百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

軍属時代 10 ~両親の死~

2010年05月31日 | 人生航海
遠い異国で働いているのに心配させてはと悪い・・と知らせずにいたのだろう。

父が昭和13年12月28日に46歳で亡くなり、母も翌年昭和14年7月19日に43歳で亡くなったと・・詳しく手紙に書いて知らせてきたのであった。

その事を知ると、私は、「子供を遠い国まで行かせて、苦労をさせて済まぬ」と想いながら死んで逝った両親の気持ちを憚った。

親孝行も十分出来ないままなのに、申し訳けない想いが先に立ち、幼い頃を思い出しては・・その夜は、悲しくて、涙があふれて、一晩中泣き明かした。

皆からの同情と厚意もあり、いつまでも悲しんではおれず、「諦めねば」と自分の心に言い聞かせたのである。

軍属時代 9 ~手旗信号~

2010年05月31日 | 人生航海
憲兵伍長は、別れ際に「元気で頑張れよ」と帰って行ったが、何だか後味の悪い思いであった。

その後、多くの邦人たちが賭博犯で罰せられて、日本へ強制的に不良送還させられた。

それ以後は、何事も厳しくなって休みの日でも、碁と将棋の他は全て禁じられた。

そんな時、通信兵から手旗信号を教わることになった。

若い船員たちは皆習うことになり、私も一緒に教わることになった。

本格的に始めて1ヶ月も経つと大体は覚えて、停泊場からの簡単な用件は手旗信号で伝えてくるまでになった。

それから、各船宛てに手旗で伝達ができるようになったのである。

手旗は、画くよりも読むのが難しくて、完全に読めるようになるまでには、相当な経験が必要だった。

此処で手旗を覚えたお陰で、あとあとになって役立つことになるとは、あの時は夢にも思わなかった。

そんな日々が続いていた頃に、突然家の方から手紙が届いた。

軍属時代 8 ~大石主悦~

2010年05月31日 | 人生航海
そして、何日か過ぎた頃、私のほかに何人かが憲兵隊に呼び出された。

恐るおそると皆について行ったが、入り口で、憲兵が、私に「お前は日本人か?」と聞かれた。

「はい」と答えると、「名前は?」と言うので、「藤本です」と答える。

その憲兵は何か納得出来ない様子で、何も言わずに奥の上官室に私だけを連れて行ったのである。

そこは立派な部屋で、中には上官の憲兵曹長がいた。

私を見るなり「お前は、まだ子供のように見えるが、歳はいくつだ?何をしに此処に来たのか?」と聞いた。

さらに「お前も賭博をしたのか?」と聞かれた。

「はぁ?」と首を傾けると、賭博の意味が分からないと思ったのか・・「博打だよ!」と言った。

その後、「いくら勝ったのか?」と問われた。

「私は、勝ったり負けたりはしません」と言って、頭を下げて「すみません!」と礼をした。

あの時の憲兵曹長の説教が忘れられない。

「おまえは、15歳らしいが、忠臣蔵の大石主悦を知っているか? その主悦もおまえと同じ齢の15歳で、主君の恨みを晴らして本懐を遂げて切腹した事を・・。おまえも知っているだろう。おまえには、その勇気があるか? 賭博は罪になる事ぐらいは分かると思うが、今後は真面目に働いて、絶対にしないように」・・と諭された。

他にも色々と説教された。

「これを内地の親が知ったら、どう思うか?遠い異国で国の為に働いていると思っているのに、両親に申し訳けないと思わないか?・・それが分かったら帰ってよい。等々」と言われて憲兵伍長を呼んだのである。

そして、憲兵伍長に「なぜ、あんな子供まで連れてきたのか?心配せぬように、よく言い聞かせて、車で停泊船まで送って行くように」という大きな声が、部屋の外まで聞こえた。

