何しろ1日1投稿がモットーの瓦版ブログです♪

2014年6月8日の日曜日、YouTubeにgooボタンが付いていたので登録♪
継続は力なり!で内容は投げやりかも笑。

人生「 一寸先は闇 」は本当だった

2016年12月31日 12時30分43秒 | 右肘関節の複雑脱臼+粉砕骨折+靭帯断裂

 

申年の意は「 伸ばす 」

 26日の当「 瓦版ブログ 」の記事で来年の酉年
果実が成熟の極限に達した状態 」だと申し上げた。

それでは本年度の申年はどういう意味を持っているのかと
言えば、これは
草木が十分に伸び切って実が味、香りとともに
成熟し固い殻に覆われていく時期
」だという事である。

 実はこの十二支は草木の成長を模して割り当てられた
とする説があるが、なぜ動物を当てはめているのかと申せば
人々が暦を覚えやすいように、との考えだと言う説もある。

 さて、今年の2016年も大晦日の今日で
いよいよ終わろうとしているが、あなたは
どの様な1年で有ったのか。

私めが世相を一字で言い表すなれば、今年は
」であったかと個人的には思うのだが、
毎年「 騒然 」とはしているかな、と。

では私めが個人的に感じている自分自身の
今年1年はと言うと「 」の1年だったなと。

災=「 わざわい 」であるが、まさに人生
一寸先は闇 」であるなと、痛感した1年であった。

 誰が悪いわけでもないが、突然起きた労災事故で
右肘関節の開放性複雑脱臼粉砕骨折に加えて
靭帯断裂の重症事故に。↓

交通事故では無いことと、脊髄や脳を損傷すること無く
右腕1本で済んだ事は正に
不幸中の幸い 」であったが、まぁ今年はそんな年で有った。

来年こそは飛躍の年にする

 などと、今年も申し述べて居たような気もするが
来年は酉年だし、きっと羽ばたいて飛び立てるだろう
などと期待は、しているのだが.....

そうか!酉=にわとりだから飛べないのか?などと
くだらない事を回想しつつも、来年に期待を込めて
本年度を締め括りたいと思う。

それでは良い、お年を~♪^^


 


覚醒剤は最初から手を出さないのが超重要

2016年12月30日 23時58分25秒 | 覚醒剤

 

1回打ったら抜け出す自信はない

 今回は以前にも当「 瓦版ブログ 」でも上げたが、
覚醒剤の怖さについて改めて触れてみたい。

今日は、覚醒剤取締法違反の罪で逮捕された
清原和博氏のYouTube動画を拝見していた。

 最近撮られたTVのインタビュー番組の
アップ動画だったが、清原氏は覚せい剤の事を
悪魔、怪物 」と称していた。

またプロ野球選手として活躍していた現役時代も
グリーニー 」とか言う覚せい剤によく似た成分の
興奮剤を使用していたとの事。

この薬物を使うと連戦で疲れが溜まっていた時でも
集中力が増したという。

但し、覚醒剤に関しては、「 引退後 」からの
使用であると、述べていた。

始めの1回目を打たないことが何より重要

 よく言われるのが、
覚せい剤は元気の前借り 」だと言う事。

覚醒剤を使用した瞬間は、大脳辺緑系に作用して
擬似的な幸福感や恍惚感を覚えるのだそう。

この時は、凄まじい集中力が発揮され
何日間も寝ないでいられるのだとか。

これが元気の前借りと言われる所以であるが、
薬物の効果が切れた途端、激しい脱力感
空虚感に襲われ、何日間も死んだように眠るのだという。

 しかし本当に問題なのは、この後の激しい
薬物依存 」である。

私めは覚醒剤なる物を使ったことが無いので
( これからも使うつもりは無いが )知り得た知識でしか
説明できないが私めでも、おそらく
1度でもコレを使えば抜け出せる自信はない。

 タバコやお酒などでもニコチン依存や
アルコール依存症と言う概念は有るが、
覚せい剤の場合は依存度が
これの比では無いだろう。

何故ならば、1度でも使用してしまうと
覚醒剤の場合、体が欲しがるのではなく
脳が欲しがる 」のだという。

 薬の効果が切れると幻聴や幻覚を感じ、
体はボロボロになってゆくが、再び使用することで
また恍惚感に浸れる仕組みになっている。

しかし1回目程は強くは効かない。

これが、覚醒剤の持つ無限地獄の罠では有るが
1回この罠に落ちると常人では
なかなか抜け出すのは難しく、
再犯率が高いのも、この覚醒剤である。

 つい最近では大人気だったチャゲ&ASKAの
ASKA容疑者が覚せい剤の再犯で逮捕されている。
( 嫌疑不十分で不起訴 )

