寄宿寮
     前第一高等学校教授 安井小太郎 撰
       同       管 虎雄  書

四大綱領とは、1、自重、廉恥心の養成、2、親愛・共同の養成、3、辞譲心・静粛の習慣、4、衛生・清潔。 

もちろん駒場には、キャンバス交換記念碑「駒場農学碑」が立っている。

 東大農学部には、もう一基石碑がある。

◇朱舜水先生終焉之地碑

言問通りを跨いで本郷キャンバスと弥生キャンバスを繋ぐ歩道橋脇に立つのが、「朱舜水記念碑」。

その人となりを、東京都教育委員会による説明板から引用しておきます。

朱舜水(1600-82)は日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、瞬水は号です。祖国明の復興を張るが果たせず、万治2年(1659)長崎に来た際、柳川藩の儒学者安東省庵の援助を受けて亡命しました。漢文5年(1665)小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、生涯この地で過ごします。学風は朱子学、陽明学の中間といえる実学で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀、木下順庵らに大きな影響を与えます。天和2年(1682)に83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。


 この記念碑は、日本渡来250年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。