EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

智頭急行

2007年03月27日 | 近畿

060211chizukyuhot35073  智頭急行には1996年夏に前述してきたように鳥取方面を日帰りで1周した時に乗車している。基本的に学生時代は先立つものがなかったので、とりあえず18で済ませられる範囲での行動が多かったが、智頭急行はスーパーはくとが走る重要路線と言うこともあって、自腹(18以外の出費)を切ってでも乗りたいと言うことでわざわざこの因美線~智頭急行のルートを辿っている。ただ、とにかく腹が痛まない程度に乗るのが学生時代の基本だったので、スーパーはくとに乗ると言うような贅沢はせずに普通列車を上郡まで乗り通している。

030726tizukyukamigori2  贅沢は敵だと言う学生時代だったが、阪急の学生班のアルバイトである程度は金を稼いでいたので、たまには贅沢する時もあった。特急に乗るのは基本的には周遊きっぷやフリーきっぷの類の利用にほぼ限られていたが、稀に気まぐれで特急や新幹線に乗ることもあった。スーパーはくとに初めて乗ったのもそんな気まぐれだったと言える。1998年夏に中国地方の乗り潰しに出かけたときだが、基本ルートに智頭急行は入っていなかったが、三江線や木次線など大物ローカル線(本数が少なく長時間乗車があるローカル線)をこなして疲労も感じていたので、宍道から山陰線を普通を乗り継いで帰る予定を変更して倉吉から先はスーパーはくとに乗ることにしたのが、同列車初乗りと智頭急行2回目の乗車となった。初めて乗ったスーパーはくとだったが、前面展望のモニターが付いていて中間車にいながら前面展望を楽しめるのは被りつき好きの私にとっては嬉しいサービスだった。これが他車へあまり普及しなかったのは残念なところだ。

060211chizukyuhot7000  それ以降学生時代には智頭急行には乗っていないが、2003年の夏に山陰へ遠征した折に山陰ディスティネーションきっぷなるものを利用して往復智頭急行の特急を利用している。行きは惜別乗車も含めてキハ181系特急いなばに乗り、帰りにはスーパーはくとを利用した。基本的にはスーパーはくとの利用を前提としたきっぷだったので、いなばを利用しても大丈夫なのかどうか微妙だったか何のお咎めもなかったので結果よしとした。特急いなばは上郡で方転する為か座席が逆向きになっており、みなそのままで乗っていたので、私も仕方なく後ろ向きのまま鳥取まで乗ったのを思い出す。キハ181系は特急いそがぜにワンポイントで乗ったことがあったが、国鉄らしい油臭い気動車特急車だった。

040822chizukyu187superinaba2  智頭急行線内での写真を上郡での駅撮り以外一枚も撮っていなかったこともあり、ホームページを飾る写真の充実を目的に2006年2月11日にも智頭急行を訪れている。この時は上郡から智頭まで普通列車を乗り継ぎながら、各所で途中下車を繰り返して撮影を楽しんでいる。鳥取で一泊して次の日に餘部鉄橋で最後の出雲撮影を目論んでいたが、あいにくの悪天候で出雲撮影は撃沈となってしまった。


JR因美線

2007年03月24日 | 山陰

030728inbi181inaba  JR因美線に初めて乗ったのは、1996年夏に18で鳥取方面をグルっと1周日帰りで廻った時だ。山陰線の時にも書いたが、この時は京都から山陰線を西へ西へ鳥取まで乗り、鳥取から南下して行った。因美線列車は郡家から若桜鉄道が直通してくるのが有名だが、この時は智頭から先智頭急行に直通する智頭急行の気動車に乗車している。智頭急行へ直通する旅客は特急を利用するのか、それほど多くなく快適に座って上郡まで乗り通した記憶がある。

 この頃の因美線にはまだ急行砂丘が走っていたが、それには乗らぬまま廃止となり、智頭以南の因美線もしばらく放置したままになっていた。ホームページを始めてから最初は近畿圏の鉄道のみ取り上げてやっていたが、どうせなら乗り潰しながらホームページを拡大していこうと言うことで、再び乗り潰しに精を出すようになり、その最初の頃に因美南線に乗っている。2001年だったと思うが、JR西日本の新春フリー切符を利用した時に因美南線に乗った。因美南線には先にも後にもこの1回しか乗っていない。