涙を流しながら息子に合いたいと訴える清原氏

 覚醒剤を完全に断ち切るまでは、
自分の子供達にも会わせて貰えないのだと言って
泣いて居た清原氏。

 甲子園に出場していた時代は解説者に
「 甲子園は清原のために有るのかー! 」とまで言わしめた
過去の栄光は地に落ちていると思う。

だが昔から応援してくれているファンの方々のためにも
今が正念場であろうが、頑張って再起を果たして貰いたい。

 何しろ一番大切なのは、繰り返し述べるが
最初から覚醒剤には手を出さないこと 」である。

 戦時中は特攻隊員が恐怖を和らげる為に使用し、
( 全てでは無いだろうが )戦後も一時期は
普通に町の薬局で「 ヒロポン 」という名前で売られていた
覚醒剤は、確実にあなたの人生と、
周りの人々の生活までをも、情け容赦無く破壊する。

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太平洋戦争で1941年に日米開戦をした理由は何故なのか

2016年12月29日 22時08分15秒 | 戦争

同じ過ちを繰り返さぬために

 12月27日( 日本時間28日 )に、アメリカのオバマ大統領と日本の安倍晋三首相がハワイの真珠湾を訪問し、スピーチした。

オバマ大統領「最も激しい対立は最も強い同盟に」(16/12/28)

オバマ大統領は5月27日にも来日され、
広島市の平和記念公園を訪れ原爆死没者の
慰霊碑に献花の上、スピーチをされている。

75年前の12月7日( 日本時間8日 )に日本軍は
真珠湾のアメリカ軍基地を空襲し日米開戦に至った。

最近は特に過去の戦争に関して深き思いを
巡らす様になったのだが本当に、くり返し思うのは
今の平和な日本に生まれたのは本当に幸運だった
と言う事。^^ ↓ ↓ ↓

お国のために命を捧げろ 」的な「 赤紙
( 召集令状 )が3回も4回も届いたら本当に嫌になる。

しかし学生時代は、ろくすっぽ勉強せずに
ビデオゲームばかりやっていた私めは
なぜ日本は太平洋戦争を始めたのか
という疑問が、かなり以前から有ったものの
その原因がなかなか掴めずに居た。

以前に当「 瓦版ブログ 」でも綴ったのだが、1904年から勃発した日露戦争などは今の様に国際情勢が
みんなで仲良く強調しあって世界は1つ♪ 」的な空気( 一部、そうでない国々も有るが )ではなかった。

当時は「 欧米列強、帝国主義、弱肉強食 」の世界だった事からも、うかうかしていると
あっという間に「 植民地化 」されてしまい、食い物にされるしかないと言う風潮だったので、
これを打破するためには相手を打ち破る、という選択肢しか無かったのだろう。

しかし1941年( 昭和16年 )12月8日から
開戦してしまった第二次世界大戦中の日米戦争は、
もっと複雑な事情が絡み合って居るようである。

まず、日本国側としても自国の権益を貪るのが
目的で勝ち目のないアメリカに喧嘩を
ふっかけたのでは無いという事だけは間違いない。

そこの間には日中戦争最中の中国、
イギリス、フランスなどの各国の権益を巡る思惑も
複雑に入り乱れて居たのである。

当時の第32代アメリカ合衆国大統領は
フランクリン・デラノ・ルーズベルト 」氏
( Franklin Delano Roosevelt )で、彼は
黄色人種を蔑視する環境で育ってきた
影響も有ってか、そのような反日的な感情を
日本に持っていたとされる。↓

( 1945年、昭和20年4月12日、脳卒中で死去 )

更には、当時の世界での日本の立ち位置が
黄色人種の独立国家では4ヶ国しかない内の
1つである日本が経済的な発展を遂げてきたのも
経済新興国のアメリカに取っては目障りな
存在に映ったのかも知れない。

が、モチロン日米が開戦に至る原因は
それのみではなかった。

日中戦争が大きな火種に、なっていた

 昭和12年( 1937年 )7月7日に勃発した
盧溝橋事件 」が発端となった日中戦争( 支那事変 )は
そこからの権益を狙うアメリカやイギリスとの深刻な対立を
もたらす様に、なっていった。

もともと、この盧溝橋事件も7月4日の夜に事前に中国側に
通知済みであったとされる、日本軍の夜間軍事演習中に
中国側の軍部が実弾を発砲したのが発端だった。

Chinese Soldier Went Out of Wanping.jpg
By Unknown - http://www.gettao.com/bbs/viewthread.php?tid=5033, Public Domain, Link

