元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「オッペンハイマー」

2024-04-29 06:08:01 | 映画の感想(あ行)
 (原題:OPPENHEIMER )第96回米アカデミー賞では作品賞をはじめ7部門を獲得した注目作ながら、私はまったく期待していなかった。実際に観ても、やはり大したシャシンではないとの思いを強くする。ではなぜ劇場鑑賞する気になったのかというと、話題作であるのはもちろん、この映画がどうして本国で高く評価されているのか、それを確かめたかったからだ。

 原子爆弾の開発に成功したことで“原爆の父”と呼ばれた、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いているが、このネタでまず思い出したのが、同じく第二次大戦下を描いた宮崎駿監督の「風立ちぬ」(2013年)である。あの映画の主人公の堀越二郎は、零式艦上戦闘機の設計者として有名。ただし、彼は政治家でも思想家でもなく、はたまた一般の市井の人間でもない。ただ、こと航空工学にかけては他の追随を許さない才能を持っていた。



 こういう“特定分野のみに突出した(理系の)人間”を通して歴史を描こうというのは、どだい無理な注文だ。何せ本人の興味の対象は、主に自身の学術的探求とその成果物である。それが世の中にどういう影響を与えるかなんてのは、さほど関知していない。しかるに「風立ちぬ」は凡作に終わっているのだが、この「オッペンハイマー」も同様だ。

 主人公は核兵器の開発に対しては自らの研究の延長線上にあると思っている。それが結果的にどんな災禍を招くかということなど、意識の外にあるのだろう。まあ、後年彼は水爆の開発には反対したということが申し訳程度に挿入されてはいるものの、全編を通して描かれるキャラクターは“物理学のオタク”でしかない。

 ところが映画は後半に思いがけない展開を見せる。戦後、ジョセフ・マッカーシー上院議員が主導した“赤狩り”により、オッペンハイマーの家族および大学時代の恋人までもが共産党員であったことが明らかになり、ロバート自身も共産党系の集会に参加したことが暴露されてしまう。言うまでもなく、この赤狩りはアメリカ映画にとって大きなテーマであり、いわゆる“ハリウッド・テン”をはじめとして、当時の業界関係者が辛酸を嘗めたことは、過去いくつもの映画で取り上げられている。

 この“赤狩り”を科学者を対象に描くという今までに例を見ない着眼点が、本国では大いにアピールした理由かと思われる。もちろん、原爆投下による広島や長崎の悲劇はクローズアップされていないし、終戦時の各国の政治的駆け引きも強調されていない。何が映画の主眼になっているかを考えれば、まあ当然のことだ。

 それにしても、この映画の作劇はホメられたものではない。登場人物が無駄に多く、それぞれの背景が描かれずにスクリーン上を行き来するため、観ていて面倒くさくなってしまう。かと思えば、主人公と愛人ジーン・タトロックとのくだりはえらく冗長だ。何より、盛り上がりを欠いたままの3時間という尺は苦痛だった。クリストファー・ノーラン監督は今回オスカーを手にしたものの、近年腕が落ちていることは否めない。

 主演のキリアン・マーフィをはじめ、エミリー・ブラント、マット・デイモン、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナーなど顔ぶれは多彩だが、大した演技をしていない。印象に残ったキャストはゴーマンさが光るロバート・ダウニー・Jr.ぐらいだろう。
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「夕陽のガンマン」

2024-04-28 06:08:31 | 映画の感想(や行)

 (英題:FOR A FEW DOLLARS MORE)1965年作品。日本とアメリカでは1967年に公開された、言わずと知れたマカロニ・ウエスタンの代表作とされているものだ。今回4Kデジタルリマスター版が公開されたので鑑賞してみた。なお、私は有名なテーマ曲こそ知ってはいたが、本編をスクリーン上で観るのは初めてである。

