阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。あちこちでShootする写真日記。お遊びもあり。

語られない惨禍  今から79年前の今日 3月10日 東京大空襲     B 29 無差別爆撃と被害 動画

2024年03月10日 | SNS・既存メディアからの引用記事

News Up 語られない惨禍 東京大空襲   NHK 引用先 ⇒ こちら

2017年 3月10日 17時10分  NHK放送番組から

「あの夜、炎が燃え移った赤ちゃんを背負って、気が狂ったように走り回る母親や、火だるまになって転げ回る子どもの姿が今も目に焼き付いています」

 “あの夜”とは72年前の3月10日、およそ10万人が犠牲になった東京大空襲の日です。

しかし東京でおよそ100人の中学生に聞いたところ、「戦争の体験」を耳にしたことがあるのは数名だけでした。

10万人を超える人が命を奪われたその惨禍に比べ、東京では語られることがあまりに少ない東京大空襲。その意味を考えようと取材を始めました。

     焼夷弾32万発 10万人が犠牲に

取材に訪れたのは民間団体が運営する東京江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」です

 東京大空襲は、終戦が近づく昭和20年3月10日の未明。

今は東京スカイツリーが立つ墨田区や江東区などの下町の空に、およそ300機の爆撃機が現れ、大量の焼夷弾が落とされたのです。

その数32万発、およそ10万人の命が奪われました。アメリカ軍は、家屋を効率よく燃やすための実験を重ねてから空襲に向かっていました

人口が密集する市街地を狙った無差別爆撃でした。 

資料センターには大空襲の悲劇を伝えようと、焼夷弾や遺品などが展示されています。 

色あせた小さな着物は、母親に背負われていた生後7か月の女の子が着ていたものです。

突然の空襲を受けて逃げ惑う中、母親は足を滑らせ、冷たさが肌に突き刺さるような川に転落します。

「子どもだけでも助けて!」と叫ぶと、しばらくして誰かに引き上げられました。

しかし、眠っていると思っていた背中の女の子は、冷たい水で着物がぐっしょりとぬれて、すでに亡くなっていました。

着物は、今104歳となる母親が長らく形見として手元に残していたものでした。 


“悲劇” 伝えることの落差


戦時中、東京への空襲は100回を超え、この女の子のように空襲の犠牲者の40%近くが、20歳未満の子どもたちだったという調査結果もあります。

生きていれば、今、隣にいたかもしれない多くの命が一夜で失われたのです。

それほどの悲劇ですが、一方で、厳しい現実があります。一概に比べられるものではありませんが、

広島の原爆被害を伝える広島平和記念資料館を訪れた人は去年169万1467人に上りました。

しかし、「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れた人は去年1万4400人にとどまります。 

原爆と焼夷弾、原爆ドームのようなシンボルの有る無しなど、いくつも違いはありますが、あまりにかけ離れた数字です。 

また戦災資料センターで空襲の実態を伝える語り部の一人、80歳の二瓶治代さんの体験談を聞く授業を取材した時にも厳しい数字にぶつかりました。 

授業に参加したのは、同じく空襲の被害を受けた東京八王子市の中学生およそ100人。

「戦争の体験を聞いたことがありますか?」という質問に手を挙げた生徒は3人か4人だったのです。

すべての中学校に当てはまるケースではありませんが、終戦から時がたつなか、大空襲を受けた東京で、その恐ろしさ、

受けた悲しさ、悔しさ、絶望感。そうした戦争から派生する思いを聞くことなく大人になる子どもが増えていると感じます。 


先の戦争で多くの犠牲者が出た広島県や沖縄県出身のそれぞれ40代の人に話を聞いてみましたが、2人とも小学生のころから授業で、

また親族や知り合いから原爆の悲惨さ、地上戦の悲劇を聞く機会があったそうです。東京では空襲が、そして戦争がもたらした惨禍があまり伝えられていない気がします。

 
