弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

杉並の塚山遺跡と鎌倉橋

2007-01-13 23:33:10 | 杉並世田谷散歩
京王線と井の頭線は、東京都杉並区の明大前駅で交差します。明大前駅より西側の地域において、神田川は京王線(南側)と井の頭線(北側)の間を流れています。
京王線の上北沢駅と井の頭線の浜田山駅とは、ちょうど南北の関係にあり、両駅を結ぶ道路は鎌倉街道あるいは鎌倉通りと呼ばれているようです。この鎌倉街道が神田川を越えるところにかかる橋は、鎌倉橋と呼ばれています。
  
写真左は鎌倉橋を北側から写した写真、右は鎌倉橋から神田川を写した写真です。

鎌倉橋のすぐ南西側には塚山公園があり、この公園一帯は川から一段高い丘陵を形成しています。上の左の写真の背景に見える樹林地帯がそれです。この公園の一番奥(鎌倉橋から見て)に塚山遺跡が存在します。縄文時代中期の竪穴式住居跡です。
説明によると、この遺跡は昭和10年頃から昭和48年頃までの間に断続的に発掘され、最終的には20軒以上の竪穴式住居跡が見つかり、縄文時代中期の環状集落の跡であることが確かめられました。
  

写真の左は復元された竪穴式住居、右は発掘時の再現です。
集落の位置は、神田川のすぐ近くの丘の上、つまり、すぐに水を手に入れることができ、かつ水害にも遭わないということで理にかなっています。

同じく説明によると、約1万年も続いた縄文時代は、寒期と暖期のくり返しで、集落の周りの植生も変化します。縄文時代中期は今よりも涼しかったと考えられており、今の武蔵野の雑木林のような、くぬぎ、かし、しい、栗、とちなどの、縄文人にとって大切な食料となっていた樹木が生えていた、ということです。

一説によると、縄文時代の日本列島の人口は、東日本に20万人、西日本に2万人だったと推定されています。縄文人の主食である栗などの樹木の生えている量が、その土地の人口を決定していたと考えられ、東日本にそれらの樹木が多かったということでしょう。

ところで鎌倉街道と鎌倉橋についてです。
鎌倉橋のたもとにある説明文によると、鎌倉橋について「武蔵名勝図会」には「民高井戸の境にあり。古の鎌倉街道にて・・・いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とあるそうです。
鎌倉街道は、東国御家人と鎌倉を結ぶ道で、鎌倉~室町時代に繁栄したものの、江戸時代以降次第に衰え、後半期には一部を残すだけになったようです。
鎌倉橋の名の由来について、武蔵名勝図会には「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていますが、一説には、1457年に太田道灌が江戸城を築くとき、下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたといわれているようです。
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