百島ファンクラブ 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百年計画。

2018年05月30日 | 千伝。

今日は、かなり感動しています。

ぼくは、高校時代から、明治の文豪夏目漱石の大ファンでした。

東京で初めて下宿した場所は、漱石が誕生した牛込へ。

東京で一番最初に行きたかった場所は、漱石のお墓がある雑司ヶ谷へ。

漱石が暮らしたロンドンの下宿屋フラット(アパート)へ見学(当時、漱石記念館としてオープン)。

先日、英国留学中の夏目漱石が差し出した葉書が、福井市内の古本屋で百年ぶりに再発見されたニュース。

今日、漱石ファンとしては、自筆の実物を見たくて、展示されている福井県立こども歴史文化館まで出かけて参りました。

そのまえに、ちょっと補足。

1900年(明治33年)9月、30歳代となった夏目金之助(その後、文豪漱石)は、同年代の福井出身の芳賀矢一(その後、国文学者)、藤代禎輔(その後、ドイツ文学者)と、同じ船に乗って、ヨーロッパへの国費留学生として渡り、イタリア経由、パリまで行きます。

そこからは、芳賀と藤代はドイツへ行き、パリで別れます。

そして、漱石は、独りだけロンドンへ行くことになります。

福井県立こども歴史文化館の方によると、昨年9月、福井市内の古本屋でかわいい缶の中に200通近い絵葉書を発見。

そのほとんどが藤代氏関係のもので、その中から、3通の葉書が、夏目金之助(漱石)のものだと判明したのです。

その3通は、大正時代の全集(1917年)に文面が掲載された後に所在不明となり、約100年ぶりの再発見だったとのこと。

漱石がロンドンから、パリで別れたドイツ留学の藤代と芳賀に宛てた自筆3通の葉書です。

右の2通は、藤代禎輔に宛てられ、もう1通は日本文学を研究していた芳賀矢一宛のものです。

留学して約1か月後の1900年明治33年11月、「ロンドンの天気が悪いのには閉口したよ」「僕ハ独リボツチデ淋イヨ「金と不便と遠慮が鉢合わせをしてとても謹直だ」淡々と、当時のロンドン生活の漱石の心情が伝わります。

百年以上昔、ロンドンで孤独な東洋人夏目金之助が、英語にも、人種差別にも、金にも苦労したのが偲ばれます。

漱石がノイローゼになった心の傷みが、痛いほど分かるような伝文です。

されど、それが無ければ、夏目金之助は、夏目漱石として、百年後にも名を残す日本の文豪にもなれず、英文学者で終わったかもしれません。

漱石は、驚くことに、スコットランドにも行っています。

のちの「彼のこころ」という言葉の転換、「百年計画」への大きな創作の原動力となったかもしれません。

「私の個人主義」を再読したい気分です。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画えが出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。(草枕)

何だかムズムズしていけません。学校なんどへ出るのが惜しくってたまらない。やりたい事が多くて困る。僕は十年計画で敵を斃たおす積りだったが、近来これほど短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫、誰が出て来ても負けません。

(1906年明治39年11月11日付 漱石の書簡)


奥の細道。

2018年05月29日 | 千伝。

昨日二十八日は、春季陸上大会観戦、お不動さん詣、そして散策。

桐生選手が日本人初、100メートルを9,98秒で走り切った福井県営競技場です。

愛称を「9.98スタジアム」と呼ぶことになりました。

ベンチに坐りながら、走る仲間だった同年代との会話で話題に上がるのが、年金話です。

・・・短距離人生走よりも長距離人生走

最近の関心は、65歳までの給与と年金支給が、月28万円以上を超えると差し引かれるという年金問題。

そして、65歳以降の限度額が、29万円から46万円に引きあがっている現実の矛盾。

62歳から65歳までの仕事、労働意欲へのモチベーションが下がるという事実に対応して、政府は法改正を行うという記事を読みましたが、施行する頃には、我々は、65歳になってしまいます。

これから、65歳になるまでの3年間は、身心のリハビリ重視です。

理解できないものは、そのまま受け止めます。

またもや圧倒的なポイント数で、幸福度日本一となった我が福井県・・・それなのに、何故人口減なのかなぁ?

