575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

冷麦の赤き一筋縦の糸 等

2020年07月31日 | Weblog
私の俳句は、見たものから何か新しいものを発見し、これを句にするといういわゆる”写生派”です。
ですから7月句会の兼題「冷麦」は、私にとって最もイヤなお題で、夏になると何処にもある冷麦から、一体何を発見すればよいのでしょうか。
皆さんの投句を拝見しても”冷麦を食べる環境”とか、その場の”雰囲気”と言ったものが多く、”なるほど”という発見はあまりなかったようです。
それで私も今回は大苦戦!!何人もの方が取り上げた、冷麦の中の一筋、二筋ある「赤い冷麦」にポイントを置き、挑戦してみましたが、17文字中12文字を「冷麦の赤き一筋」でとられ、残り5文字で新しい発見をし、これを文字にしなければなれません。
パソコンを前に何時間も“にらめっこ”が続きましたが、フト閃いたというか、名句が天から降って来たのです。
それは中島みゆきさんの「糸」という名曲で、後ほど歌詞の一部をご紹介しますが、つまり”経糸と横糸が回り逢って、幸せな暖かい布が出来る”というあの名文句です。
何という暖かさ、気持ちよさ、思いやりがそこにあり、私は涼しい冷麦の赤い一筋の中にそれを見出したのす。
あまり内容の無い、”こじつけ”の雑文ですので、みゆきさんの「糸」の名歌詞で締めくくります。
 なぜめぐり逢うのかを
 私達は なにも知らない
 いつめぐり逢うのかを
 私達は いつも知らない
 どこにいたの 生きてきたの
 遠い空の下 ふたつの物語
 縦の糸はあなた 横の糸は私
 織りなす布は いつか誰かを
 暖めうるのかも知れない     (等)
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冷麦や後悔ともに飲み込んで  麗子

2020年07月30日 | Weblog
今日は母の月命日です。
緊急事態宣言の中、誰も面会できなくなって2か月で亡くなりました。面会できないことにしびれを切らした父が、母の様子を知りたいと看護師さんにデジカメを渡してベッドの上の母の写真を撮ってもらいそれから一週間後に容態が急変しました。
何も食べられず点滴だけで命をつないで、一人寂しく入院していたことを思い出す度に後悔がよぎります。
そんな切ない思いを飲み込んで、この句を作りました。写生句ではありませんが、誰にでも夏のいろんな後悔があるのではないかと思いました。

昨日、大阪の友人に電話したら、月曜日にお母さまが骨折手術されたとのこと。麻酔が覚めぬうちから面会禁止となり会えない日々が続いているそうです。
今、入院されている方、そしてそのご家族も心の支えである面会が制限されて辛い毎日だと思います。
本当にこのコロナのせいで生活が変わってしまいました。気楽におしゃべりしたり、ふらっと出かけたり、会いたい人に会えなくなって、これがいつまで続くのだろうと思うと気持ちも沈みます。
長期戦で臨むしかないと心を明るくしてくれる物を見たり聞いたりしています。

このブログを書いている最中、緊急地震速報が流れました。揺れがなくてよかったけどひやっとしました。
今日一日の無事を感謝して過ごすしかないですね。皆様もご安全に!
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父の箸揺らす冷麦昼過ぎて  竹葉

2020年07月29日 | Weblog

最初のかたちは、子の茹でた冷麦つつく父の箸、でした。

若き日、初めて父に好物の冷麦を茹でた(茹ですぎた)ことを思い出して詠みました。
俳句は散文とは違い説明的であってはいけない、ということを作句の本から学んで、
「伸びた冷麦」をどう表現するか、悩みました。
「子の茹でた」は直接的な表現だし、後で「つつく」という動詞があるから、
二つ動詞が入ってはいけないとかんがえなおしたのです。
皆が食べ終わった「昼過ぎ」に帰ってきた父はのこった冷麦をどんな感じかなと
箸で揺らして食べようとするという風にしたのですが、
全く伝わりようのない句になってしまいました。

そうですね。昼過ぎの冷麦父の箸揺らす、としてもすっきりしません。
そんな時は出発点に戻ってます。

    父の箸娘(子)の冷麦をつつきけり

一応、ここまで作って後は句会の判断に任せましょう。(遅足)
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冷麦やうすむらさきの返しつゆ  千香子

2020年07月28日 | Weblog

今、冷蔵庫に寝かせてあるのは19年5月に作ったものです。
夫が作っているので聞いてみました、

今から30年ほど前、同僚が伏見に「でっち」というおいしい蕎麦屋がある
と言っていたので、店に行き「つゆがうまい」と褒めたら
「本返しを使っている」ということだったので、本返しの作り方を調べて作った。
東急ハンズに そばつゆの作り方というリーフレットがあってそれをもとに
自分なりにアレンジして作っている。
ということです。

取りあえずリーフレットを写します。(本返し用)  
材料  しょう油(できれば濃口しょう油) 500cc→ 1000cc
    味醂               100cc   → 180cc
    砂糖                50g   →  150g
→我が家ようにアレンジしたもの。 約25分

作り方
1、鍋にしょう油を入れ、泡がおさまるのをまって火をつけます。
2、温まるにつれて、あくのようなものがでてきますが、そのままにしておきます。
3、しょう油が80℃になったところで、砂糖を全部加えます。
4、砂糖が溶けるまで、丁寧に静かにかき混ぜます
 (しょう油は煮たたせない、焦がさない)
5、砂糖が溶けたら、火を弱めて表面を落ち着かせます。
6、みりんを加えてかきまぜます。
7、弱火にしてしばらくそのままにしておくと、表面が泡で覆われてきます。
表面の泡の中に雲間があらわれてきたら火を止めます。表面の灰汁をきれいに取ります。
8、自然に冷まします。冷めたらボウルなどに移して、布巾などで覆い約1週間かせます。
  長く寝かせれば味がなじんで、まろやかになります。

これを書きながら私は夫に「こんなめんどくさいことしているの」と聞いたら
即座に「そうだよ」 そこで私は深々と頭を下げました。

麺類にしか使わない、1度作ると、2,3年使う。
ポイントは家に合うように少しずつ変える。ということでした。

出しは私が作ります。
5Lの水に根昆布8、9本を1晩水につけておいて、火を付け、60℃になったら、
1時間ほど火を切り、その後かつを厚削り100g、灰汁をすくいながら 
最後に花かつお100g入れます。
毎朝の味噌汁、煮物などに使います。冷蔵庫に入れて10日ほど利用します。
 用心に、ぺっとぽとる2本(2L)に入れたのを冷凍にしておきます、
 
夫が30年も作っていてくれていたんだと、今知りました。

        

千香子さんに句について書いて下さいとお願いしたら、
こんな素晴らしい返事が返ってきました。ありがとうございました。(遅足)
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息災や兄冷麦をすする音  和子

2020年07月27日 | Weblog
私がお世話になっていた栴檀のあすなろ句会。
7月の兼題がたまたま同じ「冷麦」でした。

江崎先生の許しを得て紹介します。

  しゅんしゅんの湯へ冷麦を解き放つ  春代

  冷麦を古希と傘寿が啜るかな  有子

  息災や兄冷麦をすする音  和子

和子さんが江崎先生です。
先生がよくおっしゃっていますが、俳句の基本は写生です。
しかし絵と違って言葉が表現の手段。
素晴らしい光景に出会っても、陳腐な言葉ではつまらない句しか出来ません。
言葉を用意せず、先入観を捨てて対象に向かいます。

      時々遠く

言葉が生まれてこなかったら?
慌てずに待ちましょう。言葉のほうからやってくるのを。(遅足)
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其角考

2020年07月26日 | Weblog


宝井其角<たからいきかく> 。江戸時代初期の俳諧師。近
江の膳所藩の藩医の長男として生まれています。口語調で
洒落っ気があり謎めいた俳風。そのため、芭蕉十哲の仲間
である去来より侘びや寂びがないと揶揄されています。

交友関係が広く、歌舞伎の二代目市川團十郎、紀伊国屋文
左衛門とも繋がりがあり、師とされる芭蕉のライバルとい
われた井原西鶴とも交際。大阪まで訪れています。

ところで、赤穂浪士の討ち入りの前夜に大高忠男と出会う
という逸話。煤竹売りの大高の哀れな姿を「年の瀬や 水の
流れと 人の身は」と其角が詠みます。大高は「あした待た
るる その宝舟」と返します。この名場面は歌舞伎「松浦の
太鼓」。見栄を切ると大向こうから屋号を呼ぶ掛け声が上
がります。昔は演者の住んでいる地名も掛け声。「音羽屋」
ではなく「紀尾井町」。しかし、ここ数年、聞いたことが
ありません。理由は、意外に現代的で個人情報の保護とか。

実は、大向こうの掛け声をおこなう観客は会員制。彼らは
「木戸御免」といい観劇は無料。常連客により構成されて
いるそうです。この掛け声のタイミングがずれ演者が苦笑。
歌舞伎座が大爆笑となった体験があります。演者と観客が
江戸時代から一緒に作り上げた歌舞伎の面白さといってよ
いでしょう。

話を戻します。とにかく酒好きで人つきあいが広く、涙も
ろい其角。逸話の真偽より、江戸人情芝居の主人公には最
適なキャラクターだったのかもしれません。

其角は日本橋の茅場町に居を構えます。隣家が荻生徂徠の
居宅。江戸名所図会に「梅が香は 隣は荻生 惣右衛門」と
ありますが、徂徠が「蘐園<けんえん>塾」を開塾する前
に其角は亡くなっています。菩提寺の移転に伴い神奈川
の伊勢原に改葬。にぎやかなことが好きだった江戸っ子
の其角らしく、毎年、俳句大会が開催されているとの由。
宝井其角<たからいきかく> 享年47歳。


「夏酔いや 暁ごとの 柄杓水」


文と写真<殿>
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蕪村考

2020年07月25日 | Weblog


与謝蕪村。江戸時代中期の俳人で画家としても有名。
画号は「春星」大阪生まれといわれていますが、京都
与謝野町を出身とする女奉公人「げん」と奉公先の主
人との子という話もあり、出自が複雑であったことに
間違いないようです。

蕪村は20歳の時、日本橋石町の「早野巴人」に師事。
師が亡くなった後は、憧れていた芭蕉の足跡を辿り東
北地方の旅に出ます。そして、宿泊費の代わりに描い
た絵により、画家としての技量を磨いていきます。絵
は独学といわれています。

蕪村は、ご紹介してきた、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ
江戸俳諧の巨匠。沈滞していた俳句に一石を投じまし
た。また、蕪村は俳画の創始者。そのため俳句も写実
的な表現が散見されます。こうした蕪村を世に紹介し
たのは同じ写実派の正岡子規。また、萩原朔太郎の著
作による「郷愁の詩人・与謝蕪村」という出版の影響
も大きいでしょう。

京都に居を構えてからの蕪村は「与謝」と名乗ります。
45歳で結婚し、51歳の時、讃岐に赴き俳人、画家とし
て円熟の域に達し、多くの優れた作品を残しています。
その後、京都に戻り下京区の仏光寺近くの居宅で、俳
句や絵を教える静かな余生を過ごします。蕪村の墓所
は左京区一乗寺にある金福寺。享年68歳。

ところで、大学時代は仏光寺通りでアルバイト。京福
電鉄の一乗寺で暮らしていました。仏光寺通りにある
蕪村終焉の碑。老舗呉服店の前に残存。

「蓮の香や 水をはなるる 茎二寸」<蕪村>

文と写真<殿>


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麦五合量り冷麦買ひにゆく  佐保子

2020年07月24日 | Weblog
岐阜市の長良川の北に、祖父が土地を買って住み始めました。
大正末期か昭和初期のことだそうです。
私が小学校に通う頃には家族6人となり、
裏の畑でわずかばかりの小麦を作っていました。
冬には、麦踏、初夏には麦刈り、脱穀も体験。
夏休みになると、昼前に量った麦をもって近所の製麺所へ。
交換してもらった冷麦でお昼を。
井戸水の冷たさ、美味しさ。
子供時代のいろいろが懐かしく思い出されます。



長良川と金華山

昔を懐かしく思い出しました。
幼い頃、近くのめん製造屋(そんな商売があったんですね)へ
物々交換に行きました。戦後の何もない時代でしたからね、と結宇さん。
同じ体験をしていらっしゃるんです。(遅足)
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冷し麦めぐる季節を啜りけり <亜子>

2020年07月23日 | Weblog
「めぐる季節を啜る」という表現に魅かれました。季節感を大事に暮らしておられる作者。ご主人様と冷麦を召し上がる状況が目に浮かびます。では、選句された方の一言をご紹介します。

すみさん。「めぐる季節を啜りが好き」
泉さん。「冷麦を食べながら つくづく季節を感じる様子がわかる」
能登さん。「 季節を啜る」がいい。

皆さん、言えそうで言えない「季節を啜る」という表現に魅了されたようです。
大雨のあと、急に猛暑となりいよいよ梅雨明け間近です。冷麦、そーめんの出番です。なかなか会えないけど皆様の顔を思い浮かべながら、今日もお昼は冷麦を啜ります。

            冷麦や会えない人を思い出し 麗子





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日常諷詠    遅足

2020年07月22日 | Weblog
冷麦と答える昼餉つづきけり  晴代

「お昼なんにする?」
「冷麦」
「・・・」

冷麦であっという間に済ます昼  静荷




冷麦やうすむらさきの返しつゆ  千香子

これは本返しを作って寝かせてあるのを、
昆布とかつをで出した出汁でうすめた
自家製のおいしい汁です。と作者。

日常の生活の中に花鳥諷詠を詠む。
もちろん花鳥はいません。
それに代わる日常の美はありませんか?
千香子さんは発見したようです。遅足
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忘れられない人   ー 画家 三岸節子 ー 竹中敬一

2020年07月21日 | Weblog




仏ヴェロン村の自宅で毎朝、般若心経を唱え、お祈りをする
三岸節子さん 。
ドキュメンタリー 「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 〜 」より



平成元年、三岸さん84 歳の時、私とカメラマンは仏ヴェロン村のアトリエで

制作場面やインタビューに応じて頂いたばかりでなく、毎朝、欠かしたことが

ないというお祈りなど日常生活まで撮らしてもらいました 。

「 絵が描けないと私、お祈りをするんです 。

どうか、私に絵を描かせて下さいませ、とお祈りをするんです 。

そうしますと、形が出てきて、絵ができるんです 。」

O 平成元年の秋、三岸節子は久しぶりに木曽川沿いの生まれ故郷 ( 現、愛知県

一宮市小信中島 )を訪れ、小学校時代の同級生とも再会しました 。

「 男性の同級生 “ 節ちゃん 百まで生きような” 」

「三岸節子 “ 私は百二十歳まで生きるの “ 」

「男性の同級生 “ ワシは百で ええ” 」

平成元年、三岸節子は長男夫婦と20年振りに帰国、神奈川県の大磯に住まいを構え

引き続き旺盛に制作を続けました 。




名古屋 松坂屋本店で開かれた三岸節子さんの個展会場 ( 平成元年 9月 )で 。
右が杉本健吉さん 。
ドキュメンタリー 「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 〜」より



この写真は三岸節子さんが平成元年、フランスから20年振りに帰国した際、

名古屋の松坂屋本店で開いた個展の会場に名古屋在住の画家 杉本健吉

( 当時 83 )が突然、姿を見せた時の映像 から 。

カメラはお二人のつぶやきをとらえていました 。

「 杉本健吉さん

やぁ、しばらくでございました 。元気じゃないか 。どの作品もいいね 。」

「 三岸節子さん

何年ぶりかしら 。いつか この前、展覧会していただいた時にお目に

かかりましたね 、

「杉本健吉さん

大先輩、 ヴェロンへは いつ帰るの 。早く帰りなさい 。

自由にできないもの 、日本の画壇じゃ 。」

「三岸節子さん

だって、あなたも日本の画壇にいらっしゃるじゃない。」

「杉本健吉さん

私はもう …… 」

三岸節子さんは海を見下ろす大磯で平成11年 、94歳で亡くなっています 。終

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またひとつ影の来ている冷し麦  遅足

2020年07月20日 | Weblog

影の来ているという中七に惹かれました。紅さん。

解釈、冷やし麦に訪れた影とは...。
作者の豊かな想像世界。惹かれてゆきます。
レベルの違いを感じる佳句。殿様。

「影の来ている」は、知らぬまに人が加わって食べていた‥
という意味にとりました。等さん。


死ぬとは、隣の部屋にいくようなもの。朱露さんの言葉だそうです。
年取った二人が遅い昼を食べています。
なんとなく亡くなった人の話となりました。
ぽつりぽつりと話す二人。
じれったくなった朱露さん。
隣の部屋から「俺の話はまだか」
                     遅足

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一茶考

2020年07月19日 | Weblog


小林一茶。本名は小林弥太郎。長野県の柏原より
江戸へ出て「一茶調」といわれる独自の排風を確
立。松尾芭蕉や与謝蕪村と並ぶ俳聖となりました。

富裕な農家であった小林家。長男の一茶が江戸に
出る理由となったのが継母との不仲です。一茶の
父である弥五郎にとって、15歳の一茶を江戸奉公
に出すことは苦渋の選択だったと思われます。

やがて、一茶は芭蕉の友人、山口素堂の句会に所
属することになります、芭蕉と比べ通俗的とはい
え江戸の俳壇においては名門。これにより一茶は
俳諧で生活することに決め、万葉集、古今和歌集、
といった古典文学を独学で会得していったといわ
れています。

「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」<素堂>

30歳になった一茶。西国に俳諧修行の旅に出ます。
作句の卓越した実力と誠実な人柄で俳句修行の旅
を続け、四国から九州への旅を「たびしうゐ」と
いう紀行文として出版。これを機に花鳥風月を詠
まない一茶らしい句を確立していきます。

私生活での一茶は恵まれていません。妻の急逝や
子どもたちの夭折が続きます。「おらが春」は愛
児「さと」の生と死を主題とした俳文。さとが遊
んでいた赤い風車を詠んだ句。

「せみなくや つくづく 赤い風車」<一茶>

生前の一茶の俳句は社会的評価を得ることがあり
ませんでした。その一茶に注目したのが正岡子規
です。子規は「俳人一茶」という著作の中で一茶
の軽妙な作風を絶賛。これが世界的に一茶の俳句
が翻訳され紹介される緒となったといわれていま
す。

「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」<一茶>

54歳の時に得た初児「千太郎」への命乞いの句で
す。過酷な生活でも飄々とした句を詠む一茶。子
規が絶賛した一茶の魅力の真意と推察します。


文と写真 <殿>



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琵琶湖にて

2020年07月18日 | Weblog


河合曽良。芭蕉の「奥の細道」できわめて重要な
役割を果たしたといわれています。しかし、与謝
蕪村の筆による芭蕉の蕉門十哲に曾良は含まれて
いません。

芭門十哲には、宝井其角、向井去来、服部嵐雪、
内藤丈草、杉山杉風、森川許六、各務支考。越智
越人、立花北枝、志太野馬と江戸中期を代表する
錚々たる俳人たちが描かれています。

宝井其角、向井去来は芭蕉門弟の双璧。去来は京
「落柿舎」で野沢凡兆と「猿蓑」を編集。杉山杉
風は深川の芭蕉庵近くに居を構え、芭蕉の経済的
な支援者として有名。

ところで、芭蕉と曽良の関係はどのようなものだ
ったのでしょうか。童門冬二著「師弟 ここに志あ
り」では曽良の性格は硬質、芭蕉は軟質な性格の
ため、芭蕉が「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」と
詠んだ8月18日は、曽良の日記では大雨。また天
の河は佐渡島と逆の方向であると間違いを指摘し
ています。曾良は芭蕉の句に対し異論を抱いてい
たことは間違いないようです。

芭蕉の葬儀は琵琶湖畔の義仲寺で行われましたが、
曾良は出席していません。芭蕉没後の8年目に曾
良は芭蕉の墓参に訪れ歌を詠んでいます。

「一翁の 墓に参りてー おがみ伏して紅しぼる汗ぬぐい」<曾良>

朴訥な性格と稚拙な文章能力。曾良は芭蕉から最
も俳句を学べる立場でありながら、俳人として成
功していません。しかし、師弟の愛情は深く芭蕉
は不肖の弟子として曾良を見守るしかなかったの
かもしれません。河合曾良。長野県諏訪市の生ま
れ。享年62歳。

文と写真<殿>
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話題尽き ひとすじ残る 冷し麦  殿

2020年07月17日 | Weblog


話題が尽きた時の静けさ。ひとすじ残った冷や麦。この取り合わせが良い。すみさん。

おしゃべりをしながら冷麦を食べていたが、話題もつきて静かになる。
器を見るとほんの少し冷麦が残っている。その様子が的確にわかる。泉さん。

余韻の残る句だと思います。紅さん。

冷麦は皆で掬って食べるもの、話が尽きれば終わりですが、一筋残っていました。等さん。

会話中になんとなく決まりの悪い時間があります。そんな時間、ふとみると一筋の冷麦。麗子さん。

お喋りしながら冷麦食べてて気がついたら残り僅か、もう終わりかと思いながらも
「あなた、どうぞ」と言ってる声が聞こえます。竹葉さん。

昼食のゆったりした雰囲気ですね。昼寝でもしたくなる雰囲気です。結宇さん。

みなさん、冷麦は何人くらいで食べていると想定されているのでしょう?
3人以上6、7人でしょうか。
話題が途切れる理由のうち、麗子さんの「きまりの悪い時間」というのも面白いですね。

中七は、ひとすじ残る、と素直に詠まれています。

  話題尽き残るひとすじ冷し麦

と、するとどうでしょうか?遅足
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