7月25日の当ブログ記事小川和久著「普天間問題」では、小川和久氏の「この1冊ですべてがわかる 普天間問題
」を中心に、過去15年間の普天間問題の内情について記しました。
私は上記の本の他、雑誌「世界」3月号の外岡英俊「検証 普天間移設をめぐる13年間」(後編)と、雑誌「中央公論」1月号の「特集 普天間移設問題の真実」守屋武昌インタビュー『「日本の戦後」を終わらせたかった』の2つの記事を読み合わせ、05年頃の事態の推移について3者の見方に相違がある点に着目しました。
まずは《「世界」3月号の外岡英俊による記事》からです。
①『02年2月に岸本氏(名護市長)は再選を果たし、7月に政府が基本計画案を定めた。辺野古沖約2.2キロメートルの地点に、リーフを埋め立てて軍民共用空港を建設するという内容だった。』『(04年の)同じ時期に、辺野古沖のボーリング調査の開始を警戒し、住民が座り込みを始めた。・・環境、海洋動植物の保護の点から、建設に反対する人が増えた。』
②『05年の初めから、反対派住民に手を焼いた日米の間で、新たな移設先を模索する動きが始まった。まず候補として登場したのは、名護市の「シュワブ陸上案」と「辺野古沖縮小案」だ。・・・岸本市長と稲嶺知事は、「シュワブ陸上案」には、いずれも反対の立場だった。この年10月、ブッシュ大統領の来日を控えた日米当局は、それまでの「辺野古沖案」を放棄し、新たな案を策定することで合意した。辺野古崎にあるキャンプシュワブの兵舎地区に、海に突き出す形で長さ1800mのヘリポートを造る案だ。・・・稲嶺知事は、新案の撤回を求めた。岸本市長もすぐに反対を表明した。』『政府の新案は、地元合意や世論形成を無視し、基地の恒久化を目指すものと県民は受け止めた。』
③06年3月の市長選で、島袋吉和氏が名護市長に就任。『(前市長の)岸本氏は3月27日に肝細胞がんで亡くなった。その11日後、額賀防衛庁長官と島袋市長は、辺野古崎案について「V字型に滑走路を2本造る」修正案に合意した。・・・だが5月4日の会見で稲嶺知事は辺野古崎への移設について「容認できない」と明言した。』
④『(06年)11月19日に投開票された沖縄知事選では、自公が擁立する仲井真弘多氏が初当選した。仲井間氏はV字案に「現行のままでは賛成できない」としたが、県内移設は容認する姿勢を示していた。』
以上を踏まえた上で、以下のように述べています。
『地元合意を一方的にくつ返し、「辺野古崎案」(陸上)に方針を転換したことが、稲嶺知事、岸本市長ら「条件つき容認派」を硬化させた最大の要因だった。騒音や事故回避の点からいったん決めた沖合案を、明確な説明もなしに日米交渉だけで転換したことが、混乱に拍車をかけたといえよう。』
次に、《「中央公論」1月号の守屋武昌氏に対するインタビュー記事》です。
『この頃(04年4月頃?)、米側は普天間移設問題について、名護市の建設業者が作成し、地元が合意できるとして中央と沖縄の要所に持ち歩いて説明していた浅瀬案(「軍民共用」とした稲嶺構想から「民」の部分を落とした埋め立て工法主体の案)を支持し、それを基に「名護ライト案」を作り上げていた。
しかし、守屋(防衛事務次官)はそれに異を唱え、同じ辺野古にある海兵隊の駐屯地であり、キャンプシュワブの演習場に新たな代替へリポートを建設するというアイデアを持ち出し、米側に受け入れを迫った。・・・守屋の唱える「シュワブ演習場案」は再び息を吹き返し、やがては米国の理解を得るまでになっていく。
守屋 「演習場案」に拘った理由は、①新設はせず、②反対行動を安全に排除でき、③環境派に支持されない埋め立てはせず、④地元の首長に責任を取らせないことだった。』
