石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-18(谷中6丁目のハ)

2016-10-25 05:43:53 | 寺町

大雄寺を出て、左へ。

最初の角を左折するとすぐ右側に感應寺がある。

64 日蓮宗光照山感應寺(谷中6-2-4)

山号は「光照山」なのに山門に「神田山」、題目塔台石に「神田感應寺」とあるのは、

明暦の大火後、神田からこの寺が移転してきたとき、山谷に同宗同名の「感應山」(現天王寺)があったため、「神田感應寺」と呼んで区別したから。

石造物は境内に少ないが、本堂前の人物座像が目を惹く。

経典を両手で広げて持つ僧侶姿の男性像。

台石には

   開眼主当寺第一世
日朝大聖人 日英(花押)
   天保三壬辰歳十二月佛生日

とあるから、当山開基者の石彫だろうか。

だとすると、珍しい石造物ということになる。

この人物像に覆いかぶさるように枝を伸ばしているのは、グレープフルーツの木。

小さいながら実をつけているのが分かる。

森まゆみ『谷中スケッチ』では「日本で最も古いグレープフルーツの木で、大正の終わりに日本に渡ってきた」と紹介されているが、寺の女性の話では「供物の果物の種を蒔いたら生えたもの」だそうだ。

墓地に渋江抽斎の墓があり、傍らに高く立派な顕彰碑が立っている。

渋江抽斎は、森鴎外の歴史小説『渋江抽斎』の主人公。

読んだのは高校生の頃だから、60年ぶりに『渋江抽斎』を開く。

小説だが、ノンフィクションの色彩が強い。

感應寺が登場するシーンは2,3か所あるが、冒頭部分の、鴎外が墓を訪れた記述は下記の通り。

わたくしは谷中の感応寺に往つて、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立つてゐる。「抽斎渋江君墓碣(ぼけつ) 銘」と云ふ篆額(てんがく)も墓誌銘も、皆小島成斎(せいさい)の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐 れて、割愛して刪除(さんじよ)したものださうである。(中略)墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、又「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が 保さんの事ださうである。(中略)抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。(中略)わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と、其尊卑二属とに、香華(かうげ)を手向けて置いて感応寺を出た

 碑文は、全文漢文。

私は読めないが、最後の「廣群鶴刻字」は判る。

廣群鶴は字彫りの名工として名高い幕末の石工。

シャープな字の彫りこみに匠の技が光っている。

寺の門前で外人女性二人と行き違う。

こんな恰好で山門をくぐるのだが、故国の教会でも同じなのだろうか。

日本の若い女性も同様だから、彼女たちを非難しはしないが。

感應寺を出て、左に戻り、すぐ左折。

前方に谷中墓地への道(右)と三崎坂への道(左)の分岐点が見えてくる。

そのちょっと手前の左側に

65 日蓮宗瑞応山妙雲寺(谷中6-2-39)

元和5年(1615)の造立で、谷中寺町では古い方。

門前の題目塔の下に「むしば祈念の寺」とある。

その効能の宣伝に登場するのが、松井源水という大道芸人。

彼は、越中富山の薬を売り、見物人の虫歯を抜いたりするのが生業だった。

自慢は、生涯一度も虫歯にならなかったこと。

それは彼が妙雲寺の本尊鬼子母神を信仰していたからというのだが、説得力があるような、ないような・・・

墓地に、それは見事な阿弥陀三尊がおわす。

裏面の刻文によれば、石工を生業とする先祖の霊を供養するため子孫が造立したものらしい。

その造立年が昭和19年というから、太平洋戦争末期、物資不足の中、よくぞこれだけの石造物を建てたものと思う。

阿弥陀三尊だけでなく、床面から周囲まですべて石で造るという念の入れよう、見事です。

66 真言宗豊山派宝塔山多宝院龍門寺(谷中6-2-35)

