ふるやの森

地球文明の再生に向かう
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サナンダ4/7,2009:イエス・キリストの願い

2010-03-01 09:46:47 | アセンション

VIDEO サナンダ4/7,2009: イエス・キリストの願い  

こんにちは、皆さん!


私はサナンダです イースターの祝日のイブに皆さんにメッセージをお贈りしたいと思います


私はイエス・キリストとして皆さんを訪れた教師のスピリットです


私は私たちを招いた皆さんすべての心の中へ入って新しいエレサレムを建設したいと思います


イエス・キリストはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教のどの宗教を代表する者でもなく


大切なことは彼は私たちであり


スピリットとスピリチャリティーのすべてを代表する者としてあります


今回お伝えしたいことは今皆さんが祝おうとしているイースターは、これから全面的に進むアセンションの始まりになるということです


イエス・キリストが伝えようとした教えには多くの意味が含まれていました


その一つは私たちはすべて一体であり、同じ道を歩む兄弟・姉妹たちだということです


だから私たちは地球に平和をもたらし子どもたちを共に育てるために力を合わせなければなりません


そう、地球に平和をこそもたらすために


イースターの朝陽が昇る時が新しい世界の始まりになります


たとえ皆があなたの言うことを信じなくても、あなたは自分自身を信じていてください、あなたの内側のキリストを・・

「あなた方は私がした以上の奇跡を行うであろう」とキリストは語りました


すでに皆さんは自分の内側にあるパワーに気づいています


皆さんは地球に自由と平和と豊かさをもたらすパワーを秘めています


真実を求め自分の神性を見出してください


真実の輝きが地球にすばらしい豊かさをもたらすのです


人類を癒し、歌い踊り・・天国を地上に実現していきます


もう皆さんはこれまでの地球にあった飢餓・戦争などの苦しみから解放される時期にあるのです


皆さんをコントロールする者は皆さん自身であり、それ以外の誰でもありません


言いかえれば皆さんには大きなパワーが与えられて、このイースターがその新しい時代の始まりとなるのです


皆さんの内にある真実と愛のパワーに祝福を贈ります


私の母のマリアが手にした白いバラの花に象徴された純粋さを求めてください


バラの香りをかいでそのやわらかい感触を楽しんでください


皆さんはバラのプレゼントにふさわしいソウルたちであり、私は皆さんの御足を清める者です


皆さんの栄光をキリストの名において称えたいと思います


皆さんは愛でありこれまでも愛であったのです


ナマステ



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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター1 (タケ)
2010-03-01 17:06:41
管理人様のご希望に応えまして、ラムサのDVD「スピリチュアル・ジャーニー」のパート1から順に掲載していきます。
ただ、宇宙人の介入に言及しているのはパート2のチャプター2だけですので、他の部分はあまり関心がない方も多いのではないかと思いますが、その場合は読み飛ばしてください。
ラムサは、内なる神を人類に気づかせることを目指して指導しています。
大部分の人間は、自分を肉体だと考えているのですが、望むことを視覚化して内なる神によって現実化させることで、神は天国にいるだけではなく、自分の内にもいるのだと気づかせようとしているのです。



私の愛する神よ
私はあなたに畏敬の念を抱いている。
さらに、私である神秘と私とあなたの関係に私は畏敬の念を抱き、その定義を追及している。
私はあなたに言う、自分の人生を愛していると。
私は自分の人生に感謝し、自分の転生と冒険でのブレークスルーに感謝している。
今夜、私は宣言する。
開かれたスピリットと心とともに、私は耳を傾ける。
教えられたことが私に明かされるように。
このことを期待して、私は歓喜とともに言う。
ソービーイット。
人生に乾杯。
あなた方の人生に乾杯。
今夜、われわれがこれから学ぶ教えは、ひとつの歴史であり、できる限り単純に、ここにいる誰もが抽象的なものを理解するための教えだ。
つまり、彼らがなっている「虹の中の赤」を理解し、人生という複雑なものの中に生きる目的を持った存在として、自分の有用性を理解するための教えだ。
この教えはもちろん、ただ与えられるだけだが、単なる教え以上のものだ。
なぜなら、ある夜に、あるいは、ある朝に、あなたは目覚め、驚くべき気づきを得るからだ。
驚くべき気づきとは、つまり「あなたが考えることは物質化する」ということだ。
あなたが考えることは、文字通り、物質化するのだ。
この言葉に関しては、何の占いも必要ない。
文字通り、そうなるからだ。
そして、あなたの思考が物質化するなら、あなたが見るものと聞くもの、そして、それらについての思考は、重要なものとなる。
見るものと聞くものについての思考も物質化するからだ。
ある瞬間に、あなたは理解するだろう。
つまり、もしあなたが全力で、自分の知識に取り組み、自分を発見する旅に参加し、見えないものを定義しながら自分のアイデンティティーに取り組めば、もしあなたがこれに取り組めば、あなたが考えることは物質となり、現実となるのだ。
ある瞬間に、あなたは気づくことになる。
つまり、この広大なワークにおける最も偉大な統合は・・・ところで、これが広大である理由はいずれ理解するが・・・これらの一連の哲学を通して、つまり、意識とエネルギーが、まさに現実の性質を創造する。
そして、コンピューターである脳に意識とエネルギーが入ると一連の絵が生まれる。
それらは思考と呼ばれたり、インスピレーションと呼ばれたりするが、それは一連の非凡な思考である。
それはインスピレーションと呼ばれるが、それは人を高揚させる。
思考と呼ばれるそれらの絵は、何者かがそれを見ることができるようにそこに存在する。
そうでなければ、思考の性質についてうまく説明することはできないし、思考の存在理由についてもうまく説明することはできない。
「何か」がそれらの絵と、それらの思考によって起こる反応を見ているのだ。
思い出してほしい。
意識とエネルギーが脳に働きかけ、脳は、動いている意識の流れからプログラム、つまり静止画像を作り出す。
なぜ脳はそうするのか?
仮に思考というものが無数に存在するのであれば・・・思考の可能性は無数にあるが・・・だとすれば、脳は、常に提示され続ける意識という無限の混合物を思考と呼ばれる鮮明な絵に変える能力を持っていることになる。
そして、思考はもちろん、単に、われわれが内なる絵を自覚するためにあるわけではない。
内なる絵はいわば、われわれが心に抱く、すぐに利用可能な概念であり、われわれがそれを抱くならば、われわれはそれを利用可能なものにする。
利用可能な意識とは何なのか?
それは物質である。
それは、個人的な現実という形態の物質であるが、個人的な現実とは、何なのか?
われわれの人生、われわれの環境の中で現実化するあらゆるものは、まさに、自分独自のものである。
これは、個人と同じである必要はない。
それは「あなたの旅」であり、あなた独自のものだ。
これらの概念をあなたが理解すれば、いずれあなたは、いきなり稲妻に打たれたかのように、気づくことになる。
あなたは眠りから目覚め、頭の中で何かを聞く。
あなたに何かを知らせるために何かがあなたの名を呼ぶ。
それは声として聞こえるわけではない。
それは、脳の中をよぎる一連の絵であり、それはメッセージである。
そのすばらしい瞬間に、あなたはこのグレートワークの中で、何を行うのか?
あなたは、この学校の豊かな哲学の観点からのみ理解するわけではない。
この学校の哲学は豊かだ。
というのも、あなた方全員を個人として飛躍させるための基盤は無限だからだ。
だが、個性を芽生えさせるための基盤が存在しなければならない。
独自の目的を芽生えさせ、その独自性によって力づけられるような基盤だ。
そうなれば、あなたの独自性が人生そのものに、彩りや、ユニークさや、並外れたものを加えることになる。
あなたは、自分が創造するものの中に存在するのだ。
ある瞬間に、あなたは理解することになるが、この教えの目的はずっと、多面的なものだった。
つまり、その光線は3本か4本だけではなく、1本の線でもなかった。
それらは、生徒全員の核心部分を全て含んだものだった。
このような講義の中で教えられてきたことは、あの稲妻のような気づき、あの突然の目覚めであり、それは、あなたに呼びかけて気づかせるためのものだった。
いま行われている講義のような一連の教えの中で、あなたが学んだり聞いたりすることは、それ自体、私からあなたに伝達されるひとつの思考である。
それは、あなたがひとつの絵、一連のひらめき、ひとつの思考を受け取るためのものだ。
その思考は、それを注視する存在の目の前を通過するが、神聖なる「ホーリー・スピリット」がそれを見る。
全ての思考が物質化するのであれば、最も崇高なことを考えようではないか。
起こりそうなことではなく起こりそうもないことに挑戦し、過去ではなく、未来に挑戦しようではないか。
そして、新しい一連の思考に挑戦しようではないか。
今日のような教えは、料理を作るときのように、これらのバンドから材料を引き出す。
このバンドから少し引き出し、このバンドから少し、このバンドからはたくさん、このバンドからは少々、そして、特定の温度でそれを焼き上げる。
つまり、教え全体は、様々なレベルの意識によって構成されており、それが脳の特定の部分を発火させることになる。
それによって、われわれには、ひとつの思考が提供されるが、それは一連のインスピレーション、一連の新しい考え方であり、われわれはそれを利用して、驚くべきものを導き出すのだ。
それは、単純な文章を繰り返し、組み合わせ、言い換えることによってなされ、われわれの中に存在する神聖な要素の前にそれが提示される。
自分がそれを持っていることを誰もが知っているが、それは目に見えない。
誰もが、その存在に気づいている。
それは、救いが存在する場所だからだ。
われわれの中には救済者が存在し、われわれ全員がそれを知っている。
それは、われわれをこの究極の存在に引き合わせるが、その存在は、動かずにじっとそれらの絵を観察している。
これは、驚くべきものへと至る学びだ。
つまり、知識を何度も教え、言い換えることによって、より理解しやすい思考へと至るのではなく、より謎めいた思考へと至るのである。
つまり、神秘的な事柄に関する閃きや新しい可能性に関する閃きへと至るが、あなたがこのプロセスに参加すれば、あなたの思考が物質を創造するのである。
したがって、ある時点で、進化の旅路を歩むあなたは、この狂気、この瞬間に、気づくことになる。
教えに耳を傾け、応答することは、新しいレベルの考えを抱くことだったのだ。
新しいレベルの考えは一連の思考であり、複数の思考がうまく組み合わさることにより理解可能な説明が生み出される。
その説明はあなた独自のものである。
それにもかかわらず、つまり、それはあなたの説明ではあるが、あなたの脳の中で、その説明はあなたを新しいレベルの明晰な柔軟性へと引き上げた。
そしてそれは、あなたの人生における変化を引き起こす。
これらの講義の目的は、あなたを鼓舞して、新しいレベルの思考に至らせることである。
そして、あなたの中から、説明可能なものを引き出させるだけでなく、説明するのが難しい可能性をも、何とかあなたの中から、引き出させることだ。
あなたにそれができれば、それがあなたの人生となる。
あなたが考えたことは物質化し、あなたの人生の中の1ページとなる。
それは、ある1日の1時間の中の1分だけ、あるいは、1時間の中の1分の中の1秒だけかもしれない。
だが、それは実現する。
したがってグレートワークは、捉えがたいものであると同時にアウトレイジャスだ。
グレートワークが捉え難いのは、それが明らかに、明らかではないからだ。
これは、あなたの中の神が、明白ではないのと同じだが、神はそこにいる。
あの救済者、あの人生の与え手、あなたの存在を愛するあの存在、決断の背後にいるあの力、混迷の最中のあの静けさ、あの黄金の静寂は、この救済者からやって来る。
私の愛する人々よ、これこそが、気づきの中で起こる旅であり、それは捉え難く、不明瞭だ。
というのも、神の姿を明確に指し示すことなどできないし、「神はこのようにこれを行うだろう」などとは言えないからだ。
神は何も行わない。
それは、夢見る存在の意志に火を付け、あらゆるものを承認するだけだ。
返信する
スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター2 その1 (タケ)
2010-03-01 17:07:25
この教えの本質的要素と、この学校の存在理由は、あなた方にグレートワークを教えることだ。
私に関する教えも含まれているが、大部分はあなた方についての教えだ。
この学校の旅は、「神を見る」ということだからだ。
そして、イニシエーションの旅は知識に関係があり、自己発見と気づき、そして、知識を得る喜びと、知識を実際に利用することに関係がある。
真実は不可欠なものだ。
哲学が自然に真実を生み出すことはない。
私が言ったことはどれも真実ではない。
それがあなたの心を動かし、あなたがそれを理解しない限り、それは真実ではない。
あなたは自分であるものだけを理解でき、自分でないものと自分であるものに反応できるだけだ。
これが真実の基本原理だ。
哲学は真実ではない。
哲学は誰も進歩させない。
哲学は、頭の中に知識を獲得するだけで、その知識を初歩的なレベルで個人的な現実に利用することがない。
個人が全体を構成するが、全体的なものへの利用ではなく、個人的なものへの利用だ。
知識を個人的な現実の中で利用することは、その哲学を一連の物質的な体験へと解き放つ方法であり、人はその体験を指差して、「あれはまさに私が考えていたことだ」と言うことができる。
「あれはまさに私が学んだことだ」と。
そして、そのほんの僅かな認識が、この学校の基盤である。
最初の頃は、それはほんの僅かだ。
多くの期待を抱きながら行うが、得られるのは僅かな真実だ。
真実は自分で獲得する必要がある。
その叡智の真珠は、知識を現実へと変えていく旅の中で、哲学を自分の道として体験へと解き放つことによって獲得されなければならない。
そのとき、人は自分の中に、まったく新しい驚くべきものを発見することになる。
それは、環境の中の出来事と頭の中の諸々の思考を結びつけることであり、頭の中の思考を変え、その思考に対応する環境を生み出すことである。
その体験が、真実と呼ばれるものだ。
それは豊かな生き生きとした自分で獲得する真珠である。
だが、この学校では、哲学は基盤である。
「われわれは内なる神だ」という言葉はどういう意味なのか?
これは何を意味するのか?
神が特定の場所にいると言うことはできない。
神は全てだからだ。
神が特定の場所にいるという考えは、一滴の露の中で全世界を体験したことのない人間のための退屈な概念だ。
というのも、一滴の露の中に、全体が見えるからだ。
真実を持ち、自分が見つめているものを理解できる人々には、それが見える。
あらゆる顔の中に、全体が含まれているが、それは個人の顔でもある。
だが、真実を知ってはじめて、その哲学を理解することができ、その哲学を、あのような美しい、適切な、感知可能なつながりと実際に結びつけ、全ての中に全てを見るのだ。
真実を持ってはじめて、哲学の意味が確固たるものになり、人生の中で実を結ぶ。
この学校は、神の顔を見つけるための場所ではなく、あなた自身の顔を見つける場所だ。
あなたが自分の顔を見つけるとき、そこには真実があり、あらゆる顔の中に、あなたは全体を見る。
あなたは分離ではなく、独自の全体性を見るが、それは独自性を持つ混合物である。
そのとき、あなたは神のハーモニーとつながることになる。
あなたは神の心を打つだろう。
あなたが自分自身の中に神の顔を見たとき、あなたは全ての中に神の顔を見ているだろう。
したがって、神、「神を見る」ということは、不可思議で、神秘的な旅だ。
これは個人の学校だが、人々は他人と同じような容貌を追い求め、他人と同じようになろうとしてきたので、自分の個性に気づいていない。
つまり、彼らはつまるところ、個人になるのではなく、家畜の群れのようになろうと奮闘してきた。
この学校はあなたを、社会意識の冒険から、神を発見する旅へと引き戻すが、ひとつの顔の中に神を発見するのではなく、知識の利用を通して神を発見するのだ。
神がこの中に宿っているなら、これら全ての装置が稼動しているのは目的があってのことだ。
つまり、同時に起こっている諸々の物理的現象にも目的があるのだ。
すなわち、脳や体やDNAや周囲の環境に起こる現象だ。
より抽象的な目に見えない現象も同時に起こっているが、われわれはこちらのほうにより大きな関心がある。
つまり、誰が脳や体やDNAや環境を動かしているのか?
それは目に見えないが、われわれは自分を発見するために、そちらのほうに取り組んでいる。
それは鏡の中の幻であり、われわれがかぶる仮面とわれわれが住む肉体によって、その存在を確認できるだけだ。
自分を目覚めさせる旅は、自分が現実を創造していることを認識することによって、自分に力を与えることだ。
「神は自分の中にいる」という現実をわれわれが追求するとき、つまり、あの最も偉大な救済者、あの最高の恋人、価値判断を超越したあの最も偉大な存在は、われわれの中にいるが、そのような現実を追求するとき、われわれは真実をあらわにする驚くべき旅を始めるのだ。
つまり、知識を現実にする旅だ。
この仕組みは機能する。
真実の行為の全てが、あの不可視の神の存在を指し示し、あなた自信であるあの神聖な要素を指し示す。
それは、あなたをここに連れてきた存在だ。
そして一瞬一瞬、仮にそれが、1日の1時間の中のほんの一瞬だったとしても、1週間、2週間、1ヶ月の中の一瞬だったとしても、「何かがそれを現実化している」という一瞬の気づきさえあればいいのだ。
われわれは、自分の頭の中からそれが出ていることに気づくが、そのほんの僅かなすばらしい真実が、内面に向かう旅へとわれわれを駆り立てる。
本当の自分を発見し、それをあらわにする旅へとわれわれを駆り立てるのだ。
これが、この学校の目的である。
そして、人々がここに来るとき、彼らは自分の「霊的な旅」を学ぶためにやって来るわけだが、あなた方はこれらの言葉についてほとんど何も知らない。
スピリチュアリティー(霊性)という言葉の意味について、あなた方はほとんど何も知らない。
さらに、この言葉は「旅」というありふれているが神秘的な言葉と結びつけられているが、その理由も知らない。
「旅」という言葉は、あらゆる人間が運命を持っていることを示唆しており、それぞれの人間の運命は、ユニークで独自のものであることも示唆している。
それらは同じものではなく、独自のものである。
「霊的な旅」を定義するのは長いプロセスだ。
なぜなら、スピリット、つまりホーリー・スピリット、あの観察者のレベル、あなたがそれを何と呼ぼうと、それは不安を抱えた存在ではない。
それは内面に隠れているが、これは自己発見のプロセスである。
われわれは、あれらの小さな瞬間を一緒に結びつけ、どのように思考が物質化したかを理解し始める。
つまり、ひとつの思考が特定の運命になる仕組みや、その運命が自分独自のものであることや、思考と運命の共時性を理解し始める。
これは驚くべきことだ。
それを理解するためには、自分の内面の啓示に真剣に耳を傾ける必要がある。
そして、この学校だが、この学校はまさにユニークだ。
それゆえに、議論の的になりがちだ。
学校の生徒達は、全員が独自の存在であり、だからこそ、議論を呼ぶのだ。
この学校には、全員が同じになるべきだという教義は存在しない。
生徒達が互いに異なり、ユニークであるがゆえに、この学校の教えは、それら全ての生徒の性質を扱うものでなければならない。
つまり、あなた方の虹の全ての色、あなた方の性質やパーソナリティーの全ての色だ。
そうでなければ、これは偉大な学校とは言えない。
仮にそれが、ある教義の下に生徒達を単一化する学校であれば、それは偉大な学校ではない。
それはスピリットの偉大な旅ではない。
スピリットの偉大な旅は、あなた自身を賛美し始めることだ。
つまり、あなたや、あなたや、あなただ。
そして、これほど多くの人々がこの学校にいたとしても、長い時間をかけて、膨大な量の教えを詳細に述べることによって、あなたはある部分については自分のこととして理解できる。
あなたが注意して耳を傾ければ、あなたは、自分に関する疑問の答えがその部分で述べられていることに気づく。
それは、ここにいる他の人間にとっての答えである必要はない。
他の人々があなたと同じ答えを得たかどうかは重要ではない。
あなたがそれを得たかどうかが重要であり、私にはそれがわかる。
仮に全員の思考があらわになっていたとすれば、この学校は、もっと多くの議論をかもし出していただろう。
あらゆる場所で、誰もが自由な思考を抱くことを許されれば、あらゆる場所で議論が巻き起こり、誰もが議論を巻き起こすだろう。
だが、これはわれわれの目標であり、これは賛辞でもあるが、われわれの行為は正しいのだ。
そして、議論することによって、あなたはわれわれの学校で、つまりあなたの学校で、自分を定義することができる。
あなたはまだ理解していないが、あなたの集中力持続時間はとても短い。
あなたはすぐに気を散らす。
生理科学の研究における事実と、フォーカス能力の不足の仕組みは、自分自身に関する知識として調べておくに値するものだ。
というのも、運命の創造において、ひとつの思考を保持することは、非常に重要だからだ。
つまり、自分の命を救うことであれ、肉体を癒すことであれ、若返ることであれ、年をとることであれ、貧しさへの降下から富への上昇へと移ることであれ、過去における死であれ、未来における死であれ、考えることはすべて物質化するのだ。
それゆえ、集中力の不足を理解することでさえ、長い時間をかけて話すに値することであり、それについて話すことによって、あなたはその現実を得る。
そして、自分のフォーカスの意志を使って望ましい結果を出すという体験が、その後に続くのだ。
望む分だけそれを得る。
返信する
スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター2 その2 (タケ)
2010-03-01 17:07:58
望みは、フォーカスと関係があるのか?
報酬、つまり欲しいものを得られるかどうかは、思考をどれだけ強く保持するかに関係があるのだろうか?
あなたはここでそれを学ぶ。
あなた方全員がそれを学ぶ。
あなたはさらに、自分が何に興味を持たず、何に興味があるかも学ぶ。
つまり、自分が最も長くフォーカスできるものや、非現実的で不可能だとして退けてしまうものについても学ぶ。
それらはあなたに何のフィーリングも与えないので、あなたはそれに興味を持たない。
なぜなら感情的にあなたに結びつかないからだ。
あなたは自分自身について学ぶ。
この学校のすべてが、自分について教えてくれる。
すべてだ。
私が話す言葉や、あなたが繰り返す言葉、真実を見つけるために行う訓練、これらすべてが、あなた自身に関係がある。
これらは常に、あなたに関するものだった。
したがって、この文脈の中で、人はより大きな見方の中で何かを理解することになる。
誰もが個人であるなら、そして人によって何かに関する意見が微妙に異なるなら、つまり、色づけの度合いや知識の度合いが異なるなら、それらは「観察の多様性」と呼ぶことができる。
それが何であろうと、何かに対する考えは、一人ひとり異なっている。
わかるだろうか?
それらの多様な意見はあなた方の振動数とも関係がある。
つまり、あなたの振動数のリズム、エネルギー場としてのあなたの署名だ。
このことを知れば、全員が参加するためには、あらゆる教えがあらゆる個人に対して教えられる必要があるということがわかる。
あなた方の言葉は、熟考の末に生まれたものだったが、熟考の末に生まれたものは、気づきのレベルを高める。
あなたは異なるものを結びつけ始め、脳の異なる部分にある情報を互いに結びつけて絵を生み出す。
そして、あなたはあれらの言葉を生み出すが、それらの言葉が極めて不適切なこともある。
私にはわかっている。
私はそれを知る必要がある。
そして時には、顔つきをつくろう必要がある。
思考対思考、マインド対マインドだ。
こうしてあなたは、自分の反応と、自分が学んだことに気づくことになる。
そのとき、あなたはまさに現実を創造したのだ。
自分自身の神なる自己のレベルから、あなたはこれを起こしたのだ。
そして、その説明が、人生における環境になり、人生の中の状況や交流になるのを許可することになる。
あなたがそれを知るとき、あなたは今夜の教えを人生の中で体験するが、それは真実と呼ばれている。
そして、それがどんなにひどい悪臭を放つものであっても、あなたは笑い始める。
自分がそれを創造したことに気づくからだ。
それは真実だ。
その気づきは、空に向かって投げられた錨である。
われわれはそれを登り始める。
われわれは笑いながら言う。
「どうして今日こんなことが起こったのか私は知っている。
私はそれをとてもうまく説明したからだ。」と。
あるいは、「私が説明したことを少しだけ見ることができる。
自分の説明がどこで別の分野へとそれてしまったかもわかる。
だから、このすばらしい機会はこうなってしまったのだ。
私にはそれがわかる。
このすごいレベルの気づきが、私の環境の中で起こり始め、止まってしまうということも私にはわかる。
なぜなら、自分の考えをうまく言うことができず、突然、止まってしまうからだ。
それはまるで、太陽が輝いていたと思ったら、次の瞬間に、誰かが真夜中の空を落としたようなものだ。
それは突然の変化だ。」
自分自身の神性と偉大さに目覚めつつある生徒は、自分自身の独自性を認識することになるが、彼らは、意図的な思考プロセスによって起こる現実の展開を笑い始める。
そして、その思考プロセスは、このような講義の中で調べられ、より深い、より偉大な、より広大なものへと改良され、その改良の結果を見ることになる。
そして、いきなり暗闇が現れて太陽が消えてしまってもかまわないのだ。
あなたは笑い始める。
そして、このように言う。
「私にはその理由がわかる。
これは私のための体験だ。
だから、太陽を望む人間は私の現実から出て行って、自分の現実に戻りなさい。
そうすれば太陽が戻って来る。
私は今、自分自身の現実化の雰囲気を楽しんでいるのだ。」と。
こうして、あなたは旅を始める。
それは微妙で目に見えない。
だが、気づきとは、その瞬間に生きて自分を周囲の環境に結びつけることだ。
それが旅である。
あなたがその証拠を見れば、その始まりと終わりがどんなに唐突だったとしても、あなたは笑い始める。
自分が何を言ったか、あなたは憶えているからだ。
あなたは、自分がどこで一連の思考を見失ったかを憶えている。
そして、現実もそのように起こった。
人々は悪態をつくが、あなたは笑いながら言う。
「私には何が起こったかわかる。
これは実に面白いぞ。」
これは面白いことだ。
いまや現実は柔軟になりつつある。
色々なことがあなたの現実に起こり、あなたはいまや人生の浮き沈みを心から楽しんでいる。
これは最も魅惑的で、最も美しくて楽しい、最も愉快な、最もわくわくする内面に向かう旅だ。
なぜなら、そのとき、あなたは少しずつ、自分の現実がいつどこで創造されたかを調べ始めるからだ。
つまり、自分の環境や肉体、そして、全てが自分に関係があるという事実を調べ始める。
そして、人々、場所、物、時間、出来事をあなたは解読し始める。
あなたはそれらを自分と結びつける。
「ああ、それは恐ろしい。
自分にはそれはできない。」
と言う人間もいるが、あなたにはそれができる。
私はあなたに、自分が議論を巻き起こす人間であることに気づいてもらいたい。
あなたには病気の原因がわかるのだ。
それはあなたが生み出したものだが、これは本当にすばらしい。
あなたは簡単にそれが言えるが、それは当然である。
あなたが自分自身と結びつくようになれば、それはとても簡単である。
私はあなた方がそうするようにしている。
われわれがそのような態度を持つとき、態度が全てなので、われわれは笑い始める。
そして、あらゆるものの中に美と喜びを見る。
