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2014年6月8日、日曜日YouTubeにgooボタンが付いていたので登録♪継続は力なり!を最優先。内容は投げやりかも。

薩長同盟の六ヶ条を分かり易く解説する

2016年12月12日 23時32分51秒 | 歴史上の人物

 

学の無い私めは「 候文 」が意味不明で候

 さて、ここ連日の作業で取り組んでいる、
薩長同盟提案書 」であるが、今日は病院に行って
リハビリの日だったので、まだまだ完成は
しておらんぜよ~。(^O^;)

 もう少し、お待ち下されい。

 で、「 薩長同盟提案書 」を、色々とググりながら
学んでいく上で当然の成り行きとして、「 薩長同盟 」が
締結されたあとの慶応2年1月23日付に木戸孝允( 桂小五郎 )氏が
薩長同盟盟約六ヶ条覚書 」とした書簡を、したためた事が分かった。

 その書簡を受け取って読んだ坂本龍馬氏が慶応2年2月5日付で
裏面に朱筆で確認のサインをしたのち、木戸氏に返信している。

しかし「 」のない私めは、この古文体の様な
候文 」( そうろうぶん )で、したためられている
六ヶ条の条文を読んでも、訳ワカメに候。

無論、TOP画像の様な候文も、なんとな~く
戦う時には二千人の藩兵を出してね♪ 」
っつー感じの大筋の意味は読み取れるのだが、
細かい部分まではサッパリである。

で、今日はこの問題を解決すべく、ググって
知ることが出来た情報を、全てあなたにシェアさせて頂こう。^^

 ちなみにWikipediaから拝借した原文は、全てコピペすると
Googleから「 重複コンテンツ 」扱いにされるのが怖いので、
( コレばっか )全て画像データでの掲載とした。

薩長同盟六ヶ条と龍馬氏の裏書きまで解説

 さて早速、盟約六ヶ条の最初から見ていくことにしよう。

1つ1つ、詳細に説明させて頂くが、実はこれの書簡自体は
薩長同盟が締結された時に書かれたものでは無い。

 薩長同盟が締結された2日( もしくは1日 )後になって、
チョット心配症な長州藩の木戸孝允( 桂小五郎 )が、
この書簡をしたためて、坂本龍馬氏に確認の意味で裏面に
朱筆でのサインを貰っている。

 大まかな内容としては
あらゆるケースで同盟を結んだ薩摩藩は長州藩と協力して
江戸幕府と戦おうね!きっとだからね
? 」
的なニュアンスだ。

この書簡を確認した龍馬氏が裏面に
同盟を結んだ薩長同志の約束は、神に誓って
この内容と九牛の一毛ていどの間違いも無いよ
。 」
とした意のサインをしている。

 それでは、TOP画像の薩長同盟六ヶ条の
最初の解説から参る。↓

 ちなみに六ヶ条自体は、全て条文の冒頭には一、と言う漢数字が
書かれているが、ここでは分かり易く解説するために、敢えて
一~六までの漢数字を振った。

では、次の条文である。↓

 解説:「 戦で長州の勝利がみえた時には、長州の
政治的復権のために薩摩藩は朝廷に申し出る様に尽力すること。」

 次、どんどん行きましょうドンドンと。↓

 

 解説:「 万が一、長州の敗色が濃くなった場合でも
一年や半年で壊滅するようなことはないので
その間、薩摩藩は必ず尽力し協力すること。」

 それでは、その次。↓

 解説:「 幕府軍が東へ帰った時は薩摩藩は朝廷に申し上げて、
すぐに長州藩の無実の罪が解かれる様に尽力する事。」

いよいよラスト2になってきた。↓

 解説:「 薩摩が第一条により京に近い国々に出兵して
圧力を加えた上でも、京の政権を制圧している一会桑政権が
現在の様に朝廷を牛耳った上で薩摩側の要求を拒み、
その道をさえぎる時は最終的に彼らとの
軍事的対決に至る覚悟以外は無い事を長州に対し表明する。」

 で、この条文がラストになりまーっすぅ。↓

 解説:「 無実の罪が解かれた上は、薩長両藩は
誠意をもって協力し合い、今日より双方は皇国のため
天皇の威光が輝き、回復することを目標に
誠心誠意を尽くして尽力すること。」

