白鳥の湖は小高い場所にある。次へどこへ行こうか?と。
こどもの国の桜ポイントのWEBページをプリントアウトした紙を取り出した。
まさか園内がこんなに広いと思わなかったから、園内が多摩丘陵をそのまま使用して作ってあるため、高低差が多いとも予想してなかったから、うまく回らないと桜ポイント全て回れなくなりそうで怖い。体力温存で、桜ポイントを余さず回るには…。
桜MAPによれば、次の桜ポイントはせせらぎです。白鳥の湖からだと…。
う…。更に坂道を降りないといけません。
マジか~…
MAPがあるんだから、最初から使えよっああ。ちょっと前の自分を殴ってやりたいっ!
ええ。そうなんです。桜堤&椿の森の丘陵ポイントで元々少ない体力がだいぶん目減りしちゃったの…。(アホか~~っ!)
時刻は既に11時45分。入園してもう1時間45分も経過してました。(いつの間に…)
愚痴りつつもMAPで取りあえず最短距離を…。
斜面にすみれが可憐に咲いています。(斜面だと、簡単に写せるなあ~)
頭の上に満開の桜があるので、足元にはあまり視線を向けないけど…。春です。スミレだけでなく小さな花も足元で元気一杯咲いてます。
舗装された道が下方に見える。斜面中腹から桜の木の半ばあたりを眺めつつ歩いてましたが、下方の道は歩き易そう~。
いそいそとアスファルトに降りると…。
何コレっ!?
帰宅してから調べた。実はアスファルトの道に沿っていくつもあるトンネルは、戦争遺産でした。
園内のあちこちのがけや土手沿いに緑の鉄扉があります。これは第二次大戦中に使われていた弾薬庫の名残です。
こどもの国の場所は戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送したり、製造したりしていました。
弾薬庫は計33基つくられましたが、現存するのは10基のみ。
弾薬庫は一見トンネルのようですが、実は違います。土手を削って更地にした後、そこに厚さ30センチのコンクリート枠で部屋を造ります。その上に厚さ1メートルの土をかぶせました。1基の弾薬庫を造るのに必要なコンクリートはミキサー車50台分でした、
敗戦後、61年に「こどもの国」用地として日本に返還されるまで、米軍弾薬庫として接収されていたので、結果的に都会の中にあって豊かな自然がそのまま残されました。(ホームページより)
し~ん…。
土地に歴史ありなんですね。つーか、弾薬庫を撤去するのも大変だから残ってるんだろうな…。
桜堤で撮影してた時、なんか地面からコンクリートの筒が突き出してる箇所がいくつかあって、邪魔だなぁ~と思ったのですが、あれはかつての弾薬庫の換気塔だったのね。
実は…。と。こどもの国の歴史に、後から知った事実に今に生きる私は沈黙するのみ。
なんかまたあった!何コレっ。また戦争関連なの?でも…。敬礼してるのってこどもだよね?キュロットパンツにハイソックス。更にこの帽子??訳わから~~んっ。
無名戦士の記念碑:三指の礼をするボーイスカウトの銅像とレリーフ。
弾薬庫跡の入口を利用して建てられました。
「第二次大戦中、激戦の南洋諸島のある島でのお話。
重傷を負った一人の米兵が倒れていました。
そこへ剣付きの銃を持った日本兵が通りかかります。
気づいた米兵は「あ。殺される」と思った瞬間、気を失ってしまいました。
しばらくして目覚めた米兵。もう日本兵はいません。
そばに落ちていた白い紙切れに気づき、何気なくポケットに入れます。
そのまま野戦救護所に担ぎ込まれ、一命をとりとめました。
その時拾った紙切れに、こんなことが書かれていました。
「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。
ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。
それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。
傷には包帯をしておいたよ。
グッドラック」
戦後、この米兵は米国のボーイスカウト連盟本部を訪ね、この話を伝えました。
1952年、米国のスカウト本部の役員が来日した際、この話を日本側に伝えました。
米兵は本名を明かしていません。
日本兵は戦死したようです。
無名のスカウト戦士の間のできごとです。
この無名の日本兵の行動こそ日本の武士道精神、スカウト精神の結晶です。」
も。泣きそう~。つーか、上の文章を打ち込みながら涙がこみ上げてきた。
私は命の瀬戸際で正しい事で出来るか?
ガツンとくるなあ…。
あなたは小学生の時、ボーイスカウト活動をした事ありますか?
実は私はある。ベージュの制服があった。男の子は紺色の制服だった。
あれ。やっとくべきだよ~。いい人になれる気がする。
今日は脱線してしまった!
