サムライ左近法務事務所の事件帳

本業の法律事件の他、考古学、歴史学、戦国山城等を、その実証から紹介します。

児童福祉法第22条(入院助産制度)

2008-05-31 12:30:15 | Weblog
「入管法」に定める在留資格及び
外国人登録法に定める登録の
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有無にかかわらず、人道上適用する。
児童福祉法第22条における入院助産制度は
、入院費用が捻出できない等の経済的な
理由のある妊産婦について、助産施設に入所
させる措置を取るものであります。

緊急に適用する必要が生じた場合、
指定助産施設での出産であれば、外国人に
ついても、在留資格及び外国人登録の有無に
かかわらず、人道上適用する。

病院で赤ちゃんを産む場合、医療保険は適用されませんので、正常分娩で30〜35万円ほどの費用が掛ります。
本人や配偶者が医療保険に加入していると
出産後申請すれば「出産育児一時金」や「分娩費」が
給付されます。

上記の通り、出産費用が準備出来ない場合、
指定の施設での入院期間中の母子の医療費の免除、
または安い費用で出産できる「入院助産制度」が
あります。

日本人でも、この制度を知らないケースは多く、
日本に在留する外国人の皆さんは、尚更の事です。

国の制度ですから
遠慮することはありません。
困っている人がいたら
是非、教えて上げて下さい。

(最近の事件簿からの一言です)

馬の考古学

2008-05-30 20:27:07 | Weblog
犬と同じく馬も
古代において埋葬例があります。
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馬が日本の中で登場してくるのは
弥生時代からですが、この頃の
出土例は、少なく
野生の馬であったのか、家畜としての
馬であったのか定かではありません。
馬の具体的な埋葬例は
信州の伊那谷、飯田市坐光寺古墳群
から所見されています。

古墳時代は
前期・中期・後期に分けられ
前期の古墳から馬に関連する馬具等が
出土するケースは極めて少なく、中期以降から
副葬品として徐々に増え始めます。
当該古墳は古墳時代の後期に属します。

馬は乗用、運搬、農耕、戦闘に
幅広く利用されました。
初期は戦闘用に利用され、農耕用に
使われるのは、かなり時代が下がってからです。

古墳時代にあって
「馬」と「鉄」を制する者が、有力者と
看做されます。
特に信州は「良馬」の産地と言われ
朝廷と密接な関係を有していました。

東北信の代表的な御牧として
高井牧
大室牧
新冶牧
塩野牧
長倉牧
望月牧
が挙げられます。
これら馬(牧馬)を管理していた人々は
「牧監」「牧人」と呼ばれ
馬を飼育する為の特殊な技能を
有していたと言われています。

犬も馬も
優しい綺麗な目をしています。

(写真と本文は関係ありません)

犬の考古学

2008-05-27 19:10:58 | Weblog
犬が日本に登場するのは
縄文時代からです。
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これは、近年の発掘によって
もたらされた成果です。
通常、人骨も含め酸性土壌の
強い日本では、骨が発掘される例は
極めて少ないと言えます。
その中で、埋葬された状態での犬が
発見されています。
当時の縄文時代は、主に狩猟採集が
生計の基盤でししたから
犬は狩猟犬として、大切に扱われ
死んだ後も食用とはせず、丁寧に埋葬されたと
考えられます。
(貝塚から出土した、犬の骨が他の獣骨と
同じようにばらばらな状態で見つかり、尚且
骨に解体痕があったと言う理由で「食用説」
を唱える研究者もいます。)
私は心情的には「家畜犬=狩猟犬」を支持しますが。
一方、弥生時代に入ると犬に対する扱いが
大きく変化します。
犬は「食用犬」とされていきます。
こうした縄文及び弥生における
犬の扱いの違いは、双方の文化の違いを
示唆しているのかも知れません。

因みに
猫君の登場は遥かに遅く
古墳時代となります。

犬は本当に可愛いです


ツバメ返し

2008-05-26 19:58:36 | Weblog
アパートの踊り場に
二羽のツバメ。
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所用で出掛けた帰り道。
アパートの踊り場にいる
二羽のツバメを偶然、見掛けました。
閉じられた窓に向って突進している様は
異様でしたので、
大家さん不在で失礼しましたが
開いていた1階の入口より、お邪魔しました。
階段を上り始めると、いきなり
ブチの肥満体猫が横切り
状況が把握できました。

早速、窓を開けて逃がしましたが
ツバメクンは入ったはいいけど
出口を見失った様子です。


ツバメクン(達)
夫婦のようです。
巣作りをしようとして入ったのでしょう。

犬と似て、人間をあまり怖がらないのには
驚きました。
窓を開け、その方向を指さすと
不思議なくらい、素直に飛び立ちました。

ツバメと人間。
仲良しなんですね。

ツバメ返し。
恩「返し」は
いいですからね。


家族の序列(犬の視点)