『05年10月当時の大野功統防衛庁長官が頑張り抜いて米国と合意したのは辺野古の浅瀬の美しい海への影響を最小限に抑えた「キャンプシュワブ宿営地案」だった。(地元には)大臣が事前に非公式に話をしていた・・・額賀志郎新防衛庁長官は何度も地元に入り、政府案に理解を求めた。・・・地元との交渉では、10戸ほど(の住宅)が航空機騒音の被害を受けるというので、調べてみたら、人の住まない農作業小屋が多く、住居は僅かだった。それでも地元の協力を得る視点から額賀長官は、「住宅地の上を飛ばないようにするため、滑走路を2本造る。浅瀬の方に200mほど寄せることになり、埋め立て面積は、その分増えることになる」と決断した。
06年4月7日に防衛庁長官と名護市長、宜野座村長は「基本合意書」に署名・押印した。・・・5月11日に防衛庁と沖縄県は合意書とほぼ同じ内容の「基本確認書」に署名・押印した。それが小泉内閣の時で現在の「V字型案」だ。
しかし、沖縄はこれで交渉を終わらせなかった。小泉内閣から安倍内閣に代わり、稲嶺知事から仲井真弘多知事に代わると、「見直すと選挙で約束した」「県や市は国と合意していない」「危険だ、騒音だ」と言って、「もっと浅瀬に施設を出してくれ」と新たな協議の必要を言い始めた。前の合意を覆す、二枚舌とも言える交渉を主張し、普天間移設問題の先延ばしを図っているようにしか私には見えない。』
ここで小川氏の著書に戻ります。
前報で書いたように、96年6月に小川氏がまとめ上げた普天間飛行場の移設構想が、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。しかしこの案は、有力政治家が、普天間の利害がからむ別の政治家から頼まれて、それ以上、沖縄側と接触しないように小川氏にストップをかけてしまいます。
2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』
以上、外岡英俊氏の論説、守屋武昌氏の話、小川和久氏の主張を比較してみました。
外岡氏の論説によると、05年10月に、政府と米国が、地元との合意を無視して「シュワブ陸上案」に突き進んだことが、現在の混迷の原因であると説いています。一方で守屋氏は、辺野古沖埋め立て案では、環境破壊があり、環境派の反対を受け、これを排除しての工事は困難、との認識でシュワブ陸上案を推したのでした。小川氏によると、この案はもともと小川案です。
そして、「地元が埋め立てを求めている」と一般に言われるものの、これはあくまで「地元の利害関係者が利益を求めている」だけであって、決して沖縄県民全体のことを考えていないように思われます。
小川氏は、現在の埋め立て案について、『美しい海を埋め立てて普天間代替施設の建設を強行しようとすれば、反対派は世界中から環境保護団体を沖縄に集め、一大反対運動を繰り広げることすらできるでしょう。つまり、辺野古の埋め立て案は、つぶれる恐れが大きく、現実的な案とは考えにくいのです』としています。
結局、「地元・沖縄の声」というけれども、それは沖縄県民全体の声なのか、それとも地元埋め立て業者を背景とする有力者の声に過ぎないのか、そこを峻別する必要があります。沖縄県知事や名護市長が何を考えて主張しているのかも定かではありません。
こうして種々の論説を比較してみると、普天間移設問題は、たとえ鳩山前総理の迷走がなかったとしても、決着に持っていくためには大変な努力が必要だし、決着した結果が本当にベスト案であるかどうかは大いに疑問であることがわかりました。
なお、現在のV字滑走路案について沖縄県知事がかつて容認したのか否か、という点で混乱が生じています。外岡氏の論説では『06年5月4日の会見で稲嶺知事は辺野古崎への移設について「容認できない」と明言した』とありますが、守屋氏は『5月11日に防衛庁と沖縄県は合意書とほぼ同じ内容の「基本確認書」に署名・押印した。それが小泉内閣の時で現在の「V字型案」だ』と述べており、両者は矛盾しています。真実はどこにあるのでしょうか。
