弁理士の日々

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古賀茂明「日本中枢の崩壊」2

2011-07-17 11:08:24 | 歴史・社会
福島産食肉牛のセシウム汚染が大問題になっています。
振り返ってみれば、
(1) 「原発事故発生時に屋外にあった草を用いてはならない」を通達1本で流して本当に漏れはないのか。
(2) 牛には牧草以外に稲ワラを与えている。
(3) 放射能汚染図拡大図)によれば、白河市付近も1μSv/hの領域に入っていて高汚染地域である。
などは、専門知識を有していて想像力が豊かであれば、とっくに気づいているはずです。今回、農水省や専門家からだれも警鐘が出されていなかったとしたら、とても残念なことです。

さて、第1回に引き続き、古賀茂明著「日本中枢の崩壊」の2回目です。

2009年9月に民主党政権が誕生し、公務員制度改革が一気に進むことが期待されたところ、12月に仙谷大臣の判断で古賀氏を含む公務員改革事務局幹部全員が更迭され、古賀氏は経産省に戻されました。
それ以降、公務員制度改革推進の歯車は完全に止まり、逆回転を始めたようでした。
2010年2月に出された国家公務員法改正に関する政府案の中味は、2009年の麻生政権下での改正案から大幅に後退し、古賀氏らが行った改革案は完全に骨抜きにされていました。

内閣官房に人事局を置く、という提案は入っていました。ところが、人事院や総務省から組織や定員に関する権限を内閣官房に移す、という案が、自民党政権時代には入っていたのですが、鳩山政権の政府案からはすっぽりと抜け落ちていたのです。天下り規制の抜本強化も入っていませんでした。
この政府案は、衆議院通過後、会期切れで結局廃案になりましたが、強い危機感と焦燥感をいだいた古賀氏は、早急な改革の進展を訴えた論文を「エコノミスト」誌に実名で寄稿しました。これで永田町と霞が関には大激震が走りました。
同じ2010年6月、成立したばかりの管直人内閣が、国家公務員の「退職管理基本方針」を閣議決定してしまいます。安倍政権時代に禁止された「天下り」の斡旋の禁止措置をあらかさまに骨抜きにする内容でした。
ここまでで民主党政権は官僚から完全に甘く見られることになりました。2011年1月に元資源エネルギー庁長官が東京電力に直接天下りしたのもその流れでした。
また、2010年夏に出た人事院勧告付属報告書では、「公務員については(再雇用ではなく)定年を延長すべし」と書いてあるそうです。

2010年10月、古賀氏は2週間の長期出張を命ぜられます。日本全国を6000キロにわたって動き回り、地方の中小企業の実態を調べてこい、という内容です。マスコミでは「涙の6000キロ」と紹介されたそうです。しかしこの出張で、古賀氏は日本の企業と役所がかかえる問題点を肌身で感じることができたといいます。
古賀氏は、報告書の最後に3ページの「所感」を書きました。のちに国会から報告書の提出要求を受けた経産省は、問題の3ページを削除して提出しました。報告書の改ざん問題として、河野太郎議員や世耕広成議員らによって取り上げられたそうです。

2010年10月15日、古賀氏は「涙の6000キロ」の出張途中に急遽帰京を命じられました。参議院予算委員会で小野次郎議員が出席を求めているというのです。
小野議員は「天下り根絶というスローガンが骨抜きになっている」として古賀氏の考えを述べるように促したのです。古賀氏は、いつも考えている持論を次々と正直に話しました。
ところが、次に答弁に立った仙谷官房長官が「私は、小野議員の今回の、今回の、古賀さんをこういうところに、現時点での彼の職務、彼の行っている行政と関係のないこういう場に呼び出す、こういうやり方ははなはだ彼の将来を傷つけると思います・・・優秀な人であるだけに大変残念に思います」というしわがれた声が会場に響いたのです。
古賀氏は、仙谷官房長官が古賀氏の発言を非難し、古賀氏を脅したのだろうと考えるしかありませんでした。
私が思うに、仙谷官房長官のこの発言は、実は正直だったかもしれません。仙谷氏も、政権交代直後は、古賀氏らを活用する意思を有していたようです。ところが、財務省をはじめとする強烈な反対に遭い、一方で財務省の協力が得られなければ政権運用がままならないことから、民主党政権は財務省の言いなりになる方向に舵を切りました。ですから、仙谷氏の発言を「今の私には古賀さんを守ることはできないのだ」という意味と考えれば辻褄が合います。

《第4章 役人たちが暴走するする仕組み》
《第5章 民主党政権が躓いた場所》
《第6章 政治主導を実現する三つの組織》
以上の3章についてここに細かくまとめることはやめておきます。古賀氏の所論の最重要部分ですが、なかなか要約することも困難ですので。ぜひ本書を読んでください。
こちらのVoiceの記事は、古賀さんの書いた文章であり、非常にコンパクトに古賀さんの主張が書かれています。

第7章以降は、古賀さんの役人人生を振り返った部分です。

1994年6月、古賀氏は産業政策局産業組織政策室の室長に就任しました。
そこで古賀氏は、「純粋持ち株会社の解禁」に取り組むことにしました。日本の独禁法第9条では純粋持ち株会社の禁止が定められていました。当時、純粋持ち株会社を禁止していたのは、日本と韓国のみだったといいます。
当時の有名な学者は大部分が独禁法9条は堅持すべきという考えに凝り固まっています。当初は検討部会を立ち上げると言っていた経団連も、時期尚早として部会立ち上げを見合わせることにしました。
そのように難産しながら、ノンキャリア職員の活躍などもあり、水面下で理論武装を固めました。ところが1995年2月、この件を毎日が記事にしてしまったのです。まだ大臣にも詳しい説明はしていないし、公取とも何の調整もしていません。
3月、大臣が国会答弁に立つことになりました。当時の通産大臣は橋本龍太郎氏です。古賀氏は答弁案の最後に「少なくとも早急に検討に着手すべきだ」と表現しました。古賀氏の説明に大臣は一言「分かった。これは大事だな。」と発言したのみです。
そして橋本大臣は委員会で「私は積極的な検討はさせていただきたいものと思っております」と答弁したのです。「積極的」とは霞が関言葉で基本的に「やる」という意味です。
古賀氏は、橋本大臣が言い間違えたのかと疑いましたが、実際は橋本大臣が確信犯的にわざと答弁を変えたのです。
もう一つ、当時、橋本大臣には江田憲司氏が秘書官としてついていたのです。
『私は、このときの橋本大臣こそ、政治主導の見本だと思っている。政策に関する緻密な検討は役人が担当する。その結果を、最終的に閣僚がリスクを取って政治判断する。その際、絶対的に信頼できるスタッフを持っている。これが政治主導である。』
その後、総理に就任した橋本氏は、1997年に独禁法の改正を成立させました。

続く
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