つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

無題

2017-09-28 18:47:12 | 文もどき
自ら助くる者をたすけ、
人の上にも下にも人を作らず、
細部にこそ宿り、
サイコロを振らず、
そして死んだ。

亡霊が地上の王となった。

遅れてきた母の日

2017-09-21 18:22:26 | 文もどき
昔読んだ随筆を、今も覚えている。
悪戯盛りのやんちゃ坊主だった著者を、毎日おっかない顔で叱りつけてくる母親の話だ。缶ジュースのプルタブ(プルトップではない、飲み口の上面がぱかっと取れるプルタブである)の鋭い縁を眺めていた少年が、ふと思いつきで畳の縁と縁の間に押し込んでみる。ほんの少しだけ顔を覗かせる金属が、いかにも危険に映る。今はどうだか知らないが、あの頃の少年というのは大抵が危険という言葉にただならぬ魅力を感じていたものである。その危険を作り出したことに満足して、移り気な子どもの心は次の遊びに向かい、やがて忘れてしまうのだ。
誰かを傷つけたいという衝動も歪んだ欲求もない。あるのは稚気だけで、悪気もない。遊んでいると、例の部屋から叫び声が届く。駆けつけてみれば果たして、母親が足を押さえてうずくまっている。彼女の手にはあのプルタブがある。とんでもないことになった、烈火のごとく怒り出すに違いない。今日こそはゲンコツなしにはおさまらないかもしれない。怯える少年に、母親は笑顔で言う。あなたが怪我をしなくて良かった。
実際のところ、少年がどう行動したのかはわからない。ただ、著者はひれ伏してひたすらに謝りたい気持ちになったと綴っている。大人になってからも、この思い出を宝物として記憶の宮殿に置いている。そして、誰かに愛されているという確証が欲しい時、この思い出に帰る、と。
世界から見放された気持ちになるとき、愛を見失い、また見出せないとき、耐えがたい孤独感が経帷子のようにまといつくとき、青年になり壮年にさしかかり子を持つ親ともなった大人が小さかった夏の日に帰る。時に疎み、時に反抗した母親の懐へ帰る。自分は確かに誰かに愛されている。そう思うだけで、人は生きて行ける。
私の存在が耐えられないほど軽いと思う時、彼の追憶にひたる。そうして、いつも同じ思い出に帰る。
誰にしも、彼のような思い出があることを祈る。ずっと長いこと、当然の持ち物だと思っていた稀有な思い出のことを。持つものは幸い也、だ。