弁理士の日々

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イージス艦あたご衝突事故地裁判決

2011-05-19 21:45:07 | 歴史・社会
あたご判決 立証甘かった検察側
産経新聞 5月12日(木)7時55分配信
『航跡が最大の争点となった海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故をめぐる判決で、横浜地裁は無罪を言い渡した。事故で記録が失われ、衝突状況を科学的に証明できないにもかかわらず、「あたごの過失ありき」で主張を展開した検察側は、十分な検証を怠っていたといわざるを得ない。
航跡という客観的証拠がない中、関係者の供述をどう評価するかが公判のポイントだった。秋山敬裁判長は検察側が航跡特定の根拠とした供述調書について、「前提としている証拠に誤りがある」と立証の甘さを断じた。
秋山裁判長は判決理由で、海保や地検の捜査手法について「極めて問題がある」と言及。
地裁は証拠の信頼性を一つ一つ検討した上で、独自に航跡図を作成し、漁船側に事故原因を認定。清徳丸が複数回にわたり方向転換したことで、危険な状況を作り出したとした。
海上で起きた事故。捜査を担当したのは海保と地検だった。「海上保安庁は司法警察機関として不適切だ」。公判で検察側立証の甘さが次々に露呈する中、後潟3佐は航跡を特定した海保の捜査を、こう批判した。』

地裁判決が出たのは5月11日です。忙しくて記事が書けずにいる間に、この事件についてもすでに「過去のニュース」になってしまい、その後のフォローニュースに接することもなくなりました。

本件について、海難審判所の裁決がなされたのが平成21年1月22日です。もう2年以上も経つのですね。
このブログではイージス艦衝突事故・海難審判所裁決として記事にしました。海難審判のときからすでに、海難審判所側が主張する清徳丸の航跡と、あたごの当直士官らが主張する清徳丸の航跡とは食い違っていました。海難審判所が認定した航跡は、裁決に附属する参考図(図面の2ページ)にあるとおりです。これに対して舩渡元艦長らは、審判において、「清徳丸の航路はあたごの艦尾を通過するはずの航路であった。衝突直前に清徳丸が右転蛇したので衝突したが、転蛇せずに直進していたら衝突しなかった」と主張していたようです。裁決ではその主張を「合理性に欠ける」として退けています。しかし裁決を読んだのみでは、元艦長らがどのような証拠に基づいて清徳丸の航路を見積もったのか、裁決がどのような証拠に基づいてその主張を退けたのか、よくわかりませんでした。

地裁でもまったく同じ争いとなり、地裁は海難審判と反対に、被告ら(当時の水雷長と航海長)の主張を認め、検察の主張を退けました。
海難審判の当時から、どのような客観的根拠が存在し、その客観的根拠に基づいて清徳丸の航跡がどのように推定されるのかに興味があったのですが、海難審判時には上記のようにその謎は解明されず、今回の地裁判決でもニュースに接する限りは具体的な根拠がはっきりしません。

証拠採用の根拠は明確でないながら、海難審判の裁決を読むと、衝突直前におけるあたごの環境での様子が非常に具体的に再現されています。その中で、艦橋の左に位置していた「信号員」の行動が目に付きました。
艦橋左舷側前部にいた信号員は,艦首右舷前方に4個の紅色舷灯を認めていたが,レピーター等で方位を確認することなく,・・・04時03分半ごろ艦首右舷前方にH丸,J丸及び清徳丸の紅色舷灯を認めていた。
  ・・・
04時04分水雷長は,艦首右舷前方1.1海里付近に清徳丸の紅色舷灯を認めたので,04時05分ごろレピーターにより同舷灯の方位を確認し,04時05分半ごろOPA-6Eにより同船を確認しようとしたものの,既に清徳丸は0.5海里ばかりに接近し,OPA-6Eの画面の中心から約1海里の範囲に現れていた海面反射内に入っていたために同船のレーダー映像を識別できず,なおもOPA-6Eによる同映像の確認作業を行っていたところ,
04時06分艦橋左舷側前部にいた信号員から「漁船増速,面舵とった。」との報告があり,この報告を艦首方の漁船のことと思い,レピーターのところに戻った。
水雷長は,04時06分わずか過ぎ信号員が「漁船近いなぁ,近い,近い,近い。」と声を発し,右舷ウイングに向かったので,視線を右方に移したとき,清徳丸の紅色舷灯を右舷側近距離に視認し,04時06分少し過ぎ「機関停止,自動操舵やめ。」と令し,続いて月明かりにより同船の船影が見えたので,汽笛吹鳴スイッチを押して短音等を6回吹鳴し,ほぼ同時に後進一杯を令したが及ばず,04時07分少し前野島埼灯台から190度22.9海里の地点において,あたごは,ほぼ原速力のまま,326度を向いたその艦首が清徳丸の左舷ほぼ中央部に後方から47度の角度で衝突した。』

4時3分半頃(衝突の3分前)、信号員は清徳丸の紅色舷灯を認めていましたが、別の記録によると、「この船はあたごの艦尾を通過する」と考えていたようです。その信号員が4時6分(衝突の1分前)、「漁船増速,面舵とった。」と報告しました。この信号員の発見と報告が、衝突直前における清徳丸の最初の認知情報です。従って、信号員の記憶が正確に再現できれば、清徳丸の衝突直前における航跡が再現できるのではないかと期待されます。地裁において、この信号員はどのような証言をしたのでしょうか。

起訴当時の地検の発言では自信満々でしたが、実際の捜査では客観証拠が得られていなかったのですね。しかし今のところ、地裁での詳細な審理過程が不明なままです。どこかに裁判の傍聴記録でもないかと探したのですが、見つかっていません。

ただし、被告が主張するように清徳丸の直進針路があたごの艦尾1100mを通過する針路だったとしても、近接する航路であることに変わりはありません。あたごの艦橋は極めて注意深く見守る必要があったはずですが、清徳丸に対する注意は散漫であったことに相違有りません。その点で、海難審判所の裁定は納得できるものではあります。
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