 この時は12月30日の急行だいせんで大阪を発ち、途中篠山口までの乗車券と急行券を支払って日付が変わる篠山口からフリー切符利用となった。だいせんで米子まで行き、米子からスーパーおきで、山陰線未乗区間の出雲市~江津間を乗り潰して、江津で折り返しスーパーおきに乗り米子へ。米子から鳥取地区の高速化により姿を消すことが確実な快速とっとりライナーに乗って倉吉へ。倉吉からはスーパーはくとに乗って、因美線の途中の智頭まで乗車した。智頭で少々時間があったので、ちょうど昼時だったので何か食べられるものを探したが、駅の売店には菓子類しかなく、仕方ないのでポテチをかじりながら因美線列車を待ったのを覚えている。

 因美線は北線が鳥取の国鉄型のキハ47などが使われるのに対して、南線は津山のキハ120が使われている。勾配がきつい日本の原風景とも言うべき景色を見ながらの旅路だったが、この頃はデジカメは持てども撮影はそれほど熱心にしてなかったので、沿線を写した写真などは残っていない。急行砂丘の時代にはタブレットの交換などがあったようだが、今ではそれもなくなり、交換自体が珍しくなっている。北線は京阪神や岡山と鳥取を結ぶ重要な路線になったが、南線の方は急行砂丘が姿を消してから超~一級のローカル線に転落してしまった感がある。北線の存続は当たり前だが、南線の方は今後の行方は不透明と言える。


JR嵯峨野・山陰線(京都~鳥取間)1

2007年03月23日 | 近畿

031124sagano113c3  JR嵯峨野線に初めて乗ったのは、以前阪急嵐山線の時に書いたように小学校の遠足で嵯峨から保津峡まで乗った時だ。その時は国鉄山陰線でキハ58系が走っていた旧線時代であった。それ以降乗ることもなく、新線に切り替えられてしまったが、学生になってあまり正念は入ってなかったものの全国の乗り歩きを始めてから18を利用して山陰各線を乗ることを念頭の上、嵯峨野線攻略もついでに目論んだ。

051105sagano223v454  その折に最初に乗ったのは1996年夏(詳細日付は失念)で、この時は茨木からJR京都線に乗り、京都へ出て、京都から嵯峨野線~山陰線で福知山、ここで乗り換えてさらに山陰線に乗って城崎(現城崎温泉)で気動車に乗り換え、餘部鉄橋を渡って浜坂でまた乗り換え、鳥取に至るルート。鳥取からは因美線~智頭急行~上郡~JR神戸線で茨木に戻る日帰り計画だった。この時京都から乗った嵯峨野線電車はまだまだ登場したての223系1000番台使用の臨時快速レインボー天橋立行きだった。当時は何度も書いているように私は撮影をほとんどしてなかったので、カメラを持たずに出ているか、あるいは持っていても撮る気がないかのどちらかで、この今となっては非常に貴重な快速レインボーの写真も撮っていない。今から思えば非常に惜しいことをしている。

 この快速レインボーには京都から福知山まで乗車したが、この時嵯峨嵐山でオーバーランをして、推進運転で停止位置までバックしたのを鮮明に覚えている。オーバーランが福知山線事故などでクローズアップされたことがあったが、昔からJR西日本はオーバーランが多かったのだろうか?幼少の頃高速長田で見た阪急電車のオーバーラン以来のオーバーラン体験だったが、乗っている電車がオーバーランしたのは今のところ後にも先にもこの時だけだ。

041011sanin113402007  後ろ髪を引かれながら223系臨時快速レインボーを降りて、福知山で名物の大江の鬼そば(高架化後ホームからは姿を消してしまっている!!)を食して、福知山からはボロい113系800番台福知山色に乗って一路城崎へ。城崎からは気動車で餘部鉄橋を渡って浜坂へ。幼少の頃よくクルマで餘部へ泊りがけで海水浴などをしに連れられたのを懐かしみながら餘部鉄橋を通過した。餘部鉄橋もいよいよ3月末でファイナルを迎え、中高年層などを中心にマニアのみならず一般人の見物が増えて大盛況のようだ。なにぶん事故のないように最後を迎えて欲しいものだ。

 浜坂到着後は名物のかに寿司を食したのを覚えている。酢のきいたかに寿司よりもかに飯の方が個人的には好きだが、浜坂のかに寿司は美味しかった。一旦なくなって最近数量限定か何かで復活したように聞いたが、もう一度食してみたいものだ。

050820sanindd51izumo4  浜坂からまた気動車に乗って鳥取へ行き、鳥取から先にはこのときには乗っていない。立派な高架の鳥取駅に降り立って、その後は因美線に向かった。

 JR嵯峨野線にはその年(1996年)の同じく夏の18シーズンに同じ18きっぷを利用して京都~綾部間で乗車し、綾部から舞鶴線~小浜線と乗り継いで敦賀まで乗っている。福知山以西については、それ以後はほとんど乗っていない。福知山以西で学生時代に乗ったのは播但線に乗りに行った時ぐらいだ。その時は和田山~福知山間は普通を使い、福知山からは贅沢にも特急に乗っている。

 それ以降は全て社会人になってからで、乗り潰しを真剣にやり始めるのとホームページを作り出してからは何度も乗るようになっている。


JR東海道本線熱海~豊橋間

2007年03月21日 | 東海

  061230tokaido113t108  東海道線豊橋以東熱海までの区間は1995年の夏に2度乗車している。先に書いたサークルの合宿帰りに熱海から豊橋まで211系ロング車で乗り通したのが初乗車で、2回目は同じ年の夏に東上した時に豊橋から座れない113系3連に乗って浜松、静岡で乗り継ぎ、静岡から東日本の113系11連に乗って東京まで乗り通した時だ。この頃の静岡地区は、米原~大垣間に次いでネックとなる区間で、それが嫌で18ユーザーはみな大垣夜行にアホみたいに並んで床に座ってでも乗っていたのだろう。今でもその状態は変わらないが、ムーンライトながらは全車指定なので、床に座る人間は少なくなっているはずだ。

061231tokaido373f13  言うに及ばず私も東海道中膝栗毛は最初の1~2回だけで苦痛になり、後はムーンライトながらや寝台急行銀河などを活用することが多くなった。最近は贅沢に新幹線を利用したりしているが、静岡遠征に関しては東海道線を利用せざるを得ないので、昨年末からの静岡地区私鉄巡りでは東海道線にかなり乗っている。東海道線静岡地区もかなり様変わりしたようで、3両編成で大混雑している列車がかなり減って、昼間から6連など長い編成が見られるようになっている。313系投入により113系が姿を消し、名古屋からの転配で211系ロング車が来て、ほとんどの車両がロングシート車となっている。乗車距離の関係なのかどうかわからないが、名古屋では積極的に転換クロスを採用しているJR東海もこと静岡地区に限ってはロングシートを採用している。何か意味があるのだろうか?

 静岡地区での楽しみと言えば、朝方に通過する東京ブルトレの撮影だ。私が撮影をしだした頃には既に大半のブルトレが廃止され、今や撮れる対象と言えば、はやぶさ・富士しかなくなったのは残念だ。この両列車も早晩廃止となるだろうが、静岡地区では撮影にはいい時間帯に通過するので、是非とも廃止前にもう一度撮影にチャレンジしたいところだ。

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JR身延線

2007年03月19日 | 東海

061231minobu115b87  身延線は1995年の夏に甲府から富士まで乗車している。この時は友人と一緒で、ただ乗るだけだったが、とりあえず乗り潰しに成功したと言うことになっている。115系3連が使用されていたぐらいで、後は特に記憶にございませんという感じだが、写真のような富士山を見た記憶はない。

 その後身延線に乗ったのは2005年10月10日だ。この時は既に乗っているのに写真も何もないのでホームページが作れないということで、写真撮影を中心にと思い、全線乗り通したが、雨の為ほとんど何も撮れずに帰っている。この時乗った特急ふじかわは途中から立ち客が出るほどの混雑ぶりだった。

 この時のリベンジではないが、ほんのさわりだけだが、2006年12月31日に身延線堅堀を訪れ、富士山をバックに撮影したのがトップの写真だ。この年末は新幹線の富士山バック、伊豆箱根の富士山バックとほんとに綺麗に富士山が見えた2日間だった。2005年に乗った時も313系が身延線でも走り出していたが、近年の増備によりクモハ123の姿がどんどん少なくなっている。身延線名物もそろそろ終焉を迎えることになるのだろうか?


JR上越線

2007年03月18日 | 甲信越

050910jyoetsu115n12  上越線には1995年夏の学生時代の鉄道系サークルの合宿で初めて乗っている。上りムーンライト(その当時えちごは付かなかった)で素通りしただけだが、同じ年に18きっぷで東京へ出て、新宿から下りムーンライトで新潟へ行き、新潟から折り返して乗っているので、その時に日のあるうちにループ線などを見ている。この頃のムーンライト(えちご)は165系改造車でグリーン車で廃用となったシートを165系に載せていたので、居住性は今の485系のそれよりも遥かに良かった。ムーンライトえちごもながら同様18シーズンには指定のとり難い列車だが、ながらと違って即日完売とならないのは、新潟から先の便が悪いせいもあるだろう。

 上越線にはその後ほとんど乗っていない。学生時代はその後はムーンライト(えちご)に1度乗った以外は乗っていない。上越線に再度乗ったのは、これまたムーンライトえちごでこの時は新潟方面への乗り潰しを行うため、485系化された後のムーンライトえちごに乗っている。ムーンライト時代からそうだが、ムーンライトえちごは新宿から出ているせいか、泥酔客などが大宮までなど短距離で間違ってあるいは故意に乗ってくることが多く、旅行者と鉄以外にあまり行儀のいい客が乗ってくるのがたまに傷だ。また、485系ムーンライトえちごは先述したとおり、165系ムーンライト仕様車の座席よりも悪くなっている。ごくごく標準的な座席だが、リクライニング角度が浅く、足元が狭く、夜行向きの車両とは言えない。快速だから安かろう悪かろうでも仕方ないが、地方などでグレードの高い快速を走らせているJR東日本にしては頂けない車両になっている。

050910jyoetsuechigoyuzawa  上越線にはその後、飯山線に乗るために長岡から越後川口まで2003年12月30日に乗車している。この時は車両トラブルにより長岡の発車が遅れて、越後川口で飯山線が接続待ちしてくれていたのを思い出す。このためゆっくり上越線を見物というような状況ではなかった。次に乗ったのはごく最近で2005年9月10日に急行きたぐにで直江津まで行き、直江津から北越急行の初乗りをして、越後湯沢まで行って、越後湯沢から上越国境を久しぶりに越えている。水上までは激空きの普通電車でループ線などをじっくり楽しめたが、水上からの107系電車は駅ごとに客を増やしていき、高崎に着く頃には超~満員になっていた。何か行事ごとでも重なっていたのかもしれないが、日曜の朝のいい時間に高崎に着く電車にしては短すぎたのかもしれない。コストダウンもいいが、こんなことでは地方ではみなクルマに逃げられてしまうので、何とかしなければならない。

 水上以南は高崎近郊路線として成り立ちそうな感じがする上越線だが、水上以北とりわけ水上~越後湯沢間に関しては時代が時代なら3セク化云々よりも横軽のように廃止の可能性もあったのではないかと思われる路線だ。東京方面から新潟及び日本海縦貫線へ抜ける貨物の通り道であることなどから、今後も廃止という目はないと思われるが、新幹線でさえ列車密度が低いところだから、場合によっては貨物列車をFGT化して、高崎~長岡、新潟間で新幹線貨物を運転することも検討すれば面白いかもしれない。そうなれば上越線水上~越後湯沢間はそれこそ存在意義が問われ、廃止の可能性も出てくるだろう・・・そんなことは今のところあり得ない話だ。050910jyoetsuyubiso


JR横須賀線

2007年03月17日 | 関東

050503yokosuka217f153  横須賀線に乗ったのはこれまた学生時代のサークル活動において乗ったのが初めてだった。この時は途中の鎌倉までしか乗っていない。後に18きっぷを利用して東京鉄巡りしたときに東京から久里浜まで乗っている。このとき久里浜からの帰りには京急を利用している。この頃はE217系が主体ではあったが、まだまだ113系が走っていた時代で113系に乗った記憶がある。途中の逗子で付属編成を切り離して、基本編成のみが久里浜まで行ったが、途中の田浦ではホームからはみ出して停車していた。これはE217系に統一された今でも変わらない。近年は湘南新宿ラインが乗り入れてくるなど横須賀線も様変わりしつつあるが、逗子以遠は京急との競合があるにも拘らず未だにローカルな雰囲気が漂う。これがJR西日本なら京急を目の敵のように追い回すところだろうが、JR東日本は余裕があるのか、京急にも分け前をやるという感じがしないでもない。JR西日本は京急同様電車的な走りをする会社だが、JR東日本は緩行と呼ばれる路線では電車的なところもあるかもしれないが、中電と呼ばれる中距離電車は如何にも列車というイメージを受ける。その辺りが横須賀線にも如実に出ているのではなかろうか。


