昭和30年代の後半。
-----------------------------
あの頃、漸く我が家にもテレビが来た。
それまでは近所にあった中電の社宅に
大勢の子どもと一緒にお邪魔して
毎日のごとくテレビに見入っていたものだ。
当時のテレビはモノクロで
画面には横筋が見えたりしていた。
テレビのあった8畳ほどの和室は
子どもであふれかえっていたが
そこのご夫婦は嫌な顔もせず
温かく迎え入れてくれた。
夕飯の時間から9時ごろまで
よその子が大勢でテレビのある居間を
占拠している状態・・・・それが毎日続く。
今、自分がそうしたことができるかと
考えたら・・・・・多分できないだろうと思う。
多くの子どもは
つぎはぎだらけのズボンやシャツを着ていた。
靴は黒いゴム靴で雨など降ると
靴の中に水が入り
歩くたびごとにぐしゃぐしゃと音を立てた。
風呂など毎日入れないから
手はいつも黒ずんでいたように記憶しているし
下着なども毎日変えたりなどせず2,3日そのままでも
何の苦にもならなかった。
小学校での給食の定番と言えば
「脱脂粉乳」であった。
これがまた、まずくてなかなか飲めなかったが
当時の先生は食べ物を本当に大切に
思っていたので、残すことをゆるさなかった。
おしまいには
泣きながら飲んだこともたびたびあったものだ。
家でのおかずと言えば
菜っ葉と漬物、そして大きな煮干が入った味噌汁であった。
刺身など年に数えるほどしか食べられなかったし
卵も毎日、食卓に並べられることはなかった。
どの家もそんなに豊かではなかったけれど
隣近所、お互いに助け合い、支え合っていた。
塩がなければ塩を分け、代わりに味噌や醤油がなければ
互いに分け合った。
そんな母親たちの日常を自分は垣間見て
育った。
あれから
50年。
飽食の中で自分は生かされている。
相続・告訴告発・離婚・内容証明
会社設立・在留資格・成年後見
↓
行政書士 青木法務事務所HP
http://www.aoki-houmu.com/