日中戦争の最中、アメリカは援蒋ルートを使って
蒋介石政権に軍事支援を行い、日本を牽制する
行動に出ている。

( この時は、まだ中国に「 宣戦布告 」を
していないので、正確には日中戦争ではなく
支那事変 」と呼ばれている )

これに伴って8月24日には陸軍参謀本部が
10万人を越える兵士の動員を決定。

全国各地で召集令状、いわゆる赤紙が配達された。

明治6年から発布された徴兵令( 国民皆兵制度 )を
1927年( 昭和2年 )に改定した兵役法によるもの。

昭和13年( 1938年 )国家総動員法を制定。

1940年( 昭和15年 )9月27日に日独伊( 日本、ドイツ、イタリア )三国同盟締結

昭和16年7月、日本軍はフランス領インドシナの南部(  現在のベトナム北部 )まで進駐した。

こうした流れの中で、実はアメリカとの開戦までの伏線の中で、中国が大きく影響する事になったのは言うまでもない。

ちなみに私めは当初、日中戦争を始めたキッカケは日本側の「 大東亜共栄圏 」とか言う思想を成就せしめんがために中国を支配下に置く目的が有ったのかと思っていた。

しかし実際に大東亜共栄圏を提唱するのは昭和15年頃からであるから、これ目的での日中戦争では無いということが分かった。

対日経済制裁の石油を全面禁輸は効いた

 かねてから日本への警戒感を強めていた
ルーズベルト大統領はインドシナ進駐に対抗して
昭和16年8月に対日石油の全面禁輸を実施。

前月の7月26日には在米日本資産の凍結を実施している。

経済封鎖でも容赦なく四方からのA( アメリカ )B( イギリス )C( 中国 )D( オランダ )包囲網を敷く。

日本は石油の殆どをアメリカ( 70% )や植民地であった東南アジアであるヨーロッパの植民地から輸入していた。

石油の禁輸が続けば、飛行機も軍艦も動かないジリ貧状態に。

近衛内閣から東條内閣に、なっても外交交渉は継続

昭和16年10月、米との戦争を回避すべく外交交渉を継続していた「 近衛文麿 」( このえふみまろ“公家”公爵 )首相は、
一部の軍部の強硬論を抑えきれずに辞職。

( 終戦後の昭和20年12月16日、A級戦犯として出頭する前夜、青酸カリで自決しているが日中戦争拡大の責任を感じていたのであろうか )

陸軍大臣だった「 東条英機 」( とうじょうひでき )氏が首相に就任。↓( 1948年、昭和23年11月12日、東京裁判にて絞首刑の判決 )

11月17日、当時の外務大臣「 東郷茂徳 」( しげのり )氏は「 外交に拠って戦争を回避 」しようとしていた。↓

( 1948年、昭和23年11月4日、東京裁判にて禁錮20年の判決 )

大本営政府連絡会議での東郷「 乙案( 最終案 )」は、
今は我慢の時。インドシナ南部から軍部を撤退させる代わりに米国は対日の石油の供給再開を求め、中国問題には干渉しない 」と言う交渉案を打ち出して見せた。

17時間にも及ぶ会議の末、「 戦争準備と外交とを並行して行くが期限は11月いっぱいまで 」という軍部側の条件だった。

コレを最終案としてアメリカの「 野村吉三郎 」駐米大使に暗号化した電報で打電。

しかし、この暗号は1年以上も前からアメリカ側の「 ウィリアム・F・フリードマン 」氏らのチームにより、アメリカのシアトル郊外のベインブリッジ島のフォートワードにある秘密施設で、キッチリと解読され内容は全てルーズベルト大統領に漏れていた

米国は、栃木県の小山送信所からサンフランシスコの米国通信会社の受信所に送られた日本の外交電報を米国西海岸シアトルにほど近いベインブリッジ島の海軍電信所で傍受し、テレタイプ(電動機械式タイプライター)でワシントンDCの海軍省ビルに転送した。

こうした直通電信回線の設定により米国の解読班は、日本大使館の電信係員より、少なくとも配達に要する一、二時間程度早く日本の外交電報を手に入れていたのである。

【 引用ここまで↑出典:デイリー新潮2018年12月7日掲載 】

外交電報のコードネーム、パープル暗号( 暗号機B型 )を解読した文書は「 マジック 」と呼ばれ、現在でもアメリカ国立公文書館に保管されている。

その間、日本軍は戦争の準備をしました。


ベインブリッジのラジオによって傍受されたメッセージは、戦争を始める合図でした。

【 引用ここまで↑出典:ワシントン州の歴史の無料百科事典 】

米ベインブリッジ島の海軍通信所は「 ステーションS 」という呼び名で、当時は極秘扱いだった。

従って、この提案を断れば日本は開戦に踏み切る事も相手は知っていた。

が、さらには日本側も負けてはおらず、
米国と中国のやり取りの電報暗号もキッチリ解読していたのである!!
( 長い間、極秘扱いとされて来た )