イギリス人からの問いかけ

戦災資料センターで取材をしていると、同じような指摘を意外な人から受けました。

空襲後の被害の写真をじっと見つめていたイギリス人のフィリップ・ブラウンさんです。声をかけてみると、

これまで広島や長崎、それに沖縄などにも足を運んだことがあるそうです。

 戦災資料センターに来たのはこの日が初めて。広島などとの違いに驚いたといういうことです。

 
「街を歩いても私は東京大空襲についての案内板やモニュメントは見つけることができませんでした。

広島や沖縄などには街の至るところに戦災を今に伝えるものがありました。

ここはまるで違う国のようです。どうして日本は平和のために、この歴史的な出来事を広く伝えようとしないのですか?」と言うのです。答えることができませんでした。

 今と過去

なぜこうした事態になっているのか。東京の空襲被害に詳しい青山学院女子短期大学の山本唯人助教に聞きました。

 山本さんは「原爆の悲惨さを伝えることは、戦後の冷戦の影響もあり、国際社会で平和運動のシンボルのようになっている。

また沖縄も米軍基地を抱えているため、沖縄戦は今に続く問題となっている。

一方、東京大空襲は大きな被害を受けながらも、例えれば、数ある戦争被害の一つとしてしか扱われてこなかった

公的な資料館はなく社会的な認知が広がっていない」と話していました。 


広島や沖縄の戦禍は今に続くものとして、東京大空襲の戦禍は過去のものとして扱われているという指摘でした。 

悲劇の記憶をつないで

果たして過去のものなのでしょうか。語り部の二瓶さんの経験を聞いてみました。

  当時、私は8歳で、両親と兄弟と暮らしていました。戦時中とはいえ、今の子どもたちと変わらない幸せな家族との日常でした。

その日常が突然、空襲で断ち切られたのです。深夜、異変に気付いた父親に起こされて逃げ惑いました。

住み慣れた街は辺り一面が火の海で、道路には炎がゴウゴウと渦を巻いて川のように流れていました。

炎が燃え移った赤ちゃんを背中におぶったまま気が狂ったように走る母親の姿や、火だるまになって道路に転げ回る子どもたち。

大勢の人たちが生きたまま焼き殺され、街は泣き叫ぶ人の悲鳴に包まれました」

 

地獄絵図の中を二瓶さんは逃げ続けます。しかしまだ8歳、限界が来ました。

 「私は恐怖と疲労で倒れてしまいました。すると父が私を炎から守ろうと抱きかかえるように道路に伏せたのです。

父の上には逃げ惑う人たちが次から次に覆いかぶさり私たちは下敷きになりました。

上にいた人たちは焼かれて亡くなり、私は多くの遺体の山の中から引きずり出されて奇跡的に一命を取りとめました。

焼き尽くされた街を見渡すと墨のように真っ黒になった遺体が至るところに転がっていました。

目に焼き付いているのは、小さな子どもを胸に抱いたままの姿で亡くなった数多くの親子です」。 

一歩違えば、自分も父親も墨のようになって焼け死んでいたかもしれない。運だけに左右されて命が守られた二瓶さんはさらに次のように語りました。 

「あれから72年がたった”今”でも世界では戦争が続いています。

多くの庶民が犠牲になっています。普通の暮らしを送っていた人たちが突然亡くなるのが戦争の本当の姿です。

今後、日本が間違った道に進むことがないよう、若い人たちが真剣に考えてほしいんです」。 

二瓶さんが語り続けているのは未来のためでした。去年、19人いた戦災資料センターの語り部は、今、二瓶さんも含めて13人に減りました。

空襲を経験した人の記憶がどんどんと記録に変わりつつあります。

私たちは、ただ記録を引き継ぐのではなく、記憶の中にある思いを胸に刻み込み、未来のためにそれを語り伝えなければならない、そう感じました。

東京大空襲 B 29 無差別爆撃と被害  動画石川光洋の撮影したスチル写真

石川光洋 Wikipediaから部分引用

石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、警視庁に所属していた警察官・写真家である。 
警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。

