犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

犬鍋家の一族

2011-03-02 23:36:04 | 思い出

 お坊さんのお話を聞いて,これまで亡くなった家族のことがあらためて思い起こされました。

 私が犬鍋家に生を受けたとき,家族は7人でした。それから50年。そのうちの3人が他界しました。

 まず小学校5年生のときに亡くなったのが祖父。享年75歳。祖父の生い立ちについて詳しいことはよくわかりません。男子のいなかった犬鍋家に,親戚筋から養子に来たことは聞いていました。早稲田実業を卒業後,十五銀行に就職。私が生まれたときはすでに定年し,趣味の謡曲や,盆栽や庭いじり,小鳥や金魚などの世話をしていました。

 犬鍋家は1923年,つまり関東大震災のときまで,銀座歌舞伎座の隣で歌舞伎茶屋をやっていたんだそうです。祖父は幼少時から歌舞伎に親しんでいたようで,歌舞伎の名優の物真似がうまかったらしい。祖父の生家は東京の人形町で牧場をやっていたなんていう信じられない話も伝わっており,関東大震災のとき臨月の妻と火の手から逃げまどっている最中に,「牛乳が飲みてぇなあ」とつぶやいたとか。

 銀行員として優秀だったとか,出世したという話は聞いたことがない。むしろ際立っていたのは謡曲の素人離れした実力。NHKで賞をとったこともあるようです。

 相当な酒飲みであったらしく,ずいぶん飲み屋につぎこんだらしい。祖母は祖父が定年するまで,「賞与」の存在を知らなかったといいます。祖母の常識のなさも相当なものですが,祖父は賞与の全額を飲み屋の支払いにあてていたと思われます。

 戦時はすでに50歳近かったので徴兵は免れ,銀行勤めをしつつ好きな謡曲を人に教えながら悠々自適の生活を送っていた祖父の生涯は,幸せな部類に入るでしょう。

 私が中学3年生のとき,父が死にました。享年49歳。50歳の誕生日まであと20日ほどでした。

 大正15年出生。軍国少年として育ち,早稲田中学から陸軍士官学校へ。戦況悪化にともない,繰り上げ卒業させられて国内の高射砲陣地に配属。東京を空襲に来たB29を一機打ち落としたのが唯一の戦果だったそうです。

 戦後はマッカーサー指令によって出されていた軍人出身者の大学進学停止措置が解除されたあと,東大経済学部に進学。卒業後は祖父と同じく銀行に入行しました。

 銀行の仕事が合っていなかったのでしょうか,いつの頃からか大酒を飲むようになり,私の記憶にある父はいつもアルコールの匂いを漂わせていました。深夜にタクシーで帰宅ということが常態化し,泥酔して交番に担ぎ込まれ警察から呼び出しがかかるということもたびたびありました。いきつけの寿司屋があったようで,ときどき手土産のにぎり寿司を翌日の朝御飯として食べさせられるということがありました。

 こんな体たらくでは出世できるはずもなく,アル中を治すために強制入院させられたこともあります。家族団欒の時間というのはほとんどなく,家族旅行は計三回のみ。一回は富士急ハイランド。あと二回は銀行が所有していた長野の保養地でした。

 長年の飲酒がたたって,食道癌を発症。約1年の闘病生活の末,世を去りました。もう少し長生きしていたとしても,酒浸りの生活は変わらなかったのではないかと思います。こんな父のために,母は相当な苦労をさせられ,何度も離婚を考えたようですが,私と兄の存在がそれを思い止まらせたようです。

 何が父を酒に向かわせたのか,今となってはよくわかりません。高度成長期の日本は,今のような多様な娯楽はなく,酒が唯一の楽しみという人も今よりずっと多かったと思いますが,父の場合は度を越えていた。自らの青春を賭けた戦争が無残な結果に終わったことが,その後の人生に尾を引いたように思われます。


 息子に先立たれた祖母の嘆きも大きなものでした。「経済学なんか勉強しても家庭の経済をしっかりできないんじゃ意味がない」とよく漏らしていました。

 その祖母は,私が社会人になり,結婚して二人目の子ども(曾孫)ができるまで達者でした。享年90歳。大往生です。

 祖母の父は三河の出身。農家の何番目かで,単身東京に出てきて料亭を始めた。かなり成功したようです。しかし,考え方は保守的で,女は学校に通うべきではないと考えていた。祖母は勉強が好きで,尋常小学校では首席を通したそうです。高等小学校までは通わせてもらったものの,学校の先生が頼みにきても,父は女学校進学を頑として認めない。その代わり,習い事はなんでもさせてやる,と言われ,祖母は長唄,裁縫,書道,美人画など,さまざまな習い事をしたとのことです。

 18歳で親の決めた相手(つまり祖父)と結婚。結婚当日まで相手の顔を見なかったとのことです。結婚してすぐに関東大震災。実家の料亭も,嫁ぎ先の歌舞伎茶屋も焼け野原になる。銀行員の祖父は給料を酒と自分の趣味に使ってしまうので,祖母は仕方なく神楽坂で洋品屋を始めて生計を立てる。戦争が始まり,生活物資が次々に配給制になると,商売も続けられなくなり,店を畳んで郊外に転居。そこが私の生家になりました。

 私の父を産んだあとに卵巣膿腫をわずらって卵巣を全摘。子どもが二人だけというのは,当時としては少ないほうだったと思います。

 結婚後に夫から習い始めたのが謡曲。何事にも徹底的に打ち込むタイプで,めきめきと上達し,夫から習うものがなくなると,プロの能楽師に師事するようになりました。私が物心ついたときには夫とともに,たくさんの弟子をもつまでになり,定期的に会を催していました。

 家事はほとんど嫁(私の母)にまかせ,自分が芸に打ち込む日々。夫と息子を失ったあとも,85歳ぐらいまでかくしゃくとして謡曲をやっていましたね。

 犬鍋家の中で最も充実した生涯を送ったといえます。


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 11年2月一覧 | トップ | ニュージーランドの地震 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2011-03-05 02:36:10
犬鍋さんの義父の方の葬儀があったから、この記事でしょうか
いいお話、内容ですね。
でも、前回のボーズさんの寿命がなんたらは
あれは商売ですからね、あまり有難がることはありませんよ
テクニックさ、多少は感心させないとね
などと言ってみます
返信する
○さん (犬鍋)
2011-03-06 22:41:41
コメントありがとうございます。

件のお坊さんは,なんでもその宗派では山陰地方で三本の指に入る高僧なんだそうです。

葬儀直後の七日法要のあとの精進落としでビールを勧めたら遠慮され,焼酎のお湯割り(梅干し入り)を別に所望されました。
返信する
Unknown ()
2011-03-07 21:58:43
すみません

ここは合掌(手を合わせて)して、目を閉じるべきでしょうか?
返信する
いえいえ (犬鍋)
2011-03-08 23:35:50
高僧必ずしも清廉ではないようです。

今回お世話になるまで,義母は「ぼったくり」と呼んでいました。
返信する

コメントを投稿

思い出」カテゴリの最新記事