最終的には開戦が狙いだったルーズベルト大統領

ルーズベルトは敵国であるドイツと同時に
日本との戦争に入る為には3ヶ月間の
準備期間が必要だと考え「 コーデル・ハル 」国務長官に
日本との戦争の準備が整うまで、
“暫定協提案”を作って交渉を引き延ばせ
と指示している。

 すでにこの時点でルーズベルト大統領は
日本と戦争する気マンマンで有ることが伺える。

何故なのか?

冒頭でも申し述べたように、
反日感情だけの判断では無いのは明々白々。

 1つには世界恐慌で失業者が溢れかえってる
アメリカ国内の景気を回復させる為には
戦争を起こすことで国内特需を押し上げる事が
有効な手段だから。

実際に彼はニューディール政策と共に対日参戦に拠る
戦時経済で驚異的なV字回復をアメリカに、
もたらしている。

 だが、もう1つルーズベルトには自分から
戦争を始められない理由があったのだが、
それが「 選挙公約 」での
「 戦争はしない 」という発言だった。

この事からも、彼は
相手側から戦争を起こさせる様に仕向ける
狡猾な戦略が必要だったのである。

要はアメリカ国内の世論を味方につける戦略である。

11月20日( 米時間 )ハル氏は、この内容を知っていたが
2人の大使に「 十分に検討させて頂く 」と返答。

11月22日アメリカ側のハル暫定協提案が書き上がった。

日本がこれ以上南方に進出しない事を条件に
米国は経済制裁を緩め日中戦争の解決には干渉しない

ただしこの提案の有効期限は3ヶ月とし、
それ以降は改めて交渉する 」と言う内容。

同日のAM9:00 ハル国務長官は
イギリス、オランダ、オーストラリア、中国の
大使や公使と会談し暫定協定案への了解を求めた。

ここで徹底的に横槍を入れる中国陣営

この日本への妥協案に中国大使の「 胡適 」( こてき )氏は
米国は中国を見捨てようとしている 」と衝撃を受けた。↓

胡適氏は直ちに、この提案内容を中国の指導者、
蒋介石 」( しょうかいせき )氏へ電報で打電。

日中戦争の最中に有った中国の「 蒋介石 」氏は
「 不安と怒りが心の中を激しく交錯した 」
と、この時の心境を吐露している。

胡適大使に「 絶対に日本と米国を妥協させてはならない、
それは中国の死を意味する 」と指示した。

さらにはイギリスの
ウインストン・レナード・スペンサー・チャーチル
首相にも働きかけ電報を送った。

「 米国が日本と妥協案を結んだら中国は失望し、
あなた方の語る国際信義という言葉も信じなくなる 」

11月24日ハル氏は中国大使の胡適氏を呼び、
説得を試みる。

「 あと3ヶ月待てば日本への戦争準備が整うのですよ 」

しかし胡適大使は
「 いまアメリカが妥協案を出したら中国は崩壊します 」
と納得しない。

この様な経緯から、日本への返答期限は先延ばしに
されたが、このとき既に日本海軍は準備を整え
エトロフ島に結集しハワイ真珠湾攻撃の命令を
待っていた。

11月25日ハルは暫定協定案を日本に提示すると
閣僚に宣言するが同日、中国の蒋介石側から
日本との妥協案を非難する電報が次々に入ってきていた。

 この事態に怒ったハルは中国の胡適大使を呼び
「 交渉担当者である私を通さずに閣僚に電報を送りつけるとは何事か 」
と問いただすと胡適氏は、
「 いまアメリカが日本に石油を1滴でも売れば、
それは中国人兵士の血を1ガロン流すのと同じ事なのですよ 」
と猛然と反発した。

このようなやり取りの中、期限引き伸ばしの報告を
野村大使は東郷外務大臣に報告しているが
なぜか東郷外務大臣は沈黙を守り続けたと言う。

何故、なんの指示も出さなかったのか?

暗号を解読して妥協案の内容を知っていた東郷氏は
交渉は上手く行っていると勘違いして
米国を刺激しない様に静観したと言われる。

大英帝国イギリスの真の狙いとは

同日の夜にルーズベルト大統領の元に
イギリスのウィンストン・チャーチル首相から電報が入った。

「 もし中国が崩壊すれば私達の共通の脅威は
著しく増大するでしょう。
米国が中国の立場を十分に考慮した上で
政策を実施する事をイギリスは期待します。 」

中国を救うべきだと言う信義よりも、
ドイツに攻め込まれて苦しい立場のイギリスは
米国が参戦することに拠って強力な味方に
日本の同盟国であるドイツを攻撃して欲しかった、
という裏の狙いも有ったのだ。

何かの陰謀か?盛られた報告にキレたルーズベルト大統領

11月26日の朝、米国軍部からルーズベルト大統領の元へ
「 数十隻からなる日本の大輸送船団が台湾沖を南へ移動している 」
との情報が舞い込んだ。

これは米国軍部の盛りに盛った?過大報告だったが、
ルーズベルト大統領は大激怒。

「 日本は和平交渉の席でインドシナからの撤退を
唱っておきながら、遠征軍を送ろうとしている。
これは握手を求めるもう片方の手で
短剣を突きつける様なもので、日本は信用できない 」

だがこれは完全なルーズベルト大統領の誤解で
実際に日本側は輸送船を航海させてはいたが、
その数は十隻程度だったと言われている。

まぁ、でもこの輸送船団が1000隻でも1隻でも
アメリカ側の思惑は変わらなかったと思うのだが。

ハル国務長官が提案したハル・ノートとは

 11月26日( 日本時間27日 )日本との交渉責任者、
コーデル・ハル米国務長官が書いた
ハル・ノート 」を日米会談で手渡す。

その衝撃的な内容とは?

米国はハル・ノートと言う外交文書で
強硬案を提示してきたのだった。

日本政は中国及びインドシナから
全ての陸海軍と警察部隊の撤退、
三国同盟の解消を要求してきたが
日本が待ち望んだ石油の供給再開の文字は無し

この内容に難色を示した野村吉三郎駐米大使と
補佐役の来栖三郎駐米大使はハル氏に応酬したが、
まさに「 取り付く島のない 」といった有様で、
このハル・ノートの内容が日米開戦を決定づけた

この妥協案に戦争回避の一縷の望みを託していた
外務大臣、東郷茂徳氏は
目も眩むばかりの失望に打たれた。
ハル・ノートを受け取ってからは働く熱を失った
」と記した。

米側の提示し来たれる対案は( 日本 )帝国の立場を無視せるものなり
という電報を無念の思いを込めて野村大使に送っている。

昭和16年12月8日、日本陸海軍はハワイ真珠湾基地を攻撃、
パールハーバー 」に拠って3年8ヶ月にも渡る
日米開戦に突入したというイキサツなのであった。

USS California sinking-Pearl Harbor.jpg
By U.S. Navy - Official U.S. Navy photograph

それでも戦争回避の道は無かったのか

 「 やむを得ず 」という言葉が有るが、
それでも300万人以上の日本人犠牲者が出た
この参戦を回避できる手立ては無かったのか?

1つ、気になる投稿が有ったので、引用させて頂こう。

( 以下、岡崎久彦著「 日本の正論21世紀日本人への伝言 」より引用 )↓

日本はハルノートを公表し、真珠湾を奇襲せず
堂々と宣戦布告をすればよかった
そうすればアメリカの国内世論を味方にすることができ
いかにルーズベルトと言えども、もたなかっただろう。
アメリカを動かす大きな力は世論である。
アメリカの世論こそ独裁者である。”

( 引用ココまで )↑

 これは、今みたくYouTubeやTwitterが無い当時でも
( Googleはアメリカだが )ラジオと言うメディアが有ったのだから、
やれば出来ないことでもないが、きっと方針が違ったのだろうなぁ。

アメリカ側は真珠湾攻撃を事前に知っていた?

 この話しは何年も前に、何かの書籍で読んだ記憶が有るが、
これだけ暗号電報をキッチリ解読していて、真珠湾攻撃の
ニイタカヤマノボレ一二◯八 」の打電も、
その前の暗号通信も分からない訳が無い。

これは暗号を解読した文書も残されているので間違い無い。

 実は“ニイタカヤマノボレ”の打電よりも早い
真珠湾攻撃の前日の12月6日( 日本時間7日 )に
レインブリッジの秘密施設では、
日本の東郷茂徳外務大臣からアメリカの
野村吉三郎駐米大使宛に送られた
1つの暗号”を傍受している。

 その内容は「 日本政府はアメリカ政府の態度を鑑みると
今後、交渉を継続しても妥結に達することは
無いと認めざるを得ない。 」と言う、
日米交渉の打ち切りを通達する「 最後通牒 」であった。

 当然、この内容はアメリカ側に即座に解読され
日本大使館に届く前にホワイトハウスに
伝わっているのだが、この時ルーズベルトは
いよいよ戦争だな 」と、つぶやいたと言う。

 さらにルーズベルト大統領はハル・ノートの原案に、
この様なメモを添えて居た。

「 日本が、これ( ハル・ノート )を受け入れる可能性は
殆ど無いだろう。
すぐにでも起きる災いに皆、備えなければならない 」と。

  更に当時のアメリカの「 ヘンリー・スティムソン陸軍長官 」は
ハル・ノートが手渡される前日の夜に自身の日記で
ルーズベルト大統領との会話を、この様に記している。

「 ルーズベルト大統領は、
日本という国は“無警告攻撃”で悪名高い。
アメリカは来週月曜にも攻撃を受ける可能性がある

と注意を促した。」

問題は大きな危険を避けながら
どの様に日本を誘導していくかだ。
最初の1発を打たせるように

ヘンリー・スティムソン陸軍長官は後に
アメリカの世論を纏めるために日本に先に攻撃させたかった
と証言している。

さらに自身の日記にも「 真珠湾を日本軍が攻撃した
( パール・ハーバー )という一報をルーズベルト大統領から受けた時
『 この危機で優柔不断だったアメリカ国民の世論は
一致団結するだろう 』との思いから、“安堵の気持ち”が訪れた

と書き記したことから、「 真珠湾攻撃陰謀説 」が浮上した。

 ハッキリ申し上げよう。

 当時、ハワイの真珠湾にお住まいだったアメリカ国民の方々は
日本が真珠湾攻撃をして多大な犠牲者が出ることが
米国側は事前に知っていながら、わざと素知らぬフリをして
すっとぼけてアメリカ国民を見殺しにしたのではないか?
と言われている。

それは何のために?

日本側に真珠湾の先制攻撃をさせて、
多大なる自国民の犠牲者と引き換えに、ルーズベルト大統領は
アメリカ合衆国にとって恥辱の日 」などと
アメリカ国民の同情と反日感情を煽り世論を味方に付ける為の
プロパガンダ( 政治的な宣伝 )に利用したのではないか?
と思っている。

 だいたい今でもパールハーバーという言葉自体が
アメリカ国民に対しては禁句でタブー視されている
反日感情の史実なので、あまりこれ以上は申し述べないが、
電信係が寝ていて大統領側に解読した情報が届かないとか....?

 レインブリッジの暗号解読専用の秘密施設には
20人近い専任スタッフが写真に写って居るのに、
それはチョット考えられないんだよなぁ。(-_-;)

 と言う、私めなりの考察でした。

繰り返しになるが、戦争には反対でも
自国の防衛は絶対に必要不可欠であると考える。

世の中、神様仏様だけなら
自国の防衛など必要ないのだろうが。

 しかしながら基本的には、せっかく人間として
生まれて来たのに強制的に徴兵された挙句に
戦死したのでは、いかに「 お国のために 」とは言え
何のために生まれて来たのか分からないではないか。

 ではでは。(^^)

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28日の今日は公官庁が仕事納め

2016年12月28日 22時44分55秒 | トラック運転手

 

御用納めとも言う28日

 今日は世間様は仕事納めだが、基本的には
公官庁の仕事納めが本日の28日である。

これが土日と被る場合は、繰り上げで
27日や26日が仕事納めとなる。

無論これは公官庁の場合、地方自治法に拠り
休日が条例で定められており、これに則って
仕事納めの日取りが決まっているが、
一般的な会社の場合は、まちまちだろう。

そして仕事始めが公官庁の場合、これも
法律で定められている休日に倣い
12月29日から1月3日までなので
基本的に1月4日からが御用始めとなる。

この場合も4日が土日と被る場合は、
5日や6日が仕事始めとなる。

会社の社長さんって正月しか休まないのか

 何しろ、会社を経営されている事業者の方ほど
熾烈を極める職業は無いと思う。

よく聞く話しが会社の社長さんは休日が元旦の1日だけ
後の364日はフル稼働とか言う事なのだが、本人に取って
それが生きがいであれば、苦にはならないのかもしれない、

