二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

行くかな。日光。

2017年03月12日 04時49分59秒 | ニ言瓦版
東京新聞の夕刊、見てない。
そうか、日光は、行くかな。
陽明門が、きれいになったのか。
見に行くと、いいかもしれない。



「栃木県日光市の世界遺産の一つで徳川家康を祭る日光東照宮の国宝「陽明門(ようめいもん)」が十日、大規模な修復工事を終え、約四年ぶりに一般公開された。
 故事や聖人など五百体以上の彫刻で飾られた東照宮のシンボル・陽明門の修復は、一九七三年以来四十四年ぶり。本殿や拝殿を含めた「平成の大修理」と呼ばれる大規模工事の一環として二〇一三年六月に始まり、約十二億円かけて彫刻などの彩色を塗り直し、飾り金具を磨き上げた。工期は六年の予定だったが、早期公開を求める声に応えて短縮したという。
 公開に先立ちお披露目の式典があり、東照宮や工事の関係者ら約百七十人が参列。代表者が綱を引いて門を覆っていた五色の幕を取り除くと、観光客から拍手が上がった。参列者は家康を祭ったみこしを先頭に通り初めした。」



日光は、陽明門見ないと、日光でない。
今まで、工事していたらか、行く人は、がっかりしたことだ。

それに、東日本大震災で、放射能の問題も、山沿いには、あった。

これでも、より、風水の地か、いろいろ、ご利益あるのか、見るだけでも、いいかもしれない。
眠り猫も綺麗になった。

陽明門、眠り猫。
そして、徳川家康と家臣になった、井伊家。
徳川家康をお参りと、陽明門と、眠り猫で、いい。
二荒神社もある。


写真は、古いのだろう。
これより、綺麗なのだろうな。
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2

2017年03月12日 04時40分27秒 | ニ言瓦版
東京新聞の記事もいい。



「身長110センチ。ぴかぴかのランドセルには、夢がぎっしり詰まっている。2011年3月11日、たくさんの命が失われた日、福島市の橋本栞(しおり)ちゃん(6)は車の中で生まれた。あの日から6年。「友達、いっぱいつくりたい」。入学式を心待ちにしている。 (塚田真裕)
 母の幸枝さん(39)が陣痛室にいるとき、地震が起きた。キャスター付きのベッドが部屋の端から端へ動くほどの揺れ。父の紀明さん(40)が覆いかぶさって守った。避難したのは屋外駐車場に止めた紀明さんのミニバン。座席を倒して息んだ。午後三時二十六分、元気な泣き声が響いた。水はなく、タオルとガーゼで体を拭いた。
 茶色地にピンク色の縁取りがあるランドセルは、近くに住む祖父母のプレゼント。内側にあしらわれた小さなハート模様がお気に入りだ。家でも何度も背負っては、鏡に映る姿を見つめる。
 「漢字の勉強もしたいし、陸上部にも入りたい」。最近、友達と手紙を送り合うようになった。「栞っていう字も、書けるんだよ」。間違えないようにゆっくり鉛筆を滑らせる。
 六年前、長女の奏(かな)さん(12)の小学校の入学式は、直前に起きた原発事故の影響でみんなマスク姿だった。公園で遊べるようにはなったが、今も収束の道筋は見えない。「栞」には、木の枝を折って作った道しるべ、との意味がある。「未来を明るく照らしてほしい」。名前に込めた両親の思いは、復興の暦を刻む人々の願いでもある。」



一年生か。
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そうだろうな。意味深い。1

2017年03月12日 04時18分36秒 | ニ言瓦版
このスポニチの記事、いい。
希望がある。
そうたよ、これが、一年生、そうだ。
小学校に通う、4月から一年生。



「死者・行方不明者が1万8000人を超えた東日本大震災は11日、発生から6年を迎えた。12万人以上が避難生活を送るなど、今もなお多くの被災者が生活に不安を募らせたまま。一方で、甚大な被害が出たあの日、混乱した病院で生まれた子供は4月に小学1年生になる。東京電力福島第1原発事故の影響で、誕生した翌日から避難を余儀なくされた女の子は入学を心待ちにしている。

 福島県南相馬市の星山琉菜(るな)ちゃんは11日に6歳の誕生日を迎えた。自宅では自分で選んだピンク色の真新しいランドセルがピカピカに光っている。小学生になったら「いっぱい勉強したい!足し算を頑張る」と声を弾ませた。

 6年前の3月11日、母真弓さん(36)は東京電力福島第1原発から約4キロの福島県双葉町の病院の手術台にいた。帝王切開手術のため麻酔を受ける直前に激しい揺れが襲った。落下物からおなかを守るため、医師らが覆いかぶさってくれた。余震が続く中、約4時間後の午後6時49分、元気な産声が室内に響き渡った。