 ってな感じで、以上が「 薩長同盟盟約六ヶ条 」の
画像引用と、詳細の解説になり候。

まぁ毎回毎回、言い訳する訳でも無いのだが
不肖この私めは「 歴史学者 」では無いので、
細かい部分では相違点が有ろうかと存ずるが、
大まかな解釈は出来ている筈なので、
仮に間違いが有っても目くじら立てずに候。

 それでは最後に龍馬氏に拠る裏書きのサインを。↓

 解説:「 書簡に記入された薩長同盟6カ条は、
小松帯刀( こまつたてわき、清廉“きよかど”とも )、
西郷隆盛の両氏および木戸貫治(孝允)、龍馬も同席して
話し合った内容なので九牛の一毛ほども、これと相違ない。
将来に渡って決して変わる事が無いのは、
天地神明に誓う所である。」

と言う解釈になる。^^

 しつこいようだが、薩摩藩士であった小松帯刀( 清廉 )氏は
私めの祖先では無いwww

薩長同盟の密約を締結した時には京都に有る
清廉氏の屋敷内で、密談を交わしたというが
Wikipediaからの画像をリンクしてみると、
こんな感じの方である。↓

 

http://bit.ly/2gFeg0J

 本当は共有リンクをHTMLソースコードで
貼り付けたかったのだが、それが無かったので、
興味が有る方はクリックかタップをしてみて。^^

維新の十傑 」の内の1人でもある小松氏は、
龍馬氏に勝るとも劣らぬ度量の持ち主だったそうで、
同じ薩摩藩士の西郷隆盛氏が試そうとして、
わざと部屋で横になり、彼よりも身分が高い小松氏を待っていた所、
現れた小松氏は腹を立てる事もなく、
家臣に枕を持ってこさせたという。

 この1件以来、西郷氏は小松氏に対して己の非礼を詫びた上で
以後、忠誠を誓うようになったという。

幼い頃から親の愛情に恵まれずに育った小松氏だったが、
寛容な人柄で人望も厚かったため、若くして薩摩藩の
重職に抜擢された。( 同じ小松でもココまで違うかwww )

 ちなみに「 維新の十傑 」には、てっきり「 坂本龍馬 」氏も
入っているものだと思って居たのだが、まさかまさかの
圏外 」!(;・∀・)

あそこまで日本の未来の為に死力を尽くして奔走した挙句、
最期には暗殺と言ふ悲運の死を遂げた「 明治維新 」の
スーパー立役者 」とも言ふべき龍馬氏がカヤの外とは......
チョットいたたまれないよなぁ.....(-_-;)

でもなんか龍馬氏自身は、こういう名誉だとかには無関心な
思考の持ち主な感じが見受けられるので、仮にいま
生きていたとしても「 そげなもんは、いらんぜよ~♪ 」とか
言いそうな気も、するんだがwww

「 薩長同盟提案書 」もうしばらく、待つこと候。^^

幕末の志士 龍馬とその時代 第8巻 “明治維新の原動力” 薩長同盟締結 (【図説】日本の歴史)
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命と引換えの滅私奉公を行った坂本龍馬と由井正雪

2016年12月11日 21時45分12秒 | 歴史上の人物

 

誰もが認める人並み外れた度量の大きさ

 「 薩長同盟提案書 」は、もう「 ちっくと 」で完成なので、
あいや待たれい。(^O^;)

TOP画像も、私めが作成したプレゼンテーション用の
画像からの拝借で有るが、この薩長会談を乗り越えて
大政奉還を実現させた坂本龍馬氏は、その後
無念にも何者かによって暗殺されてしまう。

 これに関しては、先日の記事でも詳しく綴ったので
ココでは割愛させて戴く。

しかし、その大政奉還を発案していたのは、
龍馬氏の師匠( メンター )の勝海舟氏だったと言われている。

また、薩長会談自体は仲介する立会人の龍馬氏が
出て来る前にも物別れに終わっては、いるが
木戸孝允( 桂小五郎 )氏と西郷隆盛氏との間で
会談は行われていた。

それにしても皆々が口を揃えて龍馬氏を評価するのは
己の自分の事よりも“日本の未来を第一義に考えて”行動した
点に尽きる。

 龍馬氏は色々と人によって評価が分かれるが、
人間的なスケールの大きさ 」だけは
百人が百人とも褒め称えている所である。

普通に考えれば、人は誰もが基本的に
自分 」が一番カワイイものである。

口だけ番長 」なんて蔑視語があるが、
私めも含め普通の凡人などは普段から
どんなに立派な事を言っても、イザ!という時には
自分自身を第一に考えるものである。

モチロン、我が子の事にでもなれば親の無上とも言える愛で
動く人は、大勢いらっしゃるだろうが、
日本の未来を構想として練り上げて実現させ、
暗殺されても国の行く末を第一義に考える人が、
果たして、どれだけ居るのだろうか。
( 龍馬氏本人は、まさか自分が暗殺されようなどとは
夢々思っていない素振りを見せている様だが )

