弁理士の日々

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軍部大臣現役武官制と宇垣流産内閣

2008-08-17 09:51:54 | 歴史・社会
前回の服部龍二著「広田弘毅」において、広田内閣時代に「軍部大臣現役武官制」が復活したことを紹介しました。また、半藤一利「太平洋戦争への道」でも紹介したことがあります。

この頃の日本の政治について印象に残る著書の第一は、渡辺昇一著「日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)」でしょう。
ここでも、この著書からの知識を中心に記録します。

戦前の日本で、陸軍大臣・海軍大臣には軍人が就任していました。1900年、山県有朋内閣のときに、「軍人」というだけではだめで、「現役武官」であることとの制度を導入しました。現役武官というと陸軍などの軍部に組み込まれていますから、陸軍が陸軍大臣候補を出さなかったら、内閣を組むことができません。軍部にとって実に強大な権力です。実際、この制度によって西園寺内閣が倒されました。

これに対し1913年、山本権兵衛内閣のとき、山本首相は、軍部大臣が現役の武官でなくても良いという官制に変更します。当然、軍部はこの制度改正に反対することが予想されます。海軍については、山本が海軍の大御所ですから抑えられます。問題は陸軍です。
陸軍全体としては絶対反対でした。ところが当時の陸軍大臣である木越安綱中将が、一身の栄達を犠牲にして山本案に賛成し、ここに現役武官制が廃止になりました。
このときの木越安綱の功績は大したものです。このあと木越は陸軍大臣を辞任し、中将のままで陸軍を退役しました。
私は、自分が出処進退の岐路に立たされたとき、少なくとも木越安綱に笑われないように身を処したいものだと、常々思っているところです。

こうして、軍の専横を許す装置としての「軍部大臣現役武官制」が廃止となりました。

ところが、前回も紹介したとおり、広田弘毅内閣時代の1936年5月、ときの寺内寿一陸軍大臣が永野修身海軍大臣と共同で、「軍部大臣現役武官制」の復活を提議するのです。二・二六事件の後始末で、事件の黒幕と見られた陸軍軍人の荒木貞夫や真崎甚三郎は予備役に編入されました。これらの人たちが政治に復活するのを防止するため、というのが「軍部大臣現役武官制」とする表向きの理由でした。そして広田首相は、「軍部大臣現役武官制」復活を認めてしまうのです。
とにかくこれによって、山本・木越のやったことは水泡に帰し、今後は、軍部の賛成を得ない組閣は一切不可能となるのです。

1937年1月、浜田国松議員の国会発言に対して寺内陸相が挑発に乗ってしまい、「腹切り問答」となり、寺内は議会で辱められたと感じて議会の解散を主張します。広田首相は、解散はしませんでしたが総辞職してしまいました。

広田内閣当時、政党である政友会や民政党は、軍部の次なる野心を嗅ぎとっており、これを未然に防止するため、宇垣一成を次の首班として構想したようです。上の腹切り問答は、宇垣内閣を作るために陸相を追い詰めたのであり、宇垣自身も今回は出馬の決意を固めていました。このあたりは、坂野潤治著「昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書)」を参照しています。
宇垣一成という人は、陸軍軍人であり、木越安綱が軍部大臣現役武官制を廃止したときはこれに反対する立場でしたが、1912年には加藤高明内閣の宇垣陸相は4個師団の廃止という大軍縮を敢行した人です。1931年には橋本欣五郎らの三月事件に担がれたと信じられており、宇垣は陸軍大臣を辞任、朝鮮総督になって予備役に入りました。
それから5年、宇垣は「陸軍の一部の動きが変だ。近いうちに何か外に対して事を始めるのじゃないか。」と危惧し、「自分がもう一度犠牲となって、これを脱線させぬように出なければならない」と考えていたようです。

湯浅倉平内大臣が病床の西園寺公望を訪ね、宇垣を天皇に奏請することを決めます。1月25日、宇垣に組閣の大命が降下します。しかし陸軍は宇垣内閣に絶対反対です。参謀本部戦争指導課長の石原完爾がその急先鋒でした。組閣に際して陸軍大臣を出しません。
半年前なら、予備役の宇垣が陸軍大臣を兼務することも可能でしたが、今ではそれができません。
しかし宇垣は諦めませんでした。陸軍に陸軍大臣を出すよう、天皇から直接指導して貰おうと考えたのです。しかし当時の法制では、予備役の宇垣は、直接天皇に拝謁することができません。湯浅内大臣に取り次いで貰わなければならないのですが、湯浅内大臣が頑として取り次がないのです。湯浅内大臣は「そう無理をなさらぬでもよいではないか。そういう無理をなさると血を見るような不祥事が起こるかも知れぬ」と述べたそうです。ここでも、二・二六事件の影を色濃く感じます。
天皇から組閣の大命を受けた首相候補者が、その天皇に会うことができないという不思議な制度でした。
こうして、宇垣は陸軍大臣を得ることができないために、組閣の大命を拝辞することになりました。

宇垣流産内閣ほど、国民に軍の横暴を印象づけたものはなかったそうです。これ以後は文官が首相になったとしても、それは軍の傀儡政権に過ぎないだろうということは誰にも明らかになりました。

日本史から見た日本人 昭和編―「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎 (祥伝社黄金文庫)
渡部 昇一
祥伝社

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