つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

完膚なきまでの駄文:叶えられない読書リスト

2017-02-03 23:23:35 | 文もどき
ボストン・テランの[音もなく少女は]で印象的だったのは、愛と子宮を失ってなお両足を踏みしめて立つ女性だ。
ベルンハルト・シュタイナーの[朗読者]のヒロインもまた過酷な運命に翻弄されながらも人生を諦めない。
このふたつの小説の世界線が、ほぼ同時期であろうことに気づいたのは最近のことだ。しかも、どちらも大戦をくぐり抜けたドイツ女性である。
閑話休題。
いわゆるヴァイオレンス小説を初めて読んだのが前述のテランである。ある作家の読書リストをなぞるという遊びに興じていた頃のことだ。
暴力的な男がいて、それに耐える女がいる。主人公はもちろん、彼女を支えるドイツ女性も過酷な暴力が支配する世界に身を置き、不屈の精神を持って抗い、自らも暴力の側に身を投じ、ついに安寧と呼べるものを獲得する。闘う女の小説世界における男はおしなべて暴力の暗喩である。
暴力は振るう側と受ける側があって初めて成り立つ。主人公の母親は、完全なる受ける側として描かれている。我が子と我が身を暴力から遠ざけるために健気に立ち働き、いよいよ暴力に立ち向かわんとして絶命する。一方的な暴力の犠牲者なのだ。何の理由もなく。
暴力は加速し、感染する。傍観はまた暴力たり得るのだ。
ケッチャムの[隣の家の少女]---これも少女だ!---は母親を中心に暴力の渦に飲み込まれてゆく様を描いたドラマである。語り手である少年もまた、引力によって暴力の側へと巻き込まれてゆく。その描写が秀逸であるが故にとにかく読後感の悪さに嘔吐するものらしい。どうしてこんな、かわいそうなことを。役割、または役回りというか、立ち位置によって思考が遷移するさまはスタンフォード監獄実験の結果に顕著である。人間誰しも利己的で理不尽、そして自分のことをいちばん自分が理解しがたい。
ソローキンは[青い脂][ロマン]というタイトルをかろうじて記憶している。あらすじは聞いたはずだが暴力と混沌に脳が蓋をした。ヤバイ、エグイ、読むんじゃなかった、らしい。小説という枠すら破壊せんばかりの、という書評を読む限りではヴァイオレンス小説に括って良いものかと思っている。
ハードボイルドやピカレスクとヴァイオレンスの違いについて。前者はメンツの世界であり双方拳を交えることさえ厭わないスタンスにあり、後者の関係性は圧倒的に一方通行であることをあげたい。ミステリとサスペンスとサイコが違うように、これらも異なる世界を内包している。
…御託はさておき、何を記述したかったのかと言えば。いま、なぜ、ヴァイオレンス小説に興味を持ったのかということ。もう少し自問を続けるつもりだが、おそらくは年齢、の気がしている。
少年期であれば確実にトラウマになるであろうし、青年期の潔癖は他人の自己矛盾をなど見向きもしない。小説よりも映画よりも幽霊狐狸妖怪の類よりも恐ろしいものを知っているのに、わざわざ虚構の暴力で内壁に傷をつけてどうするのだろうか。もしくは殴りつけたい衝動のあらわれか。
それとも、足を踏ん張って立っていることを確かめたいだけなのだろうか。テランの[少女]が私のポートレイトを撮影してくれたら、あきらかになるのかもしれないが。あるいは。
ヘウレーカ。
これって、要するに真冬のアイスクリームなのか。