私は上記の本の他、雑誌「世界」3月号の外岡英俊「検証 普天間移設をめぐる13年間」(後編)と、雑誌「中央公論」1月号の「特集 普天間移設問題の真実」守屋武昌インタビュー『「日本の戦後」を終わらせたかった』の2つの記事を読み合わせ、05年頃の事態の推移について3者の見方に相違がある点に着目しました。
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まずは《「世界」3月号の外岡英俊による記事》からです。
①『02年2月に岸本氏(名護市長)は再選を果たし、7月に政府が基本計画案を定めた。辺野古沖約2.2キロメートルの地点に、リーフを埋め立てて軍民共用空港を建設するという内容だった。』『(04年の)同じ時期に、辺野古沖のボーリング調査の開始を警戒し、住民が座り込みを始めた。・・環境、海洋動植物の保護の点から、建設に反対する人が増えた。』
②『05年の初めから、反対派住民に手を焼いた日米の間で、新たな移設先を模索する動きが始まった。まず候補として登場したのは、名護市の「シュワブ陸上案」と「辺野古沖縮小案」だ。・・・岸本市長と稲嶺知事は、「シュワブ陸上案」には、いずれも反対の立場だった。この年10月、ブッシュ大統領の来日を控えた日米当局は、それまでの「辺野古沖案」を放棄し、新たな案を策定することで合意した。辺野古崎にあるキャンプシュワブの兵舎地区に、海に突き出す形で長さ1800mのヘリポートを造る案だ。・・・稲嶺知事は、新案の撤回を求めた。岸本市長もすぐに反対を表明した。』『政府の新案は、地元合意や世論形成を無視し、基地の恒久化を目指すものと県民は受け止めた。』
③06年3月の市長選で、島袋吉和氏が名護市長に就任。『(前市長の)岸本氏は3月27日に肝細胞がんで亡くなった。その11日後、額賀防衛庁長官と島袋市長は、辺野古崎案について「V字型に滑走路を2本造る」修正案に合意した。・・・だが5月4日の会見で稲嶺知事は辺野古崎への移設について「容認できない」と明言した。』
④『(06年)11月19日に投開票された沖縄知事選では、自公が擁立する仲井真弘多氏が初当選した。仲井間氏はV字案に「現行のままでは賛成できない」としたが、県内移設は容認する姿勢を示していた。』
以上を踏まえた上で、以下のように述べています。
『地元合意を一方的にくつ返し、「辺野古崎案」(陸上)に方針を転換したことが、稲嶺知事、岸本市長ら「条件つき容認派」を硬化させた最大の要因だった。騒音や事故回避の点からいったん決めた沖合案を、明確な説明もなしに日米交渉だけで転換したことが、混乱に拍車をかけたといえよう。』
次に、《「中央公論」1月号の守屋武昌氏に対するインタビュー記事》です。
『この頃(04年4月頃?)、米側は普天間移設問題について、名護市の建設業者が作成し、地元が合意できるとして中央と沖縄の要所に持ち歩いて説明していた浅瀬案(「軍民共用」とした稲嶺構想から「民」の部分を落とした埋め立て工法主体の案)を支持し、それを基に「名護ライト案」を作り上げていた。
しかし、守屋(防衛事務次官)はそれに異を唱え、同じ辺野古にある海兵隊の駐屯地であり、キャンプシュワブの演習場に新たな代替へリポートを建設するというアイデアを持ち出し、米側に受け入れを迫った。・・・守屋の唱える「シュワブ演習場案」は再び息を吹き返し、やがては米国の理解を得るまでになっていく。
守屋 「演習場案」に拘った理由は、①新設はせず、②反対行動を安全に排除でき、③環境派に支持されない埋め立てはせず、④地元の首長に責任を取らせないことだった。』