2008-05-25 19:11:52 | Weblog
猫は家につく。
犬は人につく。
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斯様に言われています。
最近、家族が一人?増えました。
で、
家族内における私の序列に
変化が生じました。

都合5人家族

1番 息子(飼い主)
2番 妻(餌やり・トイレ掃除・雑用)
3番 犬(チワワのオス)
4番 小生(ただなでるだけ)

欠番 娘(東京で学生)
犬は、この存在を知らない。

愛着が自然とわきます。
家の中の雰囲気が明るくなりました。
犬が主に一家団欒を支えています。


私の食事は
チワワ君のあとになってしまいました。
が、
妻が、最近機嫌が良いので安心しています。

妻の笑顔は大事です。

最近、このチワワ君に
とても感謝しています。

「犬畜生」「犬死」「幕府の犬」などと言う言葉が
最近、嫌いになってきました。
と、言うことで
動物を大切にされている
皆さんのお気持ちが
少しずつ判るようになってきました。


成年後見と親族相盗

2008-05-24 17:22:18 | Weblog
以下の事例は
成年後見制度における
「親族相盗例」
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に対する検察側と弁護側の対立です。

(概況)
本件は青森県で発生した事件です。
成年後見の妹さんから財産管理を頼まれた兄が
保険金約1億円超を着服したとして
業務上横領罪に問われた論告求刑です。

保険金そのものは、妹さんの娘さんが
交通事故で重度の障害を負い、それが預金されて
いましたが、兄が自分の金のように、儲け話や愛人に
つぎ込んでいたとの事。

検察側は「成年後見は公共的な性格を持っている」として、親族相盗例の適用を否定し、懲役8年を求刑しています。
一方、弁護側は親族相盗例を理由に控訴棄却を求め
ると同時に棄却されない場合は執行猶予付きの判決を
求めています。

『法は家庭に入らず』
と言われますが、あまりにもひどい兄の行為だと私は
思います。
「成年後見」
親族がなる場合は、それなりの覚悟が必要です。
現状では、家制度の崩壊、家族の多様化によって
家族の要員それぞれが、財産を有することが
当たり前になりました。
今後、こうした事例は増えることはあっても
減ることはないと言えます。

その為の予防法務として
「任意後見」があります。
問題が修復できなくなる前に
先ずは専門家に相談される事をお勧めします。

(親族相盗)
刑法第244条
親族間の窃盗・侵奪
刑法第255条
同 横領(244条を準用)
*親族間で発生した一部の犯罪行為または
 その未遂罪については、その刑を免除するものである。

塩田城跡と黒坂先生

2008-05-23 15:25:38 | Weblog
昭和50年から3年間に亘って
塩田城発掘調査が行われました。
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文化庁・長野県・上田市合同の
学術調査ですね。
今から30年以上も前の話です。
この時の調査団長が
黒坂周平先生でした。
顧問は一志茂樹先生。
共にお亡くなりになりましたが
長野県を代表する歴史学の重鎮でした。
私は一調査員として、都合3ヶ月間参加しました。
黒坂先生は豪快にして繊細。
終始にこやかに、発掘の指導にあたられていたのが
印象に残っています。
当時の私は、駆け出しの若造でして、生意気にも
発掘の方法に関しては、何度も意見?を申して
しまいましたが、先生は「考古学に関しては、君のほうがプロ」として寛大に聞き入れて頂きました。

正直なところ、縄文時代や弥生時代の住居跡
、そして古墳時代の住居跡や古墳そのものは
かなりの発掘経験がありましたが
「城跡」の調査は今回が初めてであったのです。

さて、塩田城跡。
上田市塩田平、独鈷山の一支峯弘法山の
北麓に位置します。
山の斜面を階段状に削平し、その構成は
20数段にも及ぶ大規模な城跡です。

塩田城と塩田北条氏の歴史的関係は
その当時として、背後の弘法山を守りの
屏風にたとえ、塩田一円が館及び砦機能を
有していたものと考えられます。
城としての本格的な築城は
室町時代に村上氏の重臣福沢氏が
代官として配置されてからと思われます。
その後も自落した塩田城を
武田信玄が「川中島合戦」に向けた前線基地
兵站基地として改修している痕跡も確認されています。
出土物の多くは室町期に相当し
井戸跡周辺部及び井戸内からは
白磁、青磁、将棋の駒、木製品が大量に発見されています。