 政治家の先生方だって無論その職務上、
国や地方自治の事を考えては居るだろうけれども、
それにはまず「 自分自身が選挙に当選する事 」が大前提の筈で、
自分は選挙に落ちてただの人になろうが野垂れ死になろうが、
日本の未来が明るくなれば、それでいい
。」
なんて心から考えている人なんて先ず居ないのでは無いか。

坂本龍馬のファンかと問われれば、そうでもないかな

 歴史上の偉人で好きな人に「 坂本龍馬 」氏を挙げる人は
かなり多い気がする。

龍馬氏と聞いて、すぐに連想するのが芸能人の
「 3年B組!金八先生 」で、お馴染みの「 武田鉄矢 」氏で
彼は自身のフォークグループ名も「 海援隊 」と名付けるほどに
大の龍馬ファンで知られる。( Wikipediaで確認したので間違いない )

 ここまで色々とググるのみで得た情報だけを元に
当「 瓦版ブログ 」でも記事を投稿させて頂いたが、
確かに非凡な人間で有ったのは事実である。

無論、明治維新を実現させたのは彼1人だけの
力に拠るものでは無いが、ここまでの英雄はそうはいないし
正直、私め自身も感服する偉人である。

ただ個人的に「 好きか 」と言われれば、
特にそんなことも無い、と言うのが正直な感想である。

子供の頃“歴史マンガ”を読んでグッ!と来たのは

 特に意識して大ファンと言う程でもないが個人的には
由比正雪 」( ゆいしょうせつ )氏が印象深い。

己の保身よりも、社会問題化していた禄を失った
浪人たちの身を案じ、最後は「 慶安の変( 由比正雪の乱 ) 」
で自身のクーデターが密告されて、自害した哀れな最期は
複数の刺客によって暗殺された龍馬氏と似ている様な気もするが、
その時、歴史マンガを読んでいた私めは子供心に思わず
「 ウルるるッ! 」と感動してしまった記憶が有る。( TДT)

 由比正雪氏も龍馬氏と同じく、当時の幕政に拠る
厳しい武断政治によって虐げられていた数多くの浪人たちを
救済すべく、徳川幕府の転覆を狙って決起したが
奥村八左衛門の密告により、クーデターが幕府側にバレて
最終的には奉行所の「 追っ手 」によって囲まれ、
御用寸前となり志半ばにして自決した。

慶安4年( 1651年 )7月26日、早朝の事である。

 しかし、この事件が契機となって徳川幕府は、
それまでの武断政治から文治政治へと政策を転換し、
かつ浪人の対策にも本腰を入れる様に
なって行ったのである。

本来は優秀な軍学者でもあった正雪氏は
大名家や徳川将軍家からも士官の誘いが来ていたが、
彼はそうしたオファーを全て断って軍学塾を開き、
多数の塾生を集めていた。

 また、そうした士官を断って行き詰った浪人たちの
救済に奔走した正雪氏は多くの共感を呼び、
徳川政権を批判する人達が多く集まったという。

 この辺りの「 滅私奉公 」たるマインドセットは
坂本龍馬氏と共通していようが、私めも含め
なかなか凡人には真似の出来ない偉業であろう。

 それでは、また「 薩長同盟提案書 」の作成に取り掛かろうかと。^^

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新政府綱領八策の〇〇〇は徳川慶喜公

2016年12月10日 16時02分31秒 | 歴史上の人物

 

坂本龍馬の暗号〇〇〇の中に入る文字は

 「 薩長同盟提案書 」を作成していく中で、それよりも後に
坂本龍馬氏自身が書いたと言われる「 新政府綱領八策 」の
中の一文が「 秘密の暗号、龍馬コード 」だとか言われる中で、
コレは謎解きでも何でも無い事が分かった。
( そげな事よりも早く「 薩長同盟提案書 」を仕上げるぜよ )
(^O^;)

それでは、結論から参ろう。

この「 〇〇〇自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ 」の◯の部分には
「 ( 徳川 )慶喜公 」の名前が、大政奉還成立後の翌日に
戸田雅楽( とだうた、維新後「 尾崎三良 」おざきさぶろう )氏
と共に作成した「 新官制擬定書 」の職制案として、新政府の
人事案にシッカリと明記されていたのである!