 翌朝、第1原発の状況悪化の一報を受け、夫晃一さん(39)と3人で行き先も分からずバスで避難。まだ授乳はままならずミルクも持ち出せなかったため、琉菜ちゃんはおなかをすかせて泣き続けた。たどりついた福島市の病院で、目に入ったのは原発事故の映像。かつて第1原発で働いていた夫婦は目を疑った。

 琉菜ちゃんの名前の由来はラテン語の「ルナ(月)」から。避難先の病院の窓から見上げた月を見て「暗くなった世の中を月明かりのように優しく照らす一筋の光に」との願いを込めた。

 母子は退院後、郡山市、いわき市と避難先を転々。仕事の都合で南相馬市から離れられなかった晃一さんと一緒に暮らせるようになったのは、2年半後だった。「この暗い状況が晴れるといいな」という思いから「晴(せい)」と名付けた長男は3歳になった。

 真弓さんの実家がある富岡町は4月から大部分の避難指示が解除される。だが、第1原発から5キロの実家は放射線量が高い帰還困難区域内。一度も子供たちを故郷に連れて行ったことはない。真弓さんの胸中は複雑だ。

 「除染が進んで子供が入ってもいい区域があるのであれば連れて行ってあげたいが、私が育ったところを見せてあげられない状況は続く」。もう少し大きくなったら、震災や原発事故の悲惨さをありのまま伝えるつもりだ。

 琉菜ちゃんは、生まれた日に「おうちが壊れるぐらい大きな地震があった」ことは幼稚園などで教わり、知っている。「琉菜ちゃんのことをみんなが守ってくれたんだよ」。いつも真弓さんが伝えている言葉には感謝の心を忘れず育ってほしいという思いがこもっている。」



そだよな。
老人に支援、介護も、いいが、今年の小学1年生は、一番、何か、意味がある。

東日本大震災は、知らないが、その後は、知っている。
原発問題も、知っいる。


福島原発は、なぜ、廃炉して、新しい、原発、作らなかったか。
40年は、危ない、せめて、電源、高台にしていれば。


あの酷い政権、あの酷い、内閣の大臣たち。
初動捜査ではないか、初動が、以下に、大切か。

アメリカの友達作戦も、感謝するが、あの内閣、無視していた。
自衛隊の福島原発の水間も酷いものだった。

フランスから、装置買ったのは、何になったのか。


地下を凍らすことは、出来たのか。

いろいろ、昨日の東京新聞の一面は、原発の内部の図は、まだ、地下のコンクリートに、
燃料が、萌えている。図。
考えると、まだ、まだ、初動は、大切なこと。
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50

2017年03月12日 02時52分34秒 | ニ言瓦版
 50年か。
多くの人が、買った、乗った、見た。



「誕生から50年を迎えた大衆車「カローラ」は、今日のトヨタ自動車の礎(いしずえ)を築いたクルマと言えるでしょう。3月6日に開催された記念イベントでは、初代カローラを先頭に、生まれ故郷の高岡工場従業員や販売店関係者ら約1,700人が見守るなか、8月までの約半年がかりで全国カローラ販売店を巡る旅に出発しました。

 1966年に発売されたこの初代モデルは、外観がやや丸みを帯びながらも引き締まった絶妙バランスのデザインで、「大衆車」として開発されたものの、決して安っぽく見えなかった事が、後に大ヒットした大きな要因となりました。パッチリと見開いた丸目の2灯式ヘッドランプや、縦櫛状のラジエータグリルと、その中央に配されたカローラの象徴とも言うべき「花冠」のエンブレムが印象的でした。

 また最大の特徴がテールエンドで、今では当たり前になりましたが、スパッと切り落とした意匠は60年代当時としては非常に斬新な試み。フロントドアを開けて乗り込むと、まず目に飛び込んでくるのが、ボディカラーと同色の鉄板パネルに配された2眼タイプのメーターパネル。シンプルながらも見易く機能的に配置されていました。

 フロアから生えた長い4MT仕様のマニュアルシフトレバーの根元には、コンソールボックスが無くゴムブーツがむき出しで、潔さを感じさせます。当時はヘッドレストが存在しない時代で、シートも素っ気無い物でしたが、シート生地はビニールとファブリックを合わせた物が採用されていました。2ドアタイプなので、リヤガラスはロック機構付きの横開き式となっています。

 またエンジンも動力性能で当時のライバル車に差をつけるべく、1,100ccを採用。プラス100ccの余裕が上り坂などで存分にその威力を発揮しました。

 現在、11代目となったカローラですが、読者の皆さんもこれまでに一度は人生を共にした経験があるのではないでしょうか。本稿では、そんなカローラの歴代モデルの50年の歩みを振り返ってみたいと思います。

 初代(1966年 – 1970年)
 高度経済成長の真っ只中、「パブリカ」と「コロナ」の中間モデルとして登場するや、累計生産台数100万台を突破。一足先に発売された日産の「サニー1000」と共に、日本に本格的モータリゼーションをもたらしました。

 2代目(1970年 – 1974年)
 ハイウエイ時代に向け、走行安定性、室内空間、排気量を向上。「カローラ クーペ」が新設され、初代よりも更に「余裕の有るカローラ」へと進化。トヨタ車モデル別輸出で第1位に。

 3代目(1974年 – 1979年)
 カローラ30(さんまる)とも呼ばれ、オイルショックによるガソリン価格の大幅引き上げや、厳しい排ガス規制をクリア。大衆車の決定版としての地位を確立。排ガス規制や衝突安全性対応に必要なスペース確保のため、車両サイズを拡大。1974年に乗用車の車名別生産台数で初の世界第1位に。

 4代目(1979年 – 1983年)
 オイルショックが終わり「本物志向」の時代に。ボディデザインが3代目よりもさらに直線的になり、カローラ初の4灯式ヘッドランプを採用。「80年代をリードする高級コンパクトカー」として、日本初の生産台数累計1,000万台を記録しています。

 5代目(1983年 – 1987年)
 広い室内と、若者向け嗜好のスタイリングを目指して開発。スポーツ性を重視してクーペはFR、居住性重視のセダンはFFという2本立てで発売されました。

 6代目(1987年 – 1991年)
 「クラスを超えた世界のハイクオリティセダン」をテーマに車格感をアップ。FFに1本化され、低燃費と高出力を実現。乗り心地や静粛性から「ミニクラウン」とも呼ばれました。

 7代目(1991年 – 1995年)
 バブル末期の高級志向が一層高まった時代に登場。ホイールベース・全長・全幅・全高ともに拡大、ボディデザインのボリューム感を増すなど、高級化路線の頂点に達したモデルで、あらゆる面で高品質に。

 8代目(1995年 – 2000年)
 時代は「バブル崩壊後」で国内モデルはボディサイズを据え置き、軽量化等でコストダウン、エアバッグ標準装備などで、安全や環境に注力。この代から日本国内向けと海外輸出向けで大幅に異なる外装デザインを採用。市場に合わせた作り分けが始まります。

 9代目(2000年 -2006年)
 「New Century Value」のコンセプトのもと、21世紀のグローバルスタンダードを目指して根本から見直して生まれ変わらせたモデル。上級車に匹敵する快適な空間と上質な居住性などを追求。生産累計3,000万台を達成。

 10代目(2006年 – 2012年)
 国内向けセダンに「アクシオ」のサブネームを追加。ボデーデザインのイメージは先代から引き継いでおり、2007年度のグッドデザイン賞を受賞。

 11代目(2012年 – 現在)
 カローラの原点に戻り、大人4人が安心・安全、快適に長距離を移動できるミニマムサイズのクルマをテーマに全てを見直し、日本の市場環境にベストフィットするコンパクト車として開発。小回りがきくコンパクトなボディに快適な室内空間と、安心して運転できる広々とした視界を確保しています。

 以上のように、50年に渡る変遷を経たカローラですが、来年の秋頃にはぐっと若返りを図ったスタイリッシュな12代目の登場が予想されており、同車の進化は今後も留まることが無さそうです。」



でも、面白いのは、内容は、変わっているのに、名前は、変わらない。
これも、戦略だろうな。
本当は、年代ごとに、名前が、変わる車と、変わらない。
カローラの中の何かである。
でも、カローラで、売る。


トヨタの商品の名前の戦略は、凄い。
名前、買えないで、売るのは、理想かもしれない。

日産も、三菱自動車も、ホンダも、スズキも、スバル、ブランドの名前は、
企業でなく、商品名は、残して欲しいものだ。
一番売れた車の名前は、残ることが、企業の維持かもしれない。

シビック、ギャラン、サニー、アルト、スカライン、など。

懐かしいCM

https://www.youtube.com/watch?v=uawygSwcLvU
ホンダのCM
https://www.youtube.com/watch?v=LgG5AkW9GP0
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関連する週だった。