調査としては、その全容に至っていませんが
越前の朝倉城跡に近似する構造物と思われます。

尚、塩田北条氏の祖
塩田義政は、二代執権の義時の孫にあたり
義政の父は、六波羅探題及び連署の要職に
ついた重時である。

写真は、黒坂先生のライフワークでも
あった「東山道の実証的検証」であり
東山道研究者にあっては、この本抜きで
東山道は語れないと云われるほど、名著である。


謎の「巴型銅器」

2008-05-22 19:32:17 | Weblog
出土地は上田武石の上の平遺跡で
大正5年(1916年)に発見された
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と言われています。
本遺物は、弥生時代の産物で
日本における分布上での東限と
されています。
因みに長野県内での出土例は
これ以外には所見されず、加えて
全国的に見ても、僅かな発見例しか
報告されていません。
巴型銅器は、弥生時代に始まり
古墳時代の前期頃まで知見されます。
形状も若干異なり
弥生時代の巴型銅器の脚状突起は
7本から9本。
一方、古墳時代の巴型銅器の脚状突起は
4本から5本とされています。
武石出土の巴型銅器はその形状からして
弥生時代に比定されるものです。



実は、つい近年まで「巴型銅器」が
何に使われたか不明でした。
最近、大阪府の黄金塚古墳から
楯に配された3個の巴型銅器の出土
によって、その用途が解明されるに至りました。

柳沢遺跡の銅鐸・銅戈の伴出と言う
歴史的な大発見と同時に
武石出土の巴型銅器の存在も
忘れずに考え併せると
何か違った角度で見えないものが
段々と見えてくる。
そんな気がしてなりません。
尚、同じく武石の「鳥羽山洞窟遺跡」
出土の渡来系遺物の存在も看過できません。

写真は長野県考古学会所収
「遺跡と遺物」からの転載です。

謎の方墳「大蔵京古墳」

2008-05-21 19:21:34 | Weblog
上田市秋和にある
「大蔵京古墳」
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上小地域に現存する方墳は
東御市にある「中曽根親王塚古墳」
と当該古墳を合わせて2基のみです。

長野県の古墳は
古い順からたどると
松本市にある「弘法山古墳」
に始まります。
後続の「川柳将軍塚」「森将軍塚」
いづれも、前方後円墳です。
初期段階は、巨大な古墳が主ですが
その後、方墳、円墳と呼ばれる小規模形態に
変化していきます。
その過程で、特異な築造技術を持つ「積石塚古墳」
も見られます。(大室古墳群)
最終的には
朝廷が発した「大化薄葬令」を受けて
古墳そのものは終息していきます。
但し、「大化薄葬令」と古墳終息の因果関係に
関しては、学説が分かれるところですが
少なくとも終息に向けての影響力は十分
あったと考えられます。

当該古墳は、そうした中にあって
およそ5世紀後半頃に比定されています。(古墳時代中期)

方墳の被葬者は
定かではありませんが
最近の面白い学説に
「方墳を有する氏族=物部氏」
があります。
物部氏はご存じの通り、神道を祭り
仏教を崇拝した蘇我氏に滅ぼされたと
されています。
方墳=物部氏
ロマン的に見れば
この信州にも物部氏の足跡が
残されていると言えます。

島津氏家訓

2008-05-20 19:51:41 | Weblog
島津氏は
信州にも大変関係が深いです。
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信濃島津氏。
薩摩・大隅・日向の三カ国の
守護であった宗家島津氏から
分家として島津忠久が
信濃太田庄に移り住み、祖となります。
これは
鎌倉初期、源頼朝より
恩賞として賜った地です。
城は長沼城。
その後は、紆余曲折。
厳しい戦国時代に翻弄されることになります。
さて、本題の家訓。
島津忠良(日新斎)が
「いろは歌」としてまとめたものです。
その中の一つ。
『楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし
世に残る名をただおもうべし』

篤姫をご覧になられている
諸兄。
信州にも深い繋がりがあると
思えば、何だか親近感が増しますね。


「銭甕」

2008-05-19 19:52:28 | Weblog
発掘に携わると
様々な遺物に遭遇します。
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特に古墳にあっては
瑪瑙の勾玉。翡翠の勾玉。金環(本物の金です)
水晶の管玉、古代ガラスの管玉等々。
これらは全て、被葬者の副葬品です。
多くは、過去に盗掘されていますので
当時の状態のままで出土することは
滅多にありません。
考古学研究者の視点は「文化財」です。
ただ売り買いされたりするケースも稀に
あります。
そうすると、学術的な価値を
通り越して「骨董品」的なお金に換算されます。
美術工芸品と言えば、聞こえはいいのですが
本来は国に帰属するモノです。
最近流行りの「なんでも鑑定団」。
見る視点は「銭」だけではなく
「「学術的」な視点も大切です。

何でもお金に換算される風潮は
けっして良いことではないと
私は思います。

写真は「銭甕」。
搾取された当時の人々の
涙の結晶かも知れません。


弥生時代の青銅器(銅鐸・銅戈)

2008-05-18 18:37:27 | Weblog
弥生時代の青銅器。
銅鐸は主に畿内一円。
銅戈は九州から中国、四国地方
との定説が
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かつてありました。
こうした学説を覆したのが
島根県荒神谷遺跡で
発見された「銅鐸と銅戈」の共伴でした。

平成19年10月に
長野県中野市の弥生時代中期の遺跡
柳沢より、長野県考古学会最大級の
発見が報じまれた。
「銅鐸と銅戈」の共伴。
その銅戈7本のうち
九州型が1本
大阪湾型が残り6本
異なる銅戈が一緒に出土したケースは
今回が初めて。

この頃の中国は漢の時代。(紀元前一世紀)
漢書地理志で書かれた日本は
「百余国に分立」

後続する古墳時代。
信州では多くの朝鮮半島系の
遺構、遺物が発見されています。

今後の調査、研究成果が
期待される所以でもあります。


「死に銭・生き銭」

2008-05-14 19:51:39 | Weblog
生きていく上に
おいて
お金は、とても大切です。
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インターネットや
広告、チラシなど。
お金にまつわる話が
毎日山盛りです。
街で出れば、そうした看板を
至る所で見かけます。

快楽を過ぎると悲哀が訪れる。
中国の故事名言です。

容易く得られるお金。
簡単に借りられるお金。
どれもうたい文句はいいですが、
それは「死に銭」かも知れません。

額に汗して稼いだお金。
手を油まみれ、泥だらけにして稼いだお金。
こうしたお金こそ「生き銭」と言えます。

要するに「重み」が違うのです。

いい仕事をすれば、「生き銭」は
あとから付いて来る。

二宮尊徳曰く
「心が正しく平らでなければ、得た富も逃げてゆく」

含蓄に富んだ名言です。

かくありたい。

平賀氏の系譜

2008-05-12 20:44:02 | Weblog
平賀氏の他国移住については
「佐久」創刊号に
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桜井松夫氏が
詳しい論文を載せています。

平賀氏は日本屈指の豪族とて
日本各地に領土を付与されています。
各地に勢力を分散した結果、本拠地の
佐久での勢力が弱体化し、ついには
室町時代、小笠原一族の大井氏と
戦って滅亡するに至っています。
生き残った一族は、他国に逃亡したとも
言われています。
では、どのように分散したかを記してみます。
①佐久郡の平賀氏
佐久郡平賀郷よりおこる。
祖は新羅三郎義光の四男盛義と
されています。
これが全国に多い平賀氏の宗家と言えます。
②羽後(秋田県)の平賀氏
③藤原南家二階堂氏族の平賀氏
④常陸(茨城県)の平賀氏
⑤甲斐の平賀氏
⑥三河の平賀氏
⑦越後の平賀氏
⑧武蔵(埼玉県)の平賀氏
源頼朝より平賀義信武蔵守に任ぜられています。
⑨下総(千葉県)の平賀氏
⑩遠江(静岡県)の平賀氏
⑪藤原北家の平賀氏
⑫伊賀・伊勢(三重県)の平賀氏
⑬清和源氏義家流 吉良系図の平賀氏
⑭石見(島根県)の平賀氏
⑮備前の平賀氏
⑯備後(広島県)の平賀氏
⑰安芸(同上)の平賀氏
⑱讃岐(香川県)の平賀氏
平賀源内はここの出自です。
源内の父は高松の松平藩士。
⑲日向(宮崎県)の平賀氏
⑳その他あり。

参考文献
菊池清人氏「佐久の人物と姓氏」
平林富三氏「「千曲」

付記

平賀氏滅亡の遠因は
1400年の大塔合戦に遡ります。
この稿は
小笠原氏で述べたいと思っています。

「母の日」或る老人ホームの風景

2008-05-11 16:15:05 | Weblog
「母の日」
親が幾つになろうと、子は子です。
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私の母は足掛け6年、
とある病院でお世話になっています。
私はこの6年間、一度も欠かさず
毎週土日のいずれかの日に
訪ねます。

今日は「母の日」。
良い日です。
昼食の介助をしているのは、私だけ。
沢山の老婦人がいるのに、介助しているのは
私だけ。
老婦人の皆さんに子供はいないのだろうか。
親が幾つになっても、親は親。子は子です。

子供たち(大人になった子供たち)は
きっと忙しいのだろう。
日曜日でも農家の皆さんや自営業の皆さんと
同じく働いているのでしょう。

母は私の古くなった洋服を大事に着ていました。
「まだ使える」からです。
愚息で本当にすみません。
全てを子供の為に
苦労を厭わなかった母。
今、私が出来ることと言えば
1週間にたった1日の食事介助だけです。

親殺し
子殺し
老人への虐待
子供への虐待
修羅の巷です。
でも、私は病院で
その予兆とも言える現実を目の当たりに
して
「それは、全くの他人ごと」ではなく
善人と言われる「市井の人々の背後」に
潜んでいるような気がしてなりません。