 札付きの悪党であるエル・インディオに1万ドルの賞金が賭けられたことを知った賞金稼ぎのダグラス・モーティマー大佐は、早速行動を起こす。同様に2千ドルの賞金首を仕留めたばかりの賞金稼ぎのモンコ(名無しの男)も、インディオ一味を狙っていた。モーティマーはモンコに、共闘して一味の賞金を山分けすることを提案する。承知したモンコは、顔馴染みの悪党グロッギーと共にエルパソ銀行を襲撃しようと企んでいたインディオの一党に潜入。外部で陽動作戦に当たるモーティマーと協力して、ターゲットを一網打尽にしようとする。

 一応、主演はモンコに扮するクリント・イーストウッドということになっているが、圧倒的に目立っていたのはモーティマーを演じるリー・ヴァン・クリーフだ。黒装束に身を包み、振る舞いやセリフ回しも実に洗練されている。もちろん、ガンマンとしての腕も華麗に見せる。さらに言えば、インディオ役のジャン・マリア・ヴォロンテも儲け役だ。まさに非の打ち所の無い(?)悪党ぶりで、ラスボスとしての風格は大したものだ。それに引き換え、イーストウッドは垢抜けない小物としての存在感しか与えられておらず、あまり印象に残らない。

 なお、脚本は大して上等とは言えない。特に敵役側に捕らえられた2人が、なぜか逃がしてもらうという展開は納得出来ない。シナリオ作りにも参加したセルジオ・レオーネの演出はこの頃はピリッとしない。新奇さを出そうとした挙げ句に話が冗長になり、132分というこの手のシャシンにしては長すぎる尺になってしまった。余計なモチーフは削って1時間半ぐらいに収めるべきではなかったか。

 とはいえ、エンニオ・モリコーネのお馴染みの音楽が流れて荒野に銃声が響き渡ると、それらしい雰囲気にドップリと浸ることが出来る。ロケ地はスペインのアルメリア地方だが、アウトロー達が跳梁跋扈していたアメリカ西部の佇まいを再現していたと思う。なお、劇中に登場するエル・パソの町並みは本作のために沙漠の中に作り上げられたセットである。このセットは現存し観光名所になっているとか。マカロニ・ウエスタンが当時の映画界に与えた影響が垣間見える話だ。
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「雨月物語」

2024-04-27 06:07:35 | 映画の感想(あ行)
 1953年大映作品。日本映画史上にその名を刻む巨匠である溝口健二の代表作と呼ばれているシャシンだが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。正直な感想としては、やっぱり“古い”と思う。画質が荒いのは製作年度を考えれば仕方が無いとは思うが、展開自体が悠長というか、じっくり描こうとして時制面で納得出来ない点が出てきている。では観る価値はあまり無いのかというと断じてそうではなく、美術やキャストの存在感には目覚ましいものがある。

 戦国時代、琵琶湖北岸の村に住む陶工の源十郎は、商売のために対岸の都へ義弟の藤兵衛と共に渡る。そこで源十郎は若狭と名乗る美女から陶器の注文を受け、彼女の屋敷を訪れる。思わぬ歓待と追加注文を受けた彼は、やがて若狭にゾッコンになってゆく。一方、侍として立身出世を夢見る藤兵衛は、策を弄して羽柴勢に紛れ込んでいた。



 上田秋成の読本に収録された数編の物語を元に、川口松太郎と依田義賢が脚色したものだが、あまり上手くいっているとは思えない。源十郎と若狭とのエピソードは数日あるいは長くて数週間の物語という印象しかないのに対し、藤兵衛が侍として成り上がり、やがて手柄を立てて小隊長みたいな身分になるまでには数か月は要するのではないか。

 しかもこの間に藤兵衛の妻の阿浜は野武士に乱暴された挙げ句、売春婦に成り果てるが遊郭では売れっ子の一人になるという、短いスパンでは描ききれないドラマも“同時進行”しているのだ。これらを平行して並べるのは無理筋だ。

