学生の頃の面々、思い浮ぶままに、その印象はというと、出会いの頃のこと。
お互いが、おススメ本を持ち寄った場面だ.。古田(仮称)さんはなんでも、三浦綾子の小説を好んで読んでいるらしく、「塩狩峠」と「氷点」を。
飯尾(仮称)さんは芹沢光治良の「人間の運命」。自分はというとドストエフスキーの「罪と罰」を推奨したのだった。
自分はその後三浦文学の良さにも気づいて氷点を筆頭にいくつかの著作にもふれてきた。芹沢の作品は学生時代に読むことはなかったが
社会人になって、思い出したように古本屋で見つけて読むに至った。両者からのおススメ本は、共通している面があるとすればいずれも、宗教的背景がその内容にあるという点である。
三浦文学にはキリスト教が
そして、芹沢光治良にあっては天理教が。芹沢文学のその作品はあまり読み進めるのにはかどることもなかったのだが、日本の戦争へむかうじっくりと時代背景、空気感を味わっていくという点においては参考になったなという感 慨が。
振り返って見直してこの作品を思い起こしてみると、山上容疑者が宗教教団に親が多額の献金で家庭を崩壊されていた様相は作品「人間の運命」と似ていて、作品は統一教会でなく天理教を対象にしたもので、題材はやはり考えさせられるものがあった。
そんなこんなを思い起こしたりと。
三人三様
生まれも
育ちも
それまでは違って
出会うことになる瞬間。
古田さんは岐阜の人で
飯尾さんは愛媛県、新居浜の人だった。
古田さんはよく尊敬している人として口をついてでてくるのは杉原千畝で、飯尾さんの場合は楠本イネのことだった。
自分にはそれらの人に関する知識もなく初めて偉人のことを知ることとなる。杉原はのちに映画化されて6000人のピザのユダヤ人を救った日本人としても知られるところ。
楠本イネというのは、あのシーボルトが日本人との間で生まれた娘さんであり、蘭医学を学んだ日本初の女性産科医である。
あれから、集うことも離れ離れで少なくなってしまってはいる。両君から、ドストエフスキー、読んでよかったぜという便りを聞くこともなく、歳を重ねてしまっている。
当時は日中国交回復、時代の雰囲気は今とは全く、違って、前途の明るい様相を感じてもいた。
しかし、戦争を知らない平和の時代の申し子のごとく、自由を謳歌するその道に至るまでの加害の歴史と戦争終結に至る原爆の惨禍は頭では理解できているつもりではいたのが、お互いの会話した中での実感はやはり平和なものだった。
コロナ禍なんて、そういうこともなく、今の時代の学生の苦労からすると、幸せだったのではと思うことのほうが強く、不幸に感じたこともなかったなと。
別段、だからといっておカネがあったわけでもなく。
皆が皆
そういう面では、あくせくしていなかった。バイトもしていた。授業以外での出会いもあった。下宿先とバイト先、地元の祭りのおみこし担ぎ。
休日の戦争遺構見学ツアー参加しての出会い。戦死した叔父の遺品から辿る繋がりの始まり。
色々と不思議なるものも。
一昨年の朝の番組「目撃にっぽん」でもその不思議の妙を感じていた。
まだ、あの戦争を肌身にしっている方が生きておられるんだという驚きでもあった。
タイトル_目撃!にっぽん「大悪人の孫と呼ばれて~張作霖爆殺事件 92年目の思索~」
昭和史に残る重大事件の一つ、昭和3年、満州で起きた張作霖爆殺事件。首謀者・河本大作の孫となる女性が、事件に向き合おうと思索を続けている。河本家の人々が代々背負ってきた知られざる葛藤。「大悪人」とも言われた祖父に対する複雑な思い。そして、新資料や関係者の聞き取りから見えてきた祖父の実像とは?事件から92年、歴史とどう向き合っていけばよいのか、女性の思索の日々を見つめる。というもの。
昭和3年、満州で起きた張作霖爆殺事件。自分らには書物の中の歴史でしかない。
「大悪人」とも言われた首謀者・河本大作の孫が事件に向き合おうとしている。と言われたって。
新資料や関係者の聞き取りから見えてきたものとは?
少なくとも、それまでのわかっている事実を覆すような新事実はない。ではあっても、それにしても、その女性の勇気には尊敬の念を抱きながら番組を見終えたのだった。
河本大作もそうだが、満鉄、満映理事長となる甘粕大尉にしても、叔父の残した文面のいいわましの内には尊称で語られてもいる名前。よって、番組視る自分にとっても身内のことをやはり叔父は
皇国少年そのものであったなあと改めて気づかされる断片の事柄でもあるのだ。
ひょっとして、叔父にまつわるなにかラディカルな断片でもとの期待も、その時も発見されることもなく。
飯尾さん
元気にしてるかあ。なと。
愛媛で最近の
ニュースといえば
物騒ぎな「国賊」発言の村上議員
この人
安保法制の議論の頃も、似たような発言騒ぎをしていたなあ。
取り立てておどろくに値しまい
ブーメラン
感心はしていない。
とついつい、場違いなこと思い浮かべて見てしまったり。