 それでは何故に、わざわざ「 〇〇〇 」などと
クイズ番組の問題に出て来る様な、まどろっこしい
書き方を龍馬氏は敢えて、したのか?

 理由は、ただ1つ。

最初から「 内大臣( 盟主、副関白、今で言う内閣総理大臣 )には
徳川慶喜公 」と明記してしまうと当然、龍馬自身が薩長同盟を結んだ
倒幕派の薩摩藩と長州藩が黙っては、いないからだ。

龍馬氏自身は、「 神妙に“大政奉還”を受け入れた 」慶喜公を評価しての
選定だと言われているが、薩長同盟を結んだ薩摩、長州両藩だけでなく、
周りからも「 盟主、徳川慶喜公 」となると
「 は~?大政奉還までさせておきながらTOPが一緒じゃあ、
これって今までと一緒じゃーん! 」
などとブチギレされるのは目に見えている。

 そこで混乱が起きないように時勢に配慮して、
この様な表現を使ったのであろう。

西郷隆盛氏に人事構想を進言した時には

 龍馬氏は、この明治新政府の人事案を
薩長両藩にも具申しているのだが、
この時点では自分の名前は入れていない。

TOP画像に載せた「 新政府綱領八策( 船中八策が素 ) 」を
見せつつ、明治新政府の人事案を具申した所
西郷氏は龍馬氏の名前が入っていない事に驚いたという。

そこで、何故入っていないのかと尋ねると、
「 ワシは入らんぜよ 」と言ったとか。( 理由を聞いてんだけど )

これは妻の「 お龍 」氏にも
「 役人には、なりたくない 」と言う旨を語っているとの事。

 しかし、「 参議 」の項目に龍馬氏の名前が有るものと
無いものと数種類あり、戸田雅楽( 尾崎三良 )氏は幾つかの
人事案を持っていたとされる。

ちなみに西郷氏に、「 ワシは世界の海援隊でもやりますかいのう 」
などと語った逸話は有名だが、これは後世の創作の可能性も有る。

明治新政府の新制官擬定書、職制案人事の一覧

 以下の通りである。↓

関白 ( 天皇を補佐する役目 )「 三条実美 」氏

内大臣 ( 今で言う首相、最高責任者 )「 徳川慶喜 」氏

議奏 ( 有力大名や藩士から選出 ) 有栖川宮嘉彰親王( 宮家 )
有栖川宮爛仁親王( 宮家 )山附宮晃親王( 宮家 )島津忠義( 薩摩 )
毛利広封( 長州 )松平春嶽( 越前 )山内容堂( 土佐 )鍋島閑叟( 肥前 )
徳川慶勝( 尾張 )伊達宗城( 宇和島 )

参議 ( 政治手腕が有れば登用 ) 坂本龍馬氏( 土佐、脱藩は赦免済み )
西郷隆盛( 吉之助 )氏( 薩摩 )桂小五郎氏( 後の木戸孝允、長州 )
後藤象二郎氏( 土佐 )岩倉具視( 公卿 )東久世通禧( 公卿 )
大原重徳( 公卿 )小松帯刀( 薩摩 )大久保一蔵( 薩摩 )
広沢平助( 長州 )横井小楠( 肥後 )福岡藤次( 土佐 )

 と、言う顔ぶれなのだが、サイトによって大分バラツキが有るので
細かい点は気にせずに( 笑 )

 まぁ結局、坂本龍馬氏は、このあと暗殺されてしまい
ケイキ様こと慶喜公は首相に、なることは無かったが
明治に入ってからは不自由のない隠居手当を元に趣味に没頭し、
明治35年( 1902年 )には貴族院議員に就任している。

 ちなみに徳川幕府最後の将軍となった慶喜公は、
ここ茨城県の水戸藩出身なのは今日ウィキペディアにて
初めて知ったのだ、が。(^_^;)

夕飯食ったら、これからまた「 薩長同盟提案書 」の作成に
取り掛かろうかと。

今日は以上で。^^

幕末・維新人物伝 徳川慶喜 (コミック版 日本の歴史)
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坂本龍馬は暗殺される年の2月に2度目の脱藩を赦免されていた

