弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

和田堀廟所と塩硝蔵

2006-09-24 00:00:31 | 杉並世田谷散歩
9月23日、京王線の明大前駅から甲州街道を渡る歩道橋を歩いたら、なぜかお年寄りの往来が普段より非常に多いのに気付きました。いったい何だろう、とそのときはわからなかったのですが、散歩で築地本願寺和田堀廟所の前を通って気付きました。本日はお彼岸のお中日だったのですね。
築地本願寺和田堀廟所は、京王線井の頭線の明大前で降りて甲州街道を越える歩道橋を渡ると、すぐ左にあります。私が通りかかったとき、ちょうど本堂で焼香を受け付けていました。この廟所で義父の法事を営んだこともあり、お焼香してきました。

和田堀廟所の前に掲示されている案内板によると、関東大震災で築地の本願寺が焼失したとき、再建に当たって墓地を築地からここに移転したとのことです。ところが昭和20年5月25日、今度は空襲によってこの和田堀廟所も消失します。戦後になって再建されました。
この廟所には、樋口一葉、九条武子、伊藤巳代治、藤原銀次郎、水谷八重子、古賀政男らの墓があるそうです。

この和田堀廟所と隣り合って明治大学和泉校舎があります。

和田堀廟所と明大キャンパスは、ともに陸軍火薬庫の跡地の払い下げを受けて建設されたものです。
江戸時代、この地は江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用されていました。煙硝倉と書きたいところですが、現地の説明書には塩硝蔵と書かれていました。
明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したそうです。その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開されましたが、大正の末期に廃止されました。
明治の末期まではこの周辺には多くの狐や狸が棲息し、人を化かしたと伝えられているそうです。

9月23日、京王線の明大前駅から甲州街道を渡る歩道橋を歩いたら、なぜかお年寄りの往来が普段より非常に多いのに気付きました。いったい何だろう、とそのときはわからなかったのですが、散歩で築地本願寺和田堀廟所の前を通って気付きました。本日はお彼岸のお中日だったのですね。
築地本願寺和田堀廟所は、京王線井の頭線の明大前で降りて甲州街道を越える歩道橋を渡ると、すぐ左にあります。私が通りかかったとき、ちょうど本堂で焼香を受け付けていました。この廟所で義父の法事を営んだこともあり、お焼香してきました。

和田堀廟所の前に掲示されている案内板によると、関東大震災で築地の本願寺が焼失したとき、再建に当たって墓地を築地からここに移転したとのことです。ところが昭和20年5月25日、今度は空襲によってこの和田堀廟所も消失します。戦後になって再建されました。
この廟所には、樋口一葉、九条武子、伊藤巳代治、藤原銀次郎、水谷八重子、古賀政男らの墓があるそうです。

この和田堀廟所と隣り合って明治大学和泉校舎があります。

和田堀廟所と明大キャンパスは、ともに陸軍火薬庫の跡地の払い下げを受けて建設されたものです。
江戸時代、この地は江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用されていました。煙硝倉と書きたいところですが、現地の説明書には塩硝蔵と書かれていました。
明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したそうです。その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開されましたが、大正の末期に廃止されました。
明治の末期まではこの周辺には多くの狐や狸が棲息し、人を化かしたと伝えられているそうです。

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