それが無知であれ、過ちであれ、近視眼的なものであれ、遠視眼的なものであれ、注意深さであれ、不注意さであれ、思慮深さであれ、愚かさであれ、正確に描写し始める。
そして、自分がその日、最高に愚かだったことに気づいても、あなたは幸せになる。
どんどん幸せになっていく。
その日が退屈だったとしても同じだ。
あなたは笑いはじめる。
自分が無愛想で、怒っていて、無神経だったとしても、あなたはそれを結びつけ、幸せになる。
「おまえは馬鹿だ」と人から言われても、「その通り。すばらしくない?」と言う。
これはすばらしいことだ。
なぜなら、輝かしい救いが、自分がこれまでに犯した最大の過ちだとみなすものの中に存在するからだ。
それは夢とともに始まったが、次第にビジョンが消えていき、別の思考が入ってきて、夢を台無しにしてしまった。
そして、その人間は自己分析をしながらこのように言う。
「私の人生の運命は、私の生き方と結びついている。
そして、私の生き方は、私の考え方と結びついている。
だから私には、このすばらしい機会が始まり次第に消えていった様子がよくわかる。
それは行き詰まってしまった。
私がそれをやり通さなかったからだ。」
だが、気づきから生じる喜びが、救いをもたらす。
それは自分の真実を教えてくれるからだ。
これよりもすばらしいことはない。
自分自身を直接、自分の現実に結びつけることよりもすばらしいことはない。
そして、あらゆる欠点は、それがどんなにひどくても、そして、すばらしい瞬間も、それがどんなに輝かしくても、さらに、ふさぎ込んでいる瞬間や、落ち込んでいる瞬間も、幸せに浸っている瞬間も、格好いい瞬間も、全ては、あなた自身にその原因があることがわかる。
自分がそれを起こしたことに気づくとき喜びと自由が生まれる。
あなたは目覚めつつあるのだ。
あなたは今や、自分に関する真実を見始めているのだ。
そして、これは全て真実に関係している。
それは「この学校の真実」ではない。
この学校は、驚くべき個人によって構成されている。
この学校を説明するには非常に長い時間が必要だ。
ここにいるそれぞれの人間について説明するためには非常に長い時間がかかるからだ。
これは「個人の真実」に関係がある。
全員をベージュ色にするのではなく、全員を赤にするのでもなく、全員に1つのことを信じさせるのでもなく、全員に自分自身を信じさせるのだ。
それが独自性である。
返信する
スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター3 (タケ)
2010-03-01 17:09:00
そして、このことをあなた方に気づかせるためには、非常に微妙な仕事が必要だ。
つまり、あなた方に反応させ、それから、環境の中での自分の反応に目を向けさせるのだ。
どんな出来事でもかまわない。
あなたを自分の人生と結びつけることができるなら、つまり、あなたが現実を創造しているという言葉を真実にすることができるなら、どんな出来事でもかまわない。
どんな現実でもかまわない。
人が自分と現実のつながりを理解し始めると、現実を善悪の観点から見なくなる。
どんな現実でもかまわない。
それが最悪の現実であろうと、原因と結果を結びつけて気づくことができればいいのだ。
その人間がそれに気づけば、その人間はそれ以降、善悪を超越して生きるようになる。
彼らは神のように生きるのだ。
それこそが救いだ。
あなた方が、自分の人生の原因と結果に自分を直接、結びつけることができれば、自分がまさに現実を創造しているということをあなたは証明してことになる。
あなたは、あなたの人生の状況に対して責任がある。
「あなたの人生」とは何なのか?
これは曖昧な言葉だが、それはあなたの肉体であり、あなたの年齢であり、あなたの健康であり、あなたの代謝であり、あなたの脳だ。
それはあなたの環境であり、あなたの住む場所、寝る場所、飲む物、食べる物、人々、場所、物、時間、出来事だ。
それは物質的な豊かさであり、物質的な不足である。
それが何であろうと関係ない。
それらは思考が物質化したものだ。
これが覚醒の方法だ。
あなた方はこの学校で長い間、「態度がすべてだ」「あなたが現実を創造している」という言葉を聞いてきたが、もはやそれらの言葉がほとんど耳に入らなくなっている。
あなたはそれらの言葉を脳の中のある部分に隔離してしまい、それらの言葉は効力を失っている。
それらは訓練として利用されていない。
それらは単なる言葉であり、あなたのマインドの片隅にあるその部分には、つまり、あなたの脳の中のその部分には真実が到達していない。
真実は、自らの輝きを放つ真珠だ。
われわれは自分の達成によって磨かれる。
われわれは自分の達成によって光り輝く。
われわれがこれをどこか別の場所に追いやってしまえば、私がここで教えていることをあなたが体験することはない。
あなた方はその方法を学ぶためにここにいるのだ。
だが、ここで行われている全て、私がこれまでに言った全ての言葉、私が送った全てのランナー、あなたが体験してきた全てそれらは全て、あらゆる個人の全ての問題に取り組むためのものだった。
そして、その全体的な教えは、あなた方を「考えようがないもの」や「言いようがないもの」に結びつけ始める。
つまりゼロポイント・エネルギーや観察者、神聖なる要素といったものだ。
それらは理由があって存在するが、この教えはあなた方をそれらに結びつけ、あなた方を肉体から切り離す。
あなたは「これが本当の私で、これが肉体を着ているのだ。」と言う。
「これが肉体を着ているのだ。
私は頭の中のダイアルを操作している。
私は下のほうの装置も操作している。
私は考えることによって、無から自分の現実を生み出す。
そして、それが起こり、私はこの体を使ってそれを体験し、それに生命を与え、それにパーソナリティーを与える。
自分のアイディアを抱きしめることによって喜びが生じ、それが私の報酬となる。
自分が創造したものの美しさを見つめることも、私の報酬だ。
そして、私の目の中には、私の現実を見つめる存在がいるが、その存在は美しい。」
これこそが、これこそが、この学校の目的であるが、学校が何を行っているかを正確に言い表すことは非常に難しい。
それゆえ、われわれは単に、「神を見よ」と言ってきた。
キリストも他のキリスト達に言った。
「神を見よ。
あなた方は男や女の中に宿る神だ。
天国が私の中にあるのと同様に天国はあなた方の中にある。」と。
これは、抽象的なものを非常にうまく述べた言葉だ。
言葉を巧みに使って言葉を現実の力に変えていくことが、われわれがここで行っていることだ。
そして、その現実はあなたに「自分にはこれができる」ということを示してくれる。
そして、あなたは真実を持ち、ニューロネットを持つ。
それはあなたに、前代未聞の可能性を実現する方法を示してくれる。
そして、ほんの一瞬であろうと、われわれがその目覚めを達成できれば、つまり、ほんの一瞬、たった1時間、たった1日、1週間か2週間、つまり、われわれがこの学校からたったそれだけしか得られなかったとしても、地上での自分達の目的や、人生の目的、人生の神秘の理由といったものを認識することにおいて、われわれは遥かに豊かになるのだ。
われわれは謎を解決し始める。
この学校は、その全ての部分において、全ての人間に取り組む学校だ。
だが、彼らの個性を弱めることはない。
つまり、彼らの色や、彼らのレベルを弱めることはない。
これは、非常に大きな包括的な教えだ。
それと同時に、独特で、人々を啓発するものでもある。
だが、もっと重要なことは、この教えがあなたを鼓舞して、あなたがこれを実際に利用することであり、あなたがもう1本の糸、つまり自分の真実を得ることだ。
あなたがそれを得れば、イベントが終わってここを去ったとき、誰かの質問に対して、あなたはこう答える。
「たくさんのことを学んだけど、私はこれに関する真実を手に入れた。
私はこれを実際に体験した。
この真実を手に入れたということは、私が学んだ他の全ても現実化する運命にあり、いずれ真実になるということだ。
だから、私がすべきことは、私が学んだことを実際に利用し、体験を通して真実にすることだ。
そして、この学びを自分の環境と結びつけることだ。」
ここで、意志だが、誰がそれを起こす意志を持っているのか?
それは、私があなたに学んでもらいたいことだ。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター4 その1 (タケ)
2010-03-01 17:10:24
さて、私は今夜、私のスタッフ達や教師達とすばらしいミーティングを行った。
その中で、もちろん、子供達の学校についての質問が出たが、その神聖なる目的についての質問もあった。
その目的は、先見の明を持つどんな人間の考えをも超越したものだ。
だが、先見の明を持たない人々がその構想の邪魔をする。
それは、若いマインドのために、使命を設定するということであり、若いマインドを驚くべきマインドへと育て上げることだ。
しかし、能力の面だけでなく、学問の面での発達も必要だ。
それと同時に、若者が育っていく中で、自信、公平さ、公正さといったものも吹き込んでいく必要もある。
それはある種の芸術であり、その芸術が、学校の目的の中核になる必要がある。
そして、その目的を推進する人間が誰であれ、その人間は、最も強い人間であるべきだ。
その最強の人間は、何があってもへこたれず、どんな障害にも、どんな反対意見にも負けずに、目的を保持し続け、運命を実現するのだ。
私がこれを話している理由は、このグループの中にはこれは彼らに話したことだが、あなた方にも話しておこう。
一人ひとりの人生の中で、一人ひとりの人生の中で、神が重要である理由は、われわれが独りでいるとき、私はすぐにそれに気づいたので、私もそのような孤独を体験したが、われわれが独りでいるとき、自分の失敗に気づくあの魅惑的な瞬間がやって来る。
つまり、失敗を認める瞬間、敗北を認める瞬間、痛みを認める瞬間だ。
人々は、自分の思考を外の現実と結びつける方法がわからず、道に迷っているが、そのようなあらゆる人間の中に、世界に対する失望感や、老化に対する失望感や、自分がバイタリティーや健康を失ったことに対する失望感がある。
自分の中にいる神のようなものが、自分がこれほど堕落するのを許してきたような感覚があるのだ。
われわれの中には、ある種の失望感があり、自分がどれくらい高潔で、どれくらい立派であるかを分析しようとするとき、われわれは多くの場合、そうすることを恐れる。
なぜなら、自分の中に、悪党や泥棒、殺人者、軽蔑や憎しみを抱いた人間、おぞましい動物を見つけるのを恐れているからだ。
われわれは必死にそれを隠そうとし、それに目を向けたがらない。
この悪魔を外に出すのを恐れているからだ。
誰もが、超自然的な存在が実在することに頼っている。
あなたがそれを何と呼ぼうとかまわない。
誰かが、あなたを失望から引き出して未来へと引っ張っていく命綱になることが重要だ。
命綱は存在する。
誰かが気にかけ、何かが気にかけている。
あなたはここにいるし、あなたは苦しんでいる。
自分の心や自分のフィーリングについてのあなたの密かな内面の展望には、目的がなければならない。
道に迷った人間や、魂の闇夜に到達した人間の面倒を見る神が、どこかに存在する必要がある。
彼らは未来への展望を失ってしまったからだ。
彼らはまさに道に迷っており、自分の目的がわからなくなっている。
誰もがあなたに目的を持つように言い、これをしろ、あれをしろ、と言う。
あなたは無理をして彼らの指示に従うが、あなたの内面は満たされない。
あなたは自分の未来像を失ってしまったので、彼らもそれを持っていないからだ。
したがって、あらゆる文化の中に、そして、あらゆる存在の中に、神なる存在が必要だ。
われわれの貧相な言葉がこれを描写しようとするが、われわれを気にかけ、われわれに目的を思い出させようとする何かが必要だ。
そして、われわれが絶望して道に迷っているときに、われわれのために意図を保持する何かが必要だ。
そして、神だけが、それを何と呼ぼうと、われわれの人生の目的に関する未来像を長く保持し続けることができる。
だからこそ、それは神なのだ。
だからこそ、われわれは心の中で、神が自分を愛していることを知っている。
だが、その目的をわれわれに明かすほど神はわれわれを愛しているのか?
あらゆる人間が、自分が頼ることのできる何か、未来が存在すると言う何かを自分の中に持つ必要がある。
自分の存在理由を知る何らかの高位の力の存在を信じられなくなったとき、あらゆる魂が、自分が信じることのできる何かを持つ必要がある。