2016年12月09日 23時19分43秒 | 歴史上の人物

 

何度も引っ掛かっていた謎が解けた

 冒頭は「 薩長同盟提案書 」の報告から。

TOP画像に「 プレゼンテーション 」用ソフトにて
鋭意製作中の様子を貼ったので、今しばし待たれよ。

なにせ、Presentationソフトは今まで使ったことがなく
いま四苦八苦しながら作っている最中なので、
なかなかお披露目できないのが、もどかしい。

 ところで先日の記事でYouTube広告に出ていた
マイクロソフトOfficeパワーポイントのプロの方を含め
4人が作った「 薩長同盟提案書 」の音声が聴けないと
申し上げたが、原因が判明した。

要は扱っているファイル自体がパワーポイント2007年以降の
バージョンから採用している「 pptx拡張子 」とか言うモノを
採用しているので、あなたのパソコンにコレに準拠したパワポ
をインストールされていないと、ファイルが開けない
という結論なのである。

 私めはMicrosoft Officeと互換性の高い
KINGSOFT Office2016 Complete Edition 」を
既にインストール済みなので、「 スライドショー 」と言う項目で
無事に聴けたし、また動画のような映像も拝見させて戴く事が
でき申した♪^^

 この辺の説明も、シッカリとして頂きたいなと
企画をパクりながらも、エラソーな事を打っているが
マイクロソフトのプロ達が制作されたパワポの
ダウンロードURLはコチラ!↓

http://bit.ly/2fZqGgj

 前置きが長くなってしまったぜよ。(^O^;)

それでは本題に入るが、最近ずっと謎に思っている事が有った。

それは、いかに坂本龍馬氏が人並み外れた度量の大きな
持ち主で有能な人材だったからと言っても何故、2度の脱藩を行った
重罪にも値する一浪人 」の「 船中八策 」などの提案を
土佐藩の上層部が聞き入れて時の幕府のTOPまで建白したのかが
不思議でならなかった。

 

慶応3年2月に2度目の脱藩罪は赦免されていた

 ついでに言えば、その「 船中八策 」も、その名の通り
土佐藩の藩船「 夕顔丸 」の中で、したためているのであるが
これも、また謎だった。

が色々とググって調べていく内に、同年の1月13日に土佐藩の家老
後藤象二郎氏との会談の中で、その後の2月に盟友の
中岡慎太郎氏と共に脱藩罪の赦免が為されている。

これで、謎は1つ解けたので有るが、何故か大政奉還が成立してから
龍馬氏が暗殺されるまでの間、土佐藩邸の屋敷に入れないとする
書簡を知人に、したためているのだ、が?

と、言う事は「 土佐藩 」も龍馬氏の暗殺に何らかの形で
関与していた.....か?(;・∀・)

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坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか

2016年12月06日 23時45分27秒 | 歴史上の人物

 

黒幕は英商人のトーマス・グラバー氏か

 「 薩長同盟提案書 」は、もうしばし待たれよ。(^O^;)

今回のパクリ企画、「 薩長同盟提案書 」をオフィスソフトで
作成する上でググって調べていくと、ここの部分とは関係ないが
今だに謎とされる「 坂本龍馬暗殺事件 」の刺客が誰なのか
分かって居ないという「 」が浮かび上がってきた。

 坂本龍馬 氏( 享年33 )が、暗殺されてしまった
近江屋( おうみや )事件 」は、その名の通り幕末の
慶応3年11月15日( 1867年12月10日で奇しくも
龍馬氏の誕生日 )の夜9時頃に京都河原町の醤油商、
近江屋の2階で火鉢を囲んでいた同じ土佐藩士である
中岡慎太郎氏( 享年30 )と共に何者かに拠って殺された。

 龍馬氏は、刺客の急襲によって額、背中、再び額と
3個所を斬られて、ほぼ即死状態だったという。

暗殺の実行犯は4人の刺客が襲ったか

 色々ググって調べていく中で、この情報が一番
「 確度 」が高そうだと感じたのでシェア。↓

 

( 以下、国立国会図書館「 月報596号 」から引用 )↓

“ 現在となっては実行グループの特定は困難だが、
近江屋の2階に上がった直接の実行犯が、
佐々木只三郎( ささきたださぶろう )
今井信郎( いまいのぶお )
渡辺篤( わたなべあつし )
世良敏郎( せらとしろう、世良家の相続前は「 小林甚七重幸
の4人で有ったとする事に問題は無い。”