宝塔山多宝院で本尊が多宝如来だというから日蓮宗寺院のように思う。

山門を過ぎるとバカでかいお地蔵さんがいらしゃって、あ、これは日蓮宗ではないなと合点する。

境内の石仏のありようで、宗派の違いが少し判るようになった。

お地蔵さんの背中に文字が刻されている。

多分、造立事由が刻されているのだろうが、読めない。

なぜか、目と鼻、耳が鋭利な刃物で削られたように、ない。

胴体も腰の辺りで、斜めに上下くっつけられているようだ。

廃仏毀釈か、それとも戦禍なのか、何があったのだろうか。

参道脇の茂みのなかに青面金剛庚申塔。

谷中寺町で、3基目。

その後方、本堂に向かって、宝篋印塔を挟むように右に「四国八十八ケ所」、左に「傳燈大阿闍梨法印澄正」碑がある。

最高位の山岳修験者の名前が谷中にあるとは。

石仏があるので、草をかき分けて見たら不動明王だった。

新しい慈母観音像もおわす。

墓地に詩人立原道造の墓がある。

名前だけは知っているが、詩を読んだことはない。

東大の建築学科を卒業したばかりの25歳の若さで、結核で急逝。

在学中、詩では中原中也賞を、建築では辰野賞を3回も受賞する詩人・有能建築家だったという。

 67 天台宗広隆山総持院元導寺(谷中6-2-33) 

 「谷中不動尊」の白い幟が何枚もはためいて、派手な印象だが、境内は狭く、これといった石造物はない。

 天台宗の東京教区の寺院紹介(http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/sojiin/)によれば、明治20年代前半、高村光雲一家が寺域内に住んでいたが、その住居跡は昭和の都市計画で道路となっているとのこと。

次の更新は、11月1日です。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-17(谷中6丁目のロ)

2016-10-20 07:27:55 | 寺町

大泉寺の隣は、真言宗自性院。

真言宗寺院が2か寺続いて、天台宗寺院を挟み、また真言宗と並ぶこの通りは、日蓮宗が多い谷中寺町では、特異な一画です。

61 新義真言宗本覚山自性院宝光寺(谷中6-2-8)

この寺も寺号ではなく、院号で呼ぶが、俗名は「愛染院」ではなく、「愛染寺」であるのが面白い。

山門前に「所願促成 愛染明王安置」の石塔が立ち、

山門石柱には、「本覚山愛染寺」と大書されている。

文化文政の頃、既に、縁結び、家庭円満の仏として江戸近在にその名を知られていた(ブログ「猫のあしあと」より)がそれに拍車をかけたのが、川口松太郎の「愛染かつら」。

昭和12年(1937)、雑誌『婦人倶楽部』に連載された小説「愛染かつら」は、翌1938年には映画化され大ヒット、主題歌「旅の夜風」はレコード売り上げ120万枚を記録して一大ブームを巻き起こした。

その小説のヒントが、「自性院の愛染明王と本堂前の桂の古木だった」と台東区教育委員会の説明板にも書いてある。

つまりこの寺の愛染明王なかりせば、「愛染かつら」は誕生しなかったことになるのだが、もともと愛染堂の愛染明王は秘仏で非公開、川口松太郎といえども拝仏できるはずもなく、この噂はデマといっていい。

また憤怒姿の愛染明王のどこにメロドラマのヒントがあったものか、具体的な説明がなければ、「愛染」明王と「桂」の木を合わせた言葉遊びだったと云われても仕方ない。

映画が封切された昭和13年(1938)は、私が生まれた年。

もちろん映画を観たことも、小説を読んだこともなく、ドラマの筋書きは全く知らない。

にもかかわらず゛「花も嵐も 踏み越えて 行くが男の生きる道」は、なんなく歌えてしまうのだから、歌謡曲の力、まさにおそるべし。

無縁仏コーナーが「充実」している。

中でも興味深いのが、如意輪観音無縁塔。

竿部にくるくる回る六面体があって、各面に六道のひとつが書かれている、いわゆる「輪廻くるま」。

「車地蔵」はよく見かけるが、如意輪観音は珍しい。

回して止まった面が、その人が行く死後の世界という趣向。

「天道」でストップするようになっているのが、面白い。

 62 日蓮宗円妙山大行寺(谷中6-1-13)