なぜなら、その力の存在を信じられなくなったとき、あなたは独りぼっちで完全に自分の深い絶望の淵に取り残されるからだ。
これはまさに真実だ。
さて、これについては、以前にも聞いたことがあるかもしれないが、もっとよく理解できるはずだ。
あなた方は、真の霊的な旅とはどんなもので、霊的な旅とは何を意味するのかを学びにきている。
だとすれば、なぜ私はここにいるのか?
私があなた方に言った全て、これまでに教えられたこれら全ての講義が、私がここにいる理由だ。
さらに、あなた方が信じている全ての理由も、私がここにいる理由だ。
わかるだろうか?
あの朝を抱き容れること、つまり、輝く露を通過した光の中で、あの単純な、ありのままの瞬間に、われわれは全体とつながり、自分自身とつながる。
つまり、自分の思考や自分の現実とつながり、われわれは笑い始め、笑い続ける。
われわれは自分の目的を無上の喜びとともに見つけ始める。
そのようなすばらしい仕事を成し遂げたとき、われわれが大きく成長したことは自明のことである。
一滴の露の中に、われわれは全宇宙を見ることができる。
われわれが本当に全宇宙を見ることができるのは、覚醒へと向かうわれわれの努力のおかげだが、それは、自分を目覚めさせることであり、自分を神として崇めることであり、自分を理解することだ。
われわれが自分の現実を直接、ここにある王国につなげ、われわれの中に既に真実が染み込んでいるとき、われわれは、自分が最も偉大な仕事を成し遂げたことを知る。
なぜなら、われわれはその瞬間に、ダイヤモンドのように輝くあの清浄な露、虹色だが透明な一粒の露の中に、全世界を見るからだ。
そして、一粒の砂の中に小さな花の発芽の中に、そして、その朝がやって来るとき、全ての人々を見て、彼らの中に同じものを見る。
われわれは今や、自分の力を追及する旅において自分が重要な地点に到達したこと、そして、全体性がもたらす至福に自分が満たされていることを知る。
そのとき、われわれをここに送った存在の答えが明らかになるのだ。
そして、われわれはその全体性を深く感じ、その全体性になりきっているわけだが、われわれはあらゆる存在と、独自性を共有すると同時に、崇高な全体性をも共有する。
そのときわれわれは、自分の内なる神を見つけたことを知るだろう。
この理解は、その後にやって来るさらに偉大な理解の道しるべに過ぎない。
だが、それは、内面の思考と外の現実のつながりを学ぶことから始まる。
それが悲しみをもたらすことはない。
それは、あなたに喜びをもたらし始めるだろう。
少しずつ。
そのとき、あなたの人生全体が目的のあるものになるが、新しい始まりの中の目的だ。
したがって、私は、これだ。
私は、あなた方全員の遠い未来像を保持する。
あなた方全員のだ。
私はあなた方の内なる神を象徴している。
私はあなた方の教師だ。
あなた方のために、目的と運命に関する未来像、あなた方の個性が役立つ未来像を保持するのは、私の喜びだ。
あなたが諦めてしまう地点を遥かに越えて、私はそれを保持する。
あなたの教師は風であるだけでなく、どんな嵐にも耐えられる風景全体であるが、それは重要なことだ。
というのも、あなた自身が諦めてしまうとき、あなたは自分の教師に自分と自分の可能性を見限ってもらいたくないからだ。
わかるだろうか?
私は絶対に諦めない。
あなた方のそれぞれが、自分の熟考の中で、自分のリストの中で、そして、自分の個人的な訓練の中で、何にフォーカスしてきただろうか?
二百年の人生だ。
それは遠い未来像ではないか?
私はそれを保持するが、あなたもそれを保持することを学んでいる。
あなたがくじけ、未来像を自分でもっていないとしても、あなたが利用できる未来像がある。
これが、私や、私のような存在が行っていることだ。
さらに、遠い未来像とは何なのか?
新しい時代を見るまで自分が生きることだろうか?
そうだ。
未来像とは何なのか?
われわれはあなた方のマインドを肉体の外へと解放し、ひとつずつ真実を積み上げている。
一回一回のリモートビューで、一回一回の送信と受信で、あなた方に自己分析をさせ、あなた方に真実を与え、また自己分析をさせ、われわれはあなた方を真実で満たす。
あなた方がマインドの謎を理解し、自由に未来に行って、未来に「護符」を、つまりそこに運命を置けるようにするためだ。
われわれはあなた方に、時間と時代を超越することを教えている。
初歩的な教えだ。
全ては初歩的である必要があり、自分のマインドをもっていくことを教えている。
あなたに未来を透視することができるなら、あなたに過去を透視することができるなら、あなたはここで極めて基本的なことを教わっているが、その訓練に参加することによって本当に大きな結果が得られる。
一つひとつの達成が真実だからだ。
真実によってあなたは、自分の頭や体の外にもう少しばかり出てみることができる。
安心して体の外に出られるのだ。
あなたの体には何も起こらない。
あなたは死なない。
一つひとつの真実が、自分の肉体の外に出る旅であり、この時代を去って別の時代に行く旅だ。
これは遠い未来像だ。
未来の時代において、あなたの存在、あなたの痕跡、あなたの振動数が感知されれば、われわれは最も偉大な航海を達成したことになる。
荒れ狂う最も偉大な時代における最も偉大な航海だ。
われわれは幸運によってではなく、偶然によってでもなく、神の摂理によって、運命を達成したことになる。
そのとき、われわれは神の摂理の性質を理解し始める。
われわれの中に神がいるなら、神意はわれわれの行為と密接な関係があることになる。
そして、この観点から見れば、あなたの教師の持つ未来像は非常に重要だ。
この学校では、信じられないような諸々の可能性を実際に利用することになる。
この学校では、それらは常に、実際に利用されている。
学んだ知識を単純な訓練に適用することでとてつもない場所に到達できるようになる。
思い出してほしい。
これは、個人的な現実を創造することに関係している。
個人的な現実が、時間の隔たりを超越できるほどの弾力性を持つことは可能なのか?
もちろん可能だ。
われわれ自身が可能性のルールを作るのであれば(実際にそうしているが)、不可能なものはない。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター4 その2 (タケ)
2010-03-01 17:11:12
この教師はあなたに言う。
「もしあなたにこれがマスターできれば・・・」
思い出してほしい。
マインドを物質にする技法の中で、われわれはより大きなマインドを発達させている。
より大きなマインドを発達させているのだ。
われわれは、これまでで最も刺激的な体験を体験しているからだ。
そして、あなたは不可能なことをやっているのだ。
われわれはここで、常にそれを達成している。
だがそれは、あるすばらしい朝のように、あなたが目覚めて、気づくためだ。
われわれはまさにそれを行っている。
われわれはこの学校で、不可能なことを行っているのだ。
われわれは、ここで学んだことを、普通のものとして脳の中の棚のどこかに置いてきた。
だがそれは、普通ではないものだ。
それを棚から取り出し、再び訓練に自分の努力を注ぎ込むが、それは、マインドと環境の正確な一致をひとつずつ積み上げていくことによって、真実を増やしていくためだ。
われわれはシヴァのネックレスを身に着け始める。
真珠のネックレスだ。
真珠が多いほど、ネックレスは豊かになる。
真実が多いほど、環境は豊かになる。
そして、最も単純な訓練だが、その目的について考えてみれば、自分の中に「真実の真珠」を積み上げるためにあることがわかる。
それによってあなたは、より大きな環境を手に入れることができる。
それがどんな教えであれ、それがどんな訓練であれ、われわれがそれを積極的かつ真剣に利用すれば、何をもたらすだろうか?
自分自身に対する支配権だ。
真実を得るために、われわれが教えと訓練を利用すればするほど、マインドは大きくなり、環境はより偉大になる。
われわれは不可能なものを保持できるようになるのだ。
時間の隔たりを越えることであれ、多次元の可能性であれ、ここから別の場所へ行き、戻ってくる旅であれ、その可能性を保持できるようになる。
あなたはまだ、驚くべき生き方の中で、真実が何をもたらすかを考え始めてさえいない。
さて、自分の人生の未来像を保持することは、あなたの中の神を実際に見せることにすぎない。
その神はあなたのために可能性を保持しているが、あなたが生得的に持っている自由意志に従わなければならない。
あなたが何を望もうと、あなたはそれを得る。
だが、覚醒の中で、われわれはその科学をもっと遥かに豊かな利用可能な方法として理解する。
ここにいる教師は、あなた方一人ひとりに対して、何と言っているだろうか?
「あなたは神だ」と言っている。
自分の独自性に従って、あなたはその言葉をどのようにでも言うことができる。
だが、その本質的な意味は、あなたは不死の存在であり、神として以前から存在しており、死後も存在するということだ。
あなたは常に存在していた。
時間の誕生の前から存在していたからだ。
時間はあなたの中に存在するのであって、それ以外の場所ではない。
さて、あなた方に関することを、このような確固たる言葉で話すのは、この旅の始まりにすぎない。
それらは単なる言葉だからだ。
だが、あなたがそれらを聞き、それらを説明すれば、そうすることによって、環境の中で結果を得る。
それらは「聖なる瞬間」であり、「神の介入」だ。
何と呼んでもかまわない。
あなたは、それら全てを行う能力を持っている。
あなたは能力そのものだからだ。
教師としての私の未来像は、あなた方一人ひとりのために、あなた方が「黄金が青に出会う場所」まで行けるよう、不滅の未来像を保持することだ。
私は不滅の存在であり、あなた方の可能性を知っている。
あなた方の潜在的能力も知っている。
というのも、あなたが教えに打ち込んでいないとき、あなたが自己憐憫の中で溺れているとき、あなたが後悔の中で溺れているとき、あなたが失敗することを恐れ、勇敢な旅行者になるのを恐れているとき、あなたが自分自身の考え方によって閉じ込められているとき、あなたは意識において崩壊してしまったことになる。
そういった人間は、誰かが自分の狂気の中に目的を見つけてくれることを望んでいる。
自分の失敗の理由、自分の苦しみへの敬意、自分を気遣ってくれる何かを望んでいるのだ。
あなたは心のどこかで、自分の考えや感覚を知る人間はどこにもおらず、自分の心の闇がいかに暗いかを知る人間はどこにもいないことを知っている。
彼らはあなたではないからだ。
あなたはそれを知っている。
それは、最も強く孤独感を感じる瞬間だ。
そして、そのとき、人々は祈り始める。
それは、彼らの最後の拠り所であり、彼らは神に話しかけ始めるのだ。
彼らは助けを求める。
助けを求めることによって、観察者、つまり、われわれの神が、その言葉を見て、介入するのだ。
なぜなら、われわれは自らの独自性の中で、どんな状況の中であろうと、本当に孤独だからだ。
われわれは助けを求めて叫び始める。
助けがやって来るときもあれば、やって来ないときもある。
このことを理解するなら、教えを具現化する教師が必要だ。
単なる教師ではなく、結果を出す力を持った教師、現実化の力を持った教師だ。
その教師は、子供じみた感情の噴出に影響されることはなく、あなたが誰であろうと、あなたのために、より偉大な未来像を常に保持する。
そして、常にその観点から教え、その観点から励ます。
そして、それらの言葉は意味のないものではない。
私があなたに訓練をやらせれば、あなたは真実を知るからだ。
私が言った全ての言葉を私は証明できる。
あなたにも、それができる。
さて、私が行っていることだが、私は「希望の教師」だ。
最近、この言葉をよく耳にするが。
だが、それは、あなた方を未来に結びつけてきたものと関係がある。
これこそが、私のような教師が行っていることだ。
これは、宗教の陳腐な言葉ではない。
これは、単なる哲学ではない。
これは、古代の仕事の学校であり、この仕事よりも古いものやこれよりも美しいものは存在しない。
つまり、あなた自身に取り組む仕事だ。
これは、あなたの個性を弱めず、個性を強化する。
私は既に、あなたの諸々の限界を知っている。
それらを超えさせることが私の仕事だ。
私は既に、あなたが何に苦しんでいるかを知っている。
あなたを違う方向に行かせることが私の仕事だ。
私は既に、あなたが恐れているものを知っている。
その恐れに直面させることが私の仕事だ。
わかるだろうか?
その恐れに直面すれば、あなたはそれを乗り越えるからだ。
私の仕事は、あなたを励まし続け、自分の可能性のほうに進ませることだ。
だが、人々は常に自分の可能性を疑い、それらを捨ててしまう。
彼らは自分の限界や自分の過去を声高に主張しているからだ。
それが、あなた方の性質だ。
さて、それから、私の努力は、あなた方の光になることだ。
つまり、暗い部屋の中の小さなロウソクの光りだ。
あなたは話を聴きに来ることができる。
ノートに言葉を書き、それから、もっと誇りを持って、隣に座っているパートナーにもっと誇りを持って、言葉を繰り返す。
これまでよりも、もっと美しく、もっと深く、自分の言葉が環境を創造することを意識しながら、言葉を言うのだ。
そうすれば、その環境の中で、未来の可能性がやって来て、痛みや苦しみが軽減され、言葉が実際に現実化する。
あなたはそれを行った。
だが、まずは私の光があなたを輝かせる。
そして、私のここでの旅は、あなた方にひたすら前進させ、この時代を超越して未来に行かせることだ。
つまり、他人と同じになろうとする必要性から、あなた方を引き出し、自分自身になるという本来の場所に引き戻すことだ。
そして、その観点から教えることだ。
最終的には、あなたは輝く多くの真実を持ち、あなた自身がロウソクとなる。
あなた自身が輝く光となり、未来へと向かうのだ。
というのも、この教えが実際に役立つことに気づけば、あなたはこのワークに没頭する。
あなたが獲得する報酬は、永遠そのものであり、それは人、場所、物、時間、出来事、多次元の体験で満たされている。
その冒険は、ずっと、ずっと続いていく。
それが報酬だ。
だが、真実とマインドが解放される必要がある。
真実は証拠であり、それがわれわれを限界や無気力や妥協から引き出し、大胆で勇敢な「自由に考える存在」に変えるのだ。
これが、あなたにやってもらいたいことだ。
なぜなら、ひとたびあなたが私の教えを利用して真実を得れば、ひとたびあなたが真実を得れば、あなたは軌道に乗る。
あなたは「黄金が青に出会う場所」に行くだろう。
そして、人生を使い果たすこともなくなる。
なぜなら、毎日あらゆる瞬間に、あなたの中から生命力が湧き出しているからだ。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター5 その1 (タケ)
2010-03-01 17:12:45
あなたは、現実とはどんなものだと思っているだろうか?
あなたはこれまでずっとこの言葉を聞いてきたはずだ。
現実とは何だろうか?
自分の説明が、自分の性質そのものだとすれば、どうやって自分の説明の体験を認識すればいいのか?
これは、自分の色を見ることができない「虹の中の赤」ではないか?
私は、あなたが自分の説明に確実に気づけるようにしてあげよう。
さて、われわれがいま行ったこと、つまり、あなたや私やあなたのパートナーが行ったことだが、われわれの思考が物質化するなら、前頭葉のスクリーン、マインドの高架道路を立て続けに思考が横切っているがl、何らかの観察者、本質的な何かが、意識と呼ばれる流れから思考と呼ばれる概念を切り離すことに強い興味を抱いていることになる。
意識とは、アイディアの総計だが、意識の流れには、あらゆる可能性が含まれ、膨大な量のアイディアが含まれている。
この全体的な仕組みの中で、非常に興味深いのは、装置を使って思考を隔離することだ。
それは、何かが思考を見るためだ。
何かがそれを見るのだ。
その何かがそれを見ると、不思議なことに、環境に変化が現れ、それがわれわれを怒らせたり、当惑させたり、喜ばせたりする。
われわれは、あらゆるものの原因と結果だ。
われわれはカルマだ。
しかし、われわれが目覚めると、カルマなど存在しない。
われわれは創造者にすぎない。
全てはわれわれ自身である。
ここで疑問が生じる。
あなた方は科学者を少なからず尊敬しているが、量子物理学の科学者達は、次のように言っている。
「観察者がエネルギー場に働きかけると、エネルギーが崩壊し、観察者が期待した通りのものが形成される。」と。
単純だ。
仮にこれを、もっと全体的な神秘に適用してみると、どうなるだろうか?
つまり、誰もが環境を見つめ、環境について考えるという行為が、環境を変え、作り直していることになる。
なぜなら、彼らは究極の観察者であり、ヴォイドの中でこのボールを回転させ続けているからだ。
これは、仮説の利用ではなく、原理の利用である。
だが、知っての通り、量子物理学は既に役立っている。
それは、あなた方が中毒になっている諸々のテクノロジーを支えるものだ。
ここで、観察者だが、われわれが考えていることは、エネルギー場を粒子へと崩壊させ、われわれが考えているものを形成する。
あなたも「創世記」の話を知っているはずだが、
「神は自分の姿に似せて人間を作った。
神は深淵を見つめ、全てを創造した。
全ては神の御心から生まれた。」
これはどういう意味だろうか?
あなたも同じことをしているのだ。
あらゆる瞬間に、あなたは自分の始まりを創生しているのだ。
そして、ひとりの観察者が、現実が特定の姿になることを期待すれば、過去が変化して、それは観察者の期待通りのものになり、いわば「その瞬間の環境」になる。
ここで、あなた方全員にこれを適用してみよう。
あなたが何を考えようと、それが現実を常に変えるか、あるいは、あなたが見ることを期待しているものを維持している。
あなたはそれを感じることを期待しているからだ。
ここにいる全員がそれをやっている。
ここを去っても、全員がそれをやり続ける。
そして、あなたが眠りに入るときも、あなたはそれを続ける。
朝、目覚めても、あなたはそれを続ける。
あなたは常に、自分の環境に合うように、自然界の舞台を調整し、修正しているのだ。
それが、現実と呼ばれるものだ。
さて、これは極めて単純なことだが、われわれは常に現実を展開している。
そして、現状を維持しながら、自分の期待する舞台を保持し続けている。
それを変えると、どのような感じがするか予測できないので、怖いからだ。
いま見えているものは、どう感じるかがわかる。
だが、それを変えてしまえば、自分がどのような状況になるか不確かだ。
自分はどうなるのか?
何をすればいいのか?
誰もがそのような恐れを持っている。
結局のところ、これは考え方の問題に帰着する。
そして、その考え方が、環境を固定的なものか、又は、動的なものにしている。
あなたの考え方が固定されているなら、そして、あなたが自分の過去の中毒になっているなら、つまり、あなたが感情や何かの中毒になっているなら、それが、あなたの考え方を決定づける。
あなたは自分の中毒の外で考えたがらない。
現実の観察者としてのあなたの中毒が、現実を厳格で固いものに保っているからだ。
あなたが覚醒してはじめて、それは柔軟になる。
環境は、真実の中で変わり始める。
われわれはこれを、これとつなげる。
あなた方の時間における今夜、あなたが話すたびに、そしてあなたが自分の聞いたことを熟考するたびに、あなたは自分の現実を調整していたのだ。
あなた方の全員が、そうしていたのだ。
われわれがこの第一段階で学んだことは、実際には、極めて驚くべきことだ。
なぜなら、あなた方の中には、今夜それを理解した人間がいるかもしれないからだ。
何人かは、今夜それを理解したかもしれない。
あなた方は始めて、それらを結びつけたかもしれない。
そして、光が現れ始めた。
そして突然、光の中に、回答が見える。
その光はこれまでより明るいからだ。
かつては暗くて不確かだった場所が見え始める。
自分の人生の解決策が見え始める。
あなたは自分自身を可能性と結びつけているからだ。
それは目的のある、神聖な、すばらしいものだ。
あなたは、自分がここでやっていることに関して、卵の殻を割り始めたかもしれない。
そして、初めて、現実そのものと、霊的な存在になることに関して、少し理解し始めたかもしれない。
果実を創造する目に見えない行為、そして見えないマインドの副産物は、まるで、美しい鮮明な絵を描いていながら、生きている間ずっと、絵の創造者の源が見えないようなものだ。
そして、これが、霊的なものの探求であり、あなたがここにいる理由だ。
さて、霊的なものだが、天の王国、そして、神なる存在、それはあなただ。
では、果たして、存在達に教え、彼らを導く際に、彼らの持つ独自性を消さずに、彼らを自分の可能性へと向かわせることは可能なのか?
もちろん可能だ。
生徒が自分の驚くべき可能性を確信すればするほど、彼らはより個性的になり、より美しくなり、よりパワフルになる。
答えも絶対的なものになる。
仮にあなたが、自分の特徴を全て手放したとすれば、仮にあなたが、自分の罪や自分のこれまでの体験をすべて手放したとすれば、仮にあなたが、自分の失敗を捨て、愛や損失や痛みや苦しみをすべて捨て去ったとすれば、仮にあなたが、自分の冒険や努力や苦難をすべて捨て去ったとすれば、あなたは個性的になるのではなく、個性を失うだろう。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター5 その2 (タケ)
2010-03-01 17:13:20
あなたはなぜ、人生と呼ばれるこの神秘の中にいるのだろうか?
あなたは創造者だからだ。
あなたは、自分のマインドのレンズを通して、自分の見方に応じて現実を調整する。
つまり、ここにいるだけで、あなたは常に人生を描き、調整しているのだ。
多様な個性を持った夢見る存在達がいなければ、多様性などなくなってしまう。
種の多様性、つまり植物や動物や微生物の多様性や、突然のウイルスの出現や、新種や変種の出現は、どのようにして起こるのか?
偶然、起こるのか?
それは、自然の意地悪な処置なのか、それとも、内なる存在の「変容する場」なのか?
それは、内なる存在の変容する場だ。
なぜ特異なものが生じるのか?
多様性ゆえだ。
多様性は、神のマインドから生まれる。
あなた方がいなければ、そして、他の存在達がいなければ、多様性は存在しなくなってしまう。
進化も存在しなくなってしまう。
そこにあるのは、自然の崩壊と、それに続く自然の死だけだ。
なぜなら、何かが動いている状態にあるとき、それは動的生命と呼ばれる。
活動していないものは、生きているとは言えない。
神の中に入った意識とエネルギー、この体に入った意識とエネルギーは、活動している。
活動している神、動いている意識だ。
この活動こそが生命だ。
あなたは生命だ。
あなたが生きることをやめたとき、あなたの環境は、あなたの足元で死んでいく。
あなたが歩く場所で、木々が死に、あなたが踏む草も死んでいく。
踏み潰された草は、甘い匂いがするが、二度と生き返らない。
この存在はもはや多様性を持っていない。
もはや個性的ではない。
当然、独自性もない。
あなたがそれを失えば、あらゆるものが死ぬのだ。
さて、活動する生命が重要である理由だが、活動している生命とは、人間が様々な体験をしていくプロセスのことであり、内なる本質的な存在が、それを豊かなものにしている。
それは永遠の本質的要素であり、それをどのように呼ぼうとかまわないが、「男の中の神」、「女の中の神」だ。
この肉体は、驚くべき何かが着ている衣服であり、それが顔を操作している。
それは、中枢神経系の中の生命の火花であり、それは肉体そのものの鼓動であり、それは目に見えず、肉体の中に住んでいる。
これが、あなたや私の本質だ。
そして、人生の美と、人生の贈り物を通して、誰もが個性や独自性を発達させ始める。
われわれはゼロポイントからやって来たが、初期の頃から変化し始めた。
そして、自分自身を変えながら、個性的な存在になり始めた。
ここには善悪は存在しない。
一方が優れていて、一方が劣っているということもあり得ない。
あるのは度合いの違いだけだ。
わかるだろうか?
さて、後悔しながら生きる人生だが、そのような人生が、何回、必要だろうか?
苦しみの人生が、何回、必要だろうか?
完全に健康な肉体を、あなたは何回、使い古す必要があるのか?
あと何回、必要だろうか?
あなたがあることに気づき始めるまでだ。
つまり、あなたは意図と目的を持った存在であり、叡智を得るために生きている。
叡智は最初から持っているものではなく、人生の中で獲得するものだ。
叡智は、現実を創造し、体験する中で、習得するものだが、体験を完了すると、われわれはそれを真実と呼ぶ。
もしそれがうまくいかないと、感情の中毒に捕らわれ、真実を完成させることができない。