( 引用ココまで )↑

引用元URLリンク ⇒ http://bit.ly/2hk3WKq

 ブラウザでも閲覧O.KのPDF( ダウンロードも可 )P26~P36まで。

 後に、他の実行犯仲間が捕らわれる事を危惧してなのか
自身の売名の為なのか定かではないにせよ今井氏が2度に渡って、
嘘の供述 」を繰り返した事とは異なり、渡辺氏には
もともと公表するつもりの無かった「 渡辺家履歴書 」に
真犯人以外には知る由の無い真実の暴露 」を書いているのだ。

 瀕死の重傷を負った中岡慎太郎氏は、2日後に
息を引き取ったが事件当時、襲われた時に「 こなくそ! 」
( もしくは「 こげなくそ! 」 )と言う刺客の声を聞いている。

ちなみに「 こなくそ! 」は愛媛の方言で「 コンチクショウ! 」で
「 こげなくそ! 」は薩摩弁で「 このやろう! 」を意味する。

1階にいて刺客とは知らずに客の取次をした用心棒で
元十両力士の「 山田藤吉 」( 雲井龍 )氏( 享年19 )も斬られ
1日後に死亡している。

 この暗殺が実行される前に龍馬氏から
「 軍鶏( シャモ )を買うて来てくれぬか 」
と、お使いを頼まれて外出していた
土佐藩御用達の書店「 菊屋 」( 中京区 )の長男、
鹿野峰吉 」氏( かのみねきち、16 )は無事だった。

ちなみにこの龍馬氏や慎太郎氏に「 峯やん♪ 」と呼ばれ
可愛がられていた用使いの峰吉氏は
明治10年(1877年)の西南戦争で
熊本鎮台司令長官( 元土佐藩士 )谷干城( たにちかげ )氏
の采配で会計方軍夫として従軍している。

 ちなみに峰吉氏の、お墓は今も京都市
左京区田中門前町の「 了蓮寺 」( 知恩寺境内 )
に有る。( 1918年没 )

京都見廻組の今井信郎氏の供述は的外れ?

 事件後の1870年( 明治3年 )に、ある事件で捉えられた
見回り組の今井信郎氏が供述し、さらにその後の
明治42年( 1909年2月3日 )の大阪時事新報でも
「 拙者が坂本を斬った 」と告白しているが、これは直後に
当時現場に駆けつけた土佐藩士の中の1人、谷干城氏に拠って
現場の状況や受傷の状態が供述と違いすぎる 」として、
矛盾点を挙げた上で、こちらも言下に否定された。

ただし今井氏は実行犯の中の1人では有るようだ。

今井氏の供述では近江屋の2階に上がった4人の実行犯の他に
1階では見張り役の「 桜井大三郎 」氏と「 土肥仲蔵 」氏の
2人が担当したと言うが、これも定かではない。

 ちなみに、1回目の供述後は薩長同盟の盟友でも有った
西郷隆盛氏の計らいに拠って釈放された、と言うのだ。

それでは、今井信郎氏は己の功名心や自己顕示欲の為と、
仲間をかばう為だけにデタラメを言い続けたのであろうか?

ここで、ぜひともあなたに共有させて頂きたい投稿記事を、
ご紹介させて頂く。( 同じgooブログであるが故に、
今回はトラックバックも併用する。 )↓

( 以下、gooブログから引用 )↓

“今井信郎は生涯、外部の人に対しては本当の事を話していない
( 中略 )生涯一度真実に近いことを身内に語っている
( 中略 )この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは
大目付・永井尚志 」玄蕃頭で有る事を明確に述べている”

( 引用ココまで )↑

 

 あまり長い文章をコピペすると、< blockquote >タグで括っても
「 重複コンテンツ扱い 」になってGoogleから
「 ペナルティ 」を受ける恐れが有るので、本当に重要な部分のみを
引用させて頂いた。

元記事はコチラから ⇒ http://bit.ly/2g680jV

 龍馬氏は江戸幕府のNo.2の若年寄格でもある
「 永井尚志 」玄蕃頭のもとへ11日と14日に訪れている事が
「 龍馬書簡 」と「 丁卯日記 」に綴られている。

 この他にも「 肥後藩国事史料 」には
「 坂本を害し候茂『 ( 摩 )人 』
なるへ( べ )く候事 」と書かれているし、イギリス人通訳の
「 アーネスト・サトウ 」氏は薩摩藩の「 吉井幸輔 」氏から
「 3人の名も無き男から殺された。 」と聞かされている。

 この他にもYouTube にアップされているTV番組
( カトパンが司会 )録画からのアップロード
( ↑のリンクした記事にも書かれていたが )
コンテンツも拝見させて頂いたが、事件現場には
新撰組が出入りしている料亭の下駄と、そこの隊士の
「 原田左之助 」氏の刀の鞘が残されていた証言からも
新撰組が疑われ、事件後に局長の「 近藤勇 」氏が
幕府から取り調べを受けて居るが、いずれも不明である。

 だが、秘密の暴露を行った暗殺実行犯の内の1人、
剣豪渡辺篤氏の回顧録、「 渡辺家履歴書 」には
「 刀のサヤを取り忘れて帰ってしまったのは
世良敏郎( 小林甚七重幸 )といふひと 」と書かれてあるのだ!

 しかし....「 薩長同盟 」を成立させた立役者の
坂本龍馬氏が、後から薩摩藩に刺客を放たれるって、
世知辛い関西地方だなぁ、と思う。

太平の世なのは江戸の街だけだったのか。

薩摩藩が京都見廻組に接触していた

 今度はNHKのTV番組録画からのアップロードコンテンツである。

一般的に坂本龍馬氏を殺害せしめるは幕府御用達の
京都見廻組 」が真犯人だとの説が有力だが、その中でも
与頭( くみがしら )を務める佐々木只三郎氏に目を付けて
接近したのが「 薩摩藩 」であった。

和歌の名手でも有った佐々木氏に接触を試みたのが
薩摩藩士で和歌の達人と言われた「 高崎正風 」氏。

高崎氏は佐々木氏の故郷である会津の詩会に忍び込んで
佐々木氏との接触を図る一方で、見廻組きっての剣の達人
「 渡辺 篤 」氏には武道に秀でた薩摩藩士、
「 海江田 信義 」氏が接近。

渡辺氏が京都に作った道場に海江田氏が来て、
そこで「 三本勝負 」をするなどして近づいている。

 実はこの2人こそが、暗殺実行犯の中で
最も重要な面々だと言われているが、薩摩藩は
この2人との密かな繋がりを、ここで持ったのである。

さらに薩摩藩は龍馬氏が潜伏している場所、時間帯などは
全て把握しており、この情報を
京都見廻組に提供していたのだった。

 そして翌年、慶応4年( 明治元年 )の1月に起きた
「 鳥羽・伏見の戦い 」で京都見回り組は
先に挙げた今井信郎氏と渡辺篤氏以外は
全員戦死しているか行方不明にと言うのが定説に。

 だが、これも事実は違う。

実は実行犯の中でもう1人、鳥羽伏見の戦いを
生き残っている人間がいた。

それが「 小林甚七重幸 」こと「 世良敏郎 」氏である。
( 詳細は↑のリンクから )

その後大正4年( 1915年 )8月5日の大阪朝日新聞には
死の直前の渡辺氏が坂本龍馬暗殺を告白した記事が
掲載されたが、これも今井信郎氏と同様に現場での状況や
暗殺に関わった人数構成の違いなどから、こちらは
元土佐藩士の谷干城氏に否定されている。

 この他にも「 池田屋遭難事件 」で幕府の捕り方2人を射殺した
事への幕府報復説や土佐藩説、薩摩藩説、長州藩説、紀州藩説
など数え上げたらキリがないが真犯人は今だに分かっていない。

 ちなみに、これがもし薩摩藩の陰謀だとするならば、
その理由はただ2つ、
武力を以って倒幕したい薩摩藩の方針にそぐわないから
というのがまず1点、そしてもう1つは
新政府の内大臣( 今で言う総理大臣 )に、
徳川慶喜公を推挙していたから
と推論する他無い。

 この事はまた後日、記事にしたためる予定でいる。

そんな中、個人的には龍馬氏が興した日本初の株式会社と言われる
亀山社中( 海援隊、長崎県長崎市 )」とも密な取引の有った
グラバー商会の商人でイギリス人の
「 トーマス・ブレーク・グラバー( Thomas Blake Glover ) 」氏
( 満73歳没 )が本当の黒幕だと思うのだ、が.....