東京大空襲
 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際も、その惨状を33枚の写真に残した[1]。空襲開始後に両国警察署(現・本所警察署)にかろうじて到達したが、猛烈な風と煙と火の粉のために撮影はできず、目前で多数の市民が死んでいくのをどうすることもできなかったという[2]。カメラを抱いて逃げまどい、奇跡的に生存、夜が明けてから被害の様相を撮影した。このときの様子については「無惨な同胞の死体にカメラを向けることは、死者から叱られるようで一番つらかった。然し使命の前には非情にならざるを得なかった。合掌をしながらそこを立ち去り警視庁まで歩いて帰った」と戦後に記している[2]。 
この後、5月25日の山の手空襲まで光陽は記録写真を撮影した。光陽が撮影した空襲の記録写真は、ドーリットル空襲での写真も含め600枚以上にのぼる。 
戦時中は一般市民が空襲の被災現場を写真に撮影することは事実上禁じられていた[3]ため、光陽が撮影した一連の写真は空襲の被害を伝える貴重な映像となった。 


戦後
敗戦を迎え、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領が始まる。GHQは日本側の空襲被害状況の公式記録が全く存在しない[4]事を知ったが、光陽だけが唯一空襲の状況を撮影していた事実を間もなく突き止める。光陽はGHQから空襲被害状況を撮影したネガを提出せよという命令を受けるが、頑なにこの命令を拒否する。一方、警視庁は「空襲被害写真は光陽が個人的に撮影したもの」と責任追及を避ける。GHQは光陽がネガを絶対に提出しない決意があることを知りネガを提出させる事は諦め、ネガをプリントした写真の提出という形で終わらせた。しかし光陽はGHQにネガが押収される事を防ぐために、自宅の庭に埋めて保存した。光陽がGHQからネガを守りぬいたことにより、東京大空襲の惨状を視覚的に捕らえる『写真』という形で後世に残せる事となった。

後年光陽はこの時の事を振り返り「本当は戦争の写真は撮りたくない」と語っている。 
戦後も警察官として1963年(昭和38年)まで活躍し、1989年(平成元年)に85歳で死去した。

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3月11日追加掲載  2024.3.8付東京新聞朝刊

コメント (4)
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 半藤一利さんの戦時下の小中学生時代の体験話 「15歳の東京大空襲」を読んだ。 

2024年03月10日 | 乱読は楽しい

人はあまりに辛く無惨な体験をすると、脳味噌からその実体験を外そうとする・・らしい。

無意識にそうすることで何とか平時の社会の規範に従って暮らすことが出来るのかも知れない。

半藤さんも女性編集者に再三再四請われて、ようやくこの本を書き下ろす筆を執ったようだ。

   彼もまた神戸一中時代の小松左京と同じように、いらんことを仰山言うて当時の配属将校や日本は勝つと信じ込んでいた教師や先輩に

何十回 何百回と数えきれないほどびんたを張られ ボコボコに殴られている。

半藤さんがおぼれ死にかけた平井橋は私のウォーキングコースの一つの中にある。この橋のかかる中川とその周辺を含めて

1945年3月10日夜半の米軍のB29爆撃隊による焼夷弾絨毯攻撃で東京の下町の民間人が2時間ほどで10万人が焼き殺された。

(B29のBは ボーイング社のB)

 半藤さんが生き延びたのはほんの紙一重の巡り合わせだった。生き延びたわずかな人の中に半藤一利さんがいてくれたおかげで

いまこの本を読むことが出来る。

東京大空襲 資料

2022年12月8日の本ブログに掲載

→しばらく遠ざかっていた水辺と水鳥を見たくて、歯医者さんの3カ月ごとの口の中のクリーニングが終わってから 久しぶりに旧中川の定点観測ポイントに行きました。

この旧中川の水中で 78年前の昭和20年3月10日の夜半から11日未明にかけてのアメリカ空軍の焼夷弾による民間人無差別殺戮のため約3000人弱が焼け死にか溺死した。

 この時東京の墨田区江東区江戸川区など下町の民間日本人はわずか二時間で約10万人が焼き殺された。

半藤一利さんが平井橋から旧中川に飛び込んで浮かび上がったとき 偶然小舟がすぐ横にいて救い上げてくれたが その船がいなければ、

「日本の一番長い日」などの半藤さんの貴重な著作物の数々はこの世に現れなかった。

   ロイター通信:[ロンドン 八月23日 ロイター] - 2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、数万人の死者、数百万人の避難民を出し、

世界中に経済危機の種をまいた。

 国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は8月22日、侵攻開始から民間人5587人が死亡し、7890人が負傷したとの推計を発表した。

実際の犠牲者数はさらに多いとされている。 OHCHRによると、死傷者の多くは砲撃やミサイル、空爆などの爆発によって犠牲になったという。引用元。

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2010年03月10日(水) 阿智胡地亭の非日乗 掲載
1945年3月10日東京



§3月9日付時事ドットコムから引用

「▼東京大空襲 米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945(昭和20)年に入ると全国の都市に拡大した。

被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。

爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的だった。

  特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けた。

3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。

2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失した。

焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されている。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失した。」

§B29百二十機深夜帝都を空襲(1945年3月11日付『読売報知新聞』)

〔大本営発表〕(昭和20年3月10日12時)本3月10日零時過より2時40分の間B29約120機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。

右盲爆により都内各所より火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分其の他は8時頃迄に鎮火せり。現在迄に判明せる戦巣次の如し。撃墜15機、損害を与へたるもの約50機。

去る4日以来、最近夜間数次にわたる多数機の来襲は、夜間大挙空襲の兆を濃化しつつ敵は9日深夜より暁間にかけて、この最初の大規模たる夜間空襲を実施した。

すなはち、敵機は先づ小数機を以て、わが電波探知横の妨害を図り、次で主力の単機毎に3干乃至4干メートル、最も低きは千メートルの超低空を以て

帝都に侵入焼夷弾に依る市街地盲爆を行ひ、その他各10機内外宛を以て干葉、福島、宮城、岩手の各県にも来襲した。

これに依り、東京都内各所には相当の火災を生じ、再び宮城内の宮内省主馬寮附近にも焼夷弾が落下、午前2時35分までに消火したが

都内各町の火災も午前8時頃までには軍、官、民一致の敢闘に依り全く鎮火せしめた。その他各県の被害は盛岡、平附近に若干の損害があつたのみであつた。以下略

  ☆今でもウソつきの代名詞のように使われる「大本営発表」。

戦前から戦後もそして今も、普通の「くにたみ」に対しては、本当のことを隠してウソをついてもいいと考えるエライさん方が、お国の上に居続けるわが日本国。

臭いものにはふた、都合の悪いことはなかったことにする・・

 これは江戸時代から我々列島人の中に住み着く【宿痾】か【痼疾】か、いや島国内で権力を握った階層の知恵なのかも。

 この列島内ではおとなしい「くにたみ」相手には通るけど、開国してほぼ150年、相手国側の公式文書公開で、都合の悪い蓋が開いてしまう。

虚言を国会の場で吐いた人、吐かせた人。まさか政権交代が列島で起こるとは想像してなかっただけのことですよね。

 政権交代がなければ「密約などない」と、今でも知らぬ存ぜぬでこれまで通り押し通していたんでしょうが、

実はそのこと自体が「アメリカの公文書はでっち上げだ、ウソだ」と言っていることになり、アメリカの苛立ちをかっていたことに気づかなかったことが

前の政権与党と外務省には惜しまれる?

 

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79年前の今日 3月10日の東京大空襲を子供の時に体験した職場の先輩 高橋弘泰さん        

2024年03月10日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
 

2009年3月10日のブログの記事を読まれた高橋弘泰さんからメールを頂きました。その一部をそのまま引用させて頂きます。

その日被災地から約15キロ離れた大田区・久が原から見た、長く長く横たわった真っ赤な帯体は6歳の身にも異常で今でも脳裏に焼きついてます。

空襲警報で近くの防空壕へ。

B29による焼夷弾ですぐそばが焼かれ、火に追われながら離れた大きな防空壕に逃げたこと。(近くの高射砲陣地からは全く撃ち落せず)