ちと長くなってので記事をいったん切って続きは明日。
人気ブログランキングへ
こどもの国の桜ポイントのWEBページをプリントアウトした紙を取り出した。
まさか園内がこんなに広いと思わなかったから、園内が多摩丘陵をそのまま使用して作ってあるため、高低差が多いとも予想してなかったから、うまく回らないと桜ポイント全て回れなくなりそうで怖い。体力温存で、桜ポイントを余さず回るには…。
桜MAPによれば、次の桜ポイントはせせらぎです。白鳥の湖からだと…。
う…。更に坂道を降りないといけません。
マジか~…
MAPがあるんだから、最初から使えよっああ。ちょっと前の自分を殴ってやりたいっ!
ええ。そうなんです。桜堤&椿の森の丘陵ポイントで元々少ない体力がだいぶん目減りしちゃったの…。(アホか~~っ!)
時刻は既に11時45分。入園してもう1時間45分も経過してました。(いつの間に…)
愚痴りつつもMAPで取りあえず最短距離を…。
斜面にすみれが可憐に咲いています。(斜面だと、簡単に写せるなあ~)
頭の上に満開の桜があるので、足元にはあまり視線を向けないけど…。春です。スミレだけでなく小さな花も足元で元気一杯咲いてます。
舗装された道が下方に見える。斜面中腹から桜の木の半ばあたりを眺めつつ歩いてましたが、下方の道は歩き易そう~。
いそいそとアスファルトに降りると…。
何コレっ!?
帰宅してから調べた。実はアスファルトの道に沿っていくつもあるトンネルは、戦争遺産でした。
園内のあちこちのがけや土手沿いに緑の鉄扉があります。これは第二次大戦中に使われていた弾薬庫の名残です。
こどもの国の場所は戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送したり、製造したりしていました。
弾薬庫は計33基つくられましたが、現存するのは10基のみ。
弾薬庫は一見トンネルのようですが、実は違います。土手を削って更地にした後、そこに厚さ30センチのコンクリート枠で部屋を造ります。その上に厚さ1メートルの土をかぶせました。1基の弾薬庫を造るのに必要なコンクリートはミキサー車50台分でした、
敗戦後、61年に「こどもの国」用地として日本に返還されるまで、米軍弾薬庫として接収されていたので、結果的に都会の中にあって豊かな自然がそのまま残されました。(ホームページより)
し~ん…。
土地に歴史ありなんですね。つーか、弾薬庫を撤去するのも大変だから残ってるんだろうな…。
桜堤で撮影してた時、なんか地面からコンクリートの筒が突き出してる箇所がいくつかあって、邪魔だなぁ~と思ったのですが、あれはかつての弾薬庫の換気塔だったのね。
実は…。と。こどもの国の歴史に、後から知った事実に今に生きる私は沈黙するのみ。
なんかまたあった!何コレっ。また戦争関連なの?でも…。敬礼してるのってこどもだよね?キュロットパンツにハイソックス。更にこの帽子??訳わから~~んっ。
無名戦士の記念碑:三指の礼をするボーイスカウトの銅像とレリーフ。
弾薬庫跡の入口を利用して建てられました。
「第二次大戦中、激戦の南洋諸島のある島でのお話。
重傷を負った一人の米兵が倒れていました。
そこへ剣付きの銃を持った日本兵が通りかかります。
気づいた米兵は「あ。殺される」と思った瞬間、気を失ってしまいました。
しばらくして目覚めた米兵。もう日本兵はいません。
そばに落ちていた白い紙切れに気づき、何気なくポケットに入れます。
そのまま野戦救護所に担ぎ込まれ、一命をとりとめました。
その時拾った紙切れに、こんなことが書かれていました。
「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。
ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。
それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。
傷には包帯をしておいたよ。
グッドラック」
戦後、この米兵は米国のボーイスカウト連盟本部を訪ね、この話を伝えました。
1952年、米国のスカウト本部の役員が来日した際、この話を日本側に伝えました。
米兵は本名を明かしていません。
日本兵は戦死したようです。
無名のスカウト戦士の間のできごとです。
この無名の日本兵の行動こそ日本の武士道精神、スカウト精神の結晶です。」
も。泣きそう~。つーか、上の文章を打ち込みながら涙がこみ上げてきた。
私は命の瀬戸際で正しい事で出来るか?
ガツンとくるなあ…。
あなたは小学生の時、ボーイスカウト活動をした事ありますか?
実は私はある。ベージュの制服があった。男の子は紺色の制服だった。
あれ。やっとくべきだよ~。いい人になれる気がする。
今日は脱線してしまった!
ちと長くなってので記事をいったん切って続きは明日。
人気ブログランキングへ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます