弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

小澤征爾氏の父、小澤開作

2014-01-09 22:58:45 | Weblog
現在、日経新聞の「私の履歴書」では小澤征爾氏の連載が始まっています。
小澤征爾氏の「征爾」という名前は、板垣征四郎と石原莞爾の二人の名前から一字ずつをもらって名付けられたことが知られています。そのいきさつと、征爾氏の父・小澤開作氏の思い出が、連載の第2回・第3回につづられていました。

征爾氏の父・小澤開作氏は、東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、征爾氏が生まれた1935年には歯医者をやめ、政治活動にのめり込んでいました。
『当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族がひとつにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。』『満州青年連盟長春支部長を務めていた時に関東軍作戦参謀の石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、やがて親しく交わる。二人の名前から一字ずつをもらい僕に「征爾」と名付けた。おふくろのさくよによれば、出生の知らせを聞いた時にちょうど二人と一緒にいたらしい。』(以上第2回)

『おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。1940年には言論雑誌「華北評論」を創刊する。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して戦えるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。
「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。』
『北京に一人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。次第に軍の圧力は強まり、43年、おやじは追放されるように日本に帰ってきた。』
『45年8月・・15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちはすきなことをやれ」』(以上第3回)

板垣征四郎や石原莞爾によって満州事変が起こされたのが1931年、盧溝橋事件で日中戦争が勃発したのが1937年、真珠湾攻撃が1941年です。小澤征爾氏が生まれた1935年は、満州国が建国され、日中戦争が勃発する直前でした。

当時日本が唱えていた「五族協和」は、実は中国人らを蔑視するまやかしのかけ声でした。それに対して小澤開作氏は、真の意味でのアジア民族協和を目指していたのでしょう。開作氏の理想主義的な「民族協和」の一点で石原莞爾らと親しく交わり、それが征爾氏の名前となって残りました。しかし満州国の実態は、小澤開作氏の理想とは真反対の方向に向かっていくことになってしまいました。

盧溝橋事件当時、石原莞爾は参謀本部作戦部長であり、日中戦争の拡大に不賛成でした。しかし不拡大方針は容れられず、逆に関東軍作戦参謀に左遷されました。その点でも、小澤開作氏が1940年に「華北評論」を創刊して「この戦争は負ける。民衆を敵に回して戦えるはずがない」と主張したことと符合します。

しかし、日中戦争勃発当時、現地軍が参謀本部作戦部長の方針と反対の戦線拡大方針に邁進できたのも、結局は、満州事変時の石原ら関東軍が日本政府の方針とは反対の事変を勃発させ、それが国民からもてはやされて、石原らが何ら譴責を受けず逆に国民の英雄になったことが原因であると思われます。
石原らの理想が何であれ、政治秩序、法秩序を無視して強硬な政策を実行すれば、結局は日本が無法国家・下克上国家に成り下がる最大の要因となってしまうのです。
その因果応報を、1940年当時の小澤開作氏もきっと実感していたことでしょう。
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