『05年10月当時の大野功統防衛庁長官が頑張り抜いて米国と合意したのは辺野古の浅瀬の美しい海への影響を最小限に抑えた「キャンプシュワブ宿営地案」だった。(地元には)大臣が事前に非公式に話をしていた・・・額賀志郎新防衛庁長官は何度も地元に入り、政府案に理解を求めた。・・・地元との交渉では、10戸ほど(の住宅)が航空機騒音の被害を受けるというので、調べてみたら、人の住まない農作業小屋が多く、住居は僅かだった。それでも地元の協力を得る視点から額賀長官は、「住宅地の上を飛ばないようにするため、滑走路を2本造る。浅瀬の方に200mほど寄せることになり、埋め立て面積は、その分増えることになる」と決断した。
06年4月7日に防衛庁長官と名護市長、宜野座村長は「基本合意書」に署名・押印した。・・・5月11日に防衛庁と沖縄県は合意書とほぼ同じ内容の「基本確認書」に署名・押印した。それが小泉内閣の時で現在の「V字型案」だ。
しかし、沖縄はこれで交渉を終わらせなかった。小泉内閣から安倍内閣に代わり、稲嶺知事から仲井真弘多知事に代わると、「見直すと選挙で約束した」「県や市は国と合意していない」「危険だ、騒音だ」と言って、「もっと浅瀬に施設を出してくれ」と新たな協議の必要を言い始めた。前の合意を覆す、二枚舌とも言える交渉を主張し、普天間移設問題の先延ばしを図っているようにしか私には見えない。』
ここで小川氏の著書に戻ります。
前報で書いたように、96年6月に小川氏がまとめ上げた普天間飛行場の移設構想が、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。しかしこの案は、有力政治家が、普天間の利害がからむ別の政治家から頼まれて、それ以上、沖縄側と接触しないように小川氏にストップをかけてしまいます。
2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』
以上、外岡英俊氏の論説、守屋武昌氏の話、小川和久氏の主張を比較してみました。
外岡氏の論説によると、05年10月に、政府と米国が、地元との合意を無視して「シュワブ陸上案」に突き進んだことが、現在の混迷の原因であると説いています。一方で守屋氏は、辺野古沖埋め立て案では、環境破壊があり、環境派の反対を受け、これを排除しての工事は困難、との認識でシュワブ陸上案を推したのでした。小川氏によると、この案はもともと小川案です。
そして、「地元が埋め立てを求めている」と一般に言われるものの、これはあくまで「地元の利害関係者が利益を求めている」だけであって、決して沖縄県民全体のことを考えていないように思われます。
小川氏は、現在の埋め立て案について、『美しい海を埋め立てて普天間代替施設の建設を強行しようとすれば、反対派は世界中から環境保護団体を沖縄に集め、一大反対運動を繰り広げることすらできるでしょう。つまり、辺野古の埋め立て案は、つぶれる恐れが大きく、現実的な案とは考えにくいのです』としています。
結局、「地元・沖縄の声」というけれども、それは沖縄県民全体の声なのか、それとも地元埋め立て業者を背景とする有力者の声に過ぎないのか、そこを峻別する必要があります。沖縄県知事や名護市長が何を考えて主張しているのかも定かではありません。
こうして種々の論説を比較してみると、普天間移設問題は、たとえ鳩山前総理の迷走がなかったとしても、決着に持っていくためには大変な努力が必要だし、決着した結果が本当にベスト案であるかどうかは大いに疑問であることがわかりました。
なお、現在のV字滑走路案について沖縄県知事がかつて容認したのか否か、という点で混乱が生じています。外岡氏の論説では『06年5月4日の会見で稲嶺知事は辺野古崎への移設について「容認できない」と明言した』とありますが、守屋氏は『5月11日に防衛庁と沖縄県は合意書とほぼ同じ内容の「基本確認書」に署名・押印した。それが小泉内閣の時で現在の「V字型案」だ』と述べており、両者は矛盾しています。真実はどこにあるのでしょうか。
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