疎開した埼玉(蕨)では小一の学校帰り、機銃掃射をうけました。父親の戦死からいろいろと(ありました)。」

 以下は返信したメールの一部です。

「おそらく私が存じ上げている方の中で、東京で空襲を直接体験され、記憶されている方は貴兄以外にはおられないと思います。

私は信州に疎開していたこともあり、戦災体験をあまり覚えていませんが、九州若松で小学校に入るとどのクラスにも7,8人は父親を戦死でなくした生徒がいました。

 当時、休日に小倉に親と出ると駅周辺にはまだ戦災浮浪児と呼ばれた同い年くらいの靴磨きの子供が多数いたことを覚えています。

 本当にアメリカの9.11なんかの比ではない一般市民相手の無差別大量虐殺を日本各地でアメリカから受けたことを忘れてはいけないと思います。

長年戦勝国のアメリカに遠慮していて自己規制していた?各地の戦災体験者も、ここ10年ほどようやく口を開き、

二度とああいうことをどこの国民も味わうことがないように記録に残し始めていますね。」

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03月09日に目に留まったSNS・メディアの記事

2024年03月10日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

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東日本大震災が起こった翌年の [ 2012年02月08日(水)の阿智胡地亭の非日乗ブログ ] から

2024年03月10日 | 東日本大震災ブログ
2012年02月08日(水)
 
福島県の児童生徒が例年の3倍を越えて減少
 
県内園児、児童、生徒1万7160人減 減少幅3倍超
(2012年2月7日 福島民友ニュース)

 県は6日、本年度の学校基本調査結果を発表した。昨年5月1日現在の県内の園児、児童、生徒の合計人数は25万3619人で、前年度比で1万7160人減少した。

近年は人口の減少傾向で毎年5000人程度減少していたが、東京電力福島第1原発事故に伴う子どもの県外避難により、減少幅は前年度比で3倍超となった。調査時点よりも県外避難者は増加していることから、県は今回発表した人数よりも実際の人数はさらに少ないとみている。

 幼稚園児数は2万6852人で、前年度比で3174人減少した。小学生は同9240人減の10万8428人となった。中学生は同2489人減の5万9377人、高校生(通信課程を除く)は同2257人減の5万8962人。

☆東京に本社がある、本省の記者クラブ加入の大手新聞テレビには掲載されない報道? 大新聞大テレビ大週刊誌の経営者たちの顔が、どちらを向いているか、この一年の事実が示してくれている。
2012年2月8日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
新聞・テレビ・雑誌から / 東日本大震災・原発 |
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福島県のセシウム検出量アップの原因
 
福島のセシウム急上昇は土ぼこり混入が理由
(2012年2月7日 福島民友ニュース)

 県は6日、先月2日に県原子力センター福島支所(福島市)で雨などによる放射性物質の降下量の測定結果が急上昇した要因について、「風で舞い上がった地表のほこりが測定容器に混入し、数値が上がった可能性がある」との見解を発表した。

 県は県原子力センター福島支所の2階屋上に測定容器を設置し、降下物の放射性物質を調査している。放射性セシウムは1平方メートル当たり100ベクレル程度で推移していたが、2日は432ベクレルが検出された。

2012年2月8日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
新聞・テレビ・雑誌から / 東日本大震災・原発 |
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シリーズ原子力発電を問う。日本では原発事故は起きない神話を作ったムラビトたち
 
NHK,BS世界のドキュメンタリー「シリーズ原子力発電を問う」より。戦後間もない1952年、アメリカの大手電力関係企業ゼネラル・エレクトリック(GE)社は、原子力発電を推し進めるため、その未来を謳った広報用ショートフィルムを制作した。そのタイトルは“A is for Atom”(“すべては原子力から始まる”)。
原子力でパワーアップした巨人が送電線を世界中に張り巡らせ、世界を変えていくという筋立てだ。それから40年たった1992年、このショートフィルムと同じタイトルのドキュメンタリーがBBCで放送された。アメリカ、ソビエト、イギリスなどの先進国や大手企業が進めてきた原子力技術開発に疑問を投げかけ、安全性がないがしろにされてきた実態に警鐘を鳴らす番組だ。イギリスの電力省関係者は「開発が進むにつれ、原子力発電はコスト面で火力発電とそれほど変わらいことが分かってきたが、巨額の開発費を使っていたため引き返せなかった」と証言する。またソビエトの原発設計者は「科学は万能だという夢にあふれた時代だった。しかし、常にコストと開発のスピードを問われたため、安全は二の次になっていった」と言う。“原子力開発では技術の名の下で政治的・社会的・経済的な判断がくだされてきた。しかし今後、原子力開発を続けるかどうかは全く違う判断基準が必要だ。私たちのモラル(生き方)が問われているのだ”という番組の結語は、20年たった今も色あせない問いかけだ。

20120206 “原子力は地球の未来”は本当か? 投稿者 PMG5
 
2012年2月8日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
今日の気になるネット情報 / 東日本大震災・原発 |
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福島でフランスの故郷を思う
 
原子力施設をかかえる仏自治体の首長らによる南相馬市訪問(1)
/ルモンド紙(2月2日)


1月末、フランス各地で原子力施設をかかえる自治体の市長たちが南相馬市を訪問しました。これから数回に分けて、彼等の目に映った福島の様子、そして彼等自身が自分の町の将来について考えたことについて御紹介します(小見出しは訳者によるものです)。

●フランスから福島へ

「美しい福島の農村が、今日こうして放射能に汚染されて、そして次々と車窓を通り過ぎてゆくのを見る時、私は自分の故郷のことを思わずにいられません。そして私たちの土地がこれからどうなってゆくのか、と考えずにいられないのです。」

心の中の思いが、言葉となって一度にあふれてゆく。バスの窓際で福島の美しい自然の風景に目を見張りながら、アンドル・エ・ロワール県シノン市からやってきたイヴ・ドージュ副市長はつぶやいた。

雲一つない空に高く太陽がのぼり、雪を頂く山々を背景に、もはや耕されていない田園とどこまでも続く森が広がっている。この絵はがきから抜け出したような美しい風景に魅せられているのは、イヴ・ドージュ副市長だけではない。(原子力施設を抱える)フランス各地の自治体からやってきた他の7人の首長たちも同様だ。

彼等は、日本の北東地域に位置する福島県で数日を過ごすためにやってきた。旅の目的はただ一つ。

「福島原発での事故と事故による被害に、日本の地方自治体たちがいかに立ち向かっているのかを見届けること。」

である。

今回の旅は、フランスの地方自治体による活動を国際的な舞台で支援する「都市連合」が、日本にある同様の団体組織「クレア」と協力して1月12日から14日までの日程で企画した。2011年3月に福島第一原発で起きた事故に日本もフランスも同じく強い衝撃を受けたことをきっかけに生まれた企画だ。

招かれたのは、原子力施設を抱えるフランス各地の自治体で活躍する市長たちだ。マンシュ県ラ・アーグ市、シノン市、上ライン県フュッセンハイムからも参加があった。

続きはこちら
 
2012年2月8日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
今日の気になるネット情報 / 東日本大震災・原発 |
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原子力発電の廃棄物処理で民主党有志が提言
 
核燃料サイクル中止提言=民主有志
(2012/02/07-21:34)時事.com

 民主党の有志議員でつくる「原子力バックエンド問題研究会」会長の馬淵澄夫元国土交通相らは7日夜、首相官邸に藤村修官房長官を訪ね、原子力政策見直しを求める提言書を手渡した。核燃料サイクル関連事業の中止が柱。

 提言書は、青森県六ケ所村の核燃料再処理工場の稼働を当面中断することや、福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」の事業停止の必要性を指摘。東京電力福島第1原発事故で従来の核燃料サイクルの限界が露呈したとして「使用済み核燃料の貯蔵、処分をどうするか、現実的な政策判断が必要だ」と訴えている。

【こちら特報部】「核燃基地六ヶ所村 ②」
2012/02/07(東京新聞)

 日本原燃(青森県六ヶ所村)の使用済み核燃料再処理工場内には巨大な貯蔵プールがある。全国の原発で燃やし終えた核燃料の受け入れは、昨年八月末を最後に中断している。再処理で出る高レベル放射能廃液にガラスを混ぜて固める機械が稼働していないためだ。原発を稼働させる限り核燃料は増え続けるが、その行き場となる現場を見て、課題に迫った。(上田千秋記者)