 しかしながら、宮川一夫のカメラワークは万全で、琵琶湖を渡るシーンや若狭の屋敷の佇まいには感心するしかない。キャストでは何と言っても若狭に扮する京マチ子が最高だ。この妖艶さとヤバさは只事ではなく、観ているこちらも引き込まれた。源十郎を演じる森雅之をはじめ、小沢栄太郎に水戸光子、青山杉作など面子は粒ぞろい。

 そして、源十郎の妻の宮木に扮した田中絹代がもたらす柔らかい空気感が場を盛り上げている。終盤は若狭ではなく宮木を中心としたシークエンスで締めたというのは、溝口健二が狙っていたテーマを如実に示すものであろう。視点が常に高い次元を指向していた黒澤明とは、一線を画していると思う。
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「コーラス」

2024-04-26 06:08:20 | 映画の感想(か行)

 (原題:LES CHORISTES )2004年フランス=スイス合作。今では世界的な名声を得た人物が自分自身の少年時代を回想するという導入部は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)と似ているが、あれと比べればクサい部分は少なく、随分と平易な作劇である。第77回米アカデミー賞の外国語映画賞と主題歌賞にノミネートもされており、たぶん誰が観ても良さが分かる佳作だ。

 1949年のフランス。失業中だった音楽教師クレマン・マチューは、ピュイドドーム県の田舎町にある寄宿舎“池の底”に職を得ることが出来た。そこは孤児や不良少年ばかりが集められており、しかも校長は平気で体罰をおこなう人間で、学校全体の雰囲気は殺伐としたものだった。マチューは学校の空気を変えるべく、合唱団を結成して子供たちに歌う喜びを教えようとする。そんな中、マチューは学校一の問題児であるピエール・モランジュが素晴らしい歌声の持ち主であることを知る。

 少年たちは誰もが判で押したようにひねくれていて、校長はこれまた判で押したように高圧的。ジェラール・ジュニョ扮する音楽教師も“ほどよく熱血漢”である(笑)。実に分かりやすい作劇だが、いたずらに変化球を狙って結果的にハズしてしまうよりはマシで、賢明な判断かと思う。

 エピソードの積み重ね方は無理がなく、監督クリストフ・バラティエの職人ぶりが発揮されている(聞けば本作が初長編とのことで驚いた)。こういうケレンのない展開の中にいくつか泣かせどころを配置するというスタイルは一番俗受けするのだろう。事実、この映画は本国で大ヒットした。さらに教え子の母親への“淡い恋”に一時身を焦がしつつも、音楽教師としての本分を忘れず生涯を送った主人公の矜持も強い印象を残す。

 ブリュノ・クーレとクリストフ・バラティエによる音楽は万全で、子供たちのパフォーマンスも申し分ない。特にピエールに扮したジャン=バティスト・モニエはリヨンのサン・マルク少年少女合唱団のリードヴォーカリストであり、惚れ惚れするような美声を披露している。なお、冒頭での成長したピエールを演じるのが奇しくも「ニュー・シネマ・パラダイス」にも出ていたジャック・ペランで、製作にも名を連ねているというのは面白い。
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「戦雲(いくさふむ)」

2024-04-22 06:07:50 | 映画の感想(あ行)
 題材だけで判断すると、これは左傾イデオロギーが横溢したプロパガンダ映画なのかという印象を受けるかもしれない。しかし、実際に接してみると右だの左だのという小賢しい“神学論争”とは一線を画した、真に地に足が付いたドキュメンタリー映画の力作であることが分かる。その意味では観る価値は大いにある。

 日米両政府の主導のもと、沖縄は重要な軍事拠点と位置付けられ、自衛隊ミサイル部隊の配備や弾薬庫の大増設などが断行されてきた。2022年には“キーン・ソード23”なる日米共同統合演習までも実施され、南西諸島を主戦場に想定した防衛計画が練られていることが明らかになった。しかし、この動きは沖縄県民のコンセンサスを得たものではないのだ。日本の安全保障という建前ながら、住民たちの利益には必ずしも繋がっていない。



