広島県被爆二世・三世の会活動日記

広島県被爆二世・三世の会の日々の活動状況を報告します。

被服支廠と碑巡り

2023-11-29 11:48:17 | 日記

昨日は昨年からの小学校から「平和学習」をしました。

学校にしては珍しく「加害」の歴史も子供たちに学ばせようと「被服支廠」も学ばせる素晴らしい学校です。

ある程度学んで来たのか、質問にも正解が多い学校で感心しました。吸収力がすごい。将来が楽しみです。

峠三吉の碑では、裏面の英語訳をみんなに読ませましたが???まだ習い始めか?
それにしても楽しい一日でした。

しかし朝9時から現地で打ち合わせ、9時半にはバス2台でやって来るので、前日に県庁に鍵を借りに行きました。ところが「当日でないと貸せない」「規則」だとして貸してくれません。

当日皆実町の自宅から自転車で県庁に出かけました20分あれば行けるだろうと踏んで必死でこぐと、ついたのは30分かかりました。

鍵を受け取り、県庁を出発したのはもう9時過ぎていました。

必死で自転車をこいで出汐についたのは9時40分でした。

バスが道路で待っているので、被服支廠の隣にできた、県警南署の警察官が「どけ!」と言っていました。

「すみません、すぐ開けます」と謝って開けましたが・・・

こんなことにならないように、わざわざ前日に借りに行っているのに・・・

遠方から借りに来る人はどうするのでしょ???

私たちボランティアが何か悪いことをしたのですか?

これってパワハラではないですか?抗議します


 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理事長がアメリカに行きました

2023-11-27 11:40:04 | 日記

昨日佐久間理事長がアメリカに出発されました。見送りが3人だけで申し訳なかったです。

現地ではピースボートの方たちと合同で被爆体験を話したり、各国の代表の方と会ったりと忙しいスケジュールをこなされます。無事で帰られることを祈っています。

被爆者も年取ってきて、NPT再検討会議や準備会や、核兵器禁止条約締約国会議などの海外での会議参加は難しくなってきています。

核兵器のない世界を早く実現しないとーーー最後の国が調印するまで頑張りましょう。

さて、理事長を見送って帰りに比治山のG7の首脳のメッセージの石板が設置されたと言うので行ってみました。

警察官の原爆犠牲慰霊碑の上にわざわざ広場を作って設置されて居ました。私たちがいる間に入れ替わり立ち代わり見学者が来ていました。

写真を撮ろうと駐車場の所から近寄っていっていると段差に躓いてバターン、前のめりに倒れてしまいました。

手に持っていたスマホをバタンとついて画面が傷ついてしまいました。G7めめめ!今日は体も痛い。

写真も撮れなかった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被爆7団体署名

2023-11-22 17:38:43 | 日記

広島には被爆者の団体が7つもあります。

広島県被団協と言うのは2つありますが、このことを知らない人は多いと思います。

私もこの活動を始めて知りました。

それぞれの団体は考え方の違いから一つにはなれないのですが「核兵器廃絶」については皆一致しています。

核兵器廃絶に大きく近づいたのは「核兵器禁止条約」が国際法になってからです。

私たちは喜びました「これで核兵器が廃絶できる。日本政府が真っ先に批准するだろう」と期待しましたが、残念ながら未だに批准しません。そこで、考え方は違うが被爆7団体は2か月に1回、この条約が国際法になった日「22日」に一緒に「日本政府に批准を求める」署名をすることにしました。

今日が今年最後のその日でした。

元安橋を通る人は外国人、修学旅行生が多いのですが署名が集まりません。レストハウス側では修学旅行生があまり通らないので立ち止まって署名する人が多くいました。

30分で110人も集まりました。旅行者と「なぜ岸田さんは批准しないのか。何故核兵器禁止条約第2回締約国会議にオブザーバー参加しないのか」と言う質問を受けて話していました。