だが、「 資金繰り 」に追われる身になると、さぞかし
地獄なのだろうなと他人事ながらに心配になってしまう。

 今ではインターネットが発達したおかげで、
これを核にしたビジネスモデルを事業として
興していらっしゃる方などは、
悠々自適の生活を謳歌されているようなのだが。

しかし昔ながらのリアルビジネスを2次受け3次受けで
業務請負されている事業者などは、
見ていて本当に苦労の連続なのだと思えてくる。

リスク分散は経営者としては必須項目

そもそもビジネスモデルの構造自体が、非常に
寄らば大樹の陰 」的なシステムになっているために、
この「 大樹 」が無理強いをしてきたり若干、理不尽な
単価の値下げなどの要求をしてきても、
これを呑むしか無いという辛い現実がある。

 このことは以前にも当ブログで綴ったのだが、
やはり業務請負業を営まれる経営者の方は
リスク分散 」を実行して取引先の企業を
複数社に増やすべきで有ると主張した。

会社経営をしたことも無いくせに何を偉そうに
などと言われそうだが、しかし仕事を貰う立場の弱い
下請け企業の場合、殆どの実権が取引先の会社に
委ねられてしまうのは経営の素人である私めの
目から見ても、火を見るよりも明らかな実像である。

 今は何が起こるか分からない世の中であるから、
仮に元請け企業、若しくは親会社に何かあって
倒産でもされたら、そこ1社に頼って依存仕切っている
下請け企業
( さすがにココまで極端な例は無いかと存ずるが )は、
たちまち連鎖倒産を免れないハメになろう。

 この事はネットビジネスでも当てはまる。

最初に稼ぐまでは、1つのビジネスモデルに集中して
取り組む事は欠くべからず大事だが、
収益化に成功したなら、「 収益の柱 」を
何本かに増やさないと、1つがコケたら
生活そのものが破綻するのは必至である。

 特に当「 瓦版ブログ 」の様な無料の
プラットフォームだけに依存した収益構造は
大変に危険である。

であるから、例えばアフィリエイト事業に特化
するので有れば、メルマガ( DRM )、ツイッターアフィリ、
トレンドアフィリ、サイトアフィリ、と言った具合に
幾つもの収益の柱を構築しておく事が、
今後の安定した生活基盤を支える事になろう。^^

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飢餓者続出、弾薬なし伝染病の蔓延の中でも「 断じて行えば鬼神も避く 」か

2016年12月27日 23時32分06秒 | 戦争

 

戦争ほど無残な事は無い

 「 断じて行えば鬼神も之を避く 」は当時の
カリスマジャーナリストの「 徳富蘇峰 」氏が
東条英機 」氏に送った書である。

 私めは戦争を知らない時代に生まれた

非常に運の良い人間である。

戦争に纏わる記事はロシア戦争の203高地攻略
と題して先日にも上げたが、ハッキリ言って
今の平和な日本とは比べようが無いくらいに、
人が人として扱われる事はない。

 「 段階ジュニア( 或いはイチゴ世代 ) 」と言う
戦争を知らない世代では有りながら、
戦争の持つ悲惨さだけは骨身に染みて実感できる。

私めは体験したことがない「 サバゲー 」や
戦争を題材にしたTVゲームなどとは、
まるで訳が違う悲惨さなのは、銃弾に当たれば
当然痛みを感じる生身の人間だからであろう。

 あなたが戦争を体験された世代の方か
どうかは存じ上げないが、ある日
突然「 戦争へ来い 」と言う1枚の召集令状( 赤紙 )が
届き、強制的に戦場へ駆り出されたらどうだろうか?

その瞬間から、あなたは人間扱いされず
一兵隊として上官から鉄拳制裁の洗礼を
浴びせられた上に、敵陣への特攻を命じられたら
発狂する人間が居ても不思議ではない。

ただ、1つ思うのは
自国の防衛と抑止力の為の自衛隊は必要だが
戦争は、すべきでない
という一見矛盾した思いを抱きつつも、
前人木を植えて後人涼を得
もまた真実なのだなと、しみじみ感じた。

無謀でズサンだったインパール作戦は失敗

 これは太平洋戦争( 第二次世界大戦 )の話しで
戦場は遠くインドにも及んだ。

インパールはビルマ、インド国境の小さな町だが
3個師団の日本軍が、ここの標高2千メートルあまりの
アラカン山脈を越えて3方向からインパールを
包囲せしめんとする完全に無茶な作戦で、
第15軍司令官「 牟田口廉也 」中将は
これを強く主張した。

 しかし幕僚や貴下の師団長は山岳地帯での補給は
難しいと見て反対し第31師団長の「 佐藤幸徳 」中将も
無謀だと反対していた。↓

 が、大本営は昭和19年1月7日の
「 大陸指第1776号 」で太平洋での相次ぐ痛手から
抜け出し戦局を打開するために、これを許可した。

これには「 寺内寿一 」南方軍総司令官の思惑が
強く働いたとされる。

更には、この作戦に反対していた小畑参謀長や
稲田総参謀副長がそれぞれ突然、更迭されたことからも
この作戦に異を唱える者は居なくなって行ったのである。

 大本営は昭和19年1月7日の大陸指第1776号で、この
インパール作戦( ウ号作戦 ) 」を許可、決行を指示した。

 作戦期間は3週間で1944年昭和19年3月8日作戦開始。

20日分の食料と弾丸240発のみを兵士は持たされ
イギリス軍の拠点のコヒマまでは到達し戦闘の上
英軍は降伏したが、この時既に第31師団の食料は
尽きようとしていた。

 この後、連合軍側では空輸作戦で増援部隊、
食料や戦車までをも投下した事で
日本軍の進撃は止まった。

 この時点でもアメリカ軍を始めとする連合国側の
圧倒的な軍事力の格差が歴然としている。

さらにイギリス軍は鉄道を破壊し
日本軍の補給路を断った。

これでアラカン山脈で日本軍の兵士達は孤立し、
栄養失調に陥ったがジャングルの野草を食べて
命を繋いだのだった。

しかもコレに加えてチフス、アメーバ赤痢、マラリア、
コレラなどの伝染病が兵士たちを犯し始めた。

 この状況を鑑み、佐藤第31師団長はコヒマから
補給地点までの一時退却を兵士達に指示し、
牟田口司令官に食料の補給を電報で要請した。

しかし補給物資は、おろか1粒の米も届かず
ただ「 インパールを攻略しろ 」との命令が
届くのみであった。

無茶苦茶な言い分の牟田口司令官

 そして、牟田口司令官は佐藤師団長に向かって
この様に言い放ったのだ。

貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは
了解に苦しむ所なり。
なお10日間、現体制を確保されたし。
しからば軍はインパールを攻略し、
軍主力を以って貴兵団に増援し
今日までの貴師団の戦功に報いる所存なり

断じて行えば鬼神も避く

(-_-;)「 は? 」何をか言わんや、とは正に
この事であろう。

「 断じて行えば鬼神もこれを避く 」って.....
無茶を言うにも程がある上に
軍命令が現状と余りにも「 隔絶 」している。

食料補給なし弾丸の補給も無し伝染病が蔓延している状態だっ!
つってんのに、「 精神一統何事か成らざらん 」的な事を
よくもまぁ言えたもんだな、とつくづく思う。 

この言い分に対して佐藤師団長は、こう返答している。

この重要方面に軍参謀をも派遣し非ざるを以って補給皆無。
傷病者続出の実情を把握しおらざる者の如し。
状況に於いては師団長独断で処置する場合あるを承知されたし
。」

いや、「 当然至極 」の返答で有ろう。

別に故人を批判する意図はないが、大体この
インパール作戦自体がハナから無理な話しだったのだ。

 5月の雨期、佐藤師団長は命令に逆らう形で
コヒマからの無断退却を決めた。


これが初めての上官からの命令を無視したという形で
佐藤師団長は、その職を解かれたが、7月始め大本営は
インパール作戦の中止を決定した。

しかし退却後も食料不足のため、餓死者が続出し
その沿道には日本兵の死体が無数に転がっていた。

これを追撃したイギリス軍は、この惨状を目の当たりにし
日本兵の白骨街道 」と呼んだ。

ちなみに牟田口司令官もインパール作戦の失敗を受けて、
8月には第15軍司令官を首になり、参謀本部付けとなっている。

今の平和な日本は当たり前では無いのだ

 この牟田口中将が戦後も死んでいった兵士達に対する
懺悔はおろか、「 あの作戦は私のせいで失敗したのではなく、
無能な部下たちが原因 」だと語っていたと言う事だが、
何分、故人なのでコレ以上は言及しない。

 しかし、このインパール作戦で尊い命を落とされた
兵士の数は餓死者や病死者も含めると実に
12万3000人~13万7000人にも及ぶとされる。

いまの日本が平和を享受していられるのも、
数々の好条件が幾重にも重なっているからだと、
以前の記事で申し上げているが
やはり諸外国に比べれば幸運であろう。

 そう言えば、戦争を体験された方が
どうすれば今後、戦争を防ぐことが出来るか
と言う事を仰っていた。

それは
日本国民の1人1人が世界の各国で今どの様な事が
起きているか、そしてその国の人達がどの様に感じ思い、
何を考えているかを知ることが大切だ

と言う様なニュアンスの事を言っておられた。
( YouTubeで拝見させて頂いた。)

 少し固い話しになってしまったが、
「 人間同士が殺し合う戦争は無残 」である。

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