憲兵伍長は、苦笑しながら、私を停泊場の船まで見送ってくれたのである。

軍属時代 7 ~憲兵隊~

2010年05月30日 | 人生航海
当時の賭博罪は、非現行でも罰せられて逮捕もされた。

憲兵が、夜間に船まで来ることもないと思い、船が賭博場ならば安全な場所と考えたのであろう。

電気も無くランプを4~5箇所ぐらいに置いて、明りが外に漏れないようにシートを掛けて、雨が降ってもよいように工夫していたのである。

その頃、暇が長く続いたので、毎晩のように多くの人達が集まって、益々賭博は盛んになっていったのである。

なかには、商人や遊び人たちもいて、兵隊は勿論のこと、徴用船の船主船長の金持ちの人達も多く集まり、一晩で何百円もの金が動いたのである。

私も毎晩の如く、花札賭博をそばで見ていたので、完全に覚えてしまった。

丁半賭博ではなく、カブという簡単な花札賭博で、誰にでも出来る仕組みだった。

正直言って私も大勢の人にまじって何度か賭けたが事もあったが、一度も勝った事はなかった。

悪い事は、そう長く続くものではなく、負けた者達との貸し借りの争いが生じて、やがて停泊場司令部の知る事になったのである。

その後、特務機関にも知れて、即刻何人かの船員たちが、まず憲兵隊に呼び出された。

そして、次々に芋づる式に連行されていった。

憲兵と言えば、今の警察と違って怖い事は誰もよく知るところである。

呼び出された者の調べが終わると一応帰してくれるが、踏んだり蹴ったりの凄い体罰を受けて帰ってきた。

そのために、顔面は変形して・・見る眼も痛ましかったのである。

それ以後も毎日のように呼び出され、取り調べられて、問い詰められて、次々に名前を挙げるのである。

その名前を挙げられた人達が、次々と呼び出されたのである。

そして、「この非常時に、お前たちは日本人として恥ずかしくはないのか!お前たちは国賊だ!」と罵られて、その上に体罰の制裁を受けたのである。

しかし、それで済まされない人も多く、軍属でも厳しい処分となった。

不良送還された人も多くいたと・・その後に知ったのである。

軍属時代 6 ~賭博~

2010年05月29日 | 人生航海
上海から九江に戻って間もない頃だった。

突然、船長が体調を崩して高熱を出して苦しみ始めた。

診察を受けた結果、デング熱と分かって、九江の陸軍病院に入院することになった。

機関長と二人で毎日のように病院に通ったが、なかなか熱が下がらない。

そのため、軍医の指示で内地の病院に転院して治すことになった。

船長が帰国した後、機雷に接触して沈没した船の船長が後任の船長として乗船してきた。

天草出身の丸木さんという人柄の好い優しい船長だった。

船長が交代した同時期に、敵方が揚子江上流から多くの機雷を流し始めてきたのである。

その浮流機雷の防止策として、船の係留場所の上流一帯に網を張ることにした。

機雷の接触を防いだので、その後は機雷接触事故は無くなったが、その頃から次第に待機の日が多くなった。

船員は、休みが多くなり暇を持て余すようになってきたのである。

九江に入ってから一年が過ぎて、昭和14年の秋の頃であったと思う。

日暮れになると、いつものように多くの機帆船から船員が集まるようになってきた。

初めは、将棋や碁で遊んでいたが、そのうちに部屋が狭いと言って、船倉に大きなシートを敷いて、各船員の遊び場所になったのである。

それには理由があった。

交代して来たばかりの新しい船長が何も言わない人の好い事を、皆は、よく知っていたのである。

初めは、ただの花札遊びだったが、日が経つにつれて、次第に賭博の場所になっていたのである。

夕暮れ時になると、いつのまにか軍人や船員の他、街の商人たちまでが集まり、本格的な花札賭博の場所になったのである。

しかし、そんなことが、いつまでも続くわけもなかった。

軍属時代 5 ~State of Ship~

2010年05月28日 | 人生航海
その頃になると、ようやく揚子江の詳しい地形図(海図)も出来て、独航ができるようになった。

一度だけ、九江から雑貨を積んで上海まで下ったことがある。

昼間だけの航行であったが、揚子江の流れに乗っての航行は速く、途中に安慶、蕪湖、南京その他の街にも寄港ができた。

そして、上海に着いた時のことである。

旅客用飛行機の時代が到来する以前の遠い時代・・その頃の我が国日本は全世界に誇る大海運国であり、大型の豪華客船がアメリカ航路の他、ヨーロッパ方面にも定期船として就航していた。

その豪華客船が、上海に入港した時の雄姿は、実に堂々として大きかった。

そのうえ美しく初めて見る豪華船の姿には、唯々目を見張るばかりだった。

そして、日本郵船の煙突のマークは、近くで見ると特に綺麗で、船名は、鎌倉丸、熱田丸、新田丸・・他にも商船の優秀船も見ることが出来た。

現在でも、横浜の山下公園に係留している氷川丸も、当時の日本を代表する一隻であり、船型は少し古いが、終戦時まで健在なのは珍しく、記念として長く保存されて、多くの人に親しまれているのは、非常に嬉しい事である。

余談ではあるが、あの時の上海で見た豪華船は、ほとんど太平洋戦争の末期に空母等に改造されて、敵機からの空爆で無残にも海底の藻屑と消えたのである。

あの時、上海で見た日本船の姿が目に浮かぶと・・残念な思いが、いつまでも消えない。

軍属時代 4 ~謝々~

2010年05月26日 | 人生航海
あの頃は、少し奥地に入ると、到る所で戦闘があった。

たくさんの敵兵の支那(中国)人の死体が、船の側を流れていた。

誰もが戦争の悲惨さを感じたであろうが、この戦争は、日本の勝ち戦だと信じて、皆が喜んでいたのも確かである。

国民総てが、国の為に、命も惜しまず尽くした時代であった。

今思うと、あんな戦争は二度と再び繰り返してはならないとよく解るが、あの当時の日本は、軍国主義であり、現在とは全く時代が違い、私達国民には何も自由もなく、どうする事も出来なかったのである。

何も知らずに日本の勝利だけを思い、大きな間違いを起こしたのである。

そんな時代に、子供心に支那(中国)人に対して「謝々(シェシェ)」の言葉使いひとつで、和やかな関係に変わることも経験した思い出もある。

九江の暮らしにも慣れた頃、幡陽湖の南昌へ弾薬と食料品を積んで帰る途中、河岸の浅瀬に船体が乗り上げて座礁をしたことがあった。

自力では、離礁が出来なくなり、どうにもならなった。

船長は、伝馬船を降ろして、現場近くの民家に応援を頼んで、大勢の農民を集めさせた。

荒天用の大きなロープを出して、船を引っ張らせたが微動もしない。

皆は顔色を変えて心配したが、その時に農民の一人が「水牛に引かせてみよう」と提案してくれたのである。

藁をも掴む思いで、彼らに頼むことになった。

そして、水牛四頭を引き連れて来て、農民たちの力と合わせて、エンジンも全速で後退して引いたのである。

私たちは、口々に中国語で「謝々(シェシェ)」と礼を述べた。

すると、船体が動き始めて・・其処にいた誰もが皆、思わず歓声をあげて喜んだのである。

私たちは、救ってくれた地元の農民たちに、米や麦や他食品類を多く渡して、無事に九江に帰ることが出来たのである。

水牛に船を引っ張らせたのは、揚子江での事以外になかった。

前代未聞の珍しい出来事であったかもしれない。

それにしても、水牛の力は、強かった。

軍属時代 3 ~俸給通知~

2010年05月25日 | 人生航海
九江に到着後、揚げ荷を終えて、まもなく軍事物資と兵隊を乗せて番陽湖畔の呉城鎮に行った。

陥落後、まもない激戦の跡には、あちらこちらに両軍の戦死者が多くあり、なかには無残な姿で殺害されていた。

此処でも戦争の悲惨さを改めて知らされたが、戦争とは、かくもむごいもので残酷なものかと思ったのである。

日本兵の何人もの戦死者も空き地で荼毘にふされていたが、その周囲には、日本の兵隊や軍属が多く集まり、泣く人の姿もあり、気の毒に思いながらも、何か嫌な感じがした。

この九江の地域での戦闘が終わったあと落ち着いてくると、いち早く日本の特務機関が潜入してきて、敵味方を問わず取り締まり、違反者を厳罰に処して治安維持に務めていた。

たとえ日本の軍人、軍属といえども許される事はなく、憲兵よりも怖い存在だった。

さて、九江には、以前から日本人街があった。

日本軍による陥落後は、またすぐ戻り店を開いたらしく、初めて街を歩いた時には、日本人商店の多いのには驚かされた。

・・食堂、楽器店、書店、電気店、衣料店等の商店が並び、此処は、外国かと驚いたのである。

数日後、九江の司令部から各船長に通達があり、皆の俸給の通知があったが、驚くことには・・私の給料が、90円だと知らされた。

私は嘘だと思ったが、軍隊のことで間違いかもしれないので、もう一度、船長から聞いてもらうことにしたが、「軍隊には年齢の差はない」と言われて叱られて帰って来たとの事であった。

しかし、いくらなんでも、当時の私は、まだ子供で、毎月10円もあれば十分すぎたのである。

そして、月給90円をもらう私は、他の船員たちの喜ぶ顔と機嫌取りも予ねて、いろいろと物を酒保で買っては、渡すようになっていたのである。

そんな事が当分続いたある日、班長の荒巻さんという方が来られて、皆を集めて「お前たちは、こんな事をして、若しこれが司令部に知れると処罰問題になる」と叱られて、それ以後は止めた。

まだ、お金の使い方を知らなかった私は、機関長から「着る物を買って身なりも少しは綺麗にせよ」と言われ、連れられて街に出たのである。

しかし、軍隊の服は大き過ぎて着られないし、他に適当な民間人の服も見当たらず、仕方無しに学生服のような服を買ってきた。

それから、船長から無理に買い物するよりも野戦郵便局で貯金するようにと教えられて、その後は、俸給日ごとに貯金する事にして、子供ながらお金を貯めるのが楽しみになったのである。

その喜びを知って、さらに楽しくなり、それを切っ掛けに小遣いは送金したり、または貯金をして、お金を少しでも多く貯めて、親孝行のため、家族皆のために頑張らねばと思っていたのである。

私が一人前になった時には、必ず家族の幸せを実現しなければと、それのみを目指して楽しみにして一生懸命頑張ったのである。

そんな日が早く来るようにと願って、私は、夢に見ながら働いていたのである。

正直なところ、あの年齢で90円もの給料を頂いたのも、私には幸運だった。

思えば、幸運とは、そういうことかも知れないと、時々思うことがある。

その幸運が、いつまでも長く続く事を願わねばと思っていたが、よく考えてみると、幸運は、向こうから自然にやって来るものではなく、自分の努力で作るものであるという事がよく分かる。

その後は、その気になって、それまでとは違い改めて貯金をするようになった。

お金を貯めるという気になったのは、その頃だったと思う遠い記憶である。

子供としての自覚・・そのまえに一人の人間として一生懸命働く事への自覚だったのである。

軍属時代 2 ~九江~

2010年05月24日 | 人生航海
そして、揚子江沿岸に点在する鎮江、南京、蕪湖、安慶という主要な都市に寄港しながら、目的地の九江に向かった。

なかでも、かつての首都でもあった南京に停泊した折、既に陥落した後であっても、何故か・・嫌な気分で夜空に浮かぶ薄明りさえ虚しく感じた。

あの痛ましい虐殺事件を聞くと・・生まれて初めて知る戦争の匂いだった。

その後、安慶にも寄港したが、やはり幾分は戦争の匂いを感じたのである。

そんな戦争の匂いを嗅ぎながら嫌な気分で、最終港の九江にようやく到着したのである。

九江は、番陽湖の近くで、櫨山の麓にある。

(櫨山に関する中国の故事から参考までに:
呉の国の櫨山(江西省北部揚子江岸、九江の南部)に董奉(とうほう)という名医がいた。
貧しい患者からは治療費を取る代わりに軽い患者には杏(アンズ)の木を1株、重い患者には五株の杏を植えさせ林にさせた。このことから医者のことを杏林と言うようになった。この故事にちなみ医学関係では杏林大学、薬品関係では杏林薬品株式会社が、この杏林の名を冠している。)

近郷の農産物の他に、さまざまな産業の集散地で人口も多く、軍事的にも重要な地点であった。

そのために、九江にも日本の停泊場部隊が置かれていた。

停泊場部隊は、物質の輸送のため船舶に関する業務を扱う部隊であり、九江は、私たちのベース基地として、その指揮下に入ったのである。

到着早々、船体の横に、陸軍運輸部のマークとともに、大きく黒字で「キー162」と書かれた。

その番号「キー162」が、船名として使用されたのである。

その後、各船は、近辺の前線部隊に向けて軍需物資の輸送のため当分多忙が続くことになるのであった。

そして、如何に戦争とは云えども・・前線部隊のある地域は無論のこと、九江もまだ戦争の名残がどこでも見られて、毎日のように支那(中国)兵の死体が流れていた。

あれ程に哀れに思ったことは無く、生まれて初めて知る哀れな経験だった。

が、初めて戦争の悲劇を・・子供だった私が、自分の目で見て、今だから言えるかもしれない。

人間とは不思議なものであり、あれ程に哀れさを感じても、その反面、戦争だと思うと、闘争心に燃えて、国の為、ただ一途になるのだった。

日本の勝利以外・・考えなかったのである。

軍属時代 1 ~揚子江~

2010年05月23日 | 人生航海
翌朝は天候にも恵まれ、まだ夜も明けやらぬ頃、船団の各船は、一斉に五島列島をあとにした。

東シナ海の大海原を、揚子江に向けて意気揚々として出港したのである。

航行中は、船団を保つため、速力の遅い船に合わせて、速力約5ノットのスピードで航走を維持・・幸いにも海上は、風もなく鏡のごとく平穏で、瀬戸内海を航走するかの様だった。

水平線遥か彼方まで何も見えぬ東シナ海は、日中の昼は暑かったが、夜間は満天の星空を仰ぎながらの航海だった。

約四昼夜半の航海・・一隻の事故船もなく、揚子江の上海港口に到着した。

そして、出迎えの船に引き継がれて、上海のウースン港に入港して積荷を整理したのである。

その後、陸軍運輸部の指揮下のもと、上海に10日間程留まり、その間に各線の配属先が決められた。

私達は、九江の停泊場部隊への移動となった。

檜垣部隊だと言うことも聞かされて、数日後には上海を出港して揚子江を遡った。

誘導船の指示に従い、目的地の九江に向けて航行を続けたが、初めて見る揚子江は、河幅も大きく広く、茶褐色に濁った河の流れも考えていた以上に案外早かった。

揚子江での航海経験の無い船舶の独航は難しく危険なので、九江に到着するまで水先案内船が先導してくれた。

揚子江は、増水期と減水期では水深もかなり違い、河幅も変わるので、夜間の航行は危険で、それゆえ安全な場所を選びながら昼間だけ航行する事になっていた。

加えて、揚子江両岸の風景を眺めながら航行していたが、「いつどこから敵に狙撃されるかも分からない」と聞かされたのである。

積荷の米俵を船橋の横に積み上げて弾除けを作り、敵からの狙撃を防ぐことにしたのである。

さらに、上海を出て何日か過ぎた頃、多分、鎮江の下流付近だと思うが、日本の艦船の進撃を阻止しようと、河幅の狭い場所に大型の貨物船数隻が横並びに沈められていた。

そのうちの一隻を爆破して、何とか船舶の航行が出来るようになっていたが、その痕跡が生々しく、戦時下の緊迫感が一段と強く伝わってきたのであった。

船員となって 5 ~徴用船~

2010年05月22日 | 人生航海
大正13年生まれの私は、昭和12年には13歳であったが、既に働いていた。

そして、故郷を離れて船員となって、早くも一年が過ぎていった。

仕事にもようやく慣れたが、いつも同じ航路ばかりで、時には何処か変わった港に行ってみたいと思った事もあった。

そう思った途端、一度四国の八幡浜に肥料を積んで行ったが、それ以後は、また同じ航路が続いた。

時々、実家の両親から我が子を想う気持ちからか・・手紙が届いた。

そのたび毎に、返事は必ず書いて出した。

「毎日、相変わらず元気で働いていますから、何も心配しないで安心してください」と。

いつも同じような返事を書いて、終わりには必ず「おばあさんや、妹弟達も身体に気をつけて元気で過ごせるように祈っております」と決まり文句で締め括っていた。

その後、しばらくして、突然、陸軍運輸部に本船が徴用されて支那の揚子江方面に行く事を知ったのである。

その時は、私も是非一緒に行きたいと願っていた。

早速、船長に頼んでみると、「今は何も分からないが、その時は検査もあるので、それに・・お前の歳が若すぎるので、多分、支那まで行けないだろう」と言われた。

それでも、私は諦めずに検査の日が早く来ればと思いながら待った。

徴用船になれば、船員もさらに雇うことになり、実際、新たに二人雇い入れたのである。

それで、規定の定員数7名は、私を含めて揃った。

そして、検査の日が近くになると、今度は合格ができるのかと心配しながらも楽しみに待つ事にしたのである。

私が気にしていると、船長は「その時はその時で何とかなる」と言ってくれて、少しは安心したが、私は、実家には何も知らせなかった。

もし知らせると、心配するのはよく分かっていたので、黙って行った方が良いと考えた。

何も知らせず、支那に行こうと考えたのである。

何日か過ぎて準備も終わり、いよいよ出発の日も決まった。

宇部の岸壁の広場で、市役所の人達や街の有志の人達が大勢出て、徴用船に対して壮行式が行われて万歳三唱の声に見送られた。

宇部から北九州の小倉の陸軍運輸部へ向かって出港したのである。

翌日には早速、小倉で各検査や積荷が始まり、健康診断や身体検査の時間が迫ったのであった。

私も幾ら心配しても仕方なく、案ずるよりは生むは易しとかで覚悟を決めて待つ事にした。

係官から「・・まだ歳が若いようだが、何歳か?」と訊かれた。

ああ、やっぱり駄目かと思ったが、とっさにサバを読んで「私は、17歳です」と答えた。

係官は、他に何も聞かなかった。

それで、総ての検査は終了したのである。

翌日から種々の積み込みが始まり、中支方面に運ぶ積荷は、主に米で約80屯を積んだ。

その荷重が、一番航行し易い船脚になると言う事だった。

丸二日間で、航海に必要な物品は勿論、船員の食料品一切を積み込み、軍服類等も全員に支給されて、あとは出港の準備を待つのみだった。

私達、山口班九隻は、五島列島の或る島の湾に指定の日時までに必ず集結するように決められていた。

各船は、確実にその事を守りながら運行した。

その日までに、其処には約30隻の機帆船が集まっていた。

船団が組まれて、航海中の注意等の通達があった。

誘導船は、第二若松丸と江口丸という二隻の汽船が付けられたのである。

季節は、九月の台風時季である。

東シナ海での海上運行を心配したが、航海の安全を祈る他はなかった。

船員となって 4 ~神戸赤~

2010年05月21日 | 人生航海
昭和13年頃には、まだ瀬戸内海を走る帆船がよく見られた。

宇部のみぞめ炭鉱の船溜りに、三本マストの帆船が多く待機して、ここで石炭を積んで大阪方面に帆を高々と巻き上げて、風と潮流を頼りに帆走していた。

他にも、蒸気船の曳船が十数隻も艀を数珠繋ぎに曳航して、瀬戸内海を航行する姿もよく見られた。

あの当時の光景も眼に浮かぶが、まもなく帆船時代は終末を迎えて、機帆船時代の到来であったのである。

そんな折に、私は機帆船に乗ったので、それが私の生涯の羅針盤と定めて船員として働く事を運命として、海の男として人生を過ごすことになった。

機帆船はエンジンを使用して走るが、正式名称は帆船であり、必ず帆走設備が必要であって、その為に帆に関しての一通りの知識も習ったが、20屯未満の船は不登簿船だった為に船舶検査の対象外で、免状も不要で、船長も機関長も免状は無くてもよかった。

20屯を超えて200屯未満まで、甲板部は沿岸丙種航海士、機関部は丙種機関士免状で其々に船長も機関長も務めることが出来たのである。

200屯以上500屯未満まで、丙種運転士、発動機三等機関士、略して一般には、丙運・発三と言ったが、屯数は別として汽船は、小型鋼船でも種々の検査規を定められて各設備が求められ、当然、免状も乙種の免状が必要であった。

勿論、遠洋区域は甲種で、甲種・乙種・丙種・小型船免許等があり、細かい規定は、最近は変わっているらしい。

他に船舶の航行区域も種々あるが、船舶関係の法規を述べても仕方がないので話を戻す。

津久見と宇部の航路は、津久見で積荷待ちで停泊することが時々あって、早く休みが決まれば、上陸に便利な岸壁に繋船したので伝馬船を使う事もなく、私も何時でも街に出る事が出来て嬉しかった。

一方、宇部の港では入港すれば、夜でない限り、グレーンも二基しかなくて滅多に停泊する事もなかった。

時化で出港出来ない以外は、ほとんど「入れ出し」が多くて忙しいだけであった。

が、次第に船の生活にも慣れて日が経つにつれて仕事も覚えるようになると、機関員の見習いとしても興味を持ち機関室に入るのが楽しく思う様になった。

その船のエンジンは、焼玉発動機の80馬力の神戸赤で、当時「神戸赤」と言えば日本一綺麗で調子が良いと全国的に知られた優秀な焼玉エンジンであった。

機関室はいつも綺麗で、見習いとして機関室に入り、いろいろ教えられたが、それまで見たこともない機械だと思った。

そのうえパイプ類が多くあって、それを全部覚えるのかと思うと大変だと吃驚したが、機関長は「そのうち分かるようになる」と言ってくれて、油を注すことから教えてくれた。

その頃の日本は、(中国大陸での)支那事変が始まって何も知らぬままに大変な時代に時代に入っていたのであったが、そんな事など知らないままに、船員になって、社会人として、国の為に、いつしか働く事になっていたのである。

当時の宇部は、炭鉱やセメント工場のほかに曹達会社や窒素工場、そして石油の工場等が立ち並ぶ工業地帯であった。

その宇部港が私の長い人生の出発点となったと言ってもよいかもしれない。

船員となって 3 ~おちょろ舟~

2010年05月21日 | 人生航海
昔から船乗りと言えば、港々に女ありとか言われて、飲む・打つ・買うの三拍子揃った道楽者だと一般の人達に言われたりした。

または、天下の三方・・舟方、土方、馬方・・と悪の代表の如く世間から思われて、その為に船乗りの評判は悪かったのである。

その頃の日本には、まだ遊郭という公娼制度が存在していた。

何処の街でも賑やかな色街があり、遊郭が栄えた時代であった。

とりわけ港町の遊郭は、規模も大きく豪華な建物が並び大勢の女郎達で大変賑わっていた。

既に、今では殆どの人は忘れて、遠い過去の如くに思う者も多く、今頃こんな話をすると、女性からお叱りを受けるだろうが・・書き残しておく。

日暮れの港町は賑やかさを増し、夜の戸張りが降りる頃には、海の男たちは一杯機嫌の勢いで上陸をして冷やかし半分で自然と遊郭や飲み屋の方角に足が向かったのである。

津久見や宇部もそうだった。

また、その航路の途中、国東半島の先端に熊毛港という小さな港があり、その港から女たちが舟に乗ってくるのである・・おちょろ舟というのがあった。

海が荒れて時化の時には、港は機帆船でいっぱいになるので、女の数が足りなくなり、そんな時は、船員たちの争いもあった。

海上穏やかな時は一隻の船もいないが、時化ともなれば、あの港は、俄かに上り下りの船が避難して瞬く間に活気づいた。

私の乗った船も入港すると同時に、いつの間にか馴染みの女たちが乗り込んで、飲み支度が始まり・・それからの私は、遅くまで彼女たちに上手に使われることになった。

なかには、そんな私を同情したのか、可哀想だと思ったのか・・親切な女もいて、「あの店に行って、あたしの名で何でも買ってきて幾ら食べてもいいから・・船の人達には内緒だよ」と言ってくれた。

その時は、嫌な気もせずに嬉しく思っていた。

熊毛港には、7~8軒ぐらい女郎屋があって、松の屋、寿屋、沖の家、と言うような屋号があって、女の数は全部で50人ぐらいだと聞いた。

その頃の機帆船には風呂が無いので、馴染みの女がいる家に行って風呂に入れて貰う事になるが、いつの日か、親切だった女が出てきて私に「一緒に風呂に入ろう」と言った。

そして、服を脱がされかけて、船の皆からも「一緒に入れ」と言われて、恥ずかしかったが、二人で風呂に入ることになった。

あの優しい女も、たぶん田舎から家庭の事情で身売りされて来たらしく、私を見て同じ境遇かと思っての親切であったよう気がする。

思うに、17~18歳ぐらいの娘盛りであったと思うが、子供の私の眼には美しい綺麗な女性だとしか思えなかった。

寂しい思いも多かったなかでの、過ぎし若き日の懐かしい出来事の一つであった。

そのうち、船員生活にも慣れ、1年が過ぎた頃、船長が、私の給料を10円から12円に上げると言ってくれた。

嬉しくて、早速郷里の実家に手紙を出して、親の喜ぶ顔を思うと・・これからも真面目に働いて、少しでも多く仕送りする事が何よりの親孝行で、私の生き甲斐だと信じていた。

そんな純粋な気持ちで、辛い仕事も我慢が出来たのである。

家族のことを思えば、どんなことでも気にせず辛抱する事が出来たのである。

船員となって 2 ~入れ出し~

2010年05月20日 | 人生航海
乗船後は、出来るだけ早く仕事を覚えるために、無我夢中で皆の言うことをよく聞いた。

一日も早く、一人前の船員になろうと思って何事も苦にせず頑張っていたが、夕食が済んだあとの仕事が終わると、急に気が緩んだのか、疲れが出たのか・・寝台に入ると同時にぐっすりと眠り込む事が多かった。

あとは何も分からず夜明け近くまで目が覚めずに眠り込んだが、朝起きは案外良い方だったので、その点それほど辛くはなかった。

そんな私を、だんだんと皆は「この子は目ざとい」と褒めてくれるようになったが、幾ら辛い仕事も気にせず一生懸命働いた積もりだった。

それが当然の事だと思って、諦めながら黙って働いて来たつもりである。

貧困家庭に生まれ育って、それが運命と悟って諦めて自然のうちに辛抱が身についたのであろう。

どこの田舎も同じで、その頃は、みんな貧しかった。

しかし、あの当時の事を思い出すと、辛さよりも懐かしさが先に立ち、今は既に遠くなった・・あの頃をよく思い出すのは不思議でならない。

津久見から宇部間の定期で、時には、徳山港や関門港ぐらいまで行く事もあった。

入港の日に揚げ荷が終わり、直ちに出港する事を「入れ出し」と言っていたが、忙しいだけで上陸も出来ず、船員たちは好まなかったようだ。

他に、見習いの仕事として、伝馬船係りとしても責任を持たされていた。

乗組員の送り迎えや出入港時の伝馬船の吊り降ろしの準備は勿論で、入出港時の綱の取り離しも全て私の役目だった。

場所の高い岸壁の昇り降りは、危険を伴うこともあって大変な気を使いながらの作業だった。

辛いというのではないが、津久見港等で積荷待ちで停泊中となる休む日は、夕方になると船員たちは、皆上陸する。

伝馬船で全員を乗せて行き、私も皆と一緒に銭湯までは行ったが、風呂から出ると、私一人が船に帰り、船番をして皆の帰りを待ったのである。

船番は、退屈で寂しく、皆はそれぞれの場所に行って遊んでいるのに、何時帰るか知れない人を待つ身は、人には言えない寂しい思いで、何時迄も待った。

今ならテレビやラジオもあるので退屈することもないだろうが、誰が何時帰って来るか分からず、寝る事も出来きず、一人寂しく港の薄灯りを眺めながら、故郷への想いを募らせた。