「アメリカのバイデンの顔色を窺っているから」と言うと納得されていました。

まだまだ署名を集めないとーーーーと思いました。

彩雲が出ていました

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和公園の案内をしました。

2023-11-20 10:42:26 | 日記

私たちの小中学校のクラス会は2年に一回は必ず開催してきました。しかし、コロナの影響で4年ぶりに集まりました。

その間に、なんという事でしょうか3人も亡くなっていました。皆男子です。

男子22人いた中、もう11人が居なくなってしまいました。今年は喜寿です。しばらく見ないうちに皆年取ってしまい、おひとりさんが増えてしまいました。これは、男女とも多いのが残念です。私も連れを大事にしなければと思いました。

宿泊した次の日、電車やバスの時間待ちの間、原爆ドーム周辺を案内することにしました。

宿は「相生旅館」でしたので7階のお風呂から原爆ドームが良く見えますが、私は上から見下ろすことは出来ません。折鶴タワーにも登ったこともありません。大勢の人が亡くなった光景が広がるからです。

広島の県北の学校なので修学旅行は広島、宮島で平和公園にも来ているはずですが、皆印象が無い。

あるいは、広島ははぶいて岩国、宮島だったのか・・・

私のガイドを聞いてみな初めて聞いたそうです。私たち世代が一番知らないのかなーと感じました。

外国人が一杯で、私の友人が英語でガイドをするのを熱心に聞いていました。

まだまだ私たちはガイドをし続け、広めなければならないと感じました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学習会

2023-11-13 11:27:16 | 日記

この土日、平和公園の成り立ちについて学習会をしました。

広島には「平和都市建設法」と言うのがあり、これは戦後初めて「住民投票」で策定された法律です。

戦後、建物疎開で田舎に行っていた人や、戦地に行っていて帰ってきた人たちが、今の平和公園、中島町の自宅後に粗末な家、バラックを建てて住み始めていました。

中島地区を平和公園にするに当たりその人たちに立ち退きを求めましたが、完全に立ち退きが完了するのは10年後です。

まず、平和都市記念碑(慰霊碑)と資料館が出来ました。でもその時にはまだ「貞子の像」の辺りにはびっしり家が建っていました。

そして、原爆で樹も焼かれて草も生えていませんでした。その時の市長は41歳の被爆者浜井信三しでした。

10年後から平和大通り、平和公園の樹を送ってくださいと呼びかける「供木運動」で植えた木が今の大きさになりました。

その頃アメリカは原爆の被害を世界に知らせたくなく、また、原子力は人々のためになるという運動を始めます。地震列島の日本に「原発」を勧めます。まず、第一候補に広島を上げましたが、被爆者や市民が猛反対し断念します。しかし、原爆資料館で「博覧会」をして原子力で動く「マジックハンド」などを見せ、原子力は安全なんですよ。と日本に「安全神話」を広めます。その時の推進役は「中曽根康弘」読売新聞の「正力松太郎」でした。

今、平和公園とパールハーバーとの姉妹縁組」を市民に、被爆団体に諮ることなく、市長が署名しました。

アメリカ側の圧力があったそうですが、この一連の動きは、岸田首相の誕生、G7招致から忖度が始まり、平和ノートからの「はだしのゲン」「第五福竜丸」の削除、それに代わった「岩田くんちのおばあちゃん」「8・15分」が入り「許す心」が強調され始めました。「ガンジー像」の設置、この度の「姉妹都市縁組」そして「G7展示室建設」と続きます。またG7では「核兵器廃絶」ではなく「核抑止」が声明に書き込まれましたが、さすがに松井市長は8月6日の平和宣言で批判しました。

私たちも反対し続けます。

原発も自然エネルギーが余っているというのに再稼働させています。今年の夏は「節電」ではなく「冷房を使いましょう」でした。原発は無くても自然エネルギーで賄えるということです。

それにしても、ウクライナ、イスラエルの戦争はやめさせなければなりません。

未来の子ども達、地球のためにも。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする