575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

"重箱の隅を楊枝でほじくる "ような話 ⑴   竹中敬一

2018年01月26日 | Weblog

司馬遼太郎の「街道をゆく〜壱岐・対馬の道〜」(朝日文庫 1985年刊)の中に、
江戸中期の対馬藩の儒者、雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)のことが出てきます。
その中で、雨森芳洲を「元来は伊勢の人とも言い、京都の人とも云う」としています。
その後、雨森芳洲(1688〜1755)は、滋賀県長浜市高月町が出身地であることがわかり、
雨森地区に雨森芳洲庵ができて、私も訪れたことがあります。

司馬遼太郎の記述では、「芳洲は少年のころ医者になろうとし、伊勢の名医で高森某と
いう師匠についた。」とあります。ある時、高森某は芳洲に次のように言ったという。
「書を学ぶ者は紙 費(つひ)え、医を学ぶ者は人を費 (つひ)ゆ。此語、真(まこと)に然り」
中国北宋時代の詩人、蘇東坡 (そとうば)の言葉ですが、司馬氏は習字の際には
何枚も書き損じるように、医者というのは、誤診や投薬のあやまりで人を殺してゆく
うちに一人前になるのだ、と訳しています。
芳洲はこの言葉を聞いて驚き、医者になることを諦めて18歳の頃、江戸に出て儒者の道へ
進みますが、私がここで取り上げるのは高森某のことです。

私の高校時代の同級生で友人の永田敏雄氏(横浜市在住) から以前、自著を送って頂いた
ことがあります。彼は高校時代、文学青年でしたが、サラリーマンとなり、長くドイツ
駐在も経験しています。しかし、退職後、小説家になる夢を捨てきれなかったようで、
時々ミステリー風の小説を書いて、自費出版しています。

その彼から送ってもらった書物が「法眼(ほうげん)高森正因(たかもり まさよし)」
(シングルカット社 平成17年 刊)です。
これを読んでいて、司馬遼太郎のいう高森某はこの人物であることがわかりました。
なぜ、私の友人がこれを書くことに あったのか。なんと、永田氏は高森正因の縁戚に
当るというのです。
次回は司馬遼太郎ですら知らなかった高森正因とはどんな人物だったのか、重箱の隅を
楊枝でほじって、お伝えします。


写真は障害のある息子、健の「落書き帳」より
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