開創天正17年(1589)というから、谷中寺町では、引っ越し組とは違うんだぞとエラソーにしてても文句は言われない。

家康入府の前年、この辺りは鬱蒼たる森林だった。

日蓮宗寺院が多い谷中寺町の中でも、もともとからあった「生え抜き」の法華宗寺院なのです。

山門前の掲示板に聖語がある。

日蓮宗寺院では、本部から送られてくる「今月の聖語」が定番だが、大行寺では、住職選定の言葉が。

慈を以て身を修め/善く仏慈に入り/大智に通達し/彼岸に至り/」

信者でない者には、やや難しい。

やや難しいといえば、本堂前の永代供養塔についての説明文も、難しい。

永代供養塔は「寿命が尽きた後にここで供養を望む人、お墓の継承者のない方、納骨を希望する方々の為、当山が代わって永代供養する納骨供養塔であります」との説明の後に「故人の曰く『有為転変の春の風は林間の花を誘い、会者定離の秋の風は山頂の雲に隠れる』と妙法蓮華経の勝縁をかって霊也の追福を祈るものなり」。

境内に平らな長方形の自然石の石碑がある。

右に「南無多宝如来」
中央に「南無妙法蓮華経」
左に「南無釈迦牟尼」

と縦に三行刻してあり、その周囲に、開山者日感聖人や中興・日通聖人など歴代住職の名が読める。

歴代住職の墓域は珍しくないが、こうした形式の石碑は珍しい。

本堂前には、優しいお顔の閻魔さまがひっそりといらっしゃった。

寛永寺燈籠がある。

「文恭院殿」だから第十一代家斉に献上されたもの。

下の人物は誰だろうか。

私には、ドジョウ掬いとしか見えないが。

もっと奇態なものもある。

石造物ではないから無視してもいいのだが、寺の境内にあるので、もしかしたら仏教と関係があるのかも。

大行寺を出て、左へ。

言問通りを左折、次の「上野桜木」の信号を左折すると左に見える山門が

63 日蓮宗長昌山大雄寺(谷中6-1-26)

山門の題目塔に「天下長久国家安穏」とあるのが、日蓮宗寺院らしい。

広い境内なのにうす暗いのは、クスノキの巨木があるから。

樹高13m、枝張り12m。

クスノキとしては、都内最大といわれ、都指定の保存樹木です。

本堂前に、これも大きな慈母観音。

石仏、石像が多くない日蓮宗の寺にあって、慈母観音や聖観音が多くみられるのは、法華経普門品第二十五観音経の影響だろうか。

高橋泥舟の墓がある。

勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟と呼ばれた。

山岡鉄舟については、この谷中寺町11の全生庵で、幕府軍の使者として、駿河滞在の西郷隆盛に面会すべく、単身官軍の只中に乗り込んだことは、書いた。

高橋泥舟は、その山岡鉄舟の義兄。

もともとは泥舟が駿河に行くはずだったが、最後の将軍慶喜の水戸移転の警固役に泥舟がついたため、鉄舟にお鉢が回ったのだと云う。

寺めぐりの思わぬ副産物は、こうした傑物たちの墓を通して、近世、近代史の一端に触れることです。

墓地にある「義葬之冢(つか)」は、明治初期の東京市の養育院で死去した収容者の墓。

帰ろうとしたら外人観光客とすれ違った。

こうした風景は、今や、谷中ではありふれた日常になっている。

 

 *次回更新日は、10月25日です。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-16(谷中6丁目のイ)

2016-10-15 05:45:08 | 寺町

前回で5丁目は終わり。

三崎坂へ戻り、観智院の前の信号を南に入る。(下の地図では、観智院は見えない。上方の野々村ビルの向いが観智院)

道の右が谷中4丁目、左が、今回の目的地、谷中6丁目。

すぐ西光寺が見えてくる。

寺の名前で西光寺は、最多ではなかろうか。

調べたわけでもなく、そう感じるだけだが。

58 新義真言宗仏到山無量寿院西光寺(谷中6-2-20)

もう57か寺も回ってきたが、谷中寺町は日蓮宗寺院が多いから、肝心の石造物は、寺の数の割には少ない。

西光寺は、真言宗だから、期待に違わず大ぶりの石仏が並んでいる。

寺の「売り物」は、韋駄天像。

「足病平癒」と山門前の石塔にその効能をうたい、更に韋駄天像脇の説明板では「当山の韋駄天・十一面観音像は太閤秀吉朝鮮入国の際、藤堂高虎候が朝鮮より請来、安置せしものなり」とある。(*2年前にはあったが、現在、説明板はない)

朝鮮側からすれば、請来ではなく、略奪と言うかもしれない。

『日本石仏図典』では、韋駄天の項で「文禄、慶長の役と呼ばれる朝鮮への侵略戦争の結果、我が国は強く朝鮮文化の影響を受けることとなった。多くの文物や技能者がもたらされ、近世文化の形成に与っているが、近世の信仰や石彫技術と朝鮮文化との関係については、まだ解明されるに至らず、今後の課題というべきであろう」と述べている。

藤堂高虎の名前が出たので、付け加えると、西光寺は慶長8年(1603)に藤堂高虎によって開山されているから、韋駄天像は朝鮮の石造物だった可能性は高そうだ。

その韋駄天の右は、これも朝鮮から持ってきたという十一面観音像。

さらに1基おいて、右端は地蔵立像がおわす。

また、韋駄天の左には、青面金剛庚申塔が。

谷中寺町58か寺目にして、やっとこれで2基の庚申塔に出会ったことになる。

そして、一番左には、極めて珍しい閻魔様。

珍しいというのは、立像だから。

座像閻魔ばかり見てきたので、何の仏像か分からず、寺の人に訊いてしまった。

亡者を裁くのだから、どっしりと座っていてほしい。

立像だと何か重みに欠けるような気が、私にはする。

 

59 真言宗豊山派瑠璃光山長久院薬師寺(谷中6-2-16)

薬師寺ではなく、長久院と呼ぶのは、なぜなのだろうか。

 寺号ではなく、院号で呼称する寺を見聞きするたびに疑問に思う。

この寺も、隣の西光寺と同じく、慶長年間に神田北寺町に開基し、慶安年間にこの地に移転してきた。

山門の左潜戸の穴は、戊辰戦争の時の銃痕。

逃げ惑う彰義隊に官軍が撃った弾だろうか。

西光寺と同じく閻魔がいらっしゃるが、こちらはいつもの座像。

両脇に司命(判決を言い渡す)、司禄(記録係)を従える執務中の閻魔さまです。

風変わりなのは、造立者が六十六部聖だということ。

そのこともあってか、この三体は、台東区有形文化財に指定されていて、山門にその説明板もある。

台座に刻まれた銘文によるとこの3躰は、六十六部聖の光誉円心という人が享保十一年(1716)に造立したものです。六十六部聖とは、法華経を六十六部書き写し、全国六十六か所の霊場に一部ずつ奉納した聖をいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に石塔・石仏を造立するようになりました。これは生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです」。(台東区教育委員会)

六十六部造立の石仏としては、地蔵が多く、閻魔は極めて稀だということも指定要因となったようだ。

境内には、他に銅像の大日如来が座し、

墓地におわすのは、持経観音か、それとも白衣観音だろうか。

境内に句碑がある。

「花のひらくごとく 冬日の射しにけ里 春一」

ネット検索したら、瀧春一という蛇笏賞受賞の俳人だった。

60 天台宗清林山和光院大泉寺(谷中6-2-13)