土佐の「 いごっそう 」龍馬氏を狙ったワケとは

 「 トーマス・グラバー 」氏は日本在住の英商人で
日本で初めて蒸気機関車を試走させ、長崎に西洋式ドックを造るなど
幕末日本の近代化に大きく寄与した
スコットランド出身の武器商人である。

 ここで、私めが今鋭意製作中の「 薩長同盟提案書 」とも
大きく関わって来るところなのだが、龍馬氏は
この2つの大藩を結びつける上で、実は大きな後ろ盾が
有ったのでは無いか?と言われている。

それが前述させて頂いた、イギリス武器商人の
トーマス・グラバー氏の存在である。

事実、薩長同盟締結の前年の8月に亀山社中は
グラバー商会からミニエー銃4300丁とゲベール銃3000丁を
9万2千4百両で買い付け、薩摩藩城代家老「 小松帯刀 」氏
( こまつ たてわき。私めの先祖では無いwww )によって
下関から入港し、長州藩の手に渡ったのである。

また同様の手口で蒸気軍艦「 ユニオン号 」を
3万7千7百両で長州藩が購入している。

 長州藩の武器購入額は169億円、亀山社中も46億円もの
ビッグ・ビジネスと、なったのである。

ちなみに、この取引きでは長州藩から薩摩藩へ
500俵もの米俵( 兵糧米 )が用意され、
お互いの不足を補う形で薩長同盟の「 いしづえ 」を
作ったとされる。

( 兵糧米は結局、薩摩藩は謝辞という形で受け取らず
亀山社中が受け取った格好。 )

 さて、孤立無援の長州藩は何故ここまでの
武器や軍船を購入できるほどの財力が有ったのだろうか。

 時は遡って、長州藩の七代目藩主、
毛利重就 」氏が採った資産運用「 撫育方 」と言うシステムを
宝暦13年( 1763年 )に興し、幕末には何百万両と言われる
他藩を圧倒する隠し財産を持っていたと言う。

 

 それでは、なぜ「 トーマス・グラバー 」氏が、
ビジネス・パートナーである龍馬氏の命を狙ったのか?

ココからは、完全な私め個人の推測であるが、ズバリ!
大政奉還 」に繋げた龍馬氏の「 和平的な行動 」が、
グラバー氏の、お気に召さなかったのでは無かろうか?

 無論、「 大政奉還 」は龍馬氏個人の働きだけで
実現できたものでは無いが、「 船中八策 」などの
龍馬氏の発案を元にして( と言われている )土佐藩の家老、
後藤象二郎 」氏が「 自分の案 」とした上で土佐藩主の
山内容堂 」氏に進言した。

 容堂氏の同意を得た後藤氏が容堂氏らと共に連著した上で
10月3日に二条城に行き、その時の老中、
板倉勝静 」氏に「 大政奉還建白書 」を提出し
江戸幕府15代将軍の、「 徳川慶喜 」氏に進言した。

 慶応3年の10月14日( 1867年11月9日 )慶喜氏は朝廷に
政権を返還し翌日に勅許、無事に「 大政奉還 」と、あいなった。

 土佐藩を再脱藩した「 浪士 」と言う身で有ったが、
慶応3年( 1867年 )2月に盟友、中岡慎太郎氏と共に
龍馬氏は脱藩罪を赦免され、許されている


 龍馬氏は土佐藩士の家老、後藤象二郎氏に対して、
「 大政奉還の建白が拒否された場合、貴殿は切腹の御覚悟でしょうから
その時は、徳川慶喜公を路上で待ち受け仇を討ちましょう! 」
と言う内容の手紙を、したためている。

 しかし、こうなると、「 内戦での武力衝突が無くなってしまう 」
すなわち、「 武器が売れなくなってしまう 」と考えたグラバーは
邪魔な存在の龍馬氏を始末しようと画策したのでは無かろうか?

なにせ、グラバー氏は江戸幕府側にも、火薬700トンなどの武器を
売りさばいていたのだから、売れて儲かれば何でも良いと言う
感じなのだろうか。

 だけどなぁ......今じゃ司馬遼太郎氏の小説「 龍馬がゆく 」で
英雄に、なっている坂本龍馬氏だが、あそこまで東西奔走して
頑張ったのに、その見返りが「 暗殺 」で33歳の若さで殺される
結末って、かなり悲しい感じもするよなぁwwwww (;・∀・)

 今日は以上だーっすぅ。^^

坂本龍馬―明治維新につくした志士 (学習漫画 日本の伝記)
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