 映画は地元住民らの日常や、豊かな自然を丹念に写し取る。特に、与那国島のハーリー船のレースの盛り上がりや、カジキとの格闘に命を賭ける老漁師の生き方などはインパクトが大きい。だが、なし崩し的に実行される島々の軍事要塞化の波が、住民たちの生活に暗い影を落としている。

 断っておくが、私は“安保ハンターイ!”などという小児的な左巻きシュプレヒコールに与するものではない。アメリカと共同しての安全保障体制の確立は重要かと思う。しかし、問題はその拠点がどうして沖縄なのかだ。右巻きの連中はよく“沖縄は軍事的に重要な地点であるから、基地が集中するのは当然だ”みたいな物言いをするようだが、ならば他の地域は軍事拠点ではないのか。

 たとえば冷戦期に、アメリカは北海道や福岡から基地を撤収しているが、これをどう説明するのだろうか。要するに、基地のロケーション選定なんてのは日米の政治的決着によるものであり、真っ当な軍事的必然性とは距離を置いたものなのだ。もちろん、現地住民のことを顧みる余地は無い。

 監督の三上智恵はこのような現実を冷徹に提示する。しかも、沖縄とは関係の無い所謂“左傾活動家”を登場させることもせず、地元取材の立場から逸脱して“作家性”を強調することもない。極めて賢明なスタンスを取っている。それにしても、台湾有事を持ち出せば異論を許さない風潮が創出され、同時に負担を沖縄に押し付ける事なかれ主義が罷り通ってしまう、安全保障の何たるかを考慮しない空気が蔓延している現実は憂うべきことだ。たとえば辺野古をめぐる状況などを見てみると、そのことを痛感する。
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「ダンディー少佐」

2024-04-21 06:08:18 | 映画の感想(た行)
 (原題:MAJOR DUNDEE)1965年作品。過激なバイオレンス描写で有名なサム・ペキンパー監督の手によるシャシンながら、ここではエゲツない暴力場面は出てこない。この監督の“真価”が発揮され始めるのは「ワイルドバンチ」(1969年)あたりからだろう。とはいえ、元々彼はテレビの西部劇のディレクターとして実績を積んでいたこともあり、本作も手堅い出来と言える。

 南北戦争時の1864年、メキシコ国境近くの北軍第五騎兵隊の駐屯地が、狂暴なアパッチの族長チャリバの奇襲を受けて全滅する。指揮官のエイモス・ダンディー少佐は早速討伐に乗り出すのだが、手勢は少ない。そこで犯罪者や南軍の捕虜や脱走兵を討伐軍に加えるという、思い切った手段に出る。ダンディーはかつての友人で南軍大尉のタイリーンを副官に任命しようとしたが、戦前にこの2人の間には確執があった。何とか“チャリパを片付けるまで”という条件付きでタイリーンを説き伏せるのだが、敵はならず者のアパッチだけではなく、当時北軍と対立していたフランス軍も彼らの前に立ち塞がる。



 まず、成り行きとはいえ南北両軍が共同して敵に対峙するという設定が面白い。加えて、主人公と南軍の将校との、過去の遺恨が絡んでくる。結果として、いつ討伐軍が空中分解するか分からないといったサスペンスが醸成される。もちろん、アパッチによるゲリラ攻撃も厄介で、ダンディー少佐の苦労は絶えない。そこでメキシコの現地住民との交流や、主人公と地元の女医とのロマンスなどが“息抜き”のような扱いで挿入されるのには苦笑した。徹底してハードな展開で追い込む方がドラマとして盛り上がるのは確かだが、この時期のプログラム・ピクチュアとしては、こういう緩い作劇もアリかと納得してしまった。

