離婚に苦しむ人へ

今、苦しんでいるあなたに寄り添って。

たくさんありすぎる

2019-07-31 00:00:01 | 日記
私たちの日常は情報が溢れていて、

朝起きてから、寝るまでに

どれだけ多くの判断や決断が必要なことか。

目覚ましで起きて、何時に家を出て、

何時のバスに乗って、何時の電車に乗って、、、

仕事がはじまれば、あれやこれやと段取りが必要だろう。

締め切りにも追われる。

もうどれだけがんばっても、一日の終わりにはやり残しがある。

とにかくやることがたくさんある。

自分のことだけでもこれだけある。

子供がいれば、もっとやることがある。

こんな生活を、元気な状態でも大変なのに、

寝るのも、食べるのも、起き上がるのもしんどい状態で

やりきるのは不可能みたいに思えてくるだろう。

だから、もう一日ひとつだけできたら良いと思って、割り切ることが大切。

まずは、身体を整えること。

いつも言うように、心はなかなか時間がかかる。

心を落ち着けるというのは、ほんとうに難しいのだから、

身体を整えることから始める。

それだって、眠れないとか、食事ができないとか、

いままでできたことができないのだから、大変なこと。

そして、できないことはそれは仕方のないことだから、

できることから積み重ねていく。

できないことで自分を責めても、落ち込んでも、何も良いことはないどころか、

さらに落ち込んでしまう。

それよりも、今日できたこと、少しでも気持ちが落ち着いたこと、

少しでもよいから、できたことに目を向けたい。

いつもいうように、耐えているだけで十分、

朝起きて、仕事に行くだけで十分。

仕事に行けなくても、何ができなくても

病気で苦しんでいて、明日がわからない人から見れば、

朝目が覚めるということですら、奇跡だと気づきたい。

息が普通にできるということがどれだけの奇跡か気づきたい。

ちょっと風邪をひいたり、ケガをすると、普段自分ができていたことが

どれだけ恵まれているかに気づける。

今、あなたが悲しみ、苦しみに沈み、もがく日常はもっとハードでしんどい。

だからこそ、今、自分の人生について考え、軸をつくり、恵みに気づけるかどうか

それが人間力となり、あなた自身を強くしていく。

今の私自身がそう思っているが、

苦悩してこなかった周囲の人たちとは、修羅場の数が違うと。

それを抜けてきた人間は、そうでない人たちとは考え方も、物事のとらえ方も

そして何よりも、耐力が違うのだと。

そして、充実しているのだと気づいている。



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反応の仕方は変わらない

2019-07-26 00:00:01 | 日記
ある出来事に対する

人の反応は、そう変化するものではないだろう。

たとえば、目の前に対処すべきこと、困難なことから

逃げる人は、いつまでも、どんなときも、

いくつになっても逃げる。

嫌なこと、自分に不都合なことを避ける人は

やはりいつも避ける。

逆に、努力したり、工夫したり、一生懸命に取り組む人は、

たとえその結果、思い通りにならなかったり、

成功とはいえないことになっても、

やはり、いつも同じように一生懸命にする。

人間は習慣の動物なので、過去の経験に照らして、

今回どうしようかと考える。考えるより先に無意識で動く。

困難から逃げた人は、次に向き合うのは難しい。

明らかに逃げる方が、今その瞬間は楽な道であり、

向き合う道は未知の不安と戦わなくてはいけないのだから。

そして、逃げるために、他責であるし、自分に都合よく考える。

自分に否はなくて、相手が悪いし、最もな逃げる口実を作り、

自分自身を無意識に納得させる。

でも、いつも困難に向き合い、挑み、努力する人は、

過去の経験を活かして、より改良して、より良い方向性を探す。

逃げることが楽とは思わないし、そこに答えがないことを知っているから、

最大限できることをする。

何でもかんでも向き合い、戦うことが良いのではなく、

いつもいうように、保留したり、白黒ではなくて灰色をみとめたり、

手放して、時を待つことや、時にはその場をやりすごすために、

休んだり、一歩下がったり、お酒で酔うことがあっても、