そんな時には、自然に涙が溢れることもあって、歯をくいしばった事も度々であり、そういう想いをしながら皆の帰りを待っていた。

陸から距離は可也遠く、幾ら大声で呼んでも聞こえないので、各自が笛を持ち、其々の合図を決めて笛の音の数で分かるようにしていた。

でも、酒に酔って帰る時は、当てにはならず眠気を我慢して起きて待つ時間は、他に例えようがないほど長かった。

尾道を出る際、桟橋まで見送ってくれた父が私に伝えた言葉は、「皆の言う事をよく聞き、いくら辛くても我慢して働くように」だった。

あの時の父の言葉を、いつまでも忘れずに、いつまでも守り通そうと心に堅く誓っていたのである。

船員となって 1 ~茶粥~

2010年05月19日 | 人生航海
いよいよ、まだ13歳ながらも一人の社会人になった。

真面目に働いて、人に迷惑をかけないようにと・・船長から色々なアドバイスを受けた。

そのお陰で仕事も早く覚えた。

船長は、他の船員にも、親身になって余り叱らないようにと言って、私の事を頼んでくれたので安心出来て嬉しかった。

しかし、そんな雰囲気もはじめのうちだけだった。

船長がいない時には、言葉使いや食事にも、いろいろ文句をつけられた。

態度が悪いとか、生意気だとか言われながら、少しでも逆らえば無言で船長や機関長に分からないように、イジメられた。

そのうえ、拳骨を入れる意地の悪い・・若い船員も何人かいたのである。


船員となった私の毎日の仕事は、まだ夜も明けやらぬ暗いうちから始まった。

皆が寝ているあいだに、そっと静かに寝台を抜け出して、前の晩に洗っていた米を釜に仕掛けて炊く事だった。

一日中、休む暇はなく全く忙しい毎日であった。
若さと気力で乗り切ったとしか言いようがないが、飯炊きという仕事も、それほど辛いとは思わなかった。

それは、以前に述べた通り、子供の頃から、しばり網・すずき網・いわし網等に出稼ぎに行き、飯炊きの仕事を経験していたからである。

飯を炊くことに関しては、今でも、どんな釜でも上手に炊けるという自信を持っている。

その東兼丸もそうだったが、当時は、まだ薪で炊く釜戸で古い設備の炊事場だった。

毎朝起きると同時に、七輪で石炭を燃やして、火を起こすのである。

夜明けの港は、こうした各船の甲板で黙々と黒煙を上げて、明々と燃え盛る賑やかな炎は、どこの港でも見られ、その風情は、とても美しいものであった。

石炭が燃え尽きるのを見て、その七輪を下の部屋に降ろす。
鍋をかけて、味噌汁を炊いて、お茶を沸かして、冬には、火鉢がわりにして暖をとった。

朝食は、茶粥を炊くのが習慣だった。
茶粥の副食は、主に漬物を皆好み、質素なものだった。

それまで茶粥を炊いたことはなかったので、初めは皆に教えてもらった。
炊く事を覚えると、案外味が好いのであった。

それから、朝食と夜食には、必ず茶粥を炊いていたものである。

食事の支度で出来た合図には、号鐘を叩いて皆に知らせることになっていた。

航海中は、エンジン音が高くて聞こえないので、そのたびに皆に「飯ができた」ことを素早く知らせなければならない。

食事が終わると、後片付けと次の準備で、忙しくて少しの時間の余裕もなく、目のまわるほどの多忙な日々が続いた。

よく「船のご飯は美味い」と聞く事があるが、米を海水で洗って、水分を切って置くので、少しは塩分が残り、そのために美味いと感じたのかもしれない。

仕事が一段落すると、次は甲板洗いやブリッジの掃除、除航海灯の手入れ等で忙しく、それが終わると食料の買出しである。

船長にお金を貰って、食料の買出しに街に出たが、他の船員から買い物を頼まれることも多々あった。

どこの港でも、市場や街を見学して歩くことだけが、仕事の合間での「ひとときの心の安らぎ」だった。