離婚に苦しむ人へ

今、苦しんでいるあなたに寄り添って。

日々何をするか

2021-04-27 13:11:19 | 日記
私たちは多くのことについて
思い込んでいます。

いつも伝えているように

幼稚園から始まって、大学まで、
就職してから、結婚、出産、定年、、、
いろいろと思い込んでいます。

すでに定年なんて65歳になっています。
そのうち、70歳になるかもしれません。

安定、安心、ゆっくりできる老後なんて、もう過去の話で、
70歳で定年したら、10年も生きられないかもしれません。
伴侶と定年を祝えるかすらわかりません。

そうなると、定年後の楽しみとか、何か始めようとか
過去の神話レベルになってしまうでしょう。

私は入社したときに、周囲に言ってたことがあります。
サラリーマンなら、土日含めた休日は定年60歳までの日数が簡単に計算できます。
平日は遅くまで働いて、土日だけ趣味に使うなら、
ものすごく限られている。だから、平日も全力でやりたいことをしたい!と。

それだけ人生の時間は限られているのだということ。

苦しみのなかで、何もする気が起きないかもしれません。
新しいことなんて考えることすら難しいいかもしれません。
将来なんてどうでもいいと思っているかもしれません。

ただ、私は以前気づいたのですが、
苦しんでいる時間も、悲しんでいる時間も、しんどい時間も
逆に、楽しい時間も、幸せな時間も、
パートナーとの時間も、自分だけの時間も、両親との時間も

中身は違っても、人生の大切な貴重な時間であるのだと。

だから、悲しんでいる時間や、苦しんでいる時間が無駄だったり、
意味がなかったり、さっさと元気になった方が良いというものでもありません。

その上で、自分の貴重な時間をどう使うかは自分でしか選べないことも事実です。

悲しんでいる、寂しい気持ちがある、怒りが収まらない、
これは簡単には解消できないと思ったのです。
実際10年近くかかりました。
でも、10年をそれだけで過ごしてきたのではなく、
いつも書いているように、いろいろと挑戦してきました。

70歳で定年してからでは、もったいないのと同じで、
全部のことが解決したら、全快してからなんて、悠長な時間は人生にはないのだと。

楽しみも悲しみも、幸せも寂しさも、ぜんぶ同時並行でやってしまえばいいと
思ったのでした。
時々でバランスは違うでしょうが、どれかだけに偏るなんてもったいないと。

そう思ったら、悲しみや寂しさもあるなかでも、動けるようになったときには、
サラリーマンをしながら、
新しく心理の大学も卒業したり、コーチングや、カウンセリングの資格をとったり、
登山やボルダリング、雪山登山、トレランや筋トレの趣味もしてみたり、
とにかくやりたいことを全部やってきました。

不思議なことに、そんなふうにあれもこれもしていると、
自分の人生には悲しみや寂しさ以外にもたくさんのことを感じることができると思えました。
すぐに解決できないなら、保留しておこう、死ぬまで解決しなくても
まあそれはそれで仕方ないとも思えるくらいです。

どうせ、あと何年生きるかなんて誰もわからないのだから、
やりたいことやろうって思ったのでした。
ほんとうにあるかわからないような10年後、20年後、30年後なんかよりも、
今、目の前にある時間で全力を出そうって思えたのでした。

今日も一日、あなたなりの時間を過ごせることを想っています。








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ソロ

2021-04-21 20:58:19 | 日記
いつもはシビアな内容が多いので、

今日は少し軽いというか、息抜き的な話題を提供します。

私は、「ソロ」という言葉が好きです。

少しマニアックになってしまうけれど、

ソロ登山、単独登頂

私はそんなレベルではないですが、

世界の登山家が、その登山の冠に付けたい言葉に「ソロ」がある。

旅なら、「ひとり旅」だろうか。

「ぼっちキャンプ」って知っていますか?

かつて、ボキャブラ天国という番組あたりからでしょうか、

「ヒロシ」です。 で流行したネタがありました。

彼は最近は、
YOUTUBEでぼっちキャンプで人気になり、

テレビでもシリーズ化されるまでに流行っています。

ソロとか独りとか、ぼっちって、

別に寂しい言葉でも、境遇でもなくて、

素敵なことです。

孤独で寂しいというのとは違います。

私もキャンプが好きだから、楽しんで見させていただいているのですが、

「ひとりで生きていく」ヒロシ 廣済堂出版

の本も読みました。

40歳も最後の彼がありのままの言葉を書いています。

私は、共感するというか、

そうだなと思える言葉が多くて、あえてここで書いています。

「きれいな女優さんから告られたら、即結婚する」

「人間関係は固定的なものではなく、流れていくもの」

「他人に期待する生き方は、他人に絶望する生き方」

「デリカシーのない社会の同調圧力に屈する必要はない」

「逃げ込んだ場所で咲くこともできる」

どれも本からの引用です。

でも、私がこのブログを通して伝えていることに

共通する部分があります。

私はこの本を読んで、けっこうすっきりしました。

シンプルに考えると、感じるとこういう結論になりますよねと。

もちろん。それをいつも言うところの、

慣習、世間、収入、立場、いろいろなフィルターを通すと

違う結論になりますが、全部外すとこうなる。

幸せ絶頂、苦難知らずの人には伝わりませんが、

苦悩を知った人には響きます。

私自身、大勢で騒ぐBBQも楽しいですが、

ソロでたき火を見ながら飲むウイスキーも好きです。

ソロキャンプって、自分の内面との対話、自然と自分との一対一しかないんですね。

もし、あなたが嫌いでなければ、

ソロキャンプはおすすめです。

とびきりの贅沢な時間になるかもしれません。

今日は、軽めの話題ということで、

特別宣伝するつもりもないですが、

気になったら、テレビか

YOUTUBEで、ヒロシのぼっちキャンプを観てみてください。

私はなんか魅力があって見てしまいます。

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見え方の違い

2021-04-17 10:56:37 | 日記
大人と子供

大学生、高校生、中学生、小学生・・・

老人と若者

お金持ちと、ふつうの人、

生活ができないくらい苦しい人

健康な人、身体に不自由がある人

余命を宣告された人、そうでない人

先進国の人、そうでない国の人

平和な国の人、内戦している国の人

この世の中には、無限に対比できるくらいに

いろいろな立場、環境の人がいる。

みんな違う景色を見ている。

同じ景色、環境にいながら、感じ方は違う。

でもどうしても、私たちは自分の視点でしか物を見られないし、考えられない。

理屈ではわかってもできない。

大金もちの人は、この自粛生活でも、

何でも取り寄せたり、レストランの個室で食事したりできるかもしれない。

IT関連の仕事の人は、在宅だけで仕事ができるかもしれないが

エッセンシャルワーカーや、工場で生産に関わる人は、毎日出社しているだろう。

これだけ見ても、自粛への感じ方は違うに違いない。

では、ほんとうの世の中とは何だろうか。

どれがほんとうの世の中で、どれが正しいのだろうか。

全て、その人にとっては真実であり、正解だろう。

人それぞれで見えている世界が違うことは、上に書いたことからも

明らかなように思える。

いきなりお金持ちにはなれないだろうが、

誰だって、そこそこの選択肢はあるに違いない。

多かれ少なかれ、2つや3つ、いやたいてい10個くらいは選べるのではないだろうか。

離婚すると、なんだかそれがすべてのように感じて、

将来が見えなくなり、世の中は灰色になり、何もする気がしないし、

何をしても、以前の結婚していたときと比較してしまう。

あなただけではなくて、多くの人がそうに違いない。

もちろん、私もそうだった。

でも、ちょっとだけ顔を上げて、左右をちらっと見てみると、

違う可能性、選択肢があることに気づけるし、実際にいくつもの選択肢がある。

自分の足元だけ見て、顔を下げていて、以前の自分の生活、慣習、パートナーしか

選択肢がないかのように思いこみ、それ以外など存在しないし。

少なくとも自分には選べないように感じる。

繰り返すのだが、多くの人がそう感じる。

だが実際には、再婚する人は山ほどいるし、何度も離婚する人もいる。

離婚して恋人がまたできる人もいるし、パートナーをつくらない選択をする人もいる。

それだけに固執して、それ以外を排除するのはもちろん自由なことだけれども、

そのことを自分自身で選択しているのだと気づかされる。

これは悲しみを手放すとか、怒りや恨みをないことにするとか、忘れるということではなくて、

それはそれで良いし、現存するのだけれども、

自分は自分のために、違う選択をするという決断のようなものかもしれない。

他の誰のためでもなく、自分のために、今とは違う選択をするということだろうか。

以前も何度も書いているが、

私は、心理学やカウンセリングを学んだし、苦手だった長距離を走ることや、筋トレをはじめ、

サラリーマンではない方々と交流したりした。

特別な知り合いもいないし、特別な縁や方法もなかったけれども、

勇気をもって、単身で飛び込んで、自分の可能性を広げてきた。

学生時代からの友人とはほとんど付き合いがないが、離婚後に友人はたくさんできた。

じゃあ、悲しみはゼロかと言われれば、そんなことはないし、過去の事実は消えないし、

忘れるつもりもない。それはそれで別物として扱うと、これもまた決めた。

でも、少なくとも、今は、悲しみや苦しみ、絶望の領域とは違う領域で生きているし、

そこには楽しみだったり、喜びだったり、満足が存在する。

私自身は、悲しみや苦しみに満ちた人生ではなく、そんな人生は嫌だから、

正直、そんな生活にうんざりして嫌になったから、違う人生を選択した。

それは一気に一度にというようなかっこよくて、割り切れるようなものではなくて、

何年もかけて少しずつ行ったり来たり、右往左往しながらも

離婚前後で違う人生ルートに方向転換することを目指してきた。

面白いことに、離婚した後でも幾人かの異性とはお付き合いしたり、別れたりと

結婚前にしていたのと同じように、喜んだり、悲しみにくれたりもした。

離婚の悲しみは大きいけれども、それを経験してもなお、

やはり恋人としての別れも辛いことに変わりはないのだというのが

とても新鮮で不思議に感じた。

二度と異性は好きにならないし、関係したくないと思った当時とは違い、

実際はそんなことはないのだと気づかされた。

思いこみなんてそんなものか、その程度のものかと感じた。

正解、不正解はわからないし、これから先だってわからないが、

少なくとも、今を後悔して生きてはいないことは確かだと思う。

いつもお伝えしていますが、

これが正解だとか、こうすべきだとかを伝えたいのではなくて、

苦しみのなかでも、こういう考え方、視点があって、

そんなことを考える人もいるのだという点が大切で、

じゃあ、自分はどうしようか。。。。そこからがスタートに思う。

今日も一日を乗り越えていきましょう。

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人それぞれの選択

2021-04-15 15:59:34 | 日記
私たちが、今、目にしている日本や世界の状況は、

本質的なことを考えさせられる。

先日、WEBの記事で、

若者から貴重な人生の機会を奪うなという論説があった。

卒業旅行や、卒業式、入学式など、人生で大切な節目を

自粛、自粛で奪ってよいのかということであった。

それも一意見だろう。もちろん賛否はある。

これは先日も書いた高齢者の人生の貴重な時間をどう考えるべきかという点と

同じだ。

一方で医療に関わる方は、リスクと不安のなかで休む時間もない。

医療者に感謝をという世間と、

自分の用事や気持ちは後回しにできずに、

街がにぎわう世間。

電車やバスは相変わらず満員である。

私の実感ではむしろ、増加しているように感じる。

あたたかい休日ともなれば、街も公園も施設も大勢でにぎわう。

帰宅途中の都内の駅では、学生もサラリーマンも立ち飲みである。

役人たちの集会や、宴会ネタも次々出てくる。

どれが良い悪いということは誰も言えない。判断することでもない。

自分以外の人間の人生に責任がもてないことを理解していたら、

政治家でも親戚でも、家族ですら、批判などできない。

ましてそれを抑制するなんてできるはずがない。

みんな自分の考え、想いで行動している。

周囲や他人に迷惑をかけるから、自分の行動を律することができるのもすばらしいし、

自分中心に生きていくことも、これもまたその人次第だと思うのです。

いつも言うように、自分の人生は自分のものである。

ただ、自分本位によって、他人の人生を侵害するなら、これまた考える余地があるだろう。

他人に迷惑をかければ、結果として責任は自分が受けるしかない、それが前提のうえでのこと。

この日本のようなある程度、世間の目を気にする人たちでさえ、

もう自分の価値観で行動していることは明らかだ。

日本だけでなくて、世界でそうなのだ。

ヨーロッパ諸国は、日本より厳しいロックダウンをしながらも、

これを数回も繰り返している。

本来の人とは多面性があり、枠にはまるものではない。

それをルールだとか慣習だとか、資本主義というもので

仮に押さえつけているにすぎず、個人個人が自分の価値観で行動するとこうなる。

平和なら従うほうが楽かもしれないから、我慢している人たちも、

自分に害が及んだり、過剰な我慢を強いられると、無視しだす。

結婚や離婚はもちろんのこと、恋愛でも同じで、

付き合ってほしいと申し出た側が、今度は、別れてほしいと言うこともある。

本来、不合理にも感じるが、勝手だと言いたくもなるが、それが人だということ。

生涯を一緒にすると誓っても、不倫する人たちがいる。

倫理的にどうであれ、悲しむ人がいるのがわかっていても、人は行動する。

離婚した相手に対して、世の中の法律や制度に対して、周囲に対して、

納得できないことは多いはずだが、

この今の世の中を見ていて思うのは、要するに人というものはそういうもので、

世の中のルールというのは、その程度のものだということだ。

規律や法律がないと、どうにも制御できないから、そういうものがあるわけである。

法律も、世の中のルールも正義ではないし、万人が従うようなものでもないし、

状況が変われば簡単に変更されるということ。

そんなことを考えていくと、やはり普遍的なことは

生きるという本質だ。

人生の本質を考えざるを得なくなる。

ここにルール変更はない。何をしても最後は全員同じゴールである。

だからこそ、どう生きた、生き抜いたのか、何を考えてきたのか、

何をしてきたのか、それしか残らない。

以前にも書いたが、調停や裁判で、他人は騙せても、自分の人生は騙せない。

自分自身を一時的には騙せても、誤魔化せても、

ほんとうの意味での、日本人がお天道様が見ていると言うところの「おてんとうさま」は、

自分の心の中にいて、ぜんぶ見られている。

最後まで自分を誤魔化すことはできないのではないだろうか、そう思っている。



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今に集中する

2021-04-09 00:00:01 | 日記
最近の不安定な社会を見ていると

将来を考えるときっと不安だらけかもしれない

以前なら、大きな借金をしたとか、

病気で働けないとか

ギャンブルとか、薬物とか

大きなトラブルがなければ、

まあ、ふつうに一生懸命に働いていたら

少なくとも最低限の生活はできたかもしれない。

仕事が大変とかきついとか、収入の違いはあれど、

がんばればなんとかなったかもしれない。

でも最近は、突然の飲食店や観光業への打撃からはじまり、

業界ごとボロボロになっている。

多くの女性のあこがれのCAだって、

一流ホテルのホテルマンだって、

観光業は、

旅行やビジネストリップがあって、はじめて成り立つ。

大手企業でも給料カットはもちろん、リストラや倒産が起きてしまっている。

ある日突然に、解雇されたり、給料が激減するなんてのが起きているのである。

そうなったら、どんなに真面目にがんばってきても生活していけない。

小さい努力や積み重ねなど一瞬で吹き飛ぶ。

先日、偉大な柔道家が若くして亡くなったり、

震災復興でつい数週間前に何もなくテレビに出ていた芸人が

がんの早期発見があったりという話は、人ごとではない。

昨年はコロナでたくさんの方が亡くなった。

不安をあおるつもりもないし、悲観的にとらえるのでもない、

現実はしっかり見たうえで、どうするのかという点が重要になる。

見ないふり、知らないふりはそれこそ無意味ではないだろうか。

こんな不安定な日常を過ごしているなかで、

来年のことどころか、一か月先、一週間先を考えても不安は尽きない。

では、毎日不安をかかえて、この先生きていくのかというのはどうだろうか。

不安の多くは現実化しないなんて言葉も啓発本では聞きますが、

今の世の中を見ていれば、これを信じろという方が難しいのではないか。

実際に、ありえないと思えることがたくさん起きている。

生活が激変するようなことが起きている。

また最大のリスクを考えて備えるとか判断するというのもあるが、

これまた難しい。

あまりに最大のリスクだらけだから、いちいち対応していたらきりがない。

そして、私たちが不安になろうが、なるまいが、

不安に押しつぶされる毎日を過ごしても、

楽観的に毎日を過ごしても、

いづれにしても、起きることは起きるし、起きないことは起きないのだという

とても単純な事実があるのも確かではないでしょうか。

私は、「今に集中する」これを心がけている。

いつも言うように、生きることができるのは、過去でも未来でもなく、「今」であり、

この「今」の積み重ねが過去であり、未来なことは説明してきた。

そしてそんなことは誰でもわかっているというかもしれない。

ただいつも伝えているように、「わかっている、知っている」のと、

「腑に落ちている」のは大きな違いがある。

先々のことまでやってられない、

あまりに不安要素があって、いちいち考えていたら、何もできない。

そんな状況で、今だけしっかりやる。

朝だけ、午前だけ、午後だけ、

目の前のことだけに集中して、今日やるべきことをやる。

今は朝食を作る、食べる、美味しいことを喜ぶ。

天気が良くて気持ちいいと感じる。

この瞬間に桜を見れたことを幸せに感じる。

今日のお昼をまた楽しむ。食べたいものを食べる。

夕方はジムに行って、全力でトレーニングする。

なんでもよい、自分のすべきこと、やりたいことを必死にやる。

そのことだけに集中してやる。

いつも言う、明日のことは、明日の自分に任せる。

今日は今日の自分が全力で生ききる。

「一日一生」

こんな時期だからこそ、

今に集中することが大切なのではないだろうか。

そしてそれが自分を救うことにもなるのではないだろうか。


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人の強さ

2021-04-05 18:10:32 | 日記
人は弱い部分もあるけれども、

とてつもない強さもある。

それを目の当たりにしました。

水泳で、すばらしい出来事がありましたね。

闘病生活を抜けて、あれだけ痩せて、筋量も落ちて、

そんな姿、最強のアスリートが自分の弱い部分も、世間に共有してくれて、

まさかの東京五輪への内定。

メダリストたちすらも、想像できない復活と言わしめました。

世界の方々から祝福がありました。

私自身、久しぶりに涙がこみ上げてきました。

水泳どころか、自分の命がかかった状況で、

想像できない苦しみと辛さ、悔しさを乗り越えて

その後、あれだけの筋量とパフォーマンスを取り戻して

戻ってきてくれたことは、

ほんとうに感動します。

普通なら社会生活に戻るだけでも大変なことです。

いつも言いますが、

ほんとうに苦悩し、耐えて、乗り越えた人の

やさしさや強さは、突き抜けています。

その景色を見ないとわからないことがあると思うのです。

テレビでも言っていましたが、

おめでとうはもちろん、

ありがとう の声がたくさんあるそうです。

多くの方が、励まされたという声があります。

今回、あえて記事にしたのは、

人のほんとうの強さを感じることができたからです。

苦しみや悲しみは、もちろん。比較することはできません。

でも、以前も書いていますが、

私は子供とは10年以上会っていませんし、2歳で止まっています。

地獄のような悲しみと苦しみも経験してきたつもりですが、

それでも、彼女のように、命の危機には直面していないし、

幼少期から夢を追いかけてきた彼女ほどの落胆はないかもしれません。

私も想像できない苦しみだったと思います。

私も、

「人の本当の強さとやさしさを教えてくれて、ありがとう」

そんな気持ちで

今日は記事を書きました。

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コントロールできない

2021-04-01 20:16:50 | 日記
世界中で、どうしてこれだけ感染が広がるのでしょう。

日本でも若者だけでなく、サラリーマンも路上で飲んだり、

パーティーをしたり、居酒屋に行ったり、

役人などですら、送別会をしているという状況。

しょうがないな。。。そう思う部分もありつつ、

でも、海外でも同じ状況で、日本だけではありません。

日本のほうがおとなしいとすら感じます。

国関係なく、そんな状況です。

ここからわかることは、

いつも伝えているように、

他人はコントロールできないという単純なことです。

すべての人が自分の人生を生きていて、

自分の価値観があって生きているのです。

自分自身でリスクを感じない限りは、 抑制することはないのです。

ちゃんと考えたら、他人や自分の両親、祖父母への影響もあるわけですが、

それでもなお、世界中でこの状況です。

自分中心、自分の世界で生きていることは明らかです。

平和で、何事もないときは、みんなある程度は従いますが、

ひとたび、有事になれば、今、あなたが見ている世界が真実なのです。

無意識的かもしれませんが、他人のことよりも、自分の快楽や、ストレスフリーを優先します。

これを本格的に制御するなら、戦時中のようになってしまいます。

従わないと、自分の命に係わるくらいまでしたらコントロールできます。

ご存じのように、それが世界の戦時中の虐殺だったり、捕虜や、非国民という思想になるわけです。

批判を受けるかもしれないことをあえて言うならば、

私は両親と食事に行ったり、出かけています。

年老いた両親と、来年、同じ時間が来るとは限らないし、

それについて、政府も他人も何の責任もとれないことは明らかです。

老齢の方の1カ月は、若者の時間軸とは違います。

私たちは、来年はおそらく来るし、今、我慢しても先があるとなんとなくは思います。

でも、病気を抱えていたり、高齢になったら、

次の正月を迎えられるのか、桜を見れるのか、そんなふうに思っています。

だから、老人たちが昼カラしたり、旅行すること、花見に出かけることを批難することなど

できないのだと、私は思います。

それこそ、みなさんリスクを考えても、今、行動していると思うのです。

今、この世の中、世界の状況を見て、

人をコントロールできるなんて、幻想だと気づくのではないかと思います。

外食するなと言っている程度のことすら、多くの人が守れません。

コントロールできないのです。

別に寝るな、食べるな、酒飲むなとは言ってないのですから。

さらに言えば、いろいろと抑制させて、

その人の人生に悪影響があったとしたら、

どうして、誰が責任をとれるでしょうか。

自粛、自粛と言って、大切な人との時間を自粛して、

二度と戻らない時間、機会になってしまったとしたら・・・。

他人は何も責任はとれません。

痛みも共有できません。

「他人はコントロールできない」

「自分にしか自分の人生は生きられないし、責任がもてない」

この本質的な意味が、今の状況を的確に見たら、

見えてくるように思います。

これは、好き勝手にしてもいい、なんでもいい、従う必要などない

そういう短絡的、単純なことではありません。

ほんとうの意味で、他人や世の中に影響されずに、

自分の価値判断で、自分の人生を生きたほうが良いのではないかと、

私は感じているという意味です。







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