JR東海道線(東京~熱海間)

2007年03月15日 | 関東

050110tokaido215nl12  東京口の東海道線に乗ったのは、先述した学生時代のサークル活動において東上した時だ。このときは大阪から東海道線を上り、名古屋から中央西線に入って、篠ノ井線で長野へ抜けて、信越線で新潟まで行って、新潟から当時はまだ165系アコモ改造車が入っていたムーンライト(えちごはまだ付いてなかった)に乗って新宿へ。横浜や鎌倉で観光など一息入れて、東京へ戻って、東京から熱海まで215系快速アクティに乗った。これが東海道線東京口の初乗りだ。215系はシートこそ固定クロスでシートピッチが狭く、当時京阪神を闊歩していた221系や先にも書いた中京地区の311系と比べると今ひとつだったが、走りと車内の静粛性についてはひけを取らないものがあった。現在はラッシュ時の湘南ライナー以外の運用がないようだが、如何にも勿体無いものだと思う。他にも用途がありそうだが、臨時のホリデー快速などは非日常的な車両として利用者に行楽気分を与えてくれるはずだから、この車両に適任であると思われるので、もっと幅広く臨時列車などで活用して欲しいものだ。

050110tokaido113k46  東海道線東京口はその後何度も乗っているが、215系に乗ったのは最初の1回とその2年後に東京遠征した時に快速アクティに乗った時の2回だけだ。湘南新宿ラインでも1度乗っているが、東海道線ではその後は乗る機会はなく終わってしまった。東京遠征すると西から221系→113系→311系→113系(静岡)→113系(東京)と徐々にレベルが下がっていく傾向があったが、東上していくと編成の短い静岡地区を通って、夕方あたりに静岡に着くと静岡始発のJR東日本の長い113系に当たるスジがあったので、それまでの座れない地獄から解放されるという意味では長い東日本の113系は車両レベル云々は抜きにして有り難い存在ではあった。なお、東海道を全線走破して東上したのは学生時代1995年に実現している。それ以後完全に東海道線を昼間全線走破したことはない。たいてい夜のムーンライトながらか寝台急行銀河、あるいは部分的に新幹線利用というのが多い。

041230tokaido6647fuji2  東海道線東京口と言えば、新幹線が開業しているので、昼間の在来線特急は伊豆方面へ向かう踊り子とこの春廃止になる特急(急行)東海のみと撮影者としては面白味に欠ける路線だったが、朝夕の時間帯は西へ向かうブルトレが出ており、それ目当てで撮影に出かけることも多かった。私自身カメラを持って本格的な撮影をしたのがデジカメ購入後とかなりスタートが遅かったので、ブルトレ全盛期の写真などは全くない。私が東京口で撮影し始めた時には既にみずほ・あさかぜ1・4号の姿はなく、はやぶさ・さくらは併結運転を行っていた。右の写真のように富士が単独運転しているのにはなんとか間に合ったが、この直後にあさかぜ・さくらが姿を消している。この富士を撮った時は、その2列車の追っかけと富士の単独運転を捕らえるのも東上した一つの理由となっている。昼間はもちろん乗りつぶしをしているのだが、朝夕は東海道でブルトレ撮りを行っていた。富士の写真はちょうど鶴見線を乗り潰した後に、鶴見駅を通過する富士を撮る為に、跨線橋から撮影したものだ。


JR東海道本線豊橋~米原間

2007年03月14日 | 東海

070102tokaido313y34  東海道線米原~名古屋間に初めて乗ったのは、学生時代にとあるサークルに所属していた時に合宿へ行く時に18きっぷで乗車した。鉄集団とは言え、団体行動で予定は他人が決めてういたので、ただついていくだけという感じで乗車したが、その当時米原~大垣間は60分毎にしか運転がなく、電車の両数も3両程度しかなく、物凄い混雑だったのを覚えている。この状態はしばらく続き、東海道の難所は米原~大垣間、山陽の難所が姫路~岡山間というのが京阪神から18で旅行する際の越えなければならない難所だった。今では東海道に関しては増発、増結が行われ、難所というイメージではなくなっている。

 この時米原~大垣間でヘトヘトになった後に乗った311系新快速があまりにも快適だったので、名古屋の新快速もやるな!!と思った。実際今でも名古屋の新快速はやる!!のだが、スケールという点では京阪神の方に軍配が上がるように思う。名古屋到着後は味噌カツ弁当を購入して、先に記した中央西線へと足を向けたので、このときは名古屋以東には乗車していない。

 名古屋~豊橋間に乗車したのは、その合宿の帰りに東海道を延々と西下していった時だった。豊橋からお決まり通り新快速の道中を楽しんだが、その時に見た大府付近の線路用地がやたらと気になった。その当時はネット社会ではなかったので、家に帰ってネットで調べるということはできなかったので、詳しい人間に聞いてみるしかなかった。曖昧な答えしか出なかったが、貨物線を建設するのと同時に東海道線にも貨物専用線を造る計画があったということだった。正確なのかどうかはわからないが、南方貨物線のことを言っていたのだと思う。

 その年(1995年)にはその後一度東上の際に再度東海道線を利用している。この頃はまだ東海道を昼間利用してもまだまだ物珍しい時期だったので、苦にはならなかった。しかし、以後は米原~大垣間の苦や豊橋以東のロング詰め込み地獄などもあり、徐々に昼から夜の東上へとシフトするようになった。とは言っても学生時代に当時165系を使用していた大垣夜行を利用したのは一度だけで、ムーンライトながら化されてからも数回しか利用していない。学生時代はあまり東京方面の鉄道に興味がなかったので東上の機会が少なかったこともあるが、学生時代は大垣夜行とは縁があまりなかった。

 名古屋訪問で驚いたのはきしめんの出汁の黒さだ。関東のうどんやそばの出汁が黒いとは聞いていたものの、名古屋まで出汁が黒いとは思わなかった。関西風に慣れた身としては関東が最近関西風流行りで、味が良くなってきているのに対し、名古屋は未だに伝統の黒い出汁のままなので、うどん出汁での名古屋の評価は私の中では頗る低い。

 うどんの評価とは別に電車の評価は名古屋近辺では非常に高い。とりわけ関東と比べれば雲泥の差だ。関西とはスケールでは一歩譲るものの、新快速の高速運転は、速度制限が各所にある関西と違って、ほぼ真っ直ぐ線路が伸びる名古屋都市圏の方が上ではないかと思う。2006年末から2007年初頭にかけて乗り潰しの東海攻めをしているので、最近も名古屋地区を通ることが多くなっているが、オール転換クロスの313系増備車の出来もよく、運転規模では京阪神のそれには譲るものの、サービスに関しては一歩も譲ってないなという印象を受ける。しかし、313系は223系より若干シートピッチが狭く感じるのは私だけだろうか?


JR山陽新幹線

2007年03月11日 | 山陽

060910sanyos500w73  山陽新幹線に初めて乗ったのは小学校の修学旅行で広島へ行った時だ。行きは0系ひかり、帰りは当時ひだまと呼ばれた山陽区間各駅に停まるひかりだった。JR発足直後だったので、100系がまだ珍しい時代で、まだまだ0系全盛の時代だった。東海道新幹線に初めて乗った時と謝恩フリー切符で東京~新大阪間を乗った時以来の新幹線だったが、さすがに修学旅行では鉄な気分を存分に味わって乗ったというものではなかった。

050320sanyoshinkansen0r10hikari4 それ以後はしばらく山陽新幹線に乗ることはなかった。そのため広島以西には乗ったこともなかった。学生時代に500系のぞみに乗るために、九州周遊の帰りに、学生としては痛いのぞみの指定席料金をわざわざ支払って500系に乗り、このときに山陽新幹線乗り潰しを達成している。300km/hで爆走する500系のぞみは速く、あっと言う間に大阪へ戻ってきたという感じがしたものだ。

  次に乗ったのはJR西日本が発売している正月の乗り放題切符を初めて使用した時だ。2日間用だったかを使って、大晦日に伯備線の初乗りなどをした後、サンダーバードで北陸入りして、金沢から能登に乗って、直江津で折り返し急行きたぐにに乗るという強行軍で新大阪に戻り、新大阪からなんでか高額な別料金を支払って500系のぞみに乗って博多へ。この時も朝の用を足しにトイレへ行き、席へ戻る頃にはもう岡山の手前だったということに驚き、500系のぞみの速さを改めて実感した。ただ、この点に関しては自分のトイレの時間が長かっただけということも言えなくもないが・・・(^^;)

060910sanyos700e162  その時は500系で博多入りして、折り返し山陽新幹線三昧道中で、小倉まで0系こだま、小倉~広島間100系ひかり、広島~新大阪間でレールスターに乗っている。自由席利用だったのでレールスターの指定を味わっていないが、山陽新幹線を存分に楽しんだ1日だった。正月のフリー切符はその後も2回ぐらい使っている。いずれも自由席用で、山陽新幹線も当然行程に入っており、その度にレールスターなど普段乗れない新幹線を存分に楽しんでいる。この当時は漸く乗り潰しを本格的にやるようになっていたので、山陽筋や四国、九州へ向かうときに何度となく新幹線を利用するようになっている。500系のぞみが以前より遅くなったのは残念だが、レールスターの指定は素晴らしいし、東海道新幹線にはない空気が山陽新幹線にはある。東海道直通を中心に画一化された列車が多く走るようになっている面はあるが、0系から始まる新幹線世代を全て見られるのは山陽新幹線ならではの楽しみだ。0系や100系はダイヤの足を引っ張るようになってきているが、定期列車から退くのは仕方ないとしても、国鉄及びJRにおける功績は輝かしいものがある。是非とも動態保存して欲しいものだ。そう思うと100系の2階建て車両を簡単に廃車にしてしまったのは悔やまれる。0系もフル編成動態保存してもおかしくない車両だ。せめて300系や500系は同じことを繰り返さないよう、その功績を称えるような形で保存して欲しいものだ。


JR中央西線

2007年03月06日 | 東海

070102tyuo383a2032  JR中央西線には学生時代に18きっぷを利用して信州方面へ行った時に初めて乗っている。その後、学生時代にワイド周遊券があった時代に信州を乗り回ったときに区間内の中津川まで乗車して、383系ワイドビューしなのに乗っている。それ以降しばらく乗ることがなかったが、この正月(2007年)に久しぶりに撮影を兼ねて乗車した。撮影をしたこともあり、中津川以遠は闇の中の道中だったので、実施的にはしばらく乗っていないのも同然の状態だ。

 初めて乗った時は中津川まで211系快速、中津川から先は165系普通に乗っている。このときに写真でもあればいいのだが、学生時代の私は写真を撮ることには興味はなく、コンパクトカメラをお飾りに持っている程度の人間だったのでいまさら悔やんでも仕方ない。それにしても貴重な写真を撮り逃したものだ。この時もそうだが、学生時代は車中でよく眠っていた。だから記憶にあるのは寝覚ノ床を通過したときに車掌から案内の放送があったことぐらいだ。

070102tyuo313b204  2度目に乗った時は、ただ単に383系に乗ってみたかったから長野から中津川まで乗ったのだが、夏休みの日曜日だったかで上下とも物凄い混雑で、中津川までは車内で立ち、中津川から長野までの戻りもデッキに立つ有様だった。揺れが凄かっただけで何もいいことがなかった383系の初乗りだった。その後383系には中央西線では乗っていない。篠ノ井線で1回、米原~京都間で1回、いずれもJR東海とは関係のない他社エリアのフリー切符で乗車している。

050505tyuo211k117  その後は全線を乗り通したのは07年1月2日までなかったが、区間利用は乗り潰しをする度に何度かしている。東海交通事業城北線に乗ったときに勝川から多治見まで乗って、多治見から太多線へ向かっている。また、愛知博があった2005年5月5日には愛知環状鉄道に乗るために、名古屋~高蔵寺間を利用している。この2度はいずれも乗るだけで撮影は特にしていないが、今年の正月は撮影を中心に、恵那から明知鉄道の乗り潰しもしたので、中央西線を割合ゆっくり見て回れた。それでも撮影は鶴舞での駅撮りと中津川近辺での撮影に終わってしまったし、正月のため貨物列車の姿がなく、やや消化不良に終わっている。次回訪れるときはEF64牽引の貨物が撮れるようにしたい。