※デスクメモ 再処理工場から約五キロの大変用に面したむつ小川原港。巨大なクレーン施設がひときわ目を引く。核のゴミなどが専用船で搬入されるたびに反対派と機動隊がにらみ合った。その攻防も二〇〇一年、一般人が入れない高架の専用道が完成して終わった。非暴力直接行動は今、霞が関を舞台に続いている。(呂デスク)

■核のゴミ 各地から2900トン

核燃料サイクル基地の一角にある再処理工場。二階の廊下から、厚い窓越しに使用済み核燃料(以下、核燃料)貯蔵プールが見える。照明の関係でやや青みがかった水面に目を凝らすと、格子状のラックの中に整然と並べられた核燃料が肉眼できた。

プール周辺で作業するのは、高い放射線から身を守るために防護服を着た人ばかりかと思いきや、ほとんどは作業服。マスクもしていない。核燃料を移動させる機械の点検をする人だけが防護服に身を包んでいた。

通常、一メートル幅の水があれば放射能を遮れるとされるが、プールでは核燃料の上端から水面まで八メートルもある。日本原燃の赤坂猛広広報部長(57)は「作業時に水がかかることも考えられないが、念には念を入れて防護服を着させている」と話す。
 
プールは一九九九年十二月に使用が始まった。横二十四メートル、縦十一メートル、深さ十二メートルの大きさで三つあり、受け入れ能力は計三千トン。各原発から運ばれてきた約二千八百六十トンの核燃料が貯蔵されほぼ満杯だ。

長さ四メートル余の核燃料棒を束ねた集合体で一万千六百二十六体ある。昨年八月二十九日、高浜(福井県高浜町)、玄海(佐賀県玄海町)両原発から計二十五トンが搬入された以降は受け入れていない。

現在、水温は三十度に維持され、原発のプールと合わせて四年以上冷やすことで放射能は数百分の一になるという。

東日本大震災が起きた昨年三月十一日。施設は海岸から五キロ離れた高台にあり、津波の影響はなかった。だが停電により電源を喪失し、非常用発電機に切り替えて、プールの冷却水循環ポンプを作動させて乗り切った。

仮に長期間電源が失われたとしても、「原発と違って核燃料の温度はかなり下がっており、百日ほどたってようやく燃料の上部が水面から出る程度」(日本原燃)。

このプールから核燃料再処理は始まる。最初の工程は厚いコンクリートに囲まれた部屋で核燃料棒を三~四センチの小片にせん断し、溶解槽に入れて硝酸で溶かす。「せん断は歯、溶解槽は胃袋のようなもの」と赤坂部長。

燃料を覆う管状の金属片とカスを除去し、セシウムなどを含む核分裂生成物などは高レベル廃液となり、ガラスと混ぜたガラス固体化となるが最終試験は中断した。

続いてウランとプルトニウムから硝酸を取り除くなどすると、粉末状のウラン酸化物製品と、プルサーマル発電で使われるウラン・プルトニウム混合酸化物製品(MOX燃料のもと)が出来上がる。中断以前の過去の試験では、ウラン酸化物製品三百五十七トンと、ウラン・プルトニウム混合酸化物製品6・7トンを製造している。

核燃基地では、MOx燃料工場を建設中だが、大震災後中断し、春の再開を目指す。完成予定の二〇一六年三月までは、取り出したウラン・プルトニウム混合酸化物製品に使い途はない。原発で使用するには、さらに加工が必要となるためだ。

現在、玄海3号機や伊方原発3号機(愛媛県伊方町)などで使っているMOX燃料は海外で作られている。

プルサーマル発電とはプルトニウムをサーマルリアクター(軽水炉)で利用することだ。水素爆発した福島第一原発3号機でも一昨年から始まっていた。今回の事故で半減期が二万四千年のプルトニウム239などが周辺で検出されたが、赤坂部長は「一般の原発でも発電量の三分の一は燃えるウランが変化したプルトニウムによるもの。プルサーマルがとくに危険とはいえない」と語る。

