紀元2世紀、ローマ帝国の5賢帝の2人目のトライアヌスの後、3人目はハドリアヌス帝(在位紀元117~138年)です。
塩野七生著「ローマ人の物語」文庫25巻はハドリアヌス帝の物語です。
ハドリアヌス帝の特徴は、在位約20年の2/3を帝国を巡察する旅に費やしたことです。
ハドリアヌス帝の時代、ローマ帝国の版図は最大に達しています。西方(オチデント)ではライン川の西、現在のフランス、ベルギー、スペイン、大ブリテン島の南半分の地域です。東方(オリエント)はドナウ川の南側、黒海からユーフラテス川に至るまでであり、アフリカの北岸は全域が帝国版図です。ドナウ川北岸のダキアも、トライアヌス帝の時代にローマ属州になりました。
そしてハドリアヌス帝以降、ローマ帝国は攻勢の時代を脱し、帝国を維持し帝国の安全を保障することに重点が置かれる時代になっています。
帝国内においては、属州といえどもローマ本国と同化を図り、先住民の指導者は世襲のローマ市民権を取得し、自治を認められ、街道や上下水道などのインフラについてはローマ本国と同等の設備がローマ本国によって建設されます。
一方帝国外については、ライン川の東側、ドナウ川の北側の地域は当時ゲルマーニアと呼ばれ、ローマ人が「蛮族」と呼ぶゲルマン人が部族ごとに割拠していました。ゲルマン人が帝国版図に侵入してくるのを防ぐため、ライン川沿いとドナウ川沿いには強力な防衛陣地がしかれ、軍団が常駐しています。
またユーフラテス川の西側、今のイランのあたりはパルティア王国の土地であり、ローマ帝国の隙あらばと常に狙っています。
ハドリアヌス帝の旅は、少数の実務家を引き連れ、主に軍団基地を中心に、僻地に至るまでの全域を網羅します。各地において実情視察とともに現地の実務家の意見を聞き、帝国の安全保障体制を万全のものにするための必要な措置を講じていきます。
こうしてハドリアヌス帝によって万全の安全保障体制が構築され、ローマ帝国は自身が「黄金の時代」と称する時代を迎えるのです。
ハドリアヌス帝が旅の最後に行ったもう一つの事件は、ユダヤ人の運命をその後20世紀に至るまで決定づける事件でした。
ローマ属州に組み込まれた諸地域において、原住民はローマが定める法に従いさえすれば、広範な自治が認められていました。またローマ文明圏に属することで安全にかつ豊かに暮らすことができます。
このような属州としての地位にひとり肯んじなかったのがユダヤの地に住むユダヤ人です。ユダヤ教の神のみに服するユダヤ人は、ローマ法に服そうとしません。カエサル以来歴代のローマ指導者は、何とかユダヤ人とうまくやっていこうと苦労しました。
ハドリアヌス帝は旅の最後にユダヤを訪れ、「割礼の禁止」を言い渡します。この措置はユダヤ人の気持ちを逆なでし、ユダヤ人の過激派が暴動を起こします。塩野七生氏は、ハドリアヌス帝はこれを狙って「割礼の禁止」措置を講じたのではないかと推測しています。
ハドリアヌス帝は何年もかかって暴動を鎮圧した後、イェルサレムからのユダヤ教徒の追放を決定したのです。ユダヤ教徒はイェルサレムに居住できなくなり、各地に離散(ディアスポラ)することになります。
こうしてユダヤ人は祖国を失い、元老院での採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくことになります。
塩野七生著「ローマ人の物語」文庫25巻はハドリアヌス帝の物語です。
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ハドリアヌス帝の特徴は、在位約20年の2/3を帝国を巡察する旅に費やしたことです。
ハドリアヌス帝の時代、ローマ帝国の版図は最大に達しています。西方(オチデント)ではライン川の西、現在のフランス、ベルギー、スペイン、大ブリテン島の南半分の地域です。東方(オリエント)はドナウ川の南側、黒海からユーフラテス川に至るまでであり、アフリカの北岸は全域が帝国版図です。ドナウ川北岸のダキアも、トライアヌス帝の時代にローマ属州になりました。
そしてハドリアヌス帝以降、ローマ帝国は攻勢の時代を脱し、帝国を維持し帝国の安全を保障することに重点が置かれる時代になっています。
帝国内においては、属州といえどもローマ本国と同化を図り、先住民の指導者は世襲のローマ市民権を取得し、自治を認められ、街道や上下水道などのインフラについてはローマ本国と同等の設備がローマ本国によって建設されます。
一方帝国外については、ライン川の東側、ドナウ川の北側の地域は当時ゲルマーニアと呼ばれ、ローマ人が「蛮族」と呼ぶゲルマン人が部族ごとに割拠していました。ゲルマン人が帝国版図に侵入してくるのを防ぐため、ライン川沿いとドナウ川沿いには強力な防衛陣地がしかれ、軍団が常駐しています。
またユーフラテス川の西側、今のイランのあたりはパルティア王国の土地であり、ローマ帝国の隙あらばと常に狙っています。
ハドリアヌス帝の旅は、少数の実務家を引き連れ、主に軍団基地を中心に、僻地に至るまでの全域を網羅します。各地において実情視察とともに現地の実務家の意見を聞き、帝国の安全保障体制を万全のものにするための必要な措置を講じていきます。
こうしてハドリアヌス帝によって万全の安全保障体制が構築され、ローマ帝国は自身が「黄金の時代」と称する時代を迎えるのです。
ハドリアヌス帝が旅の最後に行ったもう一つの事件は、ユダヤ人の運命をその後20世紀に至るまで決定づける事件でした。
ローマ属州に組み込まれた諸地域において、原住民はローマが定める法に従いさえすれば、広範な自治が認められていました。またローマ文明圏に属することで安全にかつ豊かに暮らすことができます。
このような属州としての地位にひとり肯んじなかったのがユダヤの地に住むユダヤ人です。ユダヤ教の神のみに服するユダヤ人は、ローマ法に服そうとしません。カエサル以来歴代のローマ指導者は、何とかユダヤ人とうまくやっていこうと苦労しました。
ハドリアヌス帝は旅の最後にユダヤを訪れ、「割礼の禁止」を言い渡します。この措置はユダヤ人の気持ちを逆なでし、ユダヤ人の過激派が暴動を起こします。塩野七生氏は、ハドリアヌス帝はこれを狙って「割礼の禁止」措置を講じたのではないかと推測しています。
ハドリアヌス帝は何年もかかって暴動を鎮圧した後、イェルサレムからのユダヤ教徒の追放を決定したのです。ユダヤ教徒はイェルサレムに居住できなくなり、各地に離散(ディアスポラ)することになります。
こうしてユダヤ人は祖国を失い、元老院での採決を経て公式に発効した紀元135年からの「ディアスポラ」は、20世紀半ばのイスラエル建国までつづくことになります。
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