それは、最終的に

自分が向かうべき方向性が見えている人にとっては、

そのための方策であり、戦略であり、これもまた工夫である。

途中でくじけたり、挫折することはあっても、

向かうべき方向は見ているし、わかっている。

先に述べたような逃げる人間というのは、逃げ癖があるから、

一気に逃げる。本人は逃げているつもりなど毛頭ない、

それしか方法がわからないのだから仕方がない。

いつも言うことだが、他責の人間は逃げる人間である。

他責によりどころを求めたら、自分では何も変化させることができない。

他人が変わる以外ないのだから。

以前にも書いたが、ある方が提唱している「自分が源泉」であって、

自分に否があるとか、自分にやましいことがあるとか

自己責任だとかいうことではなく、物事は自分が源であるという意識によってのみ、

自分から変化を起こせるのです。

自分が何とか努力して、他人を変えるという意味ではなく、

ダメな人間からは自分から離れる、関わらない。

そんな人間によって、自分の人生全体を台無しにされないように。

離婚の相手のひどい仕打ちによって、生涯、自分が悲しみの底に閉じ込められないように、

その出来事から感情を含めて切り離して、二度と関わらない。

自分の人生からシャットアウトしてしまう。

変えるのは他人ではなく、自分の考えであり、行動であり、それは自分で可能なこと。

おそらく、それができるようになるには、深い、強い悲しみと苦しみのなかで、

ほんとうの意味で疲れ果てた先に、力強い感情を伴って、発揮されるように思う。

たとえば、離婚の苦しみであるならば、

「ふざけるな!!お前のような人間に自分の人生をコントロールされてたまるか!!」

「二度と、自分の人生とは関わらせない」

「離婚で失ったもの以上に、多くに気づき、得てやる!」

それぐらいの強い、厳しい感情とともに、歩むべき道が見えてくるのかもしれません。

ここに流れる根底には、

他人はコントロールできないし、人生はコントロールはできない、

けれども、今この瞬間に自分が選択することだけは決めることができる。

結果はコントロールできないが、物事に対する自分の考え方、行動、態度は

自分に選択権があるということなのです。







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周囲の会話に疲れる

2019-07-23 00:00:01 | 日記
悲しみ、苦しみに耐えているあなたは、

周囲の話に疲れないでしょうか。

のんきな会話や、アドバイスだか、善意の言葉だかわからないが、

自分の考え、経験を押し付けてくる人たちに。

その度に、あなたは誰も自分の苦しみをわかってくれないと

孤独な気持ちにもなるかもしれません。

もっと、こういう風に接してくれればよいのにとも思うかもしれません。

私自身は、カウンセラーとして、テレビや

街中、周囲の会話を聞いていると、

多くの常識や慣習、そして偏った考えや、意見が

あふれていることがわかります。

私が聞いていても、疲れてしまうことがあります。

ただいつも言うように、他人が考えていることや、行動

そういうものをコントロールしようとすると疲れるのです。

無意識にでも、相手に、どうしてこんな言葉を言うのだろうとか、

もっとやさしい言葉にしてほしいとか、

こうであったら。。。と考えてしまっているかもしれません。

話を聴く練習をしている私でさえも、

時にその無意識にはまるときがあります。

カウンセリングをしているときにはそんなことはありませんが、

そうではないとき、そして自分が疲れているときや

メンタルが弱っているときには、注意が必要です。

相手に求めすぎると、ほんとうにロクなことにはなりません。

相手の言うこと、行動、考えを第一に尊重して、

可能なら、自分の考えも取り入れてもらいたい、

少しだけ配慮してほしい。

そんな控えめな感覚の方が、実際にはうまくいくのです。

いつも言うように、英語のI(わたしは)メッセージが重要です。

わたしはこう考えているし、思うし、こうしてほしい。

でもそれをあなたが受け入れる必要もないし、義務もない。

それを相手に言うわけではありませんが、気持ちとしてはそんな感覚です。

以前に何度か書いている 「ゲシュタルトの祈り」の感覚です。

でも多くの人は、You(あなたは)メッセージが多すぎるのです。

そればかりの人もいます。

あなたは、こうしたほうがよい、

あなたは、こうであったほうがいい。

あなたの方が悪い、あなたの態度が嫌だ、

あなたの言い方が悪い、あなたの・・・・

単に相手をコントロールしようとしているのだということに

気づいたほうが良いのです。

でも実際には、相手は受け入れないし、コントロールできないですから、

結局、自分に返ってくるだけです。

そんなことで関係性を壊したり、時間を無駄にしても

何も得られません。

わたしはわたし、あなたはあなた。

恋人でも夫婦でも、親子でも、まして他人なら当然ですが、

人生のレールを横並び、平行に歩んでいるだけであって、

それぞれが違うレールの上にいます。

そしてレールは、交差することもあれば、離れていくこともあります。

それでも、同じレールの上を歩むことはないのです。

多くのトラブルは、全く同じレールを歩んでいるのだと勘違いしているところに

原因があるのではないでしょうか。









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一瞬で変わる見え方

2019-07-20 00:00:01 | 日記
昨日も、京都で大きな火災がありました。

30人以上もの方が亡くなり、

最近では記憶にないほどの火災です。

放火なんて防ぎようがありません。

また高齢者運転による事故被害者の方の話も

最近よくテレビで流れます。

一瞬にして家族を奪われた気持ちを

察することはできても、真に理解できるような簡単なものではないでしょう。

私は当時2歳で生き別れになった娘との苦しい時間のなかで、

どこかで子供が成長して生きているということだけが唯一の抜け道でした。

今も1度も会えてないですが、そんな非人間的なことができる相手であったということが

残念であり、自分の未熟さであり、心理学の勉強を通して、人間というものを

深く考えるきっかけとなりました。

自分自身で納得する作業、自分なりの答えを見つける過程であったともいえるでしょう。

今、離婚で苦しんでいるあなたも、結婚式に離婚を考えたわけではなく、

幸せな瞬間もあったでしょう。

そして、それはある日突然、崩壊し、一瞬で景色が変化し、

音も、色もない世界に閉じ込められるのですから、人生とはなんなのか?と考えざるを得ません。

事故、災害、病気、そして離婚のような別れは突然、私たちを日常から切り離し、

地獄のような苦しみの世界へ引きこみ、私たちはただ、ただ唖然として、

苦しみのなかでもがきます。

生きているということの真実は、ドラマのようなものでもなく、

幸せと悲しみが混在し、それは一瞬で切り替わるような環境であって、

自分でコントロールできることなどごくわずかであるということに気づかされます。

だからと言って、刹那的に生きたり、何かしても無駄だと考えても、

一生懸命生きても、努力したり、工夫しても、真実は変わらないのですから、

じゃあ、自分はどうしようか、どう生きようか、それに尽きるのではないかと思うのです。

何が正しいとかそんなものはないし、あるはずもないでしょう。

そして、この苦しみから立ち直るための方法は、巷にたくさんあるけれども

このブログでさえも、他人の方法であって、

状況も、人間性もそれぞれ異なるのだから、

本当の答えは自分自身の中にあり、

自分との対話を通して、苦しみを通して、見つけていく以外にはないのだと思うのです。

いつも言うことですが、

先人たち、そしてこの私自身も、苦しみの中で自分の答えを見つけ、そして今も探しながら、

乗り越えてきたという事実は、真実のこととして、あなたの前にあるのです。

さらにいえば、事故や災害で苦しむ方も、この狭い日本全国で

必死に耐えて、乗り越えようとしているという事実も真実として厳然と私たちの前にあるのだと

気づくことで、勇気をもらえるような気がします。


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平和ぼけ

2019-07-12 00:00:01 | 日記
最近の香港のデモ、暴動を知っていますか?

日本のニュースではあまり放送されませんが、

BS-NHKでは毎日のように、その激しさが放送されています。

ちょっと前にはフランスでもイエロー運動がありました。

暴力的なデモを肯定するわけではありません。

デモが良いか悪いを言いたいのでもありません。

でも、今回の参議院選挙でもNHKアンケートで

いろいろな質問に対して、

「どちらでもない」が3割。

要するに考えていないし、自分で決められない民族。

大学生や高校生が時の総理大臣の名前を言えない人がいるほどの日本。

自分自身に直接関係すれば問題だけど、他人ごとなら、まあそこまででもない。

自分の給料が上がれば良い。

以前にも書いていますが、東北震災の放射線汚染のゴミの受け入れを

ほとんどの自治体が拒否しました。

震災の後、その年だけは、節電のためにクリスマスイルミネーションを自粛しましたが、

いろいろな理由をつけて、次の年にはどこもやりました。

少し前に、政治関係でラップ調の若者のデモがありましたが、

それは素晴らしい行動的なことで、称賛できますが、

そのときだけで、あとが続きません。ひとつのイベントになってしまい、

香港やフランスの人たちのように、根本的なものになりません。

世界では生きるか死ぬかの状態で、海を小型ボートで移民しようとする人たちがいて、

たくさん亡くなっています。

自分がどの国に生まれたか?だけの差でしかありませんよね。

これだけ食品が廃棄されている先進国があるのに、

世界では餓死している人がたくさんいる。

この日本でもホームレスがたくさんいて、

家庭の事情で、十分に食べれない人もたくんさんいて、

でも賞味期限が過ぎれば捨てるのが普通の世の中です。

誰もが知っているし、もちろん安全のためですし、ルールは必要ですが、

数日過ぎたコンビニ弁当では何も起こりません。

それで救われる日本人がたくさんいるのにです。

韓国がこれだけ日本に対して、むちゃくちゃな行動をしていて、

馬鹿にされているのに、日本の世論では大きい反論は起きない。

最近の政府はかなり強硬な対応をしていて評価できますが、

国民は何も発しません。

良くも悪くも穏やかで平和。

そんな日本で平和な時間しか知らない、考えない日本で、

結婚の幸せは理解できても、離婚の苦しみは理解されない。

それがこの今の日本なのです。

だからと言って、しょうがない、理解されないと嘆いても仕方なく、

世界標準に自分をもっていくことが早道だと思うのです。

あくまで個人的な考えですが、

自分の軸を世界標準にして、価値観や、考え方、行動を

日本に合わせることなく、世界に合わせる。

離婚がどうだとかではなく、日本における周囲がどうだとかではなく、

世界の状況、考え方に照らして、どうなのか?

世界のなかで、離婚とは何か?

自分はそこまで不幸なのか?

自分はそこまで絶望的なのか?

自分は世界のなかで、どれくらい絶望的で、ボロボロで、どうしようもない状況なのか?

私たちはどうしても自分の世界で考えてしまいますし、

それは仕方がないことですが、視野を広げることで気づくことはたくさんあります。

日々の生活のなかでお金が足りないと思うことは多いでしょう。

私自身もお金に余裕があると思うことはありません。

でも、それは自分の周囲、日本のなかではそう思うかもしれません。

でも、世界のなかで、どれだけ恵まれているかです。

屋根があって、スマホが使えて、、、、

世界の失業率を考えてみたときに、自分はどうか。

だって、自分は日本に住んでいるというかもしれませんが、

世界の人すべては、同じ時代を生きる、同じ心臓を持ち、呼吸をして

食事も、遊びも、恋愛も、家族も大切にしたい同じ人間です。

そのなかで、自分の位置はどうなのか?

上を見たらキリがなく、下を見てもきりがなく。

視野を広くしていくこと、

それはきっと苦しい今が最適なタイミングではないでしょうか。

逆に今を逃せば、きっとこれまでと同じかもしれません。

あなたが新しい価値観を手に入れることはできないかもしれません。

そしてもはや日本の中で考える時代ではないのですから、

世界のなかの自分の立ち位置に気づくことが

この苦しみにひとつの答えを与えてくれるかもしれません。

だからと言って、あなたの苦しみが、今すぐに減るわけでも、

なかったことにはなりません。

今日、明日の悲しみが消えることもないでしょう。

でも、こういうことを考えて、何かひとつでも気づくことで

どこかできっと、何かをつかめるのだと思います。










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すべてが台無しに。

2019-07-03 00:00:01 | 日記
以前にも書いていますが、よく本などでも見る話です。

例えば、食事会で、新品の大好きな洋服にコーヒーをこぼされてしまったとします。

もちろん、最悪な気分ですし、楽しかった気分が台無しに感じるでしょう。

そのこと自体はそのとおりでしょう。多くの人はそこで気分を引きづりながら、

食事会やそのあとのことまで、自ら台無しにしてしまいます。

洋服にコーヒーをこぼされたことは自分の責任ではないし、

災難ではあります。

でもそれまでの食事会での楽しかったことや、アフターの楽しみを台無しにするかどうかは、

自分次第なのです。

多くの人は感情は自然発生的であり、どうにもならないと思っていますが、

感情は自分で選択しているのです。

そうでなければ、あなたの一日を左右する感情を、他人に支配されていることになってしまいます。

そんな恐ろしいことはありません。まるでロボットのようです。

出来事に対して、どう反応し、どのような感情を選択するかは自分次第です。

他人がイライラさせたり、怒るようにけしかけたりすることはできますが、

最終的にどの感情を選ぶかは自分です。

先のコーヒーの例で言えば、感情を引きづることもできるし、切り替えることもできます。

離婚の苦しみは、コーヒーの例のように、すぐに切り替えることは難しいけれども、

自分自身の人生に長期的にどのような影響を与え、意味を与え、これから先、どのような感情で進むのかは

最後は自分で選ぶしかありません。

理屈ではわかる、頭ではわかるけれども、そうはいかない・・・。

それが多くの人の率直なところでしょう。私もずっとそうでしたが、

感情は自分で決めているということが本当の意味で理解できたとき、

もはや感情に長時間を支配されることはなくなり、

たとえ一瞬、少しの時間は支配されたとしても、

自分で感情を選べるようになってくるのです。



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