一九六六年に茨城県東海村で原発の運転が始まって以来、これまでに国内で出た核燃料の総量は二万五千トン以上。うち英国とフランスに委託して計約七千百トン、東海村の施設で約千百四十トンを再処理。六ヶ所村の工場でも二〇〇六年から〇九年にかけて試験的に約四百二十五トンが再処理された。各原発でも計約一万四千トンを貯蔵する。

東海村の施設は日本原子力研究開発機構が開発し運営する。一九七七年七月に初めて核燃料が運び込まれ、八一年一月から本格稼働した。年間二百十トンの処理能力を持つものの、二〇〇七年五月以降、「耐震補強工事のため運転を休止し、再開のめどは立っていない」(広報部)状況だ。

六ヶ所村に核燃料が運ばれてくるのは月に一、二回。専用輸送船が各原発近くの港を回り、むつ小川原港に荷揚げする。英仏で再処理された後にできたガラス固化体を積んだ船も同港を利用し、共に専用道を通って工場内に運び込まれる。

また、国内の原発が通常稼働した場合、一年間に出る核燃料は九百~千トン。一方、六ヶ所村の再処理工場の処理能力は、本格稼働したとしても八百トンで、ガラス固化体で千本分。同工場に入りきらない多くの分は、各原発のプールに留め置かれることになる。

こうした中で福島の原発事故は起きた。原発政策とともに核燃料サイクル事業も議論されるが、仮に大幅な見直しとなったときに核燃料をどうするのかという問題が浮上する。九八年、青森県と六ヶ所村、日本原燃が電気事業連合会(電事連)立会いの下に交わした覚書では、再処理事業が実施できないときには、核燃料は同村から運び出すと定められている。

同県原子力立地対策課では「村内に置いておく事は許されない。核燃料が最初に運び込まれる前の段階から決まっていたこと」と主張する。

ただ、どの原発もプールにそれほど余裕はない。概ね四年で交換する核燃料は増え続け、電事連の調べでは、貯蔵能力に対する使用率は半数以上の原発が60%超。三年程度でいっぱいになる原発も少なくない。

赤坂部長は「覚書で六ヶ所に残すことはできないし、各原発に戻すことも簡単ではないだろう。再処理をしないと、半減期が長いプルトニウムを取り出さないまま最終処分することになる。核燃料サイクルを見直すというのなら、そういったことまで踏まえて議論をして欲しい」と話した。
 
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官僚のやることに誤謬はない? 枝野幸男経産相、隠蔽の調査
 
核燃料試算隠蔽:経産相、当時の内部調査が適切か確認へ
毎日新聞 2012年 2月7日 13時41分

 経済産業省の安井正也官房審議官による使用済み核燃料の直接処分のコスト試算隠蔽(いんぺい)問題で、枝野幸男経産相は7日、04年当時の内部調査が適切だったかどうかを確認する考えを示した。参院予算委員会で社民党の福島瑞穂党首の質問に答えた。枝野経産相は併せて調査の経過を記載した記録が省内に存在しないことも明らかにした。

 この問題では試算が実際には存在していたのに04年3月、参院予算委で経産省資源エネルギー庁の日下一正長官(当時)が「ない」と虚偽答弁し計13人が処分された。しかし、調査では隠蔽が判明しておらず、うち2人は事情聴取を受けていないなど、ずさんさが明らかになっている。【核燃サイクル取材班】

☆身内でかばい合うのは当然のこと。それをチエックする仕組みを作らせないようにするのも当然のこと。枝野さん、役人がすることには間違いはないのだから、余分なことをするなよ。

どうせオタクも間もなく大臣の首のすげかえ対象。
そして次の選挙では議員落選の可能性もあるやん、ここは仲良くしておく方がお互いのため、と読まれているかも知れないのに、枝野さん、どこまでやれるのかやるだけやってみて欲しい。
 
2012年2月8日 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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【孤児たちの闘い】~東京大空襲~戦争孤児と孤児に関わった人たちの証言集

2024年03月10日 | SNS・既存メディアからの引用記事

【孤児たちの闘い】~東京大空襲~戦争孤児と孤児に関わった人たちの証言集

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