慶長年間に神田北寺町に創建され、寺地が幕府の用地となったため慶安年間に当地に移転してきたのは、長久院や西光寺と同じ。

長久院の山門には、戊辰戦争時の弾痕があるが、大泉寺の山門は焼け落ちて、平成になり、再建したばかり。

境内に石仏は少ない。

参道横の地蔵立像が目立つ。

「大乗妙典六十六部日本回国供養塔」もある。

気になるのは、本堂前に点在する石像群。

衣服から仏ではないようだ。

江戸時代の百姓か、武士。

面構えからすると武士のようでもあるが、まさか羅漢ではあるまい。

寺に電話してみた。

石像名も制作者も年代も分からない、のだそうだ。

「四十七士ではないか」という人もいるという。

近世の事ならば、かなりの事が記録されて残っているものだが、皆目不明というのだから、意外な感がする。

 *次回更新日は、10月20日です。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-15(谷中5丁目のホ)

2016-10-10 06:39:43 | 寺町

養傳寺を出て進むと右に安立寺がある。

 

56 日蓮宗常観山安立寺(谷中5-3-17)

山門前右、樹木の暗がりの中に題目塔があって、側面に「鍋冠日親大上人四百遠忌法恩塔」とある。

開基者日養聖人は、日親聖人の拠点・京都本法寺の僧侶だった。

本堂には、日親木像と骨があると『新編武蔵風土記』には書かれている。(ブログ「猫のあしあと」より)

「鍋冠日親」の題目塔は、谷中寺町で2基目。

今回の谷中寺町巡りでの、私の個人的収穫は「鍋冠(なべかむり)日親」を知ったこと。

「鍋冠」は、焼けた鍋を頭に乗せる、日親が受けた刑罰の一つ。

鼻をそがれ、舌を斬られ、度重なる拷問にも屈せず、宗祖日蓮と法華経の唯一絶対性を伝導し続けた日親は、「人生は妥協だ」との諦観を持つ庶民にとって、超人的英雄として映った。

それは、私にとっても同様です。

日親らしさの片鱗でもないか、と思いつつ境内に入る。

清掃が行き届いて、気持ちいい。

参道に等身大石仏がおわす。

もしかして日親聖人?と思い、寺に確かめたら、なんのことはない水子地蔵だった。

画家、下村観山の墓の後ろに坐すのは、日蓮。

偶像崇拝否定の日蓮宗だが、宗祖日蓮聖人像だけは例外。

古そうな墓があるので近寄って見る。

明暦三年と読める。

 谷中5丁目最後の寺は、興禅寺。

57 臨済宗大道山興禅寺(谷中5-2-11)

上野に近い谷中なのに天海和尚の名前を聞かないなと思っていたが、やっと天海慈眼大師開基という寺に出会った。

天海開基だから天台宗寺院だったが、天海が禅寺興聖寺を訪れたことから、天台、臨済兼学寺院となった。(ブログ「猫のあしあと」より)

3段の台石の上に立つ地蔵無縁塔の他は、見るべき石造物は少ない。

「茲生供養塔」とあるのは、犬猫供養塔のこと。

 墓地には、落語家桂小南、三笑亭可楽、関取高津山芳信、新劇俳優村田正雄らの墓があるが、写真は撮らなかったので、お見せできない。

次回更新日は、10月15日です。

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-14(谷中5丁目のニ)

2016-10-05 05:59:23 | 寺町

霊梅院から次の長明寺へ、路地をやみくもに右往左往。

 

高台の人家の駐車場風空地に出る。

眼下は、墓地。

たまたま家人が出てきたので訊いたら、そこが目的の長明寺墓地だった。

「まっすぐ進むと坂にぶつかるので、それを左へ、坂を下りてゆけば長命寺」と教えてくれる。

ぶつかった坂は、七面坂。

昔、この坂は、坂上にある延命院の参道だった。

七面は、延命院の七面堂に由来するもの。

七面堂は、久遠山西方の七面山から勧請した日蓮宗の守護神・七面天女を祀る堂。

ちなみに、放火の罪で火刑に処せられた八百屋お七は、母親が七面堂に日参し願懸けをして生まれたので、「お七」と名付けられた。

坂の途中に小堂があり、お地蔵さんが2体、肩を寄せ合っている。

真新しい生花が供えられている。

信仰が、未だ、ここでは生き続けているようだ。

谷中の町並みの雰囲気からすると、こうした辻地蔵はもっとあってよさそうだが、見かけることはない。

ま、それぞれの路地の奥まで入って探したわけではないので、断言はできないが。

坂を降りるとそこが「六阿弥陀通り」。

今回も、カキ氷屋の前は、行列が出来ている。

「六阿弥陀通り」を南に向かって右側は、谷中3丁目で、このブログ「谷中寺町ー6」で取り上げた。

今回は、左側を見て進む。

52 日蓮宗日照山長明寺(谷中5-10-15)

山門が工事中で、工事用シートが掛かって、寺のムードを毀している。

谷中寺町では少ない鐘楼がある。

銅鐘の鋳物師についての説明があるので、書き写しておく。

本堂鐘は天和二年(1682)十月十六日、矢代安次が自らの逆修供養塔の為に寄進した。
撰文は、日蓮宗壇林所として著名な下総国飯高寺の僧性孝、書は長明寺四世日習。鋳物師(いもじ)は椎名伊豫良寛。椎名伊豫良寛は、延宝9年(1681)から元禄13年(1700)にかけて活躍した鋳物師で、制作した作品は26点(銅鐘19点、銅燈籠3対4点、宝塔、水盤各1)。とくに宝塔は上野寛永寺にある四代家綱の墓にあることから、椎名良寛の鋳物師としての腕前が卓越したものであったことが想像される。(台東区教育委員会)

 右に宗林寺を見ながら進む。

次の角を左折すると前方に坂があって、標識に「蛍坂」とある。

標識の側面に、坂名の謂れが書いてある。

江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだもの。『御府内備考』は「宗林寺の辺も蛍沢といへり」と言い、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂という」と記している。中坂は蛍坂の別名。三崎坂と七面坂の中間の坂なので、そう呼んだ。三年坂の別名もある。

緩やかな坂の崖下は、「谷中コミュニティセンター」。

坂を上がり切った左は、本立寺。

この辺り、ディープな谷中のど真ん中と云えよう。

53 日蓮宗妙見山本立寺(谷中5-8-7)

境内に聖観音立像がおわす。

住職の話では、横浜の檀家の家にあったものを移転したのだと云う。

妙見堂前に大黒天。

大黒さん=隠れ不受不施派説は先述したが、大多数は単なる守護神であるのは、勿論です。

 54新義真言宗長谷山加納院(谷中5-8-5)

寺に入ろうとしたら、下校してきた小学生が、勢いよく、山門をくぐって行った。

一声かければ良かったのに、タイミングを外して、なんとなく山門をくぐれずに終わってしまった。

気が強いようでいて弱い、変な性格なのです。

それでも山門から覗いて、写真を一枚撮影。

洗濯物がはためく、生活感あふれる境内でした。

下の写真、正面の加納院から前方に真っ直ぐ進む。

すぐ左(写真では、右)が、養傳寺。

55 日蓮宗運立山養傳寺(谷中5-2-16)

山門前に石碑がある。

碑上部に「竹内元正君碑」と刻されている。

大正天皇の御典医だった人らしいが、竹内なる人物には興味がない。

この碑に私が興味があるのは、石工が名匠・井亀泉(せいきせん)だから。

そのシャープな彫技は目を見張るほど素晴らしい。

 *次回更新日は、10月10日です。

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-13(谷中5丁目のハ)

2016-10-01 08:37:07 | 寺町

46 臨済宗大道山長安寺(谷中5-2-22)

山門を入るとすぐ左に石仏。

その隣に「阿弥陀仏」の文字碑がある。

長安寺の「売り物」は、三つ。

1、谷中七福神の寿老人。

2、中世の板碑群

3、狩野芳崖の墓

一昔前の正月、谷中七福神めぐりをした記憶がある。

探してみたら、御朱印色紙があった。

しかし、拝見したはずの本堂内の寿老人の記憶は、まったくない。

板碑が数基、本堂前に、羅漢さんに混じってある。

光線の具合と草叢の陰でちゃんと見えない。

下の写真は、正安2年(1300)のもの。

1300年といえば、鎌倉後期。

長安寺の開基は寛文9年(1669)。

370年も前の板碑がなぜあるのか。

どこかから持ってきたものか、もともとここにあったものか。

狩野芳崖は、江戸時代生まれの、明治の日本画家。

明治時代は、西洋人の評価が、作品の価値に大きく影響した時代だった。

狩野芳崖は、アーネスト・フェノロサによって見出された。

不朽の名作、慈母観音図は、郵便切手になっている。

長安寺には、昔、門番小屋があり、噺家・三遊亭円朝が子供の頃、住んでいたことがある。

円朝の墓は、このブログ「谷中寺町11」の全生庵にある。

読んでみてほしい。

 

 47 新義真言宗蓮葉山妙智院観音寺(谷中5-8-28)

 開基時の寺名は「長福寺」だった。

それが「観音寺」に改名したのは、将軍家重の幼名長福丸に気兼ねしたから。

私の故郷・佐渡にもまったく同じケースがあって、長福寺が正覚寺になった。

改名せず「長福寺」のままだったら、どんな厄災が襲い掛かるのか、どなたか教えてください。

境内には、赤穂浪士供養塔がある。

赤穂四十七士のうち、近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は兄弟だった。

二人の弟、文良(六世和尚)が、長福寺の見習い坊主だった関係で、寺内でしばしば会合が開かれたと云われている。

その隣の一際高い宝篋印塔も、四十七士慰霊塔。

上部四面に四方仏(薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩)の梵字が彫られている。

太子堂があって、その前の石碑には「御府内第四十二番 八十八箇所 観音寺」とある。

側面の「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主下総國締信」は、御府内八十八ケ所創始者の二人。

太子堂に動く人影があると思ったら、若い僧侶がお膳を持って出てきた。

訊くと日に2回、弘法大師に食事を捧げているが、それを今下げる所だと云う。

高野山では、今も生前と変わらず一日2回、太子に食事を捧げる生身供(しょうじんぐ)という儀式が行われていることは、知っているが、こうした普通の寺の太子堂でも同じことが行われているとは夢にも思わなかったので、とにかくびっくり。

観音寺を、しかし、世に知らしめたのは、赤穂浪士でもなければ、太子堂でもなく、寺の南側に走る築地塀だった。

その場所に立つと誰でも使いたくなる言葉がある。

ここでは、さしずめ「タイムトリップ」だろう。

いろんなガイドブックやWEBサイトでの観音寺の項では「タイムトリップ」と「ノスタルジー」がやたら使用頻度が高い。

外国人のガイドブックにも取り上げられているようで、外人の姿も途切れることがない。

 49 曹洞宗福聚山海蔵院(谷中5-8-25)

境内に見るべき石造物は、何もない。

わずかに墓地入口に六地蔵がおわすのみ。

おだやかで柔らかなお顔立ちです。

50 日蓮宗長光山龍泉寺(谷中5-9-26)

庭木の手入れが行き届いていて、実に清々しい。

浄行菩薩かと思ったら「妙鶴観世音」だった。

見なれない観音様なので、寺に訊いてみたが、寺の関係者が個人的に造立したものということで、詳細は不明。

石仏は、この観音様1基のみ。

51 臨済宗百丈山霊梅院(谷中5-8-19)

 谷中寺町では、少数派の臨済宗妙心寺派寺院。

本堂前の細長い境内に如意輪観音墓標が1基と石造物が1基あるだけ。

石造物は、何だろうか。

宝篋印塔にしては、隅飾りの突起がなく、宝塔にしては笠がない。

 

 

*次回更新日は、10月5日です。

 

 ≪参考図書≫

 

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 ◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

  ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html