オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

残り飯弁当

2018-02-01 | Weblog

2/1(木) 夜中の三時過ぎに目覚め、眠れぬままに読書で時間を潰して朝を迎えた。蒲団から出た時は六時半になっていた。

月蝕のスパームーンを観たせいかな?こんな夜中に目覚めるとは・・・・・。綺麗に撮れないのは何時もながらだが、記念にアップする。昨夜、21時頃のお月さんだ。

                          

弁当を作ろうと電気釜を覗くと、昨日の朝炊いた「マイタケ炊きこみご飯」が茶碗に四杯程も残っていた。家人に『昨日の飯でもいいか?』と訊くと、いいわよとの返事である。

ここは勘弁頂いて、昨日の飯を弁当に詰めることにした。菜の方は、そうはイカンザキ。大根と鶏肉、蒟蒻にs椎茸の煮物をやることにした。これがメインだが、他には・・・・。

冷蔵庫の中に、昨日で店仕舞いをした隣の八百屋さんに頂いたと云う、牛蒡と人参の千切が在った。これをキンピラにしようと云うことになった。

                      

他には、ホウレン草の卵とじ炒めと、鮭の切り身を一つ焼くことにした。たったこれだけのことだ。

今日は長女の弁当が要らない日だった。こんな日は、弁当も手抜きになりがちだ。結果論ではあるが。

                    

 

昨夕、田舎の従姉から電話があり遠縁にあたる清岡さんが亡くなったとの知らせが。前日に、年末始は入退院がつづき失礼しました。今後、賀状は欠礼させていただきます。旨の、寒中見舞いが届いたばかりであった。

なんでも、高齢者用の高級施設に入って三日目に亡くなったとのことである。郷里では実家から100m程しか離れていないところに立派な家を持っているが、最近貸した。

ふる里に帰りたいと奥さんに言っていたそうだが、遺骨になって故郷の墓に戻ることになった。僕が子供の頃、清岡さんは京都大学の学生であった。その下宿に、親父に手を引かれて訪ねたことを覚えている。

夏であったろう、「チズミさ~んと」親父が呼ぶと、下宿の二階からランニング姿で階段を下りてきたチズミさんの姿が記憶にある。僕は三、四歳であったろう。京大病院に結核性関節炎の診察を受けに行った時のことだ。

我が田舎では、秀才の誉れ高い一家の長男である。帰省すると、我が家に来て親父と酒を飲み。国内も海外も一緒に旅をしてくれていた。

葬儀の日程は未だ連絡がないが、大宮在住なので参じなければと思っている。亡くなった親父と、郷里の半ボケでいる母に代わっても・・・・・。

 

 

 

 

 

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