風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ピエール=ロラン・エマール ピアノリサイタル @東京オペラシティ(12月6日)

2017-12-08 01:09:37 | クラシック音楽




11月の怒涛のオーケストラ月間のせいで楽器の音が恋しくなってしまい、たまたま前日にお安くチケットを譲っていただけることになったので、行ってきました。
普段クラシック音楽を殆ど聴かない&勉強もしない人間なのでエマールもメシアンも初めて聞く名前だったけれど、現代音楽(←ジャンルじゃなくそのままの意味)はマーラー室内管の武満やバルトーク、フレイレのヴィラ=ロボスやポゴレリッチのラヴェルを聴いてどれもとても楽しめたので、おそらくイケるはず・・・と。
軽く調べてみたら、メシアンという作曲家は鳥についての音楽を沢山書いていて、まるで中勘助みたい

しかしチケットを入手してから本日演奏される曲について改めてwikiってみたところ、そこには、、、

「演奏時間2時間を超える大曲であり

・・・・・2時間て・・・・・。
そんなの交響曲でも聴いたことないんですけど
ここでようやく最近ツイッターを賑わせていた読響の話題を思い出したのでありました。「修行のよう」とも評されていた2幕だけで2時間あるという『アッシジの聖フランチェスコ』の作曲家の名前がそういえば「メシアン」だった・・・。そうはいってもあちらは歌唱もオケもあるオペラ。こちらはピアノ1台で2時間超え・・・。
とりあえず数時間前にカフェでyoutubeからウォークマンに落とし込んだ演奏のさわりだけ聴いてみたところ(全曲聴く時間はもうなかった)、現代音楽だから覚悟はしてたけど、想像以上にメロディがない。予習なしで2時間、私は耐えられるのだろうか。とりあえず「神の主題」と「星と十字架の主題」だけは耳に覚えさせて(これは単純なメロディで助かった・・・)、いざ討ち入り

タケミツホールは、3月のシフのラスト・ソナタシリーズ以来です

【メシアン:幼子イエスにそそぐ20のまなざし(全曲)】
会場に着いて心からほっとしたことの一つ目は、入口でプログラムが配布されたこと。ちゃんと主題についての記載もある。よかった、、、これで自分が何曲目を聴いているか迷子にならないで済む、、、(そんなレベル)。二つ目は、第10曲と第11曲の間に休憩があること。よかった、、、、シフのリサイタルの緊張感アゲインにならなくて、、、、、。


結論から申しますと、前半55分、後半65分はあっという間でした。この倍の時間でも全然聴いていられる。やっぱり現代音楽って色んなイメージや感覚が自分の中で喚起されて、聴いていてとっても楽しい それにこういう標題音楽的なところもある曲って演奏に身を委ねきって聴けるのがいいですよねぇ。好きだなぁ。
一方で、音楽を聴く楽しみとは別のところで、「神」と「信仰」について考え続けることになった2時間でもありました。そういう意味で、単純な楽しみや感動とは違うものももらうことになったリサイタルでした。

前半。
周囲の環境が全く宜しくなくて(音ではなく匂い)、全く集中できなかったのです。実は同じことをこの曲をカフェでウォークマンで聴いていたときにも体験していて、この曲の神聖さが周囲の俗と全く溶け合わないことを興味深く感じたのでした。どんな俗なものも全てを許せてしまえるような精神状態になる舞台や演奏会を何度か経験したことがあるけれど、今回はその逆パターン。
メシアンは第二次大戦中にナチスドイツの捕虜収容所に収容された経験があって、そこで数多くのインスピレーションを得て作曲をしています。ユダヤ人の強制収容所より人間らしい扱いを受けていたであろうとはいえ、それでも私が客席で神経を散らされた原因などとは比べものにならない劣悪な環境を経験しているはずで。でもそんな彼が作った音楽を聴きながら、こういう些末なものに気が散っているこの状況はなんなのだろう、とか。神ってなんなのだろう、とか。そんなことをとりとめもなく考えながら聴いていました。

後半。
気が散っていた原因は、後半はほぼなくなり。集中して聴けた後半は、特に15曲「幼子イエスのくちずけ」以降は本当に素晴らしくて、エマールも渾身の演奏で、トリップ状態に近い感覚を感じることもありました。
しかしそうなればなるほど、どこか「外側」からこの曲の世界を見てしまっている自分がいました。「私の音楽」と感じることができないのです。
「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出す。たたけ、そうすれば開かれる。」
聴きながら、聖書のこの言葉が浮かびました。曲も演奏も、私を拒否してはいませんでした。目の前にあるその門を叩けば、全ての人をこの神は受け入れてくれる。それはわかっていました。でもそれはどうも私の門ではないような、キリスト教の門であるように私には感じられてしまったんです。私の神とは少し違うようなのです。そしてその「少し」が、私にはとても大きな壁に感じられたんです。
でもキリスト教の芸術すべてがそうなわけではなく、「私の音楽」と感じられるものもあるのです。例えば先月聴いたブラームスのドイツレクイエムやこれまで聴いたブルックナーなどがそうでした。この違いはなんなのか。純粋に「キリスト教」度の違いのような気もするし、そうじゃないような気もするし・・・。おそらく私が人生の中で「聖なるめまい」(fromプログラム)を経験したことがないからかもしれません。なぜなら私にとって神は人智を超えた存在ではあっても、神秘的な存在ではなく、いつでも自然に存在しているものだから。例えどん底の精神状態の中で奇跡のように感じられたときでも。
ただ確実に言えることは、例えばこの曲をより身近に、キリスト教徒でない私により近づけた演奏があったとして、それを聴けば「私の音楽」と感じられるだろうかというと、やっぱり違うと思うのです。今夜のエマールの演奏は、この曲にはこれ以上ない演奏だったと思います。温度も熱も神聖さもしっかりありました。

私は世の中のあらゆる神様というのは究極的には同じものだと思っていて、その考えには今も変わりはありません。しかし同じことをその前段階の「宗教」にも言えるのかというと…。素晴らしい曲で素晴らしい演奏であったがゆえに尚更、「宗教」と「信仰」と「芸術」の関係について考えないではいられなくなってしまったのです。シベリアの収容所で祖父が見たかもしれない神と、メシアンの見ていた神は同じものなのだろうか。私がメシアンの音楽を「真に」理解できることはあるのだろうか…。トゥーランガリラの解説などを読んでいるとメシアンって必ずしも宗教性が強いわけでもない作曲家のようなのだけど、、、、まぁこの曲は題名からして「幼子イエス~」ですしね

帰りの電車は、ブロムシュテットのドイツレクイエムを聴きながら帰りました。ほっとしている自分がいました。少なくとも今の私を救ってくれるのは、メシアンよりもブラームスを通した神のようです。でもメシアンの他の曲も聴いてみたいと強く思います。もう少しこの作曲家を知りたい。来年の都響のトゥーランガリラ交響曲、行こうかなあ

ところで、演奏途中(18曲目?)で高音の弦が一本切れたそうですね。演奏後に近くの席の方達がオペラグラスで確認しながら色々話していて、私は全然気づかなかったので、皆さんすごいなぁと思いました。
そもそも弦が切れても音って鳴るの?と帰宅してからyoutubeで弦の切れたピアノ演奏というものを聴いてみたところ、その音自体は一応鳴るのですね。というかこの気の抜けた音、昔うちのピアノでもなったわ!とン十年目にして原因を知った私でありました。親はもちろん知っていたでしょうが。

エマール:インタビュー
※オリヴィエ・メシアン:京都賞授賞式「信仰と音楽の人生」
※加古隆:メシアンについて

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