頭の中は魑魅魍魎

いつの間にやらブックレビューばかり

『ヘヴン』川上未映子

2010-03-21 | books

「ヘヴン」川上未映子 講談社 2010年

TBS系列の情熱大陸で彼女の特集(毎回特集なので言い方が変か)を観て、文章に向かう姿勢というかその辺に好感を持った。のでいつか読もうとそのままになっていた。

いじめの物語である。正確に言うといじめられの物語だ。斜視の僕と汚いといじめられているコジマという女の子、二人の中学二年生の物語。いじめられている者の視線からつらい日々を描いているのだからどこかで救われる、どこかで癒されることを期待してしまう。しかし・・・

いやいや。なんだこれは。なんなんだこれは。痛い。胸の奥底が。腹と胸の境界辺りが痛い。

僕とコジマが受けるいじめが結構尋常でないのでそれが、平山夢明の「ダイナー」で描かれる怖さとは次元の違う怖さをもたらす。平山ワールドの怖さは、怖いし現実に自分に起こりうる怖さでいう意味でリアルなんだけど、邪悪とそうでない者の区別がまだあるというかその辺りに救いがある。でも「ヘヴン」にはそれがない。いや一見するとあるんだけど実はない。(いやその先にあるという読み方も出来るんだけど)

善は結局勝つのだとか救われるのだとかいう予想&期待は簡単にはいかない。僕が善なる地位から下ろされるのは、後半に入っていじめる側にいる百瀬との会話だろう。彼は言う。お前がいじめれれている事に理由なんてない。たまたまに過ぎない。たまたまそこにいたからいじめられたに過ぎない。自分がされたらいやなことはしてはいけないと言うけれど、あそこの女子高生の父親は娘がいやらしいビデオに出ると言ったら怒るはずだけど、でも自分はどこかの父親の娘である女性のいやらしいビデオをみているはずなんだ。だから自分がされたら嫌なことは人にはしないなんて完璧な人間にしかあてはまらないルールだろ?的なことを百瀬は語る。うーむ。なんて中学生だろうか。カラマーゾフの兄弟の大審問官か?

いじめられる者=善であって、いじめる方=悪みたいな図式でフツーは物語は描かれる。坂口安吾は「文学のふるさと」の中で、赤ずきんの童話について、こんな風に書いている。


愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐(かれん)な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
 私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然(しか)し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
 その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁(し)みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(引用終了) 




「ヘヴン」にも同じ事を思った。氷を抱きしめたようだった。





ヘヴン
川上 未映子
講談社

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4 コメント

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こんにちは (saera)
2010-03-21 14:19:41
少し前に読んだばかりでしたので
あの、心を切り裂かれるような痛みがよみがえりました。氷を抱きしめたよう・・・まさにその通りでした。
百瀬が口にした数々の言葉、彼をはじめとしていじめる側にいる子たちの心の中にも程度の差こそあれ同じような理屈がはびこっているだろうなどと想像してしまうと、救いようの無さのみを感じます。
コジマの強さと覚悟のようなものには絶句。最後の場面ではコジマをあたたかい毛布にくるんで抱きしめてあげたかった。
その先の彼女らに救いがあることを祈ります。
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こんにちは (ふる)
2010-03-22 12:27:24
★saeraさん、

「ヘヴン」の中で展開されたいじめる側の理屈のようなものは別の所でも
適用することが可能のように思います。大国が小国を経済的に、軍事的に
いじめる場合、大企業がアイデアあふれる中小企業の商品を真似る場合、
視聴者が心無いコメントを芸能人の浴びせる場合、ネット上で気に食わない
人を個人攻撃する場合・・・

いじめる、あるいは攻撃できるときには誰でも攻撃したいと思うのは、
人間が生まれ持った本能ではないかと思ったりもします。
そしてそういう部分を私自身が持っている事を忘れてはいけないと
思ったりもしています。(堅いか?)

コジマに自分の理想の女性像を見たりしているなどと書いている
うちに、完全に「ヘヴン」にやられてしまったなー。
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ほんとうに・・・ (saera)
2010-03-22 21:27:52
いじめる側の理屈についてはふる様の考察通りだと思います。
そしてまた自分自身も然り、ふとしたことがきっかけで誰かを攻撃してしまう怖さを内包していると思います。それが誰もいないところでの口撃もしくは心の中だけでの毒づきであったとしても、そういう自分も確実に存在するということを改めて確認してしまいました。
そうだ・・・毒を吐く穴を裏の畑に掘ろう、ポチ連れて。

コジマの行動はもう究極の母性愛、母は強し、という感じです。
彼女自身は全く意識もしていないと思いますが、この包容力、ホントに、理想の女性ですよね。


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こんにちは (ふる)
2010-03-23 12:50:13
★saeraさん、

>そうだ・・・毒を吐く穴を裏の畑に掘ろう、ポチ連れて。

いいですね。私は一人カラオケでマイクを通して毒を吐くようにしております(嘘)
かなり悲観的な見方かも知れませんが、常に攻撃をする側、される側というのが
この世界にはあって、状況によってただ自分がする側にいたりされる側に
いたりってだけの事だと思っています。出来ることはその攻撃を小さく
するとか相手を完膚なきまでに叩きのめさない程度に弱くすることでしょうか。

ヘヴンの映像化は困難だと思うのは、主人公の見た目(斜視)をそのまま
演じるのは難しいだろう事と、コジマを演じるのも難しいだろうからです。
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