幸福度と魅力度は、異なる感覚世界のようです。

Make your brand!・・・を掲げる地元企業もあります。

今日も一日晴れ晴れでした。

心も晴れ晴れの満月です。

月日は、百代の過客にして、行きかふ年も、また旅人なり。(奥の細道)


百人力の顔。

2018年05月23日 | 千伝。

先日、自分の血管年齢が70歳だと表示されました。

多分、拡張性心筋症から大動脈解離発症に至るまでの2年前までは、自分の血管年齢80歳だったと思うので、ボロボロの血管が若返っていると信じています。

とりあえず、自分の血管年齢を自分の年齢に近づけるためのリハビリ道程です。

複雑に考えません。

・・・独り散歩。

誰も歩いていません。

ステップ、スキップです。

今まで生きてこられたことに感謝です。

・・・誰も歩いていません。

目に見えないものを感じます。

自分に無いものを求めません。

ホップ、ジャンプです。

田圃をチェック。

瑞々しい空気、空元気を吸い込みます。

「恵み」に気づきます。

秋の新米が、楽しみです。

倉庫内のコレクッションを整理、チェック。

 心の力を強くしてくれる人が、百人力の顔。


百の真実。

2018年05月18日 | 百伝。

百は、「もも」と読むことができます。

・・・それは、何故か?

百のパワー(力)は、素晴らしく凄いのです。

百島は、何かに守られているような気がします!・・・というコメントをよく耳にします。

・・・事実であり、真実です。

「もも」の語源は、諸説あります。

古代の中国では、もも(桃)の木を天から授かった木として崇敬しており、仙人の暮らす場所を「桃源郷」と呼びます。

この桃源郷が、日本にも伝わり、日本神話、卑弥呼の時代には、邪気よけに桃の実を使い、もも(桃)が「邪気を圧伏し、百鬼を制する」。

「桃→もも→百」と結びついたという説もあります。

「一+白→百」から生まれたという説もあります。

漢字の「百」は、和語系数詞で「もも」と読みます。

「20は、はたち」「30は、みそじ」「40は、よそじ」、「100は百と書いて、もも」と読みます。

さらに、「千は、ち」「万は、よろず」・・・だから、八百万(やおよろず)。

百島の中学時代の恩師、大原先生から教えていただいたこと。

何故、九十九は、「つくも」と読むのか?

・・・次が、百だからだと。

つまり、九十九は、「つぐもも(次百)」なのです。

百島中学校に入学した一年生の時に、同じく赴任された校長先生が、大原先生でした。

広島大学付属三原中学の教頭から、初めての校長先生への人事異動だったようで、非常に印象に残る先生でした。

校長先生でしたが、同年入学の我々一年生をよく可愛がり、「社会科」を特別に教えてくれました。

「太平洋」と「大西洋」の書き方の違いは・・・?

太平洋には、ハワイがあるから「太い」字を書くんだ!・・・とか。

だからなのでしょう・・・大原校長先生、中学1年生の秋の遠足は、倉敷の大原美術館へと決定。

倉敷への遠足・・・そこで出会った初めて耳にする100%異国人(修道女)の話すナマの英語・・・今思えば「置かれた場所で咲きなさい」著 渡辺和子さんの岡山ノートルダム清心女子学園の先生だったのでしょう。

・・・ノートルダムの百日紅の美しい花かなぁ。

百花繚乱、百鬼夜行、百戦百勝、百戦練磨、百発百中、百家争鳴 等々。

百選、百代、百般、百凡、百薬、百慮、百事、百科、百家、百戦、百薬、百鬼、百獣、百王、百姓、百工、百官 等々。

百を伴う言葉は、優しくもあり、凄みのあるパワーが有りますね。

ちなみに、ちょっと気持ち悪い「百足(むかで)」・・・もともと百官を意味するもの。

百足は、攻撃的で、後ろに下がらない、出足も沢山・・・子孫繁栄、商売繁盛、戦の神、毘沙門天の使いとも言われているとのこと。

だから、武家、商家、歌舞伎役者の家紋にも使われているとのこと。

先日、テレビを観ていると、お参拝すると、宝くじが非常に当たる関東方面の神社に「百足」が鎮座していました。

それから「出家とその弟子」の倉田百三、インスタントラーメン発明の安藤百福さんの名も浮かんできます。

・・・さて、話をもともとに戻します。

桃島(あるいは、百島)と名付けたのは、一体どんな人物で、誰だったのだろうか?

さらには、「もも」の語源には、「真実(まみ)」、実が赤い「燃実(もえみ)」という意味。

そして、実が多く成ることから「実々(みみ)」、、分厘毛毛が生えていることから「毛々(もも)」の等々、そして「百々」への転換意味。

・・・真実(まみ)です。

古代から、人は、食べるため生きるためには、花や木よりも、果実・・・つまり「真の実」に重みが置かれたのでしょう。

「実」を強調した「実々(みみ)」が、「百(もも)」に通じる説です。

「桃太郎」が鬼退治したように、それが、悪魔払いにも用いられるようになった・・・「百の真実」です。

何かの願いがあれば、お悩みがあれば、是非、一度、百島の空気を吸い込みにお出でください。


ブルー・スカイ・ブルー。

2018年05月17日 | 百伝。

今朝、定期受診検査。

「・・・ジョッギングぐらい出来ますかね?」

と、かかりつけの先生に問えば・・・残念な答えを頂きました。

「大動脈の血管が裂けたままの状態ですから、再発を促すような危険な運動行為は絶体にしないほうがよいでしょう」

意気消沈したまま帰宅して、「気功関連」の本を読んでいると、悲しいニュースが入りました。

かつてのトップアイドルの西城秀樹さんの訃報。

地元広島では、中国新聞が号外を出したほど悲しいニュースでした。

広島県出身で、同年代の我々にとっては、「西城秀樹」は、10代の頃から特別な存在でした。

同級生のあゆちゃんは、ファンクラブに入っていたよね・・・一度、百島へ招待すればよかったのにね。

午後から、映画「ウィンストン・チャーチル ~ヒットラーから世界を救った男~」を観て参りました。

国難に直面して、和平交渉か、戦争か・・・実話に基づく究極の選択を迫られるチャーチルの27日間を描いたものです。

こんな台詞がありました・・・「歳を取れば、知恵だけが頼り」

チャーチルは、文筆家としても、政治家としても、数多くの名言を残しています。

~~~~~

資本主義の欠点は、幸運を不平等に分配してしまうこと。

社会主義の長所は、不幸を平等に分配すること。

その国の高齢者の状況を見ると、その国の文化が見えてくる。

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西城秀樹さんが歌うYMCA(ヤングマン)。

♬ Y.M.C.A. Y.M.C.A  ゆううつなど 吹き飛ばして 君も元気だせよ

  そうさ  Y.M.C.A. Y.M.C.A.  

  若いうちはやりたいこと 何でもできるのさ

・・・青春だね。

個人的には、「♬ブルー・スカイ・ブルー」が、一番思い出深い歌でした。

♬ 振り向けば あの時の 目にしみる 空の青さを思う

  悲しみの旅立ちに まぶしすぎた空を思い出した。

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心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌。


百島定住促進サイト 。

2018年05月16日 | 百伝。

百島定住促進サイト

瀬戸内海に浮かぶ尾道市の離島「百島」への Iターン   J ターン  Uターン・・・移住サイト。

こんな広報もありました。

島内での仕事

投稿日:2018年5月1日

百島には大きな企業があるわけではないので、「就職」には限りがあります。

高齢者の多い島なので、看護・介護職では求人もあるようです。

今回は郵便配達員(委託)の求人情報です。

百島への移住を検討している方には、一つの検討材料にはなるのではないでしょうか?

詳しい内容については直接尾道郵便局にお問い合わせ下さい。

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以上。


今日の印象。

2018年05月11日 | 千伝。

ゴールデンウィークの期間中も働き詰めでした。

人手不足とはいえ・・・やりがい搾取の日銭稼ぎです。

今日は、久しぶりの休日散策。

「ターナーからモネへ 光の芸術 印象派の誕生」という絵画展を鑑賞して参りました。

英国を代表する巨匠 ロマン主義派のターナーの作品が、福井初上陸。

・・・見ないとね!

ロンドンのテート・ギャラリーで、初めて見た時のターナーの絵画への想いが残っているのです。

自分の目が悪くなったのかと思うぐらい、くすんで、ぼやけたような絵画の印象があって、これぐらいならば「俺でも描ける!」と内心ちょっと過りました。

浪漫(ロマン、ロマンス、ロマンチック)とは、何ぞや?・・・と考えたものです。

今回の展覧会・・・印象派という言葉を誕生させた画家、作品の流れを教えていただきました。

印象派の祖というべきフランスのモネに、多大な影響を与えたイギリスのターナーから続く、イギリス・フランスの両国の画家の作品が展示されていました。

(会場内は写真撮影禁止)

看板ポスターは、モネの代表作である「サン・ジョルジョ・マッジョーレ、黄昏」

(ジェームス・ティソ作)

(ジャン・フランソワ・ミレー作)

印象派モネが誕生した時代は、19世紀でした。

日本は、江戸時代の幕末から、明治維新の動乱時代にあたります。

当時、ヨーロッパの多くの画家を震撼させたのが、そのまま描き出す「写真技術」の登場です。

そこで画家が悩んだのが「絵を描く動機とは? 意味とは?・・・何だ?」ということです。

そして、考え抜いた答えが、「自分の目で見た風景を描く、自分の心の印象を表現する」という結果でした。

それ以降を「印象派」と呼ぶことになりました。

それ以前の代表格が、光や大気や空気の揺れを得意とするイギリスのロマン派のターナーだったのです。

当時は、写真技術だけではなく、英国を筆頭に一般社会でも産業革命の余波に揺れていました。

「機械」というものが、工場で大量生産を可能にして、低賃金労働者を多く生み出しました。

機械」は、資本主義の象徴でもあり、悪魔のような対象だったのかもしれません。

現在も・・・人工知能の登場やら、何か同じような風潮が漂います。

ちなみに、当時のロンドンには、あのカール・マルクスも暮らしていました。

今年は、マルクスの生誕200年だそうです。

「資本論」が著されたのが、150年前・・・日本では、ちょうど、明治維新の時代ですから非常に驚きです。

さて、話を元に戻すと・・・現代の絵画には3つの大きな流れがあるとのこと。

「表現」「抽象」「幻想」・・・これらの始まりが、「印象」だとのことです。

・・・ほんとうかな?

江戸時代の日本の絵描きには、北斎や広重、それから伊藤若冲のような錚々たる人物を輩出していますが、「表現」「抽象」「幻想」にすべてに当てはまるような気もします。

はて・・・そんなことを考えながら、美術館を出て、市役所、県庁まで、散策。

県庁ロビーに、幕末の福井藩藩主松平春嶽公が輸入購買したという日本初の「独行車=自転車」が展示されていました。

明治維新150年の今年の秋・・・福井で国体が開催予定になっています。

前回の福井国体は、50年昔の明治維新百年の時だったそうです。

50年昔の1968年は、憶えています。

メキシコオリンピックが開催された年でした。

50年なんて、100年なんて、一瞬の時間です。

夢は、持ち続けていないとね!

日々精進。

今日一日の印象でした。


夢の種。

2018年05月08日 | 千伝。

歳を取れば、先が見えてくる。

若い人には、夢がある・・・それだけで贅沢な時間がある。

「そう君、歳だから止めるのではなくて、歳だから前に進むんだよ」

 

加古里子(かこ・さとし、本名・中島哲 越前市出身、92歳)さんが亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします。

と同時に、「ありがとうございます」という言葉が添えられる日本を代表する絵本作家でした。

合掌。