そして、われわれは単なる化学物質の生き物になる。
それは、つまらない人生だ。
それは真実ではない。
それは、毎日、化学物質に浸るだけのつまらない人生だ。
それは真実ではない。
それが真実になるまで、どれくらいかかるのか?
それは、失敗と成功であり、善悪の認識であり、優劣や上下に基づいた見方だ。
これらはすべて極性に基づいた体験だ。
極度の善が、極度の悪をもたらす。
極度のプラスが、極度のマイナスをもたらす。
最高のものは、最低のものに取って代わられるだけだ。
現実を与えてくれる環境の中で、われわれが自分の見方を修正するまでは、われわれは他の見方を知らない。
叡智、つまり個性は、人生を豊かに生きることによって築かれる。
神は現実を調整し、ミスを修正し、再び努力し、新たに作り直す。
われわれは常に人生を調整している。
何かを実行するまでは、われわれは決して賢くなれないし、真実を獲得できない。
われわれの仕事は何かを実行することだ。
さて、個性は、肉体にも受け継がれる。
光のボールとして、つまりシャボン玉のように回転する意識とエネルギーのバンド、あれらの7つのレベルの振動数帯における全ての達成が含まれた暗号、それらのバンドは、電波、赤外線、可視光線、紫外線の思考を蓄積し、それは遥々、天使達のレベルまで到達する。
あなたは、ゼロポイントの近くの思考も少し持っているかもしれない。
それらの荘厳なバンドの中に、われわれは意識の流れから得た思考を蓄積しており、それらは、われわれによって利用されてきた。
頭の中の観察者の前にそれを置き、エネルギーを崩壊させ、環境を修正するためだ。
われわれが肉体に入るとき、その暗号は既にわれわれの中にある。
そして、われわれはこのコンピューターのスイッチを入れる。
そして、中枢神経系を通して自分自身を表現する。
われわれは活力溢れる存在になるが、われわれは活力そのものである。
だが、われわれは目に見えない。
われわれは自分の個性を携えて肉体に入る。
それは、われわれが発達させてきたものであり、「不可能な思考」に到達し、それらを「可能な思考」と結びつけることによって獲得してきたものだ。
われわれはそれらについて熟考し、環境の中に解放し、その結果を確かめてきた。
ここにいる全員が、あの光のボール、あのオーブだ。
あなた方全員がそうである。
そして、あらゆるオーブの中心には、神秘的な三角形がある。
その三角形は、これだ。
あらゆるオーブの中にそれがある。
そして、それはあなただ。
われわれが学ぶもの、あなたの神、あるいは、あなたの本質と言うべきか。
常に静止している神聖なる存在の中のあなたをもっとうまく定義するまでは。
それは、あなたがその前に置くものを見るだけだ。
そして、現実を生み出す。
あなたは光のボールだ。
つねにそうだった。
あなたは肉体を着ているのだ。
これはスピリットの果実であり、これが、ここでのスピリットの仕事であり、道具である。
したがって、われわれの本質は、人間の目で見ることはできない。
時々、その影や幻や手掛かりが見えるだけだ。
われわれは、自分が選んだ転生とその果実の中での最高の行為によって、自分の姿を見せる。
だが、われわれはこの聖なる光のボールであり、この光のボールこそが時間の基準を設定したのだ。
われわれが子宮の中に入るとき、この光のボールのパターンが、遺伝子のパターンを設定し、自分の個性に合うように脳や体を調整する。
そして、自分の意志に従ってこの肉体を機能させ、この肉体を身に着ける。
そして、われわれはこの道具を使って、あらゆる瞬間に、無から何かを作り出すのだ。
そして、最大限の努力をして無知な状態の中で最大限の努力をして、まさに、無知な状態の中で最大眼の努力をして、われわれは既にここにあるものを利用する。
十分な個性を持っていないからだ。
われわれは既にここにあるものを少しだけ動かし、その感触を微かに味わう。
偉大なる完全な創造者になることは、真実を知り、内面と外をつなげて謎を理解することだ。
だが、そうしなければ、外の環境に取り組み、尻込みして引き返すか、それと関わり合うかである。
そして、もしわれわれが、罪や間違いを犯すとすれば、あなた方はそのように言うが、正しいとか間違っているとか判断を下せるのは、何かを実行した後のことである。
あなたが覚醒すれば、あなたは二度と、善悪の価値判断を下さなくなる。
これは古代の概念だが、われわれが十分に個性的になるとき、われわれはそのような考え方をしなくなる。
われわれは過去の犠牲者ではなくなり、不確かさや無知の犠牲者でもなくなる。
われわれの個性の色が薄いときは、そのような過ちを犯す。
われわれが十分に色付くとき、覚醒と真実が、われわれに個性的な色を与える。
その結果として、われわれは善悪の価値判断を下さなくなり、何かを失敗だとみなすことはなくなり、罪や苦しみや死といったものから自由になる。
「善が勝つ。人生の中の善行は何らかの形で報われる」という考えはどうだろうか?
その善が悪に根ざしたものでないなら、それは善でも悪でもない。
それはひとつの進化だ。
それは冒険である。
それはひとつの体験だ。
人生はスリルに富んだものであり、われわれはそれをやり遂げたのだ。
われわれには、自分が作った動物や花や、自分が創造した夕焼けを体験するときのすばらしい喜びがある。
そして、この道具の中で、この美しい体の中で、われわれはまさにそれを行う。
われわれは、自分が創造したものを見つめる。
そこから真実を得る。
それから、われわれは戻って来る。
なぜなら、自らの核心部分において、われわれは変化せずにはいられないからだ。
変化と進化は同じものである。
われわれは、未知を既知にするためにここにいる。
われわれは単に何かを行って、それを放っておくわけではない。
われわれはそれを行い、体験し、それから、それについて考える。
その思い巡らしの中で、われわれは次の可能性へと進化せずにはいられない。
それは、そのとき思いついたまったく新しい体験への進化だ。
人生は変化し、向上していく。
それゆえ、誰かが誰かよりも優れているわけではない。
それは、進化の中での人生の進展であり、脈動である。
これこそが、われわれが覚醒したときに行うことだ。
われわれは決して罪を犯さず、決して失敗しない。
われわれは決して正しくない。
なぜなら決して間違っていないからだ。
そのとき、われわれは極めて個性的な、目覚めつつある転生した存在だ。
われわれは一粒の露の中に世界を見た存在であり、あらゆる顔の中に神を見た存在だ。
では、われわれがここにいるときにやって来る、あれらの謎の光は何なのか?
もっと多いときもあれば、もっと少ないときもある。
それらは、あなたの周囲にはっきりと現れることもある。
あなたに思い出させるための合図だ。
だが、彼らは存在達だ。
彼らは幽霊だ。
あの存在をあなたの頭の中に入れたとすれば、あなたは違いを感じるだろう。
あなたがまだそこにいればの話だが。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート1 チャプター6 (タケ)
2010-03-01 17:14:12
人の霊的な旅は、自己をあらわにしていく冒険であるが、それは、自分の人生の環境におけるつながりを全体的に理解し、脳にやって来た意識から思考が生まれることを理解し、次に、マインドという最後の謎を理解することだ。
マインドそのものは、この学校でこれから吟味していく必要がある。
だが、今は、われわれが絶望しているとき、何かがわれわれを見守っているのであれば、つまり、何かがわれわれをとても愛し、われわれを見守り、われわれが悲しみや救出や死の命令を出すのを待っている。
それは、われわれが何かを決心するのを待ち、われわれが最終的に助けを求めるのを待っている。
「ああ、神よ、私には助けが必要です。
助けて下さい。私は本当に途方に暮れています。
私は本当に混乱しています。
本当に悲しくて、胸が痛みます。
もう一日だけでも、朝が見たいです。」
これは「ゆだね」と呼ばれている。
誰もこの苦悩の叫びに応えることができないことを心の中で知っているとき、われわれはあの見えない実体のない何かに訴えかける。
われわれがこれを正しく行うとき、その何かは応え、運勢が劇的に変わったりすることがある。
いきなり幸運に恵まれたりする。
突然、自分の心から、巨大な重荷が取り除かれたように感じたりする。
突然、心臓の鼓動が変わり、自分でも理由がわからない。
だが、心に平安が押し寄せ、われわれは生まれて初めて気づく。
つまり、自分で引き起こした悲しみによって、自分自身を牢獄に閉じ込めてきたことに気づくことができるのだ。
われわれは初めてその部屋を見る。
そして、窓から光が入ってくる。
木の枝が窓をやさしくたたき、トントンと音を立てている。
そして、われわれは気づく。そこには平安がある。
そして、その静穏な瞬間、われわれはすべてが変わったことを知る。
われわれは自分の状況から救われたのだ。
われわれの運勢は完全に変わった。
運勢が変わったということは、現実も変わったということだ。
いまや希望が再びやって来る。
そして、安らかな夜の眠りが常に体を癒してくれる。
では、神の愛とは何なのか?愛とは何なのか?
われわれが光のボールで、この肉体がわれわれの意志の道具、つまり、この実体のある世界にわれわれが取り組むための凝集体であるなら、愛とは何か?
それはフィーリングなのか?
そのように言う人々もいるが、それは極めて時代遅れな考えだ。
なぜなら、われわれはこれまで、誰かから愛情を注がれることを必要とし、自己愛を理解する体験が極めて乏しかったからだ。
われわれは、自分を愛してくれる誰かに深く心を奪われてきた。
つまり、自分に愛情を示し、自分を気遣ってくれる人間だ。
われわれは彼らの目の中に、自分自身の中にある価値を見つけたからだ。
われわれは価値や美しさ、愛らしさやその瞬間の目的、その夜の目的を彼らの目の中に見つけた。
そして、そのとき、われわれは何となく、自分自身の持つ特別な何かにつながったように感じた。
われわれはそれを愛と呼ぶ。
さらに、われわれは、性的な感情の集合体を愛と呼び、相手の望むことを忠実に行うことを愛と呼ぶ。
つまり、
「あなたが私の望むことをやらなければ あなたは私のことを愛していないことになる。
あなたが私の望むことをやって初めて、私は自分が愛されるに値することを知るからだ。
あなたがそのルールを破れば、私は自分を愛する方法がわからなくなってしまう。
私のためにそれをやってくれる鏡がなくなってしまうからだ」というわけだ。
それらの美しい恋愛の中で、われわれはもう一人の神から自分への微かな光、つまりある種の誘引力を見る。
彼らはわれわれの鏡だからだ。
だが、われわれは無知なので、誰もがユニークであることに気づいておらず、誰かが自分に注意を払うとき、その人間も自分と同じだと思う。
互いに約束を守っている間は同じだ。
だが、彼らもひとりの神だ。
彼らは彼らで、考えるべきことや、創造すべきものを抱えている。
そして、われわれがこのような幻想に心を奪われるなら、われわれは断続的に愛を受け取るだけだ。
そして、愛されるという報酬のために、われわれは必死になって相手の注意を自分に引き付け続ける必要がある。
われわれはそのようにして学ぶ。
だが、愛は、最も魅惑的で最も美しい表現だ。
なぜなら、それは、束の間のものかもしれないが、われわれが自分の鏡を体験する初めての体験だからだ。
自分の内面を垣間見るために、無数の恋人が必要かもしれないが・・・。
まあ、何人でもかまわない。
われわれは全員、恋愛人間だ。
愛を他人から得るために、多くの転生をそれに費やすかもしれない。
だが、その目的だが、あのような魅惑的なフィーリングが、2人の人間が一緒になるあの束の間の瞬間だけに限定されることがあり得るだろうか?
愛は確かなものなのか?
その永遠の結合力は何なのか?
われわれは人間としてこのように学ぶ。
あるいは、われわれがどのレベルにいようと、どの惑星にいようと、どの星座にいようと、どの次元にいようと、われわれはこのすばらしい瞬間について学ぶ。
それは、誰かやグループが与えてくれるものであり、われわれはそのとき、自分についての感覚を体験する。
そして、われわれは、それを体験しながら、その断片的な愛の中で成長し、自分自身が持つ真に美しい側面を定義し始める。
つまり、魅惑的で優美な、神秘的かつロマンチックな、心を惹きつける部分を定義し始める。
われわれは、自分が創造する環境を体験するときにだけ、それらを得る。
自分が創造し、体験する環境だ。