 戦闘シーンはペキンパー御大らしく手抜きが無い。特に、フランス軍に挟み撃ちにされた討伐軍が決死の突破を図るシークエンスは盛り上がる。主演はチャールトン・ヘストンで、史劇やSF大作の主役の印象が強い彼だが、この頃までは西部劇にもよく顔を出していた。タイリーンに扮するリチャード・ハリスは儲け役で、ヘストンより目立っていたかもしれない(笑)。ジェームズ・コバーンにウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソン等、脇の面子も濃い。ヒロイン役のセンタ・バーガーは当時はセクシーさで売れていたらしく、本作でもその魅力を発揮している。
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「ゴーストバスターズ フローズン・サマー」

2024-04-20 06:08:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:GHOSTBUSTERS:FROZEN EMPIRE)前作「ゴーストバスターズ アフターライフ」(2021年)よりも、出来はかなり落ちる。監督が交代したことが影響していると思われるが、この程度の筋書きで製作のゴーサインを出したプロデューサー側の責任が大きいだろう。とにかく、けっこう期待していただけに残念だ。

 オクラホマ州サマーヴィルでのバトルから2年。スペングラー家の一行はニューヨークに移り住み、ゴーストバスターズとして街に出没するお化けたちへの対処に追われていた。だが、末娘のフィービーはまだ15歳であり、母のキャリーや義父のゲイリーからはメンバーとして扱ってもらえない。



 そんなある日、元祖ゴーストバスターズの一員であったレイモンドが、怪しい男から不可思議な球体を渡される。その物体には、実は強い冷却能力を持つ魔神ガラッカが封印されていたのだ。手下のゴーストたちによって復活を果たしたガラッカは、ニューヨーク中を凍らせるという暴挙に出る。フィービーたちゴーストバスターズは、この危機に敢然と立ち向かう。

 予告編で流された、真夏のニューヨークで海の向こう側から突如として氷柱が大量に現れ、街は一瞬にして氷に覆われてしまうというインパクトのある場面は、当然のことながら映画本編では序盤あるいは前半に出てくるのだろうと思っていた。この怪異現象を受けて、ゴーストバスターズの活躍が始まるという段取りの方が受け入れやすい。

 ところが、実際に作品を観てみるとこのシークエンスはクライマックスに設定されている。何のことはない、予告編の時点で“ネタバレ”をやっているのだ。さらに言えば、このパート以外には見応えのある場面は無い。だからここをフィーチャーせざるを得なかったという、配給会社の苦渋の判断が窺われる(苦笑)。

 ならば序盤から中盤過ぎまでは何が展開するのかといえば、登場人物たちの緊張感の薄い日常と元祖ゴーストバスターズの面々による脱力系の演芸もどきだけ。マシュマロマンの“大量発生”には喜ぶマニアもいるのかもしれないが、こっちは“何を今さら”としか思わない。そして、ニューヨーク凍結のあとに出てくる敵の親玉は、かなりショボい。ゴーストバスターズの攻撃も芸が無く、画面が賑やかなわりには盛り上がりに欠ける。

 前作のジェイソン・ライトマンからメガホンを引き継いだギル・キーナンの腕前はピリッとせず、ドラマは平板に進むのみ。ポール・ラッドにキャリー・クーン、フィン・ウルフハード、マッケンナ・グレイスというバスターズに扮する者たちはあまり仕事をさせてもらえず、ビル・マーレイとダン・エイクロイドといった“昔の顔ぶれ”も、ただ出ているだけ。果たして、本作の続編はあるのだろうか。そういえば80年代の初期シリーズは2本で終わってしまった。
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「ウィスキー」

2024-04-19 06:08:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WHISKY)2004年ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン合作。監督のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは“南米のアキ・カウリスマキ”と言われているそうで、冴えない中年男女を主人公にしている点や徹底的にストイックな作劇には共通点がある。だが、北欧の巨匠の作品群よりも上映時間は若干長く、それだけに登場人物の追い詰め方は堂に入っている。同年の東京国際映画祭でコンペティション部門のグランプリと主演女優賞を受賞。第57回カンヌ国際映画祭でも“ある視点”部門のオリジナル視点賞を獲得している。

