弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日米繊維交渉1970

2006-04-18 00:07:03 | 歴史・社会
日経新聞の私の履歴書は、現在宮沢喜一氏の巻です。

1970年当時、日本の安い繊維製品が米国の繊維産業を圧迫しているとして、日本に繊維輸出の自主規制を求める要求が極めて強く、日米間の問題となっていました。日本の通産省の役人も、日本の繊維業界に味方して自主規制には反対の姿勢でした。

4月16日の記事では、宮沢氏が1970年に通産大臣となり、日米繊維交渉に携わる場面が記されています。この話はいろんな面で有名のようです。
ときの佐藤首相が米国のニクソン大統領と会談し、それを受けて宮沢通産相が訪米して米国と交渉します。私の履歴書によると、米国側から「総理のところに紙があるからその紙を見てきて欲しい」と言われ(紙とはペーパーと読み替えればいいでしょう)、佐藤首相に確認すると「そんなもんはない」と言われます。米国でも宮沢通産相は「そんな紙はない」と突っぱね、結局協議不調に終わります。佐藤総理は繊維交渉成立のために宮沢氏を通産相に起用したにもかかわらず、通産省の役人と同じスタンスに立ち、正攻法で攻めて失敗した模様です。
佐藤ニクソン会談での約束について、私の履歴書でも「佐藤さんは『善処しましょう』という程度のことは言ったかもしれないが」と記されています。

鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」によると、佐藤ニクソン会談は、異文化コミュニケーションの分野ではコミュニケーションの失敗例として名高いそうです。ニクソン大統領が日本の繊維輸出の自主規制を強く求めたのに対し、佐藤首相がどのように答え、どのように通訳されたかについては定説がなく、諸説あるそうです。「訳された外交官の方は秘密を墓場まで持っていかれました」ということになっています。

1970年の佐藤総理訪米には、実は当時の石原慎太郎議員が同行しているのですね。石原氏の著書「国家なる幻影」には、その時のことが記されています。繊維問題が気になった石原氏が、日本側通訳の赤谷源一氏にどのような通訳をしたか聞いたところ、「赤谷氏はこれまた簡単に答えてくれたが、確か"I understand what you mentioned, so I will make my best effort"とかいったものだった。いずれにせよそれは英語でははっきりYESを意味している印象だった」とのことです。石原氏が佐藤首相に「互いの思惑が行き違って大変なことになるのでは」と進言したところ、佐藤氏は急に不機嫌になったと言うことです。

佐藤ニクソン会談についてニクソン大統領は、米国側は沖縄返還を認めたにもかかわらず、日本側は約束を反故にして繊維で譲歩しなかったと認識します。ニクソンは日本に裏切られたと感じ、後の二度にわたるニクソンショックで日米関係は最悪になった、というのが通説のようです。

宮沢氏の後の通産相が田中角栄です。そのときの様子が水木楊「田中角栄その巨善と巨悪」に記されています。
田中氏は、最初のトップ交渉では通産省の役人の立場に立ち、強気で交渉しますが、米国がこの問題で譲歩できない状況であることを直感で感じ、思いがけない打開策を自ら立案します。日本の繊維業者に自主規制させる代わりに、総額2000億円(私の履歴書では1300億円)の補償金を提供するというものです。通産官僚が「今からそんな大規模な補正予算が通るはずがない」というのを尻目に、大蔵省や首相との見事な駆け引きでその予算を成立させます。これによって長年懸案の日米繊維問題が解決しました。この補償金のことを業界に対する「つかみ金」と表現したものがありました。
田中氏がその後、前任の宮沢氏を「小役人」と評したという話もあります。
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