サムライ左近法務事務所の事件帳

本業の法律事件の他、考古学、歴史学、戦国山城等を、その実証から紹介します。

「黒鍬者」サムライではない?

2008-11-26 22:03:25 | Weblog


黒鍬者を世に知らしめたのは
きっと司馬遼太郎なのであろう。
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黒鍬もしくは黒鍬者を
辞典で調べると、下記のように書かれている。

語源に当たる黒鍬は通常の鍬より
刃が厚くて幅が広く、
刃と柄の角度が60〜80度に開いている。
さらに、柄が太く短くできていることで
力を加えやすく、打ち下ろした時に深く土に
食い込むようにできている鍬の事である。

戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄隊に属して、
陣地や橋などの築造や
戦死者の収容・埋葬などを行った。
後世の戦闘工兵の役割を
担っていたと考えられている。

江戸幕府の組織としての黒鍬(組)も
三河松平氏時代からの譜代の
黒鍬から構成されており、
若年寄支配で小者・中間として
江戸城内の修築作業や幕府から出される
諸令伝達や草履取り等の雑務に従事した。
食禄は1人当たり12俵1人扶持が原則で
役職に付くと、役高が加算された。

当初は苗字帯刀も許されず、例外的に
護身用の脇差だけを持つ事が許されたが
、三河譜代の黒鍬については、世襲が許され
、後には御家人の最下層格の扱いを受けた。

以前、新田開発を手掛けた
佐久の四人衆を本ブログで書いた。
この四人に共通する点は
武田信玄の家臣か若しくは与した武将である。

信玄は戦国武将の中でも稀に見る名将で
そのスケールの大きさは、周知の事実であるが
一方、民政・治水・土木にも長じていた。

江戸初期に佐久の各地で行われた新田開発は
治水・土木に明るくなければ出来ない難工事である。
武士から帰農した四人の配下に「黒鍬」の
存在があっても何等、不思議はないと思っている。

江戸時代における黒鍬の存在を記した
文書はそれなりに残っているので概ね
明らかにされているが、戦国期における
黒鍬の役割が果たして如何なるものであったか
知るすべは意外と少ない。

名字帯刀も許されず、例外的に脇差だけを
持つことが許された黒鍬者。

武士とも言えず、農民や職人でもなく
強いて言えば「半武士半職人」のような存在なのか。

今の時代のサムライ業。
真のプロになるまでの道程は
「半武士」なのかも知れない。

青木法務事務所
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