2017年03月12日 02時33分50秒 | ニ言瓦版
東日本大震災と、連動か、昔のときと、変わらない、経済と、天変地異の違いはあるが。





「連続テレビ小説「べっぴんさん」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)第23週「あいを継ぐもの」第132回 3月10日(金)放送より。 


132話はこんな話

昭和48年、日本がオイルショックに見舞われ、高度経済成長が終焉を迎えた。

デレデレおじいちゃん

武ちゃん(中島広稀)と中西(森優作)が、デレデレおじいちゃん紀夫(永山絢斗)に、8ミリカメラをプレゼント。気が利くなあってすごく嬉しそうな紀夫。いい部下に恵まれてますね。

こうして家族の記録が、写真から8ミリに進化した。
紀夫はさっそく孫を撮りまくり、キアリスファミリーを集めて上映会まで開く。
それを見たすみれ(芳根京子)は、キアリスガイド映像版を思いつく。

肌着あります

冴えてるときのすみれは抜群の力を発揮する。
ライセンスビジネスによってキアリスグッズがショップの前面に置かれるようになったが、顧客がいいと思うものが見当たらなかったとか肌着がないとかいう不満を漏らすのをたまたま耳にしたすみれは、すぐさま肌着をもって来て客を喜ばせる。
ふだんはおっとりしているが何かあると俄然キビキビと頼もしい。そこはヒロインの面目躍如。

うちやったらねえ

さて、赤ちゃんを生んだばかりのさくら(井頭愛海)は育児があるから自宅で仕事をしているようだ。
そこへたびたびやってくる君枝(土村芳)。昼休みと夕方仕事のあとと1日2回も来るとなると、さすがにさくらに同情してしまう。
昼休みなんて、姑のために昼ご飯を用意しないとならない。「ほんまにおむすびだけというわけにはいかへんやろな」と焼き鮭と卵焼きと味噌汁をつくってもてなすと、今度は「部屋が片付いてない」と姑チェック、「うちやったらねえ わたしが全部してあげるのにね」と優しい顔で嫁にプレッシャーをかけまくる。
そこへ、帰ってきたすみれが「大丈夫?」、さくらは「うん」としか言いようがない。こういう沈黙は効いている。主人公が味合わなくて済んだ嫁姑問題を、娘が体験していてかわいそう。

さくらは健太郎に「お母さんに言って」と頼むが、健太郎は言い出せず、君枝はまた来て、おしめの洗濯してくれる。母には何も言えないのは、昭一(平岡祐太)と琴子(いしのようこ)と同じパターン。

強いわ 強いわ

昭和48年、オイルショックで景気が悪くなり、高度経済成長が終焉を迎えた。
主婦はトイレットペーパーの買いだめをし、テレビは深夜の放送を中止にするなど、生活が不自由に。…
早々と放送を終えて砂の嵐になった画面を、壊れたと思って叩く紀夫を「強いわ強いわ」とすみれがとがめると、テレビがぶつっと切れて、続く。この終わり方は面白かった。

紙不足、節電・・・という状況を観ていて思い出したのは、6年前の東日本大震災。トイレットペーパーやティッシュペーパーが店頭からなくなり、テレビも節電のため、番組を休止していた。NHK放送文化研究所のサイトには「NHKは節電のため教育テレビとBS2の放送を15日から5日間午前0時から午前5時まで休止した」と記録されている。
ドラマではすみれたちが、子育ても大変だった戦後を思い出し、現実では誰もが大変だった6年前を思い出す。

どんなに未来が明るくても、過去のことを忘れずにちゃんと伝えていきたい。姑問題に関しては引き継がなくていいと思う。」


思い出すが、それより、東日本大震災のことで、ドラマは、
やはり、「あまちゃん」が、思い出す。
面白かった、災害の後の姿、それに、AKBのような売れる、売れないの日々の訓練。
事務所も作るも、面白い。
どこかの芸能事務所に、改革して欲しいくらいの内容。

ウニに一つ獲って、楽しんだ場面は、面白かった。
また、ツタヤで、借りてみたい。


生活出需品は、必要なことは、意味のある事、ドラマは。

「昭和48年、オイルショック」を知らない世代は、半分なのかもしれない。
この時の青年、中年は、もう、あの世に旅立ちの日々だろう。

今に、東日本大震災も、ドラマの歴史の中の一つになるものだろう。
戦後の闇市、オイルショックと知らない、日本人が多くなる。

考えると、従軍慰安婦の問題、南京事件と、太平洋戦争も、知らないこと。

先週は、ドラマより、凄い週だった。
韓国の弾劾、自衛隊の撤収。
ドラマより事件のがより、ドラマ。
小学校の認可の問題も。
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