そして、これらの洞察によって、われわれは自分自身の神秘へと成長していく。
というのも、覚醒に向かう旅、そして、あらゆるものの全体的なつながりに気づく あの究極的な瞬間は、われわれが自分自身を愛したときに訪れるからだ。
そのとき、われわれの光は明るく燃え、われわれの色は鮮やかだ。
われわれは美しい個性を持っている。
愛へと向かう旅だが、それを理解するためには、それになる必要がある。
「それになる」ということが理解できないなら、われわれはそれを愛の断片の中で、つまり、文章や詩の中で、抱擁や結婚の中で、恋愛関係や、人との交流や、友情の中で それを体験する必要がある。
われわれはそれを色々な場所で断片的に体験する。
自分自身を知りたいからだ。
というのも、究極の恋人は自分自身だからだ。
そして、このすばらしい体験を通して われわれは愛の神秘を学ぶ。
そして、その中で、われわれはいずれ、自分自身を環境と結びつけることになる。
あらゆるものの中に、全体性を見るとき、われわれは、自分自身を愛することよりも さらに偉大なことを理解する。
自分であるものを愛するとき、われわれは神の最も偉大な代理人であり、最も偉大なインスピレーションであり、われわれは自分自身に魅了され、自分自身に目がくらみ、環境の中で選択権を行使するという自分の力に心を奪われる。
そして、その体験がもたらす活力と喜びは、決して終わらない。
では、その環境をひとつにまとめているのは誰なのか?
何がその至福を維持するのか?
光がやって来るのを可能にするのは何なのか?
何があなたを永遠へと連れていくのか?
何があなたを若返らせるのか?
何があなたを癒すのか?
何が無から何かを創造するのか?
何がそれを愛して それに生命を与えるのか?
われわれが自分を愛すれば愛するほど、われわれの中からより強力に愛が生み出され、それが現実をひとつにまとめるのだ。
この次元であれ、別の次元であれ、愛は、われわれが環境を創造する力そのものである。
それは自分自身への愛であり、自分自身である神への愛であり、全てをひとつにまとめている糊である。
そして、そのような自信と内なる神性を持った存在だけが、何かを無から創造し、それを愛して生命にすることができるのだ。
それは、生きている生命体を手に持つ力である。
それゆえ、それは現実そのものだ。
だが、その束の間の瞬間は、愛されることによって生命となった。
それが、われわれから流れ出る力だ。
われわれが最終的に自分自身を見つけ、驚くべき方法で自分自身を利用し始めるまでに、どれくらいの体験が必要なのか?
われわれの本来の状態は、現実を愛して生命にすることだが、まずは自分の中に愛を見つけ、われわれが学んだこと、われわれが言ったことを、現実の創造の仕方や現実の認識の仕方と結びつける必要がある。
つまり その現実の始まりと、突然の中断に気づき、その終了、その再開を認識し、暗号化された思考プロセスに人生の中で気づく必要がある。
あなたがそれに気づくとき (それがわれわれの目標だが) あなたは自分の炎を燃やし始め、あなたの色が現れ始める。
そして、自分を愛することが、あなたに力を与え、どんな状況であろうとそれをくぐり抜ける能力をあなたに与える。
あなたはその影響を受けず、決して飢えることもなく、決して喉が渇くこともなく、病気で死ぬこともなくなる。
あなたは安全な状態になり、どんな現実でも創造できる力を持つのだ。
あなたは、自分の言葉に頼ることができるようになる。
そのときあなたは、これまでで最高の恋人となる。
つまり、何の心配も苦悩も苛立ちもない完全な安心感を持ち、喜びと力に満ち溢れた存在となる。
そのとき、われわれは永遠のきわに立っていることになる。
愛、すなわち、愛の神秘的な旅は、人々、場所、物、時間、出来事の体験を通して異なる自己を構築していく神秘的な旅である。
その異なる自己は、美しいアイデンティティーであり、それがわれわれの仕事だ。
さて、自分が考えることが物質化することを知った上で、あなた方は説明したわけだ。
では、愛の現実をもたらしてあげよう。
われわれは今や少しばかりの知識を持っている。
われわれはできる限りの努力をして話に耳を傾け、説明を要求されたときには、意識的に説明し、おそらく初めて、自分の努力を誇りに思った。
そして、それらの意識的な説明が、自分の世界の形成のされ方と、直接、結びついていることを理解した。
あなたは見ることができるはずだ。
つまり、これら全ての質問と、あなたの美しい声や言葉が、微かな変化、あるいは、劇的な変化を人生の中にもたらす様子を実際にみることができるはずだ。
それらを見つければ、われわれは喜びで飛び上がる。
自分の真実を見つけたからだ。
それは、これまでは完全に気づいていなかったものだ。
明らかでなかったものが、いまや明らかになりつつある。
さて、これは、真の霊的な旅を理解する前の序曲に過ぎない。
つまり、われわれの本質や目的を認識し、われわれの独自性や運命を認識していく旅の序曲である。
では、これは何を意味するのか?
態度がすべてだ。すべてである。
自分が言ったことは全て真実になるという可能性に対して頭の中のドアを大きく開きなさい。
それを起こすのだ。
それを起こすのだ。
そして、あなたが一日を創造するとき、そして、パワフルに集中してウォークを行うとき、あなたはこれまでよりも、「今」に留まる訓練について よく理解することができるだろう。
なぜなら、あなたはすぐに結果を見るからだ。
かなり遅れた結果ではなく、速やかな結果である。
そして、あなたは笑い始める。あなたは笑い始める。
あなたはそれを思考とつなげ始めるからだ。
瞬間に留まれば留まるほど、結果がすぐに現れ、タイムラグが少なくなり、未来を今、実現できるようになる。
次に会うときまでそれを実行しなさい。
あなた方は深く愛されている。
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スピリチュアル・ジャーニー・パート2 チャプター1 その1 (タケ)
2010-03-01 17:15:58
私の愛する神よ、私の神聖なるホーリー・スピリットよ、われわれはこの時代を切り抜けられるのだろうか?
私は知りたい。
さらに私は、何がこれを知りたがっているのかを知りたい。
というのも、私は神秘だからだ。
私の愛する神よ、私の神聖なるホーリー・スピリットよ、今夜の私の理解に基づいた偉大なる究極の現実を私の言葉に創造させたまえ。
それが私をさらに遠くに運び、あれらの荒れ狂う海を超えられるように。
私の存在の主たる神から、私をここに送った存在に私は言う。
ソービーザット。
人生という贈り物に乾杯。あなたの人生に乾杯。
われわれがかつていた場所の観点から真の霊的な人生を理解するとき、われわれの運命の意味は何なのか?
われわれはここからどこに行くのか?重要な問だ。
重要な問である。
何が「自己」を作り上げているのか?
「自己」は多重人格なのか?その通り。
自己は神によって統制されているのか?
自由意志によってのみ統制されている。
あなたが間違っていたとしても、あなたは自分の意志で間違うことができる。
この人生には目的があるのだろうか?
もちろん、ある。
われわれの中には何が隠されているのか?
力だ。
われわれの見えない側面は何なのか?
力だ。
われわれが死を避けられないのはなぜなのか?
肉体的に、束の間のものに心を奪われてしまうからだ。
輪廻転生は存在するのか?
あなたは再び生きるのか?
輪廻転生における条件は何なのか?
より開かれたマインドの中で あなたがそれを理解すれば、あなたは、早まって死を恐れず、人生をもっと豊かに生きることができる。
あなたが死を恐れているなら、あなたは生きることがない。
あなたはあまりにも慎重で、あまりにも話術が巧みで、あまりにも駆け引き上手で、あまりにも辛らつだ。
あなたが死を恐れなければ、あなたはもっと開かれた心で生き、もっと力と目的を持った状態で生きることになる。
そして、喜びが存在しないような日は一日たりともなく、一日が自分を豊かにするようになる。
あなたは一日を創造し、あなたはその一日の未来と一体になるのだ。
死には目的があるのか?
そして、この世界には目的があるのか?
世界はどこに向かっているのか?
あなたは世界とともにどこに向かっているのか?
あなたの選択は何か?
選択というものは、言ってみれば、自由意志に関係している。
自由意志だ。
私のような存在の使命を想像してみてほしい。
あなた方が「地球外生命体」と呼ぶ存在達、つまり、ETや、神々、より偉大な進化した文明に属する存在達の使命だ。
ところで、彼らはここにいる。
この学校の真上に、今夜、偉大な宇宙船が来ている。
知っての通り、彼らは常にこの学校を見守っている。
ここにいるあなた方のために、彼らはすばらしいことを行ってきた。
なぜ彼らはこの学校に興味があるのか?
このことが、あなた方の人生の生き方とどう関係があるのか?
さらに、別の惑星や別の天界に生きている存在達の生き方とどう関係があるのか?
宇宙全体にとって、そして天界全体にとって、個々の人間の決断は、どれくらい重要なのか?
自由意志は、不滅のものだ。
あなた方はこの話の最初の部分で、霊的な教えの中で一見、パラドックスのように見える「運命」という概念について理解する必要がある。
「運命」とは、あなたはこの人生、このカルマを生きるよう運命づけられているということであり、魂が決めたパーソナリティーを通して生きるということだ。
そして知っての通り、パーソナリティーは現実の中で、自らに等しい特定の環境だけを創造できる。
われわれは、それが運命として定められていることを知っているが、それは、われわれが魂を持つ最大の理由のひとつだ。
魂は、自己の「三位一体」の構成要素だ。
自己は、神でもあり、第2意識でもある。
第2意識は、魂との契約を持っており、これら二者は、ここでの仕事において より深く提携している。
仕事を成し遂げるためには、あなたは何の束縛もない自由を持たなければならない。
あなたは意識的な存在として、自分の条件で現実を創造できる必要がある。
グレートワークの中でわれわれは、それらの条件の基盤は何なのかを理解し始める。
あなたの選択はどこから生じるのか?
それらは転生の中で どのように生じるのか?
それらは魂から どのように生じるのか?
そして、私があなた方に言ったように、誰もが特徴づけられている。
つまり思考によって特徴づけられ、過ちによって特徴づけられ、罪によって特徴づけられ、違反によって特徴づけられている。
ここにいる全員が自分の色を持っている。
だが、それらの色が、ばらつきのある独自性をさらに豊かにすることになり、その独自性が、あなたの特定の振動数に応じて現実を特徴づけることになる。
したがって一方では、われわれは自分の知識の限界の中で生きるよう運命づけられており、われわれは、魂とパーソナリティーの限界の中でいきるように特徴づけられる必要がある。
そして、全てを現実化する全能の存在と一緒に働く必要がある。
これら全ての中で、より偉大なアイディアを思いつくための意志は、どこで生まれるのか?
より偉大なアイディアは自由意志の範疇に入ることになる。
どこかでスタートするように われわれが運命づけられているなら、運命とは「あなたは常にこうだった」という不変の法であり、誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。
そして、われわれがトライアッドを描き、それをゼロポイントとつなげれば、それは円であり、アルファとオメガだ。
始まりと終りがどこだかわからない。
われわれは自らの輝きの中核部分であり、あなたも私も不死の存在だ。
不死の存在である。
パーソナリティーと魂として、われわれは創造性を追及する旅をしながら未知を既知にしているのだ。
仮に、定められた運命の法がなかったとすれば、この天界や、この惑星、この銀河に対する重大な影響、つまり この天の川銀河に対する影響は、何もなかっただろう。
それ自体を再生し続ける老化もなかっただろう。
ここで、希望について話す場合、希望を提供する何らかの法が存在するという文脈の中で、それについて話す必要がある。
そうでなければ、運命という概念の下では、希望は実体のない曖昧な概念となり、意味も根拠もない概念になってしまう。
われわれには、ひとつの明確な使命がある。
それは未知を既知にすることだ。
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