 ウルグアイの下町で零細な靴下工場を経営するユダヤ人の主人公ハコポは、控え目だが忠実な中年女性マルタを工場で雇い入れている。ハコポとマルタが一緒に仕事をするようになってから長い年月が経っているのだが、2人は必要最小限の会話しか交さない。そんな中、ブラジルで成功したハコポの弟エルマンから訪ねてくることになる。

 ハコボは長らく疎遠になっていた弟が滞在する間、マルタに夫婦のフリをして欲しいと頼み込み、了承を得る。早速2人は偽装夫婦の準備を始め、結婚指輪をはめて一緒に写真を撮りに行く。こうしてエルマンを迎えることになるのだが、事態は思わぬ方向に転がり出す。

 結局、人間は見かけはどうあれ中身は千差万別なのだ。ハコポとマルタは単調な日常を送るだけの退屈な人物に見えるが、エルマンの滞在を切っ掛けに、2人は実は正反対の性格だったことが明らかになるという、その玄妙さ。

 陽気で如才ない弟から仕事を手伝いたいとの申し出を受け、それが自分の利益になることを分かっていながら、今までの単調な生活を崩したくないため断ってしまう主人公の被虐的なキャラクターと、チャンスさえあればどんどん外の世界に出て行きたいという欲求を抑えたまま生きてきたヒロインとの対比は、残酷なまでに鮮烈だ。

 これがハリウッド映画ならば、二人は夫婦の真似事をするうちに相思相愛になるという手垢にまみれたハッピーエンドに持って行くところだろうが、本作はストーリーが進むほどにそんな予定調和から遠ざかってゆく。フィルムが断ち切られたようなラストも秀逸だ。ウルグアイとブラジルとの国情の違いや、ユダヤ人の“法事”みたいな風習が紹介されるのも興味深い。

 アンドレス・パソスにミレージャ・パスクアル、ホルヘ・ボラーニといったキャストはもちろん馴染みが無いが、皆良い演技をしている。なおタイトルの意味は、日本では写真を撮影するときに被写体の人の笑顔を撮るため“チーズ”と言わせるが、南米ではそれが“ウィスキー”になるところに由来している。
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「12日の殺人」

2024-04-15 06:07:18 | 映画の感想(英数)
 (原題:LA NUIT DU 12 )似たようなテイストを持つジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」よりも、こっちの方が面白い。同じフランス映画であるだけでなく、物語の舞台も共通しているのだが、題材の料理の仕方によってこうも出来映えが違ってくるのだ。諸般の事情で米アカデミー賞には絡んではいないが、2023年の第48回セザール賞で作品賞をはじめ6部門で受賞しているので、世評も決して悪くはない。

 10月12日の夜、フランス南東部の山間部の町で、女子大生クララの焼死体が発見される。何者かが彼女にガソリンをかけ、火を付けたらしい。捜査を担当するのは、昇進したばかりの刑事ヨアンとベテラン刑事マルソーだ。2人は早速被害者の周囲の者たちに聞き込みを開始するが、何とクララはいわゆる“お盛んな女子”で、交際範囲はけっこう広いことが分かってくる。



 当然のことながらクララと痴話ゲンカの間柄になる男も複数存在しており、計画的な犯行であることから遅からず容疑者が特定されると思われた。だが、決定的な証拠が出てこない。捜査が行き詰まり、ヨアンの表情も焦りの色を濃くしてゆく。2020年に出版されたポーリーヌ・ゲナによるノンフィクションを元ネタにしている。

 冒頭、この事件が未解決であることが示される。ある意味ネタバレなのだが、何かあると思わせて実は何も無かった「落下の解剖学」に比べると実に潔い。それどころか映画自体がミステリー的興趣を否定していることにより、観客の興味を別の方向へ誘導させる仕掛けが上手く機能している。それは何かというと、事件の“背景”である。

 この山あいの町は風光明媚ではあるものの、かなり閉鎖的で多様な価値観を認めない。特に男女差別は深刻で、後半にヨアンの同僚となる女性刑事はそのポストに就くまでに辛酸を嘗めた。劇中、関係者が洩らす“クララはどうして殺されたか。それは女の子だったからだ”という身も蓋もないセリフがシャレにならない重さを伴ってくる。また、社会の一般的なレールから外れた者に対する仕打ちも酷い。

 マルソーは家庭の問題を抱えているが、誰も救いの手を差し伸べない。終盤に重要参考人と目される者が現われるが、当人の境遇も哀れなものだ。ヨアンはスポーツバイクに乗ることが趣味で、暇を見つけては屋内の競技用施設で汗を流している。だが、屋外やオフロードに出向くことは無いのだ。そもそも彼はいい年なのに独身で、交友関係も充実しているとは言えない。この、どこにも捌け口が見出せない状況こそが事件の核心であるという作者の視点は、高い普遍性を獲得していると思う。

 ドミニク・モルの演出は堅牢で、作劇に余計なスキを見せない。ヨアン役のバスティアン・ブイヨンをはじめ、マルソーに扮するブーリ・ランネール、またテオ・チョルビやヨハン・ディオネ、ムーナ・スアレム、ポーリーヌ・セリエ、そしてクララを演じるルーラ・コットン=フラピエなど、馴染みは薄いが皆良い演技をしている。ヨアンがそれまでとは違う生活スタイルに踏み込むことを決断するラストは、強い印象を残す。
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「カルテット」

2024-04-14 06:09:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:QUARTET )81年イギリス=フランス合作。ジェイムズ・アイヴォリィ監督特有の屈折したデカダンスが、洗練されたタッチで綴られた快作だ。磨き抜かれたエクステリアはもとより、当時の英仏の手練れを集めたキャストの充実ぶりには感服するしかない。なお、どういうわけか日本公開は88年にズレ込んだのだが、その裏事情は不明である。

 1927年、アールデコ時代のパリ。コーラスガールのマリアは夫のステファンと充実した生活を送っていたが、彼が盗品の美術品を所有していたため逮捕される。路頭に迷うことになったい彼女は、芸術家のパトロンである資産家のH・J・ハイドラーとその妻ロイスと知り合い、彼らの家で暮らすようになる。



 ところがこの夫婦はマリアを性生活のアクセントとしか思っておらず、彼女を幽閉同然に引き込んでいるだけだった。やがてステファンは釈放されるが、同時に国外追放処分になる。マリアは再び夫と幕らすために、H・Jのもとを出て行くことを考える。ジーン・リースによる半自伝的な小説の映画化だ。

 マリアの味わう息苦しさが観る者に迫ってくるのだが、彼女が閉じ込められているハイドラーの家は、ジェイムズ・アイヴォリィの映画ではお馴染みの豪奢な美で溢れている。だが、外界に通じる窓は示されずに部屋の中を照らすのは人工的な光だけだ。この退廃的な雰囲気が実に良い。

 ただ他のアイヴォリィの作品と異なるのは、囲われているのが能動的なキャラクターである点だ。しかも、マリアを演じているのがイザベル・アジャーニで、まさに弾け飛んだような個性の持ち主である。ところがここでは、彼女が斯様な存在であるからこそ、この不条理な出口無しの設定がより一層生きてくるという、設定の妙を醸し出している。

 アイヴォリィの演出は冴え渡り、並の作家がやれば底の浅いナンセンス劇になったところを、精緻なエクステリアにより上質な作品に高められている。アジャーニの演技はさすがだ。彼女は本作により第34回カンヌ映画祭で女優賞を獲得している。アラン・ベイツとマギー・スミスのハイドラー夫妻も舌を巻くほどの変態ぶりで(笑)、観ていて飽きることが無い。アンソニー・ヒギンズやヴィルジニー・テヴネといった顔ぶれも万全だ。
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