JR瀬戸大橋線

2007年03月02日 | 四国

020803seto213c10   JR瀬戸大橋線に初めて乗ったのは、高校時代に唯一18きっぷを使った時だ。行きは自由席が連結されていたムーンライト高知に乗り、帰りは高松からマリンライナーに乗った。ムーンライト高知は真夜中に瀬戸大橋を通過するが、ちょうど通過時に目が覚めてふわふわした乗り心地に少し気持ち悪くなった。深夜の通過の為昼間よりもさらに遅い速度で走っていたように思う。マリンライナーは当然ながら普通車に乗車したが、京阪神の221系と遜色ない車両で、夏休みだったとは言え、乗車率の高さに驚かされた。

 それ以後は学生時代に四国へ渡る時に何度か乗っているが、学生時代四国へ渡ったのは、東京からサンライズ瀬戸で高松へ入った時と周遊きっぷを利用して四国各線を廻った時の2回だけだ。サンライズに乗った時は登場したての285系サンライズに乗るために18きっぷで東上して、東京近辺を乗り回して、東京駅からサンライズ瀬戸に乗車した。この頃は撮影には興味がなかったので、岡山での分割併合の写真などはなく、高松で停車中の285系をパシャパシャ撮っただけだった。高松到着後は何するでもなく、うどんを食べて速攻折り返しマリンライナーに乗って岡山へ戻っていった。今ならもっと乗り潰すなりしていただろうが、学生時代は鉄はすれどもいい加減な鉄活動をしていた。今さらながら後悔している。

 次の四国行きの際は行きはムーンライト高知に乗ったため、瀬戸大橋線では夢の中であった。この時は周遊きっぷの強みを活かしてカーペット車で横になって大阪~高知間を移動している。その時に高知で食べたモーニングがトーストに何でか味噌汁が付いていたのを今でも覚えている。帰りは8000系しおかぜで瀬戸大橋を通過した。この後も四国には何度か足を運んでいるが、瀬戸大橋を特急で渡ったのは後にも先にもこの1回のみだ。何で渡っても橋は橋だから景色が変わるわけではないが、四国特急にフリーゲージトレインが導入されたときには是非ともマリンではなくそちらを利用して四国入りしたいものだ。

 学生時代を終えてから社会人になって、ホームページを立てるようになってから再度乗り潰しに力を入れ始め、四国は周遊きっぷ利用で1回、18きっぷ利用で5回上陸している。いずれも瀬戸大橋線内はマリンライナーを利用している。一度は213系マリンライナーの惜別乗車も兼ねて琴電の乗り潰しで訪れ、この時は岡山から高松までグリーン車に乗っている。展望グリーン車の先頭に乗ったのはこれが初めてでよくできた車両だったのに置き換えられて廃車となってしまったのは惜しいものだ。

060909yosan5000m2  213系にはその後も最後最後と言いながら何度か乗車して、周遊きっぷで四国各線の乗り潰しをした時は置き換え後初めて5000系+223系のマリンライナーに乗車した。この時は夜の最終1本前で高松入りしたのだが、5000系階下の指定席に陣取った。疲れていたので、眠ってしまったが、以前の何の変哲もない213系の指定席よりもレベルは上がったと言える。帰りは奮発してというか松山からわざわざ高松行きの特急いしづちに乗って、高松で乗り換えてまでしてマリンライナーのグリーン車に乗った。できれば鉄っちゃんシートに座りたかったが、残念ながら岡山行きは後ろ向きとなるので、普通の階上のグリーン車にした。2階建ては京阪特急などで経験済みだが、5000系グリーン車は空調の音がやかましいなどグリーン料金を払っている割には・・・という感じもした。その後鳴門線乗り潰しや昨年の予讃線、土讃線撮影行きでも瀬戸大橋線を使っているが、いずれもマリンライナーの自由席を使っている。18でも別途グリーン券を購入すればグリーン車に乗れるようになったので、次回の四国旅行は被りつきグリーン席を利用したいものだ。