弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

山下文男著「昭和東北大凶作」

2014-05-19 19:08:02 | 歴史・社会
昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童
クリエーター情報なし
無明舎出版

アマゾンでは中古品しか扱っておらず、新刊書としては無明舎出版から直接取り寄せるルートがあるのみでした。そこで私は出版社から直接購入しました。2001年1月発行なのに、手元に届いた本は初版本でした。よっぽど売れていないのですね。

この本は、昭和5(1930)年から昭和9(1933)年にかけて毎年東北地方を襲った冷害とそれによる凶作が、東北の人々にどのような辛苦をもたらしたのかを克明に綴った本です。
この、昭和東北大凶作がもたらした、地域の人たちの苦しみのうち、娘身売りに着目します。
先日(5月1日)このブログで、「昭和初期の遊郭とそこで働く人々」として記事にしました。その中で、『それでは、昭和初期から終戦までの時期、日本の遊郭と娼妓とはどのような実態だったのでしょうか。その点について記述したサイト、書籍を探してもほとんど見つかりません。唯一見つかったのが、山下文男著「昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)でした。』と紹介したのがこの本です。
以下、昭和初期に遊郭に売られていった女性たちの実態を、昭和東北大凶作の観点から追っていきます。

《やませ(山背)》
『青森・岩手・秋田・山形など、東北地方も北の方では、初夏から夏にかけて吹いてくる北東の風を「やませ(山背)」と呼んでいる。三陸沖に張り出してくるオホーツク海からの寒気団による風である。やませ(風)は、夏でも暖房を必要とするような長雨をともなった冷たい風で、この風が吹き出すと、直接吹きつける三陸(陸奥、陸中、陸前)側が異常な低温に覆われる・・・、やませ(風)の強くて長い年は、冷気のために作物、とりわけ稲の生長が妨げられて(冷害)不作や凶作の年が多く、地域によっては「餓死風」などとも呼ばれ、大変、恐れられている。』

《昭和6(1931)年 凶作の追い打ち》
昭和5年に続いて昭和6年も凶作に見舞われました。同じ東北といっても、被害の状況は地域ごとに異なっていたようです。最も被害が大きかった地域の人々が、もちろん最も大きな苦労を背負いました。
『帝国農会の青笹参事の調査によると、青森県下で最も被害の著しいのは、東津軽、上北、下北、三戸の四郡で、霧を含んだやませ(風)と呼ばれる北東風を直接うける沿岸地帯である。これらの一帯は、谷の奥までやませ(風)に吹きつけられ、米はほとんど皆無作である。』(河北新報1931.11.27)

秋田県では
『平年作より1割5分5厘減収に止まった。・・しかしそれは全県的に見てのことで、収穫皆無地は、全県で1300町歩と算され、その他、7割以上の減収地1800町歩・・・
凶作のため、村々の花、年頃の娘さんたちは、悲しきなりわいに売られていく。もちろん、これまでも、生活のために紡績女工などとして娘たちを都会に送り出してきたが、かくも食われなくなっては、やはり前借金の高い娼妓ということになる。・・などでは、今、女工として、娼妓として出て行ったために、娘さんたちがあらましいなくなったとさえいわれている。』(東京日日1931.11.30)

《昭和7(1932)年 悲惨、娘身売りと欠食児童》
『秋田県の女子青年団連合会が娘たちの離村状況とその原因を調査したところ、昭和6年の末現在、秋田市を除く9郡における13歳以上25歳未満の女子の離村数は9473人であるが、その内訳を見ると、
▽子守女中が4272人(4割5分)、▽女工が2682人(2割8分)、▽醜業婦が1383人(1割5分)、▽その他、とされている。醜業婦とは、戦前、主として体を売る仕事に身を沈める女性たちをさして、官公庁などで使っていた言葉である。』
『なお、1383人の醜業婦について見ると「最初から親も承知、自分もそのつもりで出たのが1062人であるが、女中や子守のつもりで出たのに、親はもちろん、本人も知らない間に、いつか誰かの手によって、魔の淵に突き落とされた者が160人、女工のつもりだった者が103人を数えており」県当局も驚いて適切な対策を模索している』(大阪朝日1932.6.15)

『最近、東京・吉原の遊郭で、年期明けの娼妓のうち、さらに1年か2年の短期契約をやって稼ぐ者が目立って増えているというので、何が原因かを調べてみたら、その大部分は、年期が明けて田舎に帰っても食うことができない、それよりはまだ遊郭にいた方がましだということらしい。
・・・
娘を売るのが罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持できないのである。前借もこれに応じて、この頃はガタ落ち、娼妓では年期明けまで最高2000円どまり、平均の1050円、それも、ごく美人でなければならないという。前借金の少ないのは400円ぐらいである。酌婦はさらに低く、250円が精一杯というところらしい。・・・
娼妓は満18歳にならないと許可されない。しかし、それまで待つことができない。ところが、地方では満16歳から酌婦になれる。そこで、金は少ないが16歳になるのを待ちかねて、まず酌婦に売って肥料代などの借金の利払いをし、次いで18歳になってから娼妓にして、まとまった前借で負債の整理をするということらしい。』(東京日日1932.6.17)

《昭和9(1934)年 ああ、昭和東北大凶作》
『7月も中旬になったところで、成長期の稲には最悪の、雨をともなった冷たい北東の風が吹きだした。・・・
やませ(風)だ!
やませ(風)は来る日も来る日も吹き続けて、際限もなく冷たい雨を運んでくる。・・・稲の生育上、最も重要なる7・8月の両月、及び9月上旬に至る間、低温、多雨、寡照の悲観すべき気象状況を継続した』(岩手県凶作史)
『凶作を決定的にし、だめを押すように襲ってきたのが室戸台風であった。
こうして昭和9(1934)年は、明治38(1905)年以来の全国的な大凶作の年になった。』

『横手駅(秋田県)発午後3時41分上野駅直行は身売り列車だ。銘仙(の着物)に白足袋、斑な白粉が一見してすぐそれと分かる。「離村女性」が歳末が近づくに伴い毎日のように身売り列車で運ばれ、駅の改札子をおどろかしている--昨年迄は3日に一度か5日に一度程度の離村女性だったが、最近は毎日の様に、しかも数名ずつの集団的の出稼ぎが改札子の目を瞠らせるほどである。大部分が女工であるが、桂庵(奉公人の口入れ屋)に伴われて売笑街へ向かう可憐な女性が約10%を占めようという観測である。』(秋田魁新報1934.12.16)
『過去1年間に出稼ぎした東北6県の婦女子の数は、芸者2196名、娼妓4521名、酌婦5952名、女中及び子守19244名、女工17260名、その他5729名、合計58173名』(東京日日1934.11.9)

『もっとも、これらの娘たちが最終的にすべて不幸になったわけではない。年期を勤め終えて無事に帰郷し、幸せな家庭を持つことのできた女性たちも少なくなかった。反面、悪質な周旋屋や雇い主に騙されて借金ばかりがかさみ、背負いきれないほどの重荷を背負わされて、いつまでたっても苦界から抜け出せない気の毒な女性たちも一人や二人ではなかった。』

以上が、昭和6-9年における日本の遊郭と東北地方の少女たちとの関連です。
当時はまだ日中戦争前であり、従軍慰安婦は大々的には集められていなかったと思われます。そのため、「昭和東北大凶作」には、娼妓として国内の遊郭に売られていく話はあるものの、慰安婦として戦地に連れて行かれる話は出てきません。
しかし、日中戦争勃発が昭和12(1937)年ですから、ほんの数年先のことです。慰安婦問題を考察する上で、「昭